虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

市村敏麿38 

2008-04-29 | 宇和島藩
明治21年、敏麿は、無役地の証拠物件の返却を求めて、松山裁判所検事局に3回出頭。やっと明治22年春、証拠物件の書類は返された。

「ここにおいて、有志者あい集まりて、再び訴訟を起こさんとし、その経費を募れども、十数年の失敗、漸くその募りに応ずる者なく、市村氏、市村氏は思うところありて、大功は細纏を顧みず、の古語にしたがい、きわめて臭陋(しゅうろう)なる手段をとり、僅々の金を得、これを旅費として上阪せんとす。この話を漏れ聞きたる者、その義に感じ、2,3有志の奮発せる者あり。これにより、すぐに大阪に出て天下に雷鳴を轟かしたる大井憲太郎および松本四郎氏の研究を乞いたるに、全く勝算あるべきの鑑識に達し、その訴訟を大井氏に嘱託したり」

明治22年、憲法が発せられた年だ。
さすが、この段階では、村人も訴訟費用を出す者がなく、敏麿も全財産を使い果たしていただろうことは想像がつく。訴訟費用は、今も昔も莫大な額になるだろう。しかも、十数年にわたった農民の訴訟運動は、他にあっただろうか。

市村氏は「きわめて臭陋なる手段をとりて、僅々の金を得て」という部分に興味がある。記す人も書くをはばかるような卑しい仕事をしたのだろうか。ほえたご担ぎか、くず拾いのような仕事だろうか(発想が貧困か)。人目を気にせず、笑われ、軽蔑されることを承知で、大阪に出る費用を作ったのだろう。

さて、金策のために大阪に出た敏麿。

「市村氏は資金調達のために大阪において百方苦慮奔走するといえども、ことに大阪においては、市村氏を敵とする庄屋方の腹心股肱のみ多く、ことに元六等判事土居通夫(何度も書くが、通天閣の通はこの人の名からとった)、末広重泰(鉄腸)、矢野亨、鳥居利郷、今西林三郎の諸氏のごときは、皆敵手に縁故ありて市村氏と金満家との間を梗隔し、すべて談判不整、実に進退きわまり呉石氏の轍を踏まんとしたることありしが、24年にいたり、いささか志を得るに所あり」、ついに、大井憲太郎を連れて宇和島に帰ることができた。

大井憲太郎、自由党左派の領袖。左派の暴れ者の大将だ。風貌は丹波哲郎をイメージしているがどうだろう。当時、この人以上に天下に名の知れた代言人はいなかったのではないか。超一流の代言人、天下の英雄(大井は馬城将軍と呼ばれた)を宇和島に呼ぶことになる。

市村敏麿37 家族

2008-04-29 | 日記
市村敏麿の家族を書いておこう。

脱藩してから、幕末維新、そして裁判闘争とおそらく家にいる時間もなかったと思われるのに、庄屋時代に結婚したトメさんとの間には、7人の子をもうけている。

セキ、カネ、トラ、祐、イサ、スエ、タツミ。男子は祐だけで、幼児のとき、ジフテリアで亡くなっている。あとは、みんな女子。最初のセキさんは、文久3年に生まれているから、脱藩直前だ。ヨメさんの苦労、思うべしだ。

無役地事件に関わるについては、家族は大反対した、ということだが、100人いたら100人のヨメさんは反対するだろう。ついにトメさんは、末っ子のタツミさんを連れて別居することになる。タツミさんが生まれたのが、明治14年だから、その頃だろうか。もし、このころまでがまんしていたとすれば、立派なものだ。わたしがヨメなら、無役地事件に関わる、と知った時点で、おさらばだ。

敏麿は、その後、淡路島の三原郡湊村大浜徳蔵の妹クマさんと結婚する。クマさんは、敏麿より、27歳も年下だ。40代後半から50代のときに、二十歳くらいの人と結婚したわけだ。何度も東京へ旅立つ途上で知り合ったのだろうか。裁縫の仕事で細々と家族を養ったとかの話もある。

クマさんとの間には、操、秋津、久江、御衣子の4人の子をもうける。一番末っ子の御衣子は、敏麿70歳過ぎの子だ。

長男の操さんは、医師になるが、田中家に養子になる。医師になる約束で養子になったようだ。医学校を卒業すると、養子先の親が校門で待ち構えていて、そのまま田中家に連れ帰ったとか。このころは、敏麿も無一文に近くなっているはずだから、医大卒業までの長男の費用は養子先に出してもらっていたのかもしれない。

この田中操さんという長男が、父敏麿の文献を大切に残したそうだ。現在の城川町にある敏麿の村に墓を移し、四国電鉄(電力?)の株を村に寄付し、それで墓の管理を村に依頼したとか。
保内町の磯津村という寒村で医者をし、貧しい人には無料で診察する、いわば赤ひげ先生みたいな人だったそうだが、よくわからない。

最初の妻、トメさんは、末娘タツミの嫁ぎ先で敏麿の死の翌年なくなり、娘タツミもあとを追うように2ヵ月後なくなっている。

市村敏麿36 明治17年 大審院

2008-04-28 | 宇和島藩
明治17年2月14日、大審院に上告。
その主任者は、清水村(市村敏麿、末広寅吉)、予子林村(谷岡実、横山佐平治)、保田村(海保四郎、宮下官吾)の3村とも代言人は、長谷川陳氏。

(注 前記 宮下官吾は、「敏麿の面影」によって書いたが、裁判史料によると、京下官吾とあり、こちらが正しいのかもしればい)

担当官は、北村六等判事。審問5回、厳正に審理し、議案を会議に出す。この時の大審院長は、玉乃世履氏。明治の大岡越前といわれた人物である。岩国出身。明治19年、原因不明の自殺。

この時も愛媛県令は大審院長玉乃に上申。また、判事のひとり原田種成は、県令の従弟であり、この訴えは、行政の妨害であると非難する。

明治17年7月22日、3ケ村の上告は棄却。

このとき、村民たちは、もうあとは、鮮血に訴えるしかない、と激昂し、北宇和郡八幡河原に頓集して大会議をしようとしたらしい。だが、この警報を受け、諸方に警官を派出、各郡長は、村々に警戒態勢をしき、各村人民より、総代へ渡した委任状も取り上げ、あるいは取り消させ、郡戸長は、これ以後は、願書の置書の調印もしない、と宣言。この無役地事件に関わる者は、訴訟教唆者なり、詐欺取財者なり、と抑圧する。

この年(明治17年)の10月、秩父事件がおきている。

大審院での棄却のあと、被告側は奇妙な行動に出る。
被告の一人予子林村の大野常一郎の父親大野正敬が予子林村の原告総代横山左平治に和解を求め、東京の市村敏麿を呼び戻してほしい、と懇望するのだ。

宇和島の原告総代横山左平治から知らせをうけるが、敏麿は、「今、敬慎の願い出中だから、どんなことがあっても帰れない。ましてや、相手が真に自分の非を認めて謝りたいのなら、上京して、まず、こちらの軍門にきて頭を下げるべきではないか」と答える。12月、被告の代理人大野正敬は、横山左平治に伴われて上京、敏麿と面談、代言人の長谷川陳氏も同席して、敬慎願の取り消しをすることに決まった。

「敬慎願い」とは、なんだろう?わからない。大審院で棄却されても、道は開ける「敬慎願い」という方法があったのだろうか。

明治18年1月18日に大審院長玉乃世履にあてた「敬慎願いお下げ願い」という届けが残っている。

「愛媛県伊予国予子林村平民浜口権太郎ほか122名総代横山佐平治より、同村平民旧庄屋大野常一郎にかかわる旧村吏役地、共有権回復の儀につき、敬慎願書進呈仕置き候ところ、常一郎においてもこれまで純然たる私有地なりと心得たりしが、宇和島藩旧記および事実を見れば、私産ならずして旧村役俸地なることを覚意せしをもって、今般、示談の上、すべて原告人へ相復し、一村の共有地に供することにあい決し申し候。しかるうえは、右一件につき、ご審問は申しおよばず、このうえ、裁判をあおぐかど全く消散つかまつり候。これによって、原被連印をもって本願書お下げ戻し願いあげ候」
1月22日、玉乃世履は、この願いを聞き届けている。

1月29日、敏麿が、土地受け取りのために宇和島に帰ると、なんと大野氏、宇和島警察署に自首。理由はこうだ。
「市村氏から原告に味方すれば大いなる見返りがあるといわれ、せがれの印を盗み出して代理人となって敬慎願いの取り消しに調印した。しかし、あとあと考えると、官をあざむくことであり、自分の貪欲も後悔した」ということだ。大野氏は有罪になり、ために示談も無効になる。それだけではない。この時、予審係から東京裁判所の予審係に照会し、長谷川陳氏のもとにある証拠書類をことごとく押収して宇和島に取り戻し、以来、数年、敏麿が取り戻すまで、証拠物件は返されなかった。

「この事自首にいたりしは、旧庄屋どもあい謀りて、他日、大いに報酬をなすことを約し、かれの欲心を起こせしめてかくの如くうまく取り計らいたるものなり、と世人もっぱら噂せり」とある(役地事件一夜説)

はめられたわけだ。敏麿の信用を落とし、村人の団結を分裂させる策でもある。

このあと、村人の訴訟運動も分裂する。
「東宇和郡長谷村有志萩尾武十郎、住田幸吉、得能彦三郎らは総裁市村氏と異論あり。これほかならず、市村氏は証拠物件の下戻しなき間に訴訟するも詮無し、といい、萩尾氏は、残存の証を奉じて訴をなさんとし、その議論、まとまらず、あい別れて運動することとなる」とある。

しかし、長谷村の訴訟も初審破れ、終審も敗訴、上告もできなかった。






阿部清明塚

2008-04-27 | 日記
阿部清明。平安時代の陰陽師。しかし、平安時代はまったく無知。朝日にも源氏物語のことが書かれているので、今年こそは源氏に挑戦してみたいと思っているのだけど、どうなることやら。

親孝行業として、親を兵庫県作用町平福まで車で案内した。あそこの川端風景はまあ、一見の価値はあるだろう。みんな武蔵の里を求めて、途中の道にある平福は素通りしてしまう。道の駅平福に車を止めて、平福の川端風景を見ておくのも損はしない。ここから、有名な作用町の天文台も車で30分くらいでいけるそうだ。親は、平安時代が好きなので、近くにある清明塚に寄った。平福から20分。棚田で有名な乙大木谷村の小山に立っている。近くには、清明のライバルだった芦屋道満の塚もある。ここで二人は呪術の死闘をくりひろげた、ということだが、なんのことやらわたしにはわからぬ。

石でできた立派な塚があった。その前には、清明堂という名のお堂が。何体か古い仏像がおいてあった。ろうそくや線香もあったので、線香もつけてあげた。ユダヤの五星紋みたいなマークもあった。よくわからないが、軍人の星マークも弾除けとか聞いたことがる。

さっそく、デジカメで写そうとするが、電池切れのマークが出る。新しい予備の電池に換えるが、それでもまだ電池切れのマークが。予備の電池も古かったのかもしれぬ。帰って、画像を見てみると、うっすらと白いものが写ってる。
まあ、阿部清明は化け物ではないはずだから、ちっとも怖くないけど(笑)。

日本政治裁判史録 大正

2008-04-27 | 読書
「日本政治裁判史録」(第一法規)、大正はどんな事件が出てくるのか興味があったので、オークションで500円で買ってしまった。

目次は以下の通りだ。

通史
第一次憲政擁護運動
シーメンス事件
大浦事件
大隈首相暗殺未遂事件
米騒動
萬歳事件
森戸辰男事件
大本教不敬事件
原敬暗殺事件
第一次共産党事件
朴烈事件
甘粕事件
虎ノ門事件
福田大将狙撃事件
伏石事件
大正期司法制度概説

ついでだが、森長英三郎「裁判 自由民権時代」(日評選書)という本も図書館で借りた。
自由民権時代の裁判を扱った本は、唯一、これだけだ。森長英三郎、弁護士だ。
激化事件が主で、農民の行政訴訟の裁判はやはりここにもない。一応、目次もかかげて紹介する。

立志社の獄
紀尾井坂の変
近衛兵の反乱
高橋お伝
紙幣贋造
秋田立志社事件
岐阜の凶変
福島事件
高田の獄
星亨官吏侮辱事件
加波山事件
密偵照山殺し
群馬事件
秩父事件
静岡事件
飯田事件
名古屋事件
ノルマントル号事件
ダイナマイトのひやかし
自由党大阪事件
花井お梅
秘密出版事件
保安条例

明治の農民の裁判闘争を研究した本はどうもないようだ。

日本政治裁判史録、昭和も知りたいが、まあ、いつか手にとることにして、今は、がまんしておこうっと。
しかし、戦後の裁判で、このような手の本は出ているのだろうか?ないよな。

訂正。調べると、同じ出版社で同じような企画の本「戦後政治裁判史録」全5巻が出ていた。

市村敏麿 35 弾圧妨害(明治14年)

2008-04-27 | 宇和島藩
書き忘れてしまった。追加しておこう。

明治13年に内務省に嘆願し、却下されたあと、市村の同志、二宮新吉は自殺してしまう。

明治14年、内務省が嘆願を却下したあと、警察権力が、この無役地事件の奔走者(委員たち)を続々、投獄することになる。

「明治14年7月のごときは、まず尾崎幸治郎、末広寅吉、市原匡勉らを縛して、牢獄につなぎ、それより続々、拘置留監し、その人名38名に及べり。しこうして、最も甚だしきは、谷岡実、兵頭弘、渡辺均、岡田善四郎、山崎久平、水口万吉の諸氏は、尾崎、末広らと共に、数ヶ月の久しき牢獄に呻吟し、その間、ただ1回の推問をなせるのみにして、これを放免するや、一通の手続書を取り、もはや御用済みなりたるうえは、自宅に帰るべしとの簡単な一語を下せるのみ」

また、無役地事件の証拠物件の押収も警官によってなされる。。
「藤江浦なる木原弥平方へ、突然、警官数名、入りきたり、同家の箪笥内に蔵するところの役地事件に関する諸帳簿を押収して去り、この獄果つるも返さず、よって、弥平より下戻しの事を願うといえども、ついに下渡さずと聞く」

「また、右役地事件に関係せる重要なる者の郵便電信のごときも、不通なること多く、すでに在京なる市村氏のもとへの往復の書信等は十中七、八までは中間に妨害するものありてや達せざること多く、緊要の通報は、その里程60余里を経て讃岐の琴平に行き、同地郵便局に投じて東送せしという」

「その他、異説しきりに耳朶をうがつ。今これを明らかに言わんとするも舌渋り、語ふさがり、これを書かんとするも筆進まず、墨染まざるの有様」と書く。

「この時にあたり、二宮新吉氏は、その身、松山にありて、かの宇和島の獄起こり、同志者続々囚わるるの怪報に接し、焦心苦慮する中、大洲警察署、得能彦三郎を拘留したるを聞きて、天を仰いで慟哭し、ああ、事、ここにいたる、処するに所なしと断然決意、深夜に乗じて微服潜行、宮内村の自宅につき、老母によそながら訣別を告げ、一室において銃に火して咽喉を貫き没したり。」

以上、「役地事件一夜説」より。

県令は圧政家として名高い関新平、警察本部長は、内務省に出頭して、この無役地事件について棄却することを説き、県庁でも、他日、この事件関係者については大いに懲戒する、と申し立てた真崎秀郡だ。しかも、県役人、郡長、戸長みなこの無役地事件に関わることに反対する土地だ。絶望的になるのもわかる。

なお、明治13年8月から明治14年5月までの内務省出願費用として、宇和4郡惣代は東京で集会を開き(明治13年7月)、予算として900円を計上している。その内訳は、350円、野村滝太郎 月俸および諸費用。(この人は何者だろう。大審院七等判事に野村龍太郎という名前があるので、この人のことだろうか)
360円、二宮新吉、市村敏麿、月俸および旅費。
130円、得能彦三郎、藤岡米吉、往復旅費。
裁判には金がかかる。村人が闘争資金として資金を拠出していたのだ。

また、明治11年3月には、二宮新吉と市村敏麿は、各村惣代にあてて、団結の強化を訴え、「われら、本年3月18日をもって、3ヵ年間、累積の葛藤を一己の私を払い、公平至当を要し、さらに誓盟締約をなせし。-略ーたとえ、同日に生ぜずといえども、同日同枕に死せんの意志を含蓄し異体同心の間柄たる上は申すまでもこれなく候」と誓っている。

その異体同心の二宮新吉は自殺してしまった。

なお、明治12年、大審院に上告するときに、東京代言人の星亨に訴状を見てもらってから提出したそうだ。これも、追加。



市村敏麿34 大阪控訴院 児島惟謙

2008-04-23 | 宇和島藩
児島惟謙とは、大津事件の主役だ。
大津事件とは、明治24年、来日したロシア皇太子ニコライが大津で、警備の巡査津田三蔵に斬りつけられた事件だ。
強国ロシアだ。当時は、政府も国民もロシアを恐れることはなはだしく、政府は、ロシアをなだめるため、津田を死刑にするよう求めるが、大審院の児島惟謙は、政府に裁判が左右されることがあってはならぬと、法に従い、津田を無期懲役にする。
司法権の独立を守った、とされ、児島惟謙は「護法の神」とまで称えられる。宇和島出身者では官界で一番出世した有名人ではなかろうか。

児島惟謙、天保8年生まれ、敏麿の二つ上。まあ、同世代だ。宇和島藩士だが、陪臣の出で、軽輩格。

野村騒動で農民が集結した野村の大庄屋緒方家は、父親の実家。野村の緒方家には若い頃寄食して酒作りの手伝いをしていたというから、あの緒方惟貞とも親しい。土居通夫とも仲がよく、土居とは、小西荘三郎という庄屋のもとで共に寄食していたこともあるとか。世に出るにあたっては、庄屋連中に深い恩義をこうむったようだ。
剣術師範の免許をうけ、剣術使いになるが、各地を遍歴、特に坂本龍馬と接触したことがあるといい(確証はないが)、慶応3年、宇和島藩を脱藩。脱藩では、敏麿が4年はやい。

明治3年までは、新潟県、品川県の役人になり、明治4年に司法省に出仕。各地の裁判所勤務を経て、明治9年のワッパ騒動(庄内鶴ケ岡裁判)で名をあげる。明治14年、長崎控訴裁判所長、明治16年大阪控訴裁判所長、明治19年大阪控訴院長、この次が、明治24年大審院長となる。大津事件は、大審院長になって2ヵ月後の事件だ。大津事件の翌年、児島は司法弄花事件の被告になり、大審院をやめ、裁判界から去る。あとは、貴族院議員。明治41年、72歳で死去。
惟謙、とは脱藩したときの変名。それを終生、名前にしたようだ。「これかた」と読むらしいが、「いけん」とパソコンで打っても「惟謙」と出る。

さて、東京自由新聞「役地事件一夜説」にもどろう。

「控訴院においても、明治16年11月29日をもって、同じく原告者、失敗せり。この判決たるや、はじめ専理官判事犬飼厳麿氏は、原告権利の案件なりしも、所長児島惟謙氏の異論に辟易し、一歩を退きて再案を出したるも、なお所長の意に満たずして最後にたてたる案件なりしという。

かつ、この申し渡しの当日は、午前8時の召喚にして、午後1時30分に言い渡しなりしが、これまた風説によれば、犬飼氏の案に対し、その連判者の一人なる判事、長安道一誌は、原告の要求大に理あるべきことを陳述して敗訴の案に服せず、とうていその調印を拒みたりしが、所長児島惟謙氏は、臨機、同氏を退け、もって、さらに判事後藤広賢氏へ調印いたさせ裁判申し渡さるうにおよびて、かくの如く紛議に時間を費やしたるものなりしよし。

その後、長安道一判事は、日ならずして函館裁判所へ転任したり。これ児島氏の意にさからいたるゆえなりと口さがなき阪府童子の噂するところなり。ちなみに児島氏は、もと宇和島藩宍戸因幡の臣下たりし金子忠兵衛の二男にして幼名五郎兵衛と称し、わずかに撃剣道具を作るをもって生活とし、すこぶる生計に苦しめり、しこうして、同藩旧里正中、最も富豪の聞こえある野村緒方予治兵衛、下灘浦赤松忠兵衛、日土村兵頭喜平、日向谷村井谷予十郎、黒井地村太宰喜右衛門等のごときは、皆氏の伯父なり、しこうして、氏は上文のごとくもと貧生なりければ、これら数氏の助力によりて一新の機運に乗じ身を立てたることゆえ、その報恩のため、ことに恩遇優待するともっぱら世に噂するところなり」


判決は不法なり、と敏麿は、また大審院へ上告する。明治17年だ。

市村敏麿33 

2008-04-23 | 宇和島藩
県令を被告とした裁判は、大審院も、司法省も、内務省も、太政官でも拒否される。で、今度は、方針を変えて、無役地を私有する旧庄屋から共有権をとりもどすことになる。

行政訴訟から民事訴訟に変えたわけだ。被告は、東宇和郡の予子林村の旧庄屋大野常一郎、北宇和郡の清水村の旧庄屋玉井安蔵、北宇和郡の保田村の旧庄屋赤松忠次郎。明治14年、松山始審裁判所に訴えるが、明治15年2月25日、原告敗訴。

裁判長判事吉本祐雄。この人は、その裁判状草案をあらかじめ郡長の竹場好明、牧野純蔵、清家信篤、都築秀二の各氏に示し、その字句も望みどおりに改作訂正させ、浄書の上、ひそかに一読させた、という巷説もあるそうだ。ちなみに郡長の竹場好明、もと宇和島藩士で、愛媛県の役人でもあった人。市村とも、知り合いのはずだ。あの有名な都築温(宇和島藩士)も郡長になる。

裁判では、被告者代理人牧野純蔵は、原告の証拠を確証し、この一点だけでも、原告の勝訴はまちがいなしと思われたとか。


原告団は、裁判言い渡しの当日、殺気を帯び、傍聴には1300人が集まり、裁判所内は人の立つ隙間もなかったほど。警官は数十名が裁判所の内外を固め、予期せぬ暴動に備えていた。原告敗訴の申し渡しを聞くと、窓を破る者もいて、みんな、声をあげ、憤怒をあらわにしたという。

「原告方の激昂ひとかたならず、往々暴徒ありて、やにわに裁判所を破壊せんとするの気色ありければ、原告者の総帥市村氏および幹事海保志郎氏らはやくもこれを察して、六七百名の惣代を市村邸に集めて、3日2夜の間、その鎮撫に従事し、かろうじてこれが静謐をなさしめ、すぐに上阪、控訴す」と東京自由新聞の記事。

官庁や裁判所に訴えても、らちがあかないとき、いきおい、裁判所や県庁襲撃、という暴動にむかうのは明治初期にはけっこう多いパターンだ。人々をおさえる人がいなければ、こういうケースに進む可能性も高かったはずだ。しかし、事件は、暴動、鎮圧、逮捕、処刑、それで終わってしまう。市村は、それを止めた。市村は、その鎮撫のため、数日夜、大声で弁論し、喉やぶれ、血を吐きたり、と記事にある。

宇和島の市村敏麿の屋敷は、この無役地事件に取り組んでからは、闘争本部となっていたようだ。城川町史談会では、宇和島の市村邸が市内のどこにあったのか、かなり調べたそうだが、どこに家があったのかさえ、ついにわからなかった、ということだ。

次は、いよいよ大阪の控訴院。そこの所長が児島惟謙だ。

抹殺される歴史 庄内のワッパ騒動

2008-04-22 | 宇和島藩
佐藤誠朗「ワッパ騒動と自由民権」(校倉書房、1981年)を入手した。
ワッパ騒動とは、明治6年末から明治12年にかけて、山形県庄内地方のほとんどすべての村をまきこんだ大農民闘争だ。ワッパとは、弁当箱のことで、裁判に勝利すると、各人にワッパ一杯のお金が戻ってくると期待されたことから、この名がついたらしい。

騒動の中身については、紹介しない。まだ、プロローグしか読んでいない。
ただ、この農民闘争が、戦後まで、戦後も安保闘争の時代まで、語ることをずっとタブーしされたことがプロローグに書いてあった。

「わたしの田舎では、維新以後ついこの間まで、旧士族の一派が町の実権を完全に握っていた。西郷隆盛を尊敬してやまない、この旧士族の一派は、「天保義民」をほめそやしたが、「ワッパ事件」を口にすることを厳禁していた」とあとがきでも書いている。

庄内藩は、朝敵となり、会津藩と共に最も頑強に官軍に抵抗したが、西郷の寛大な処置に庄内藩士は感激し、西南戦争にも多く参加したことはよく知られている。「西郷隆盛遺訓」を著したのも、たしか庄内藩士のはずだ。

その庄内藩士が明治後も、県の実権をにぎり、その不当不正を訴えたのが、「ワッパ騒動」だ。騒動後も、旧士族が実権を握っていたので、「ワッパ」について語ることは、タブーにされた。

このワッパ騒動からは、森藤右衛門という、植木枝盛によれば、当時(明治12年)、福沢諭吉、板垣退助とならんで三大民権家に数えられた人が奔走するが、いまや、だれも森藤右衛門の名前など知らない(わたしもむろん、しらなんだ)。

故意に抹殺する、語ることをタブーとする歴史というのはあるもんですな。

宇和島の「無役地事件」なども、同じかもしれない。
明治の戸長、区長、郡長など、また、村会議員、県会議員、県庁役人など、村や町の顔役、支配役は、ほとんどすべて旧士族か旧庄屋役といっていい。無役地事件やその裁判闘争など、最も忌むべき事件だったにちがいない。かれらの結束は固く、その影響力は村人の生活を左右する。

「ワッパ騒動」のこの本の序文で著者はいう。「事件後も、この地方の政治、経済、社会、教育、文化を終戦後にいたるまで支配しつづけたため、「ワッパ一件」について語ったり、調べたり、また書いたりすることはタブーとされ、それにそむく者には陰に陽に抑圧の手が加えられた。だから農民の間にも「ワッパ一件」についての伝承は、全くといってよいほど残されていない」

南予地方が、庄内のようにある一派に牛耳られていたとはいわないが、村は旧庄屋層、士族層、富裕層によって支配されていたはずで、無役地事件は消し去りたい事件だったにちがいない。


市村敏麿32 明治13年 内務省出願

2008-04-20 | 宇和島藩
司法省から、「願いの趣、当省へ願い出ずべき筋に之なしにつき、書類却下候事」という達しが出たのは、明治13年5月24日。

しかし、7月には、宇和郡内73ケ村の総代の中から市村敏麿、二宮新吉など12名の委員が内務省に出頭して出願している。
当時の内務省は松方正義が内務郷。しかし、松方は大阪長崎へ出張中だったので、代理内務大輔品川弥次郎が対応。「品川弥次郎、その情状を憐れみて。地理局長桜井勉氏へ注意せらるることありければ、主任者の監査、大いに至り、最も尽くされたり。議按係若宮正音氏、与って力ありし」と東京自由新聞は書いている。内務省の応対は懇切丁重な態度であったようだ。
9月2日、「嘆願の趣、県令へ照会の上、追ってなにぶんの指令に及ぶべく候条、総代の内、1名あい残り、その他は帰国の上、農業怠るまじく候事」という口達が出る。敏麿一人だけが東京に残り、二宮他の総代は帰国した。

品川弥次郎といえば、松陰門下生で、高杉晋作の配下として活動した長州の足軽出身。奥羽鎮撫総督の参謀。「宮さん宮さん」の官軍歌の作詞家でもある。後年、松方正義の下で猛烈な選挙干渉をして、非難される。

今回は、期待があったようだ。これまで1度も嘆願に加わってない村々も続々と出願した、とある。

内務省の照会に対し、この時の愛媛県令関新平(岩村高俊は更迭)の代理として真崎秀郡氏(警部)が上京して弁ず。

ちなみに県令関新平は、肥前藩士、早くから尊王の志士として活動し、江藤新平、大木民平と共に、「肥前の三平」と呼ばれる。奥羽鎮撫総督使役を務めた。三島通庸、高崎五六と並ぶ「三大圧政家」といわれる。真崎は、関の同郷の友人で、腹心の部下。かれは内務省にこういった。
「そもそもこの嘆願は、真純の願意にあらず。2,3、奸悪の輩、おのれが私利をはからんために無知の小民を煽動し、今日の様相を演ぜり。もし、願意をいれらるるにおいては、将来、県治上、大なる障害をきたし、ために公安妨害の悪結果を見ん」と。

ちょうど、このとき、内務省から分かれて農商務省が設立され、品川や桜井など市村らに同情的だった人は農商務省へ転任させられて、本件の担当者は権少書記官中野武営氏となる(この人も有名人のようで、本も出ているようだ。高松出身。実業家、財界人になる)。いや、明治7年には、愛媛県の県大属の職にあった人だ。省議は豹変し、明治14年5月嘆願却下となる。

愛媛県令関新平宛に、内務卿松方正義の通達がある。

「その県下伊予の国4宇和郡の内73村人民総代より別冊の通り、旧村吏役地処分改正の儀、嘆願の趣、聞き届け難く候条、書類及び証拠物件却下候間、御庁において下渡し方取り計らうべくこの旨、あい達し候こと  明治14年、4月6日」

しかし、宇和郡の農民も市村たちもまだまだあきらめない。戦いは続く。




市村敏麿31 裁判闘争の開始

2008-04-20 | 宇和島藩
市村敏麿が藩役人をやめてから裁判の主役として登場するまでの明治5年から数年間のことがよくわからず、また、無役地事件の裁判もその内容はまだ理解できていないので、パソコンをたたく指も止まったまま。でも、これではいつまでたっても先に進めないので、裁判の内容、その論理はおいおい書くことにして、経過をざっと書いておく。

宇和郡の農民たちは、愛媛県庁に、村の共有地だった無役地を旧庄屋の私有地にする県の処置に不服を唱え、明治8年、県庁に訴える。この訴えの段階で、市村たちも深く関わっていたのは当然だろう。きっかけは、明治7年に、庄屋と同じく村役人だった横目役の家督(給地)は、村の共有地にしたことも大きい。横目の給地は村の共有地で、庄屋の給地だけ庄屋の私有になるのはおかしい。

このとき、旧庄屋の都築温太郎は、無役地の返還を求めるなら、その4割は、旧知事さまから返されたもの、6割は県知事から返されたもの、文句があるなら、旧殿様や県知事様を被告にして訴えるがいい、とうそぶいている。

無役地が旧庄屋の私有になるについては、庄屋側の結束と運動は、農民側よりも早かった。廃藩になる前から、野村騒動後、無役地を調査する、と藩が発表してからすぐに、庄屋たちは連合して、藩に、そして県に嘆願している。いつの時代も、力のある者は連合する。一方、農民側は、ご一新になって、あまりも多岐にわたる新政策で呆然とし、結束が一歩、遅れたのかもしれない。

愛媛県は、農民たちの訴えを拒否する。宇和島藩時代の旧慣習(無役地は共有地)に、他国からきた新役人に理解があるはずもない。無役地は、村の共有地なる証拠なし、という答えだ。

明治10年7月、愛媛県令岩村高俊を被告として、東多田村人民の総代として市村敏麿は、大阪上等裁判所に出訴。この時の専理官(担当者のことか?)は七等判事古庄嘉門(肥後藩士、尊攘志士)、県令の代理として県属須藤頼尚(宇和島藩士)を大阪に召喚し、審理7回、判決は、「原告提供の証拠物は、旧庄屋役に附帯せし証拠を見るのみにて、これを共有地とみなす証拠なし」というもので、却下。

無役地が旧庄屋役に附帯した土地なら、庄屋役が廃止されたら、その土地は村の共有地になるのが当然。市村は、大審院に上告することにする。

市村が上京しようとするとき、旧宇和島藩の都築温(宇和島の三功臣の一人といわれる。大政奉還のとき、慶喜に建言をしたとかいわれる人物だ)は、宮内村旧庄屋都築温太郎からの依頼で、市村敏麿に大金を渡し、原告の証拠物件をとりあげ、訴えをやめさせようとするが、敏麿に拒否されたそうだ。しかし、大阪に出て、東京にむかって出発後、にわかに大患を得、これがために上告期限を過ぎてしまう(どうも、庄屋側の妨害のにおいもするなぁ)。

しかし、翌明治11年3月、今度は、舌間浦人民より、また市村らを総代にして、大阪上等裁判所に出訴。
続いて、宮内村からも、市村、二宮新吉らを総代にして出訴。
今度の担当官は六等判事戸原棹国。審理8回、しかし、事は行政に関することなので、太政官に伺いを立て、しかるのちに、裁判申し渡すの答え。

明治12年1月、舌間浦、宮内村とも、敗訴となる。3月、市村、二宮は総代となって、大審院に上告。大審院の担当官は、五等判事関義臣。原告総代を召喚して審理11回、上告の主意、認められ、他日、被告県令を召喚し、被告原告、対審をさせる、と言われるが、その後、棄却を通知。それは、大審院には、内訓があって、太政官へ問い合わせた上で(申稟協議)判決を下したものは、大審院では受理できない、というものだ。

市村らは、今度は、太政官に嘆願にむかう。内訓があって、大審院で裁判を受けられないのはおかしい、内訓を取り消し、司法郷から大審院に裁判を受理すうるよう命じてほしい、と。太政官の担当官は、谷森真男、牟田口元学両書記官。ここは、人民から嘆願を受理し、その正邪曲直を判定すべく場所ではない、と却下。市村らはあきらめず、司法郷田中不二麿に向かって嘆願する。だが、却下。

余談だが、この田中不二麿、藤村の「夜明け前」にも出てくるが、半蔵の知人で、青山半蔵に職を紹介している人だ。元尾張藩士で平田国学の徒だったようだ。アメリカを視察して帰り、教育改革をするが、批判が多く、司法郷に左遷させられたようだ。

次は、内務省に嘆願することになるが、長くなったので、ここまで。

以上、裁判の経過については、東京自由新聞の「役地事件一夜説」から。





日本政治裁判史録 明治後編

2008-04-17 | 読書
先に、日本政治裁判史録 明治前編の目次だけ紹介したので、今回は、その明治、後編を紹介しておこう。

・通史
・福島事件
・加波山事件
・秩父事件
・大阪事件
・ノルマントル号事件
・大津事件
・司法弄花事件
・李鴻章襲撃事件
・閔妃殺害事件
・東京市疑獄事件
・台湾蜂起事件
・足尾鉱毒凶徒聚衆事件
・星亨暗殺事件
・教科書疑獄事件
・日比谷焼き打ち事件
・足尾銅山暴動事件
・赤旗事件
・日糖事件
・伊藤博文暗殺事件
・大逆事件
・明治後期司法制度概説

以上。

ちなみに、昨日のヤフーオークションでこの日本政治裁判史録全5巻が1000円で出ていた。残り時間1時間、とあったが、1時間あとで見てみたらオークションはもうおわっていた。落札したらよかったか、とちょっと思った。

さて、この後編に出てくる人物でも、市村敏麿の裁判と関わりのある人物がいる。
大阪事件の大井憲太郎。かれは、明治23年ごろ、無役地裁判の代言人となる。また、大津事件の児島惟謙、宇和島出身のかれは司法権の独立を守った護法の神様ともいわれるが、市村敏麿が大阪控訴院に上告したときの裁判所長で、かれは庄屋側に味方し、裁判に圧力を加えたといわれる。星亨も無役地事件に関わった、といわれるが、これについてはまだ何もわからない。

今、調べたいと思っているのは、庄内の「ワッパ騒動」だ。これも裁判闘争だが、人民側が勝った裁判。しかも、その裁判の担当者は大阪控訴院長になる前の児島惟謙。古本を入手したら、報告したい。





市村敏麿30 余談 青山半蔵

2008-04-13 | 宇和島藩
「明治初年農民騒擾録」(土屋喬雄・小野道雄編 勁草書房、昭和28年刊)という本がある。

これは、明治元年から明治17年あたりまでの農民の一揆、騒動などを、当時の「道府県史」から史料を採録したものだ。裁判ではないけど、当時の農民騒動がどんな問題で起きたか知るヒントにはなる。ただ、当時の騒動をすべて網羅したものではなく、明治元年から明治6年くらいまではくわしいが、明治7年以降は収録件数は少ない。農民騒擾としては、合計216件、そのうち、明治10年までのものは、185件で、その後のものは31件(他は町人の騒擾)。
明治10年以降は農民騒擾は減ったのかもしれない。各県別に書いてあるが、すべて、県側、役所側からの史料だ。

愛媛県は、9件、一番初めに出てくるのが、野村騒動だ。3ページにわたり、鶴太郎の名前も出てくる。

長野県を見てみると、明治4年8月、筑摩郡妻籠村蘭村騒擾とあり、次のような文がある。

「長野県筑摩郡役所編「西筑摩郡誌」第3編、前編、木曾編年史、甲の部に次のごとくあるのみで、詳細は知るをえない。4年、8月、名古屋県廃止につき、福島出張所木曾を伊那県に渡す。このとき、妻籠村蘭村等の人民、尾張藩有山林の官有となるをもって不服とし騒動をおこさんとす。土屋重義牧野少属と出張説諭して、鎮撫す」

これが、あの島崎藤村「夜明け前」で青山半蔵が奔走する契機となった木曾の山林事件だ。

市村敏麿が取り組んだ問題が無役地事件なら、青山半蔵は山林事件だ。無役地も、山林も(一部だが)、村の共有地だったところを官にとりあげられ、それを農民の生活のためにとりもどそうとしたところでは、似ている。

青山半蔵は、本陣の主人であり、庄屋であった。また、平田派の国学者だ。市村敏麿もおそらくその国学派だった。いっしょに戦った二宮新吉は、より青山半蔵に似ているかもしれない。青山半蔵も、紫の紐で髪を結んでいたとあるが、この紫の紐は平田派国学者のシンボルのようだ。

青山半蔵は木曾谷33ケ村の代表として県庁に嘆願するが、却下。半蔵は戸長をクビになる。このとき、半蔵がつぶやいた言葉が、あの有名な「御一新がこんなことでいいのか」だ。これ以後、半蔵は世の中に失望し、精神に異常をきたしてくるが、ここが市村敏麿と違う。敏麿は、明治8年、県庁に嘆願がいれられないと見ると、上告してより大きな裁判闘争へと進む。

半蔵は、学問が好きで江戸にいきたいと望みつつも、一生、故郷から離れられなかった。半蔵は、真面目で、内省的だが、行動する人ではなかったのかもしれない。
敏麿は脱藩した。志士活動に取り組んだ。行動的だ。かれはどこまでも戦うことを辞さなかった。

島崎藤村の「夜明け前」。名作として名高いが、わたしは、どこが名作なのかよくわからないが(退屈だった)、ただ、一人の庄屋、草莽の生活を丹念に描いて維新をみつめようとした作品は他にないのかもしれない。

「明治初年農民騒擾録」には200件以上の農民の騒動があげられているが、この中には、青山半蔵のように維新に希望をもっていた草莽が何人もいたにちがいないと思っている。


反戦ビラ 最高裁

2008-04-12 | 新聞・テレビから
立川市のイラク戦争反対のビラ配布 有罪確定がトップ記事。

社説も、「社会が縮こまっていいか」で、この判決についてだ。しかし、ブックマークにしているブログ「重信川の岸辺にて」でも書いてあるように、こしのひけたへなちょこ文。

「自衛官やその家族が派遣反対のビラをドアの新聞受けから入れられて動揺したり、いやな思いをしたりしたというのは、その通りかもしれない。知らない人が勝手に敷地に入ってくれば、不安になるのも無理はない。ビラを配る側も、1階の集合ポストに入れたり、宿舎前で配ったりする気配りをすべきだったろう」などと、まさにビラ配りを縮こませるような余計な文を入れ、「しかし、だからといって、いきなり逮捕し、2ヶ月あまりも拘留したあげくに刑事罰を科さなければならないほど悪質なことなのだろうか」と疑問をなげかける。なぜ、疑問体なのだ。悪質ではないことはあきらかで、悪質なのは、警察側に決まっているではないか。しかも、最高裁が、警察のやりかたを支持したのだ。カマトトぶらないでくれ。最高裁の判決にものを言えよ。それでこそ、言論の自由だ。

この判決を社説にしたのは、大手マスコミ(朝日、読売、毎日、日経、産経)の中で、朝日だけ。地方新聞では、北海道新聞、東京新聞、神奈川新聞、愛媛新聞、その他も社説に書いている。
大手マスコミは明らかに反戦市民から離れてしまっている。
テレビではどうだったのだろう。テレビを見てないのでわからない。

判決を下した裁判長は、今井功氏。覚えておこう。

日本政治裁判史録

2008-04-12 | 読書
明治初期の裁判史録をあつかった本はないかと探索していたら、こんな本があった。我妻栄編集代表「日本政治裁判史録」(第一法規)。
明治編2巻、大正編1巻、昭和編2巻の全5巻。
古本屋ネットで調べると、1冊900円くらいで売られている(明治編2冊で800円という古書店もあった)。

わたしは、「明治、前」の1巻だけを手に入れた。箱入りのなかなか立派な作りの本だ。

明治、前編でとりあげられている事件を以下の通り。

1備前・土佐藩兵発砲事件
2英国公使パークス襲撃事件
3奥羽大同盟一件
4横井小楠暗殺事件
5函館戦争一件
6大村益次郎襲撃事件
7山口藩兵騒擾事件
8清国人竹渓ら贋札事件
9雲井龍雄ら陰謀事件
10大学南校雇英人教師襲撃事件
11松代騒動
12愛宕・外山ら陰謀事件
13広沢真臣暗殺事件
14マリア・ルズ号事件
15北条県血税騒動
16尾去沢銅山事件
17佐賀の乱
18岩倉具視襲撃事件
19神風連の乱、秋月の乱、萩の乱
20西南戦争叛徒処分
21立志社・陸奥宗光ら陰謀事件
22大久保利通暗殺事件
23竹橋騒動
24板垣退助暗殺未遂事件

どれも一編の小説になりうる重要事件ばかりで、幕末維新ファンならずとも、興味をひかれるにちがいない。1000円以下の値段は安い。

書き方は、各事件とも、1概要、2背景、経過、3司法的処理過程、4司法的処理に関する問題点、5判決のように共通の形式で、司法的な観点からの記述があるのが特色だ。しかも、史料ばかりをのせた難しい読み物ではなく、一般向きに読みやすい。「日本政治裁判史録」という難解そうな題名がなかったら、歴史ファンも買っただろうに。

この中で、農民運動は、松代騒動と岡山の血税一揆の2件だけ。地租改正一揆がないのが残念。こういうので、農民の行政訴訟を集めたような本がほしいのだが、おそらくそれは膨大な件数にのぼるのだろうな。