虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

今日の「龍馬伝」

2010-02-28 | 映画・テレビ
今日の龍馬伝。山本琢磨事件。司馬の「龍馬がゆく」でもこれはとりあげていなかったけど、これを取り上げたのはよかった。

福山龍馬は、今のところ、現代のどこにでもいる普通の青年のように描いているのはいいのだけど、実に周りによく気を遣い、しきりに「ありがとうございます」とか「すいません」とか言って頭が低い。

武市半平太の嫁さんが龍馬に柿をむいでやって出しても、ただ、無愛想な顔をして黙って食べるだけで、一言もお愛想を言わず、いつも帰りには、家の塀で立ち小便をして困る、と書いていたけど、そんな龍馬が見たら、どう思うだろうか、とちょっと思った(笑)。

この時期に、清河八郎に「虎尾の会」に入れよと誘われたと思うのだが、八郎は出してくれないのかなあ。


「安保条約の成立」(岩波新書)

2010-02-28 | 読書
だいたい岩波新書はあまり買わない。学者が書くものが多く、固く、わかりにくい。
ましてや、政治のものはなおさらだ。
でも、今、すごくおもしろいものを読んでいる。
岩波新書の「安保条約の成立」だ。
1996年刊だから、もう14年前の本だ。

この本の題名は天木直人のメルマガで知った。
やはり、固い、読みにくい、しかし、衝撃的だ。すごい学者がいたものだ、と思った。
戦後の講和条約、安保条約が成立するまでの経緯を丹念に追い、まるで松本清張の推理小説を読むような戦慄すら感じた。

今の日本に米軍基地があり、日本は米軍に従属してきたそもそもの由来、わけが明かされる。

特に、戦後日本の米軍依存の方向が決まる上で、昭和天皇の意向が大きく働いていたことを知った。
いままで、天皇はマッカーサーに会い、責任はすべて自分にある、とかいって謝り、あとは「象徴」なので、どんな政治的動きもしなかったと思っていたが、違った。

戦後史はまったく知らないなあ、と痛感。

この本を書いた人は豊下樽彦氏。いっぺんで、ファンになってしまった。知るのがおそすぎるなあ。

総務省の「国民投票法」のパンフレット

2010-02-26 | 日記
図書館に行ったら、他の催しの案内といっしょに、「憲法改正」のパンフレットが置いてあった。よく見ると、総務省が発行した「国民投票法」のパンフレット。

「ご存じですか?平成22年5月18日から「憲法改正 国民投票法」が施行されます」と書いてある。投票箱に投票している人のカットがある。もう、憲法改正の投票かい、と思ってしまう。

これは昨年の3月に発行されたそうで、もう1年にもなるわけだが、わたしは、今日、初めて見た。

憲法改正は、憲法審議会の審査ののち、国家議員の三分の二以上の賛成で決められ、あとは、国民投票。このパンフレットには、国民投票は、「2分の1を超えた場合」決まるとと、この「2分の1を超えた場合」を赤文字で強調している。

国会議員の3分の2以上の賛成、これは今の国会議員では、軽くクリアできる。国民の「2分の1」以上の賛成、これも軽くクリアできる。

もういつ出しても、「憲法改正」は容易にできる。
2分の1の賛成で決まるとは、それはないよ。

無題

2010-02-23 | 日記
何を書くか、これっと決めてないので、無題。

車のラジオからあいかわらず、キャスターやゲストたちが、政治とカネ、小沢の腹黒さ、民主党のだらしなさをしゃべるのが聞こえる。まったく、新聞の論調と同じ。ラジオの話し
手たちは、きっと新聞から話のネタを見つけているので、こうなるのだろうな。

国民が選んだ民主党にさんざんケチをつけてひきずりおろすメデイア。まるで、選んだ国民が馬鹿だった、といいたげだ。(もちろん、民主党がちっともいいとは思っていないけど)

民主党はたよりにならない。しかし、自民党もだめ、じゃあ、どうするのか。次は保守の再編成を狙っているのだろうけど、上からの政界再編はちょっとまずい、ここは、世論で、国民の側から政界再編の声をあげさせようとしているのではないか。民意で、すんなりと政界再編できるように。

小沢氏や鳩山氏のウソよりも、日米同盟や、密約や米軍基地などにまつわるもっと大きなウソをどうして問題にしないのだろう。

夕刊を見る。
「君が代」不起立元教職員再び敗訴の記事、社会面の一番下に五つの文(5行)で報じていた。これは学校だけの問題ではない。今にこういわれるだろう。「学校でもそうなのですから。子供たちのためにも」ということで、近所の行事で、会社の行事で、地域で、じわじわと強制され、乱臣賊子(龍馬もこう評された)刈りが始められる。


人生劇場

2010-02-22 | 読書
「人生劇場」って、今の若い人は知っているだろうか。
「やーるーとーおもえば、どこまでやるさー♪」のあの演歌?
やめてくれい、おじんの歌は、と思うだろうな。
いや、わたしの子供のころも、親父が歌っていて、やめてくれい!と思ったものだ。

これは、W大の第二校歌ということになっている。しかし、今はもう歌っていないだろうな。

歌ではなく、尾崎士郎の「人生劇場」だ。
実は、大昔、人生劇場の青春篇を読んで胸おどらせた一人だ(わたし)。
主人公、青成瓢吉。三州吉良の田舎から東京の学校に出て、大学騒動に関わり、中退する。

田舎から上京して都会でさまざまな青年と交わる、という話は漱石の三四郎以来、青春もののパターンだが、これは、戦前の大正時代の話で、なかなか男っ気のある、人生、意気に感ず、という青年の客気にあふれた物語。ゲタを鳴らして大道を闊歩し、政治も時に論じる壮士型豪傑型の若者が出る。

作者、尾崎士郎は、山本周五郎と対照的で、実に颯爽とした男だったようだ。周五郎の「樅の木が残った」に出てくる快男児伊藤七十郎は、尾崎士郎をモデルにしたとか。まあ、龍馬か晋作か、そんなかっこいい男ではあったのだろう。当然、女性にももてたようだ(宇野千代と一時いっしょになる)。ちなみに、周五郎は颯爽とした人は大嫌いだったそうだ。

尾崎士郎は、調べると、若いころは、堺利彦の売文社に出入りし、社会主義に近づいたこともあるようだが、その後、文学報国会に参加し、国策にのった文士ということで、戦後は追放処分にもなったそうだ。

まあ、いろいろあるだろうが、尾崎士郎は、戦前の日本にまだ残っていた男の侠気を愛したのかもしれない。飛車角の話は、人生劇場残侠篇だが、今、あんな話を書ける人がどこにいるだろうか、また、あんな話に感動する人がどこにいるだろうか。わたしの世代は、ああいう世界が少しだけわかる最後の世代かもしれない。


尾崎士郎の本、久しぶりに入手した。これも得難い本だ。

ゲタを鳴らしてヤツがくる、という歌もあったけど、ゲタはいて歩きたいなあ。


イラク戦争検証

2010-02-22 | 新聞・テレビから
今朝の社説だ(朝日)。

「戦争にかかわったなら、後でその政策決定に至る過程をきちんと分析し、是非を判断する。それは国家としての責務ではないのか。ましてや、間違った戦争となればなおさらである」
「日本のかかわりについて検証をしないままでは、国家として無責任とのそしりを免れまい」

その言や、よし!

英国では首相の指示で、昨年からその検証をすすめ、ネットでも公開している、また、オランダでも昨年、首相の指示で、独立調査委員会がつくられ、委員会は、イラク戦争は国際法に違反している、と断じた、と書く。

日本政府も検証をやるべきだ、やれ、というのが主旨だろうが、しかし、はっきりと「すべきだ」と述語を明快にはしないのが、近頃の社説子。

それはまあいい。もし、政府がしないのなら、やるべきなのは、「ジャーナリズム」だろう。イラク戦争を検証するのは、ジャーナリズムの責務でもある。

こんな社説を書いたのだから、明日から新聞は、政府にイラク戦争の検証をすすめる記事を書くか、あるいは、新聞社自ら検証作業に入るにちがいない。もし、そういう記事がでたら、切り抜いて大切にしまっておく。だから、朝日、がんばってやってくれよ。


邯鄲の夢

2010-02-21 | 日記
最近、ネタ切れ。
「龍馬伝」も見ているけど、特にネタにしたいことはないし・・・。今回は、弥太郎が投獄された事件を描いていたが、たしかに、この事件は史実なのだけど、坂本龍馬をからませるのは、すごい横道。今回は、岩崎弥太郎伝を見させられた、という感じだ。

邯鄲(かんたん)の夢、という言葉をこのごろ、よく思う。
中国の古い話で、たしか、青年が、邯鄲という都の宿で、ごろりと横になって休んだ。その後、青年は就職し、結婚し、子供もできる。財産もできるが、無実の罪でどん底の境遇に陥ったり、とにかく、長い長い波乱のある人生を生きる。まあ、50年は時がたったのだろう。そして、ふと目が覚めて青年は、今までの長い長い人生は夢だったと気づく。寝る前に火にかけていたお粥がまだ煮立っていなかったそうだ。「一炊の夢」ともいうそうだ。
正確で細かな話は知らない。

若い時はそうではないだろうが、年をとると、この故事は実感をもって迫ってくるのではなかろうか。

何十年も昔、新宿東京ジューキビルの宿直警備を終えたわたしは、下宿に帰り、コタツに入って寝るというのが毎日の暮らしだった。目が覚めると、同じく、あの下宿にいてコタツに入ってる自分を発見するのではなかろうか、と、思うときがある。

人生は一瞬、まさに一炊の夢?これは何を意味するのだろうか。意識は昔とちっとも変わっていないということだろうか?

ネタがないといいながら、また、つまらないこと書いてしまった(笑)。失礼!


防衛大綱有識者懇談会

2010-02-17 | 新聞・テレビから
私的諮問機関だが、このメンバーが防衛大綱の報告書を作るらしい。
昨日の朝日に名前だけ出ていた。責任をはっきりさせておくため、名前を書いておこう。

しかし、有識者といっても、新聞の読者、国民のどれだけがこの人たちを知っているのだろうか。肩書きだけ書かれてもわからない。で、せめて生まれた年を調べてみた。

座長、佐藤茂雄(京阪電鉄最高経営責任者、大阪商工会議所次期会頭)1941年生まれ。

岩間陽子(政策研究大学院大学教授)1964年生まれ。この人は、安部・福田内閣でも防衛について意見をいっていた人らしい。
白石 隆(日本貿易振興機構アジア経済研究所長)1950年生まれ。この人も政策研究大学院大学副学長らしい。
政策研究大学院大学って、官僚をめざす人のための学校だろうか。

添谷芳秀(慶大教授)1955年生まれ。
中西 寛(京大院教授)1962年生まれ。麻生内閣の防衛懇談会のメンバー。大阪池田の出身らしい。
広瀬崇子(専修大教授)生年不明。原子力委員会の委員らしい。
松田康博(東大准教授)1965年生まれ。もと防衛庁主任研究員。
山本 正(日本国際交流センター理事長)1936年生まれ。
伊藤康成(元防衛事務次官)1945年生まれ。防衛庁。
加藤良三(前駐日大使)1941年生まれ。外交官を辞めたあとは、三菱商事の重役。
斎藤 隆(前統合幕僚長)1948年生まれ。

学者では、国際関係論とか国際政治学とかを専門にする人が多いようだが、国の防衛を論議するのに、そんな知識が役に立つとは思えない。前政権とかわりばえのしない人選のようだ。

戦後生まれの上昇志向の強い学者が大半。この人たちが国の戦争と平和を語る。

私的諮問機関に参集する学者、わたしは、徳川家康が大坂の役の前に大坂方へのいいがかりを考えさせるために集められた五山の僧たちを連想する。おそらく家康も内心では軽蔑していた学者たちだ。

政府が私的諮問の懇談会を作るなら、在野の学者は、なぜ、もうひとつの国民の側の防衛大綱(戦争と平和の大綱)を作って国民に提示しようとしないのだろうか。

もみ消す「天声人語」

2010-02-13 | 新聞・テレビから
昨日の朝日はロッキード事件で中曽根幹事長(当時)が、アメリカに事件を「もみけす」ように要請していたことがアメリカの公文書からわかった、というスクープ記事がのった。

「MOMIKESU」と書かれた文書まで出ていた。この問題が公表されると、「自民党の完全な敗北、場合によっては、日米安保の枠組みの破壊につながるおそれがる」とまで指摘して(おどかして)、要求したそうだ。これは、大ニュースだろう。

国家の大犯罪のもみけしをトップ政治家が、アメリカに要請する。こんなことがあってよいのか。日米安保を守ることを盾に、米国と日本は犯罪のもみけしまでしてきたのか?そういう関係なのか?と国民は憤慨するだろう。今後、徹底取材が必要だ。中曽根首相にもただすべきことだ。「鳩山と小沢の政治とカネ」をあんなにしつこく追求するのだから、ここは是非とも、ペンの力を見せるべきだ。

さてさて、今朝の天声人語。

さっそく、この「もみ消し要請」の文書が見つかった、とする文が冒頭だ。さぞかし、新聞人として鋭い批判をすると思いきや、「内容もさることながら、表記が興味深い」。


テーマは、表記であり、言葉をめぐる日米関係であり、興味深いテーマなんだそうだ。

「「もみ消す」は政治的陰影に満ちた要請のキーワードだ」と書く。どこが、政治的陰影に満ちているのだ?ずばり、そのまんまじゃないか。

「表記」の問題として、戦争末期、ポツダム宣言」を「黙殺」したことをあげ、「黙殺」を「無視」「拒絶」と相手に受け取られたため、原爆投下はあった、と書く。「黙殺」はだれが見ても、無視、拒絶だよ。

また、「善処」するという日本の言葉がアメリカには「最善を尽くす」と通訳されて日米関係がこじれた過去の例ものべる。

「もみ消す」事件は、そういう日米の言葉の問題か?

そして、最後に出したのが、鳩山首相の「トラスト・ミー」。これは、政治的陰影をかなぐり捨てた直球の言葉で、もみけせない、と言っている。

筆者はロッキード事件にも、中曽根幹事長の行為についても語らない。
そればかりか、「「もみ消す」は政治的陰影に富んだ要請のキーワードだ」と弁護するしまつだ。

せっかく、朝日の記者がスクープ記事を書いたのに、天声人語は、それをもみ消すために文を書いている。おそらく、天のお声がかかったのだろう。

恥ずかしくないのだろうか?


壬生剣客伝 下野の国から

2010-02-12 | 歴史
古本屋をはじめてから、北は北海道から南は沖縄までたくさんのお客さんと接してきた。注文を受け、本を送り、お金をもらう、それだけの関係がほとんどだけど(それでいいのだけど)、中には、商売抜きで、親切に声をかけてくれるお客さんもいるのがうれしい。

今日、本を送っていただいたお礼にと、わたしが幕末好きなのを知って、地元で開かれた壬生剣客伝のしおりと、地元新聞(下野新聞)に連載された記事「壬生剣客伝 高杉晋作が挑む」を切り抜いて送っていただいた。

古本うしおに堂の、どう見てもきれいとはいえない本を買っていただいたのに、そのお礼とは恐縮してしまった。

それを紹介する。

壬生町が栃木県にあるのを知らなかった(壬生といえば、京都だと思っていた)。

高杉晋作は22才のとき、剣術修行の旅に出る。「試撃行日譜」という日記が残されているのだが、高杉は栃木の壬生ではじめて念願の他流試合をする。
それまで、日記には訪れた土地や人のようすなど細かく書かれていたのだが、この日、日記は空白ページになり、その後、ただのメモ程度になってしまうそうだ。
この他流試合で何があったか。そう。負けたんです。日記をつける気力もわかないほど、ショックを受けたのでしょう。気持ちはわかるなあ(笑)。

試合をしたのは野州壬生藩の松本五郎兵衛。神道無念流。高杉(柳生新陰流免許皆伝)は3本勝負の3本とも負けたらしい。

壬生藩には「野原正一郎」という剣客がいたことも紹介している。
野原は、斎藤弥九郎の長男、斎藤新太郎が長州藩の明倫館道場で他流試合をしたときに同行した剣士だ。斎藤や野原に長州藩はだれ一人かなわなかった、ということで、それ以来、長州藩は、江戸の斎藤道場(練兵舘)で修行することになった。桂小五郎もそうだ。

高杉と試合した松本五郎兵衛も、江戸の斎藤道場で修行していた人。柳生新陰流といっても、やはり、剣は江戸なのかもしれない。

神道無念流を創設した人は、この壬生町の人で福井兵衛門嘉平。
杉田幸三の「剣客事典」によると、夢うつつのうちに老翁から剣の極意を教わり、「姓名を教えてほしい」と尋ねると、「なんじ、生まれしとき、姓名ありや」「ありません」「われ、只今、ここに来たりしがそれと同じよ」と答えてパッと消えてしまった。それ以来、無念、神から授かったからと神道無念流と名付けたそうだ。

神道無念流を有名にしたのはご存じ斎藤弥九郎。この人は武家出身ではなく、丁稚奉公などをした苦労人。のち、渡辺崋山、江川太郎左衛門、藤田東湖らとも深い親交を持ち、ただの剣客ではなかった。大塩の乱のときには、大坂に探索にきたこともある。おっと、話がどんどんそれる(笑)。

知らせてくれないと、栃木の壬生町で、今、こんな催しがあることなんて、ぜったいにわからなかっただろう。ほんとに、ありがとうございました。

「壬生剣客伝は」、壬生町立歴史民俗資料館で2月6日から3月14日まで開催しています。お近くの人はぜひどうぞ。


1年前 かんぽの宿

2010-02-10 | 新聞・テレビから
1年前は何をしていたんだろう。

日記代わりのブログを書いていると、パッと昔のことがわかるから、便利でいい。
1年前の2月、このころは、「かんぽの宿」についてよく書いていた。何もわからないけど、「かんぽの宿」、オリックスに安く売却する、という話はおかしいな、と思ったものだ。あれから1年。早いものだ。

政権交代して、特に郵政民営化を批判していた国民新党の亀井さんが、郵政の担当大臣になった。しかし、それっきり、あの「かんぽの宿」問題はほとんど報ぜられない。
実際のところ、どんな取引があったのか、その解明がどれだけ進んでいるやら、どんな改革をしているのか、さっぱりわからない。

「沖縄密約」もほとんどなしだ。この「密約問題」は昔、テレビで、大空真弓が沢地久枝役になり、とても興味深いドキュメンタリータッチのドラマになっていたので、印象に残っている。山崎豊子の「運命の人」もこの「密約」を主題にしているそうだ。
岡田外相はすぐに解明し、公表すると言った。だが、新聞はさっぱり報じない。

新聞、テレビを牛耳っている経営者、あるいは幹部は、だれとどんなつながりがあるのか、どんな固い絆があるのだ?

疑惑や不信がいっぱいの新聞を毎日読まされる国民もちょっとつらいもんだ。

画像は本文と関係ないけど、鍵屋資料館で見た「マリヤ観音」。

呉服神社 

2010-02-09 | 日記
「呉服神社」、関西の人以外は、きっと「ごふくじんじゃ」と読むにちがいない。
正しくは、「クレハ神社」。呉服の神様を祭っている。

なんでも、その昔、中国の「呉」という国から織り姫が渡ってきて、ここで織物を伝え、広めたという。織り姫の伝説は池田の他の場所にもある。朝鮮半島からの渡来人がここには住み着いていたにちがいない。池田駅のすぐ近くだし、正月などは参拝客が多い。
今日は、ここで、安産のお守りを買った。

枚方宿を歩く 鍵屋資料館 くらわんかギャラリー

2010-02-06 | 日記
枚方は江戸時代、東海道の宿場町であり、淀川で京都ー大阪を往来する「三十石船」の船着き場でもあった。特に、枚方の「くらわんか舟」は小舟で「三十石船」に近づき、「餅くらわんか、飯くらわんか」とちょっとがらの悪い地元言葉で食べ物をすすめるので有名だった。

「三十石船」をしょっちゅう利用した幕末志士たちも、枚方ではきっと「くらわんか舟」から食い物を買ったにちがいない。あの清河八郎も「西遊草」で「くらわんか舟」が来ることを待っていたのに、雨でこなかったので、がっかり、でも一隻だけ来てくれたと、書いています。

「自然、空腹にあれども、平方にてくらわんか舟もいたらず。ことに雨ゆえ、食物ふね、来らざれば、舟中の人いづれもあきれ、退屈するうち、一艘の食物舟来たり、飢えたるときのまずきものなしとやら、おのおの、先をあらそいて、くらいたり」

枚方市のこの淀川沿いに、枚方宿・鍵屋資料館というのがあり、今日、のぞいてきた。見学料200円。鍵屋は、江戸時代は船待ち宿、昭和、平成は料亭だったそうだが、今は市立の歴史資料館として、枚方宿や「くらわんか舟」の資料を公開している。道に面した主屋は指定文化財になっている。くらわんか舟の実寸模型があり、映像で、くらわんか舟の売買のやりとりなども見ることができる。小さな「マリア観音像」も置いていた。高山右近の高槻の隣だからきっとキリシタンもいたのだろう。

この道を5分ほど歩くと、「くらわんかギャラリー」、別名塩熊商店だったか(小野邸)。
この中に入ると、なんと部屋の中は森繁久弥資料館のように、森繁久弥の写真や本、資料が並べられている。この部屋で座って、ゆっくりコーヒーを飲むことができる。たぶん、ほとんど知られていないお店だろう。

森繁久弥は枚方出身の人だった。ここを訪ねてはじめて気がついた。今日は、市民会館で、「森繁久弥を偲ぶ会をしている」、とのことだった。

ここで資料を見ると、森繁久弥のおじいさんは、江戸幕府の大目付だったようだ。その子、森繁の父親は、叔父の成島柳北の塾で英語を学んだとある。そのご、東京英語学校の先生などをしたあと、日本銀行につとめたり、大阪市の助役になったり、実業界でも活躍したらしい。森繁の生家もこの近くにあるそうで、それはそれは立派で、お屋敷には執事さんもいたそうだ。

あの、(古い人は知っているけど、若い人は知らないだろうが)、映画になった「綴り方兄弟」も枚方の子供なんだそうだ。

ついでに、大塩平八郎の乱に参加しようと決起した深尾才次郎は、枚方の尊延寺村の人だった。

大阪は今日が初雪。寒いのでそこまでは足をのばせなかった。

画像は、鍵屋資料館。

「沈まぬ太陽」を観た

2010-02-05 | 映画・テレビ
「沈まぬ太陽」を見に行った。

観客は、5、6人くらいか。
もちろん、映画としては、「アバター」の方が断然おもしろいけど、「大会社」の差別人事を描いた映画は珍しい。

ただ、「会社」が組合活動をした者に対していかに差別待遇をするか、というテーマと飛行機事故の二つの主題があるので、どちらも中途半端はまぬがれない。作家は、この航空会社を追求したかったのだろうけど。


組合の委員長を務めた渡辺謙に対して、会社は、カラチ、テヘラン、ナイロビと海外の僻地勤務を命じる。子供や老いた母親もいるのにだ。
なぜ、会社をやめなかったのだろう、とわたしなどは思う。

「会社とは何だ」と、映画の中でも自問する場面があるが、そのへんをもっと同僚や他の労働者も描いて深く追求してほしかった。映画では、渡辺謙の過去の経歴(たとえば、青年時代)をカットしているので、主人公の人物像もつかみにくい。

中曽根康弘を思わせる総理(加藤剛)とか、実在の人をモデルにした人が出てくるが、総理にたのまれ、日航の再建役に鐘紡の石坂浩二をひきだすブレーン役にあの瀬島龍三が出てきた。元大本営参謀で、「不毛地帯」のモデルにもなった人だ。たしか臨調かなにかの会長もしたっけ。

司馬遼太郎がこの人と対談したこで、司馬が書こうとしていた「ノモンハン事件」の主人公のモデル須見さん(下の名、忘れた)が怒り、司馬に絶縁を告げた、という話がある。須見さんに絶縁されては司馬もノモンハンは書けない。元大本営参謀がまたも戦後の社会を動かすのはたしかにかなわん。

でも、これは瀬島龍三だけに限らないかもしれない。戦前に権力を握り、人を支配していた者たちが戦後もあいかわらず権力を握っている。黒幕たちの人脈は連綿として変わっていないのかもしれない。

映画の中で一番戯画化されていたのは新聞記者。「おれはジャーナリストだ」とバーでいばり、政治家や企業から賄賂をもらって、権力に都合のよい記事を書く笑うべき人種。

今日の朝日の記事はなんだ。2面、3面、4面、5面、13面、30面が小沢の政治資金事件の記事。国民がそれだけ関心をもっているというのだろうか。いやになる。それよりも、あの「密約」事件をなぜ書かない。

おっと、また、映画から話がそれた(笑)。

主人公はアフリカ勤務の中で、アフリカの魅力にとりつかれたようだ。「沈まぬ太陽」とは、アフリカの太陽のことだった。

魔法をかけるメデイア

2010-02-04 | 新聞・テレビから
今日の朝刊(朝日)一面にまたもあの主筆(「OJT」の人)の論文。

この人の文章こそ、線引きしなけりゃわからない文章で、線引きしてもなおわからぬ難物。

今回、前回のように「OJT」こそ、なかったけど、日米同盟の再定義は、「against(何かに対して)の同盟から「for(何かのための)同盟」へと進化させることだ」と書いている。
ふーむ、この人は、どこまで難しい言葉を使うのが好きなのだろう。わざわざ(  )にしているが、教えることも好きなのだろう。

この人にとって、日米同盟の「深化」とは、やはり「進化」のことで、そのためには、3つの原則がある、と説く。いわく。①互恵原則 ②相互補完原則 ③協同原則。この3つの言葉の違いを的確に説明できる人いる?同じことじゃないか。

1960年の安保闘争について、この人は、「安保闘争を分析した古典的名著(protest
in Tokyo)」と紹介し、その筆者の意見を引用してみせる。

これが古典的名著?日本語には翻訳されていない本ではないのか?。読んだ人が何人いるというのだ?「古典的名著」と称して、知らない者を見下ろすこの高慢さ。この古典的名著の筆者は、ライシャワー駐日大使の特別補佐官だった人で、現在、米日財団理事長をしている人なのだ。

1960年の安保闘争は、420万人以上(警察調べ)の国民がデモに参加した戦後最大の国民運動だった。その日本人の歴史を特別補佐官であった人の感想で総括する朝日新聞。

今朝の天木直人のメルマガにも、朝日のこの文について感想が出ていた。引用する。

「その文章の一節に次のようなくだりがあった。

 「・・・日米同盟は、戦争の勝者と敗者が二度と戦わないことを誓い、『信頼と和解』を基盤に築いた同盟である。言葉と文化を異にする両国が、その後ここまで信頼関係を深めたという点で、それは現代史の奇跡と言ってよい・・・」

 どのような頭脳をもってすればこのような言葉が出てくるのであろうか。
 日米安保条約の条文のどこを読んでもこのような実態は出てこない。」

子供のころ、昔の日本はなぜ愚かな戦争に進んだのか、なぜ、だれも止められなかったのか、と不思議に思ったものだ。当時は、みんなが、戦争に賛成する雰囲気だった、とはよくいわれる。

ヒットラーとの三国同盟、今なら馬鹿なとだれもいうが、当時は、海軍の少数派がわずかに反対するのみで、メデイアも識者も大賛成。

司馬遼太郎は、昭和前期を「魔法にかけられた時代」とし、日本史の中で特異な時代だった、といったが、残念ながら、特異ではないようだ。

今が、この時代が、まったく、その魔法にかけられた時代なのだろう。
イラク戦争を起こし、今なお戦争を続けるアメリカとの軍事同盟を進化させよう、と唱える
大新聞、メデイア。日米軍事同盟を見直そうという声はメデイアからはどこにもなく、国民の議論も起こらない。

あの時代と同じだ。どうして、こうなったんだろう。