明治21年、敏麿は、無役地の証拠物件の返却を求めて、松山裁判所検事局に3回出頭。やっと明治22年春、証拠物件の書類は返された。
「ここにおいて、有志者あい集まりて、再び訴訟を起こさんとし、その経費を募れども、十数年の失敗、漸くその募りに応ずる者なく、市村氏、市村氏は思うところありて、大功は細纏を顧みず、の古語にしたがい、きわめて臭陋(しゅうろう)なる手段をとり、僅々の金を得、これを旅費として上阪せんとす。この話を漏れ聞きたる者、その義に感じ、2,3有志の奮発せる者あり。これにより、すぐに大阪に出て天下に雷鳴を轟かしたる大井憲太郎および松本四郎氏の研究を乞いたるに、全く勝算あるべきの鑑識に達し、その訴訟を大井氏に嘱託したり」
明治22年、憲法が発せられた年だ。
さすが、この段階では、村人も訴訟費用を出す者がなく、敏麿も全財産を使い果たしていただろうことは想像がつく。訴訟費用は、今も昔も莫大な額になるだろう。しかも、十数年にわたった農民の訴訟運動は、他にあっただろうか。
市村氏は「きわめて臭陋なる手段をとりて、僅々の金を得て」という部分に興味がある。記す人も書くをはばかるような卑しい仕事をしたのだろうか。ほえたご担ぎか、くず拾いのような仕事だろうか(発想が貧困か)。人目を気にせず、笑われ、軽蔑されることを承知で、大阪に出る費用を作ったのだろう。
さて、金策のために大阪に出た敏麿。
「市村氏は資金調達のために大阪において百方苦慮奔走するといえども、ことに大阪においては、市村氏を敵とする庄屋方の腹心股肱のみ多く、ことに元六等判事土居通夫(何度も書くが、通天閣の通はこの人の名からとった)、末広重泰(鉄腸)、矢野亨、鳥居利郷、今西林三郎の諸氏のごときは、皆敵手に縁故ありて市村氏と金満家との間を梗隔し、すべて談判不整、実に進退きわまり呉石氏の轍を踏まんとしたることありしが、24年にいたり、いささか志を得るに所あり」、ついに、大井憲太郎を連れて宇和島に帰ることができた。
大井憲太郎、自由党左派の領袖。左派の暴れ者の大将だ。風貌は丹波哲郎をイメージしているがどうだろう。当時、この人以上に天下に名の知れた代言人はいなかったのではないか。超一流の代言人、天下の英雄(大井は馬城将軍と呼ばれた)を宇和島に呼ぶことになる。
「ここにおいて、有志者あい集まりて、再び訴訟を起こさんとし、その経費を募れども、十数年の失敗、漸くその募りに応ずる者なく、市村氏、市村氏は思うところありて、大功は細纏を顧みず、の古語にしたがい、きわめて臭陋(しゅうろう)なる手段をとり、僅々の金を得、これを旅費として上阪せんとす。この話を漏れ聞きたる者、その義に感じ、2,3有志の奮発せる者あり。これにより、すぐに大阪に出て天下に雷鳴を轟かしたる大井憲太郎および松本四郎氏の研究を乞いたるに、全く勝算あるべきの鑑識に達し、その訴訟を大井氏に嘱託したり」
明治22年、憲法が発せられた年だ。
さすが、この段階では、村人も訴訟費用を出す者がなく、敏麿も全財産を使い果たしていただろうことは想像がつく。訴訟費用は、今も昔も莫大な額になるだろう。しかも、十数年にわたった農民の訴訟運動は、他にあっただろうか。
市村氏は「きわめて臭陋なる手段をとりて、僅々の金を得て」という部分に興味がある。記す人も書くをはばかるような卑しい仕事をしたのだろうか。ほえたご担ぎか、くず拾いのような仕事だろうか(発想が貧困か)。人目を気にせず、笑われ、軽蔑されることを承知で、大阪に出る費用を作ったのだろう。
さて、金策のために大阪に出た敏麿。
「市村氏は資金調達のために大阪において百方苦慮奔走するといえども、ことに大阪においては、市村氏を敵とする庄屋方の腹心股肱のみ多く、ことに元六等判事土居通夫(何度も書くが、通天閣の通はこの人の名からとった)、末広重泰(鉄腸)、矢野亨、鳥居利郷、今西林三郎の諸氏のごときは、皆敵手に縁故ありて市村氏と金満家との間を梗隔し、すべて談判不整、実に進退きわまり呉石氏の轍を踏まんとしたることありしが、24年にいたり、いささか志を得るに所あり」、ついに、大井憲太郎を連れて宇和島に帰ることができた。
大井憲太郎、自由党左派の領袖。左派の暴れ者の大将だ。風貌は丹波哲郎をイメージしているがどうだろう。当時、この人以上に天下に名の知れた代言人はいなかったのではないか。超一流の代言人、天下の英雄(大井は馬城将軍と呼ばれた)を宇和島に呼ぶことになる。