虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

8月も終わり・・・ブツブツ

2010-08-29 | 日記
あと2日で8月も終わり。
だが、この暑さはどうだ。大阪豊中では今日は38度まで上がったそうだ。
これは、病気だよ。昔は、クーラーは体に悪い、あんまりつけないように、とかいわれたけど、今年は、クーラーをつけないといけない、なんてテレビでいっていた。
電気屋さん電力屋さんはもうかるだろうなあ。

地デジに対応していない家庭は、まだ2割なんていっているが、うちも地デジなんかに替えていないぞ。テレビが映らなくなったら、そこで考える。テレビは必要か、と。学生時代みたいに、ラジオだけでもいいかもしれないぞ。

「龍馬伝」、今日は「薩長同盟」だが、もうかなり前から失望している。
当初は、福山雅治を起用したので、龍馬の女性的なところ、武士的でない弱さ(老子のいう弱さだが)をクローズアップしてくれるのかと期待したが、国家のために、国を守るために、真面目な顔でいう龍馬。体制からずれたところがない。「ありがとう」というセリフをこれまで50回以上はいった龍馬だ(笑)。

どこのブックオフも「時代小説コーナー」を作ってある。なぜだろう。時代小説が人気があるとは思えない。ブックオフに来るのはおやじが多いからか?

ブツブツ・・・。




土佐膏取り一揆 山中陣馬

2010-08-28 | 一揆
一揆本、新しいものを手に入れた。
「山中陣馬伝 土佐膏(あぶら)取り一揆」(昭和52年大川村教育委員会編 非売品)。

高知の大川村はどのへんにあるのだろうと地図を見ると、四国のちょうど真ん中に位置する。愛媛と高知の境、四国山地の中だ。

この本は、大川村が、昭和52年に山中陣馬の記念碑を建てたのを記念して発刊したもの。
記念碑や墓碑の写真があり、記念碑を建てるまでの経緯、平尾道雄の論考、一揆実録などがおさめられた100頁ほどの冊子。一揆の本としては貴重な史料だ。

山中陣馬は、明治4年末、土佐の本川、大川、吾川という山間部で起きたいわゆる徴兵令反対、血税一揆の首魁として切腹。しかし、役人側は死体の首を切り晒し首にする。山中陣馬は元土佐藩の郷士だ。

この記念碑を建てた経緯がおもしろい。一揆の指導者としてではなく、一揆を未然に防ごうとした人物として顕彰している。あれ?

本の序にはこうある

「山中陣馬は、この首謀者が友人なるが故に中止を説得するも、聞き入れないので、自ら一揆に加わり、大衆を善導改化せんとするも成らず、自分を犠牲として徒党の罪科を未然に防いだのである」(大川村長)

ちょっと、おかしいな、と思った。そんなことありうるか?

昭和52年に大川村長がこのように書いたのは、それまでの経緯がある。大正15年に山中陣馬の墓碑が建てられたのだが、その墓碑を建てる趣旨書にも陣馬が切腹したから、一揆は沈静した、と書き、一揆の首謀者ではなく、むしろ一揆を鎮めた功績がある、として願い出ているのだ。

戦前の天皇制国家の時代、明治天朝政府に反対した一揆の首魁の墓碑なんかとても建てるわけにはいかない。一揆を止めるために身を犠牲にした、とでもいわなければとても許可されなかったにちがいない。

村人はどうしても山中陣馬の墓碑を建てたかったのだろう。陣馬を慰霊するためにも、陣馬の子孫、親戚、一揆の関係者の子孫のためにも必要だったのかもしれない。

しかし、真相は薮の中だ。この一揆の首謀者たちは一切の申し開きも何もなく、その場で切り捨てられたのだから、首謀者の言葉は何も残っていない。このように、後世の者が、陣馬は一揆を中止しようとした、と判断していいものだろうか、と思う。

徴兵令反対の血税一揆については、「無知な農民たちが、血税の文字をほんとうに血をぬかれるとか、異人に子供の膏(あぶら)を売られると誤解したもので、流言にまどわされて起きた無知蒙昧なる一揆」とかたづけられているが(現在まで、この官の解釈が通用しているが)、はたしてそうか、と思う。史料はほとんど抹殺されている。

山中陣馬はじめ首謀者たちは、みな学識あり、政治に関心ある者ばかりだ。一揆に加わった者の中には流言飛語に」まどわされた人たちもいたかもしれないが、首謀者はちがうだろう。

日本最初の徴兵令反対一揆(徴兵令は明治6年であり、この一揆は先駆的だ)であり、庶民として反対するのは当然であり、反対の声第一号として名誉でさえあるのだが、その主張は抹殺され、無知なるための誤解の一揆とすりかえられたのではないか。

だいたい政府(武士)は農民を無知蒙昧なる輩と見るのが当時の風潮だった。

徴兵令、たしかに、血税だ。その通りではないか。異人に膏を取られる。たしかに、今でも、われわれの税金を異人にわたしているじゃないか。

明治初期の血税一揆、再度、見直さなければならないと思うのだが、ほかの一揆ならともかく、この徴兵令にだけは一切、反対は許されなかった。問答無用だったようだ。

ほんとに血をぬかれる、膏をとられる、当時の農民がほんとにそれを信じて一揆を起こしたなんて解釈、ばかばかしいのではないか。政府と同じ視点に立っているのではないか。庶民を馬鹿にしすぎている。

以上、感想、思いつきで、なんの確証もありません。




吉田のうしおに

2010-08-25 | 日記
いつからか、吉田は宇和島市に合併され、宇和島市吉田町となった。
吉田町で、今でもうしおには出ているのだろうか?と気になっていた。
親の話では、春と秋の八幡様のお祭りに「うしおに」は出ていた、と聞いていた。

だが、ネットで調べても、宇和島のうしおに祭りは出てくるが、吉田のうしおには見つからない。人口が減って、ひょっとしたら、小さな町吉田では、もう「うしおに」は姿を消したのかも、と心配になった。吉田の「うしおに」は宇和島の「うしおに」よりも、毛作りで、立派で、暴れ牛だ、と聞いていたから、もし、そうだったら、残念だ。

そう思って、吉田町に電話をしてみた。「今でも、吉田町でうしおには出るのですか」係の人は若い人で「自分は知らないです。聞いたことがないです」という返事。やっぱり、吉田では出なくなったのだろうか?

「産業振興課の人に聞いてもらったらわかりますが、今日はお休みです」。あ、土曜日だった、と気づいた。電話に出た人は、臨時の番をしていた人かもしれない。吉田の町には詳しくないかもしれない。平日に改めて電話をした。

「今でも秋のお祭りに出ていますよ」とのこと。ああ、よかった、よかった。
今年は(例年なのかもしれないが)、11月3日の祭りに出るそうだ。うしおには1体だけ。

その写真がほしい、と無心したところ、吉田町の観光パンフレットと電話を受けた人が個人で写した「うしおに」の写真を大きく拡大したものを10枚も送ってくれた。感謝です。やっぱり、吉田町の人は親切だ。ありがとうございました。

「うしおに堂」といっても、「うしおに」って何?と聞く人がほとんどで、愛媛の人以外はわからない。で、写真がほしかった。うれしい。

吉田の「うしおに」は吉田の貴重な文化遺産だ。いつかは、自分でも写真をとってみたい。

吉田はとてもいい田舎です。今や、どの地方の田舎にいっても、全国共通のスーパーがあり、風景はどこも同じ。でも、ここは違います。愛媛の穴場かもしれません。吉田藩の陣屋町で、古い町並みが残っています。静かで、ゆるやかな時間が流れています。1度、来なはいや、吉田町。

異常な夏

2010-08-25 | 日記
今年の夏の猛暑は記録的だった。
覚えておきたいので、この日記にも記録しておこうと思う。
ふだんは、日本酒の熱燗党で、ビールはあまり呑まないのだが、今年ほど、ビールがうまい!と思った年はない。はやく秋風が吹いてじっくり熱燗で1杯やりたいのだが・・・。

子供の頃は、夏は暑いといってもせいぜい30度か32,3度で、35度を超すなんてことはなかった。
異常だよ、まったく。しかし、異常なのは気候だけではない。

町から次々消える、商店街、小さなお店、子供。
エンデの「モモ」だったか、「果てしなき物語」だったか、世界を虚無が襲い、次々、自然や人間的なるものが消えていく、という話があったが、あれと同じだ。すごいスピードで大切なものが次々姿を消していく。やばいぞ。

しかし、この猛暑の中でも花が咲く。しかも可憐な白ゆり。白ゆりが夏の花だとは知らなかった。「歩く姿はゆりの花」といわれるくらい、ゆりは、美人の代名詞だ。白ゆりさんもがんばってるから、おれもガンバロウ。

古本 百姓一揆

2010-08-22 | 一揆
うしおに堂の一つの売りが、「一揆もの」だけど、当初は100点近くあったのだが、現在は70点だいにへってしまった。「一揆」の本ばかりは、ブックオフでも古本市でも見つからない。
売れてしまうと、同額かそれ以上の値段でまた古本屋さんから仕入れるしかない。だから、つい高めに価格設定をすることになる。入手が困難なのだ。だいたい、当初から発行部数はわずかで、しかも地方の小出版社が多く、もちろん、求める人もなく、古くなると、ゴミといっっしょにこの世から消えてしまうことも多いのかもしれない。絶滅寸前の本だ。

最近、この入手困難な一揆本をあたらしく手に入れた。

大正15年出版の「戯曲 百姓一揆」 作者は高橋季暉。出版社は昭文堂。1円60銭。
大正15年といえば、公務員の初任給が75円。うな重50銭、ビール42銭。

内容は、文政時代に起きた丹後の大一揆だ。この一揆は、実に波乱に満ちた大ドラマで、丹後史では無視することのできない事件だ。といっても、丹後の人たちのどれだけがこの物語を知っているかわからない。天橋立に向かう途中に大きな義民碑が立っているけど。

戯曲だが、頭取になった水呑百姓新次郎、武芸の達人で一揆に加勢する豪傑神官のほか、家老栗原理右衛門、その息子百助、藩士関川権兵衛など一揆に同情的な武士も登場し、史実、史料をもとに書いている(詳しくは、「徳川百姓一揆叢談」に書かれてある)。

作者はどんな人だろうとネットを使って調べたが、「生年不詳、没年不詳」とあるのみ。さっぱりわからない。ただ、本の扉に「此の一篇を房総半島の一寒村に水呑百姓として一生を終わった亡父正司の霊にささぐ」と書いてあった。

この本には他に短い戯曲ふたつあり、ひとつは(「移住民」)、北海道十勝の開墾場に移住した農民、もうひとつは(「坑夫の歌」)、関東の鉱山で坑内で働く人を主題にしている。

高橋季暉がどんな人でどのように生きた人なのか、なんとなく想像できるようだ。
こうした名もなき人が書き残した一揆の本、ゴミにしてしまってはいけないですね。
一揆の本、なにかあったら、連絡ください。こちら、一揆探索事務所でした(笑)


インチキ易者

2010-08-15 | 日記
食えなくなったら、都会の道に座って、易者になってみよう、と思ったことがある。
忍者や隠密、怪傑黒頭巾がよく変装しているあれだ。
清河八郎の親友安積五郎の父親はこの大道易者だったそうだ。

わたしは、手相はわからないから、もっぱら、タロットか易だ。

タロットはその絵柄が魅力的で、一時、凝ったことがある。
絵柄にはさまざまな不可解な絵が描いてあって、そのカードの絵柄で占う。
ジプシーが占っていたというカードだ。これはやっぱりおっさんがやるより、女性がやるのが似合う。

なんといっても世界最古の占いは、易だろう。これは、孔子も諸葛孔明も大塩平八郎も使っていた。

易の本、いろいろあるけど、本格的で、いかにも学術的にも信頼できそうな中国古典選の「易」がいいと思う。難しい漢字で、意味がわかりにくい。しかし、下手にやさしく解説されるよりも、わかりにくいところが、連想するにはちょうどいい。この本には、コイン(10円玉)で占う方法も書いてあって、役に立つ。

タロットでも易でもそうだけど、占う時には、どうも条件があるようだ。たとえば、結婚するとして、「わたしは、どうしたらいいでしょうか」とか「これからどうなるでしょうか」という問い方では適切な答えは出ない。まず、自分の決断が先だ。「わたしはこうする」「こうしたい」と、自分で決断して、そして、そっと占いの返答を聞く。自分で決断しないような者には神もよいアドバイスは与えない、ということだ。

易の言葉、あるいはタロットの絵柄から判断するのだけど、やはり自我を離れる必要があり、やはり、他人に代わって占ってあげると、よい判断もできるようだ。

この本の「易」、けっこう当たります。テレビの相撲を見ながら、勝敗を勝負の前に次々、占って実験してみたけど、かなりの確立で当たった(笑)。

この本もいずれ、うしおに堂に出します。以上、インチキ易者の講釈おしまい。

画像が左が易の本、右がタロット

小田実さんと8月14日

2010-08-14 | 日記
弁天町の市民学習センターで「小田実さんと8月14日」の集会があると、新聞で知り、山里から都心まで出かけた。小田実は死して後も、わたしを動かす。澤地久枝さんの講演がある、ということもわたしを動かした。

ところが会場に到着してみると、澤地久枝さんは、昨日、急に体調が悪くなり、ドクターストップがかかり入院の可能性もある、ということで、来れなくなった。残念だけど、しかし、やむをえない。無理をしてもらいたくない。澤地さんの講演に代わり、NHKのBSハイで放送した「澤地久枝・昭和に向き合う 声なき声を聞く」を上映した(1時間半)。

これは、8月12日に放送された番組だそうだが、澤地久枝のすべて、といっていいくらい、澤地久枝の人間、仕事をよくまとめている。貧しかった少女時代、密約・2・26事件の妻たち・ミドウエー等の仕事、心臓病・そして講演活動など、澤地久枝の話を交えながら構成したものだ。

会場は120席くらいあって、満席だった。8割は、小田実の世代くらいの年配者、2割くらいがわたしのような若者(笑 みんな自分は若いと思っているにちがいない)。

8月14日は、大阪に大空襲があった日だ。この翌日に戦争は終わる。この14日の戦死者はまったくの無駄死にだった。ポツダム宣言が出され、広島・長崎に原爆が落とされても、国は天皇の安全(国民の安全は問わない)を心配して終戦を決定できない。天皇制の維持の確認ができて(それは8月12日はわかっていた)はじめて終戦を決定する。

小田 実は、この14日に大阪で空襲を体験する。「小田 実」はこの体験から生まれる。書斎にはこの大阪空襲の写真を貼っていたそうだ。

画像は 小田 実のつれあい(同行者)玄順恵さん。

澤地久枝さんの健康回復を祈る。


伊丹 有岡城跡

2010-08-11 | 日記
お盆でどこも車は渋滞。
近場を走ることにした。伊丹。ここなら30分でいける。
前から荒木村重の有岡城跡はどこにあるのだろうと思っていた。
JR伊丹駅のすぐ前にある。何にもない(碑は立っているが)小さな丘だ。黒田官兵衛が閉じ込められていたという牢はどのあたりなのだろう。

駅の近くには村重の位牌を置いているという荒村寺もある。上島鬼貫という俳人の碑がある。

荒木村重は信長に最初に反逆し、家臣、妻子などはみな殺されるが、自分だけは逃げて生き延び、秀吉の時代には茶坊主になる。
このとき、家臣、妻子とともに、自決していたら荒木村重の評価はもっと高かったはず。伊丹市も、戦国の英雄荒木村重をもっと称えたかもしれない。
村重はなぜ生きのびることを選んだのだろう?大塩のように、その後の信長を確かめたかったのだろうか。謎だ。

伊丹市では、有名なのは、荒木村重でも有岡城跡でもなく、もっぱら、伊丹酒だ。「みやのまえ文化の郷」ということで、酒蔵や旧岡田家住宅、旧石橋家住宅など伊丹の酒造りの歴史がわかる施設ができていた。

有料の市営駐車場があるけど、伊丹を見学するには、長寿蔵に車を止め、長寿蔵で1杯ビールを飲んでから散策するか、長寿蔵の前の「ニトリ」の駐車場にとめて、「ニトリ」を見てから見学するのがいいかも。歩いていると、ジャズ喫茶もあった。

愛媛県警 巡査部長 仙波敏郎

2010-08-10 | 日記
愛媛県警の「裏金」を内部告発した元巡査部長仙波敏郎は、今、最も注目されている人かもしれない。阿久根市の市長から副市長になるように頼まれ、現在、市政の改革に乗り出しているところだ。

この人は現代の大塩平八郎、あるいは、現代の草莽の志士ともいうべきか。
優秀な人材なのに、警察の悪事に荷担することを拒否し、定年まで35年間巡査部長。警察からは、さんざんの妨害、いやがらせを受けたようだが、巨悪の組織とたった一人で立ち向かうなんて、すごい人だ。こんな人が現代に、愛媛からあらわれたとは、愛媛人の誇りだ。現代人も捨てたもんじゃない(まあ、まだ、あまり詳しいことは知らないのだが)。

わたしの親父も愛媛県警にいた。30才くらいで辞職した。最初は南予の村の駐在をいくつか回り(その村でわたしが生まれた)、のち、松山の警察学校の教官になって、逮捕術などを教え、部長刑事(巡査部長)もしていた。なんでやめたかは知らない(裏金を拒否したわけではないだろう。給料が安かったためかもしれない。その後、水商売を始めたから)。

ふだんは布袋さんのようなやさしい顔をしているのだが、ふとした時に、刑事の鋭い目つきを見せるときがあって、そんな時は震え上がったものだ。

幼児のころは、本物の拳銃や手錠をさわらせてもらった。「拳銃は当たらない。至近距離でもはずれるものだ」なんて言っていた。畑の肥だめに死体が沈んでいた村の殺人事件も解決したそうだ。深夜の張り込みで、墓場はかえってにぎやかな感じで(死人が話をしているようで)あまり怖くないが、神社はこわい、といっていた。人に語っているのを子供の頃、横からそっと耳にしただけだけど。

警察学校には運動会というのがあり、派手な仮装行列などもあり、見に行ったことがある。また、警察の花見会は松山城でやっていたのを覚えている。

敗戦後の警察は村の人からは「民主警察!」などと声をかけられることもあったそうだ。
その後、サラリーマン(営業マン)になったが、警察には青年期の10年近くを過ごしたせいか、テレビドラマ「七人の刑事」とか刑事ものはよく見ていた。警察をやっていたほうがよかったか、という思いもあったにちがいない。

仙波敏郎が愛媛県警に勤めだしたころ、警察の幹部はおそらく親父と同期の人だったろうと思う。親父が生きていたら、きっと愛媛県警の仙波敏郎の闘いには強い関心をもったはずだと思う。


懺悔 別れの挨拶

2010-08-08 | 日記
東京へ転校したのが小学4年の夏休み。

東京といっても練馬区で畑が多く、遠くには富士山が小さく見えたようなところ。
中学1年までここに住んでいたのだけど、この東京での4年間が、荘太郎の核を育てたように思う。なんといっても最も多感な少年時代だ。近所に遊び仲間は多く(どこでも子供が多かった時代だ)、先生にも恵まれ、本を読み出したのもこの時代からで、それまでは、混沌として目鼻もついていなかった宇宙人だったが、なんとなく人間らしくなったのが、この少年時代だ。原っぱあり、仲間あり、遊ぶ時間はたっぷりで、わたしに限らず、昭和30年代は最も子供が幸せな時代だったはず。楽しい思い出がいっぱいだ。

だが、中学1年の夏、再び、札幌への転校が決まったある日、わたしは、近所の同学年の友達3人の家を訪ね、呼び出し、喧嘩を売ったのだ。まるで刺客。このころ、腕に自信がつきだしたのかも。

近所でよく遊んだ同学年の男は3人いた。もちろん、当時のことだから同学年の子ばかりでなく、年下の子供もひきつれ、いつもグループになって遊ぶ。遊び仲間では、時によって力関係に変化があり、ある時はAが勢力をまし、Bが落ち目になり、また、ある時はCの人気があがり、Aがひっそりとひっこむ、ということはある。しかし、お互い、遊び友達として欠かせない存在だった。

ちょうど転校するころは、わたしが評判を落として落ち目になった頃だったのかもしれない。自分でもよくわけがわからないのだが。

引っ越しの数日前、わたしは、友達の家にいく「○○くーん」と玄関で声をかける。「なんだ?」と顔を出す友達。「ちょっと話がある。出てきてくれる」とわたし。遊びに来たのだろうと思って外に出る友達。人がいないところに連れてきて、こういう。
「おまえを殴る」。喧嘩を売っているのだ。相手はわけがわからない。「な、なんだよ」「いくぞ!」
数分のたたかいのあと、相手はわけわからん、という怒りの顔で家に帰る。
これを同じ日に3人、3回、同じことをした。

その数日後、わたしは東京を去った。
今思うと、ひでーヤツだと自分を思う。友達3人もあとできっと顔を会わせ、「なんだ、あいつは、わけわからんな、いやなヤツだったなあ」という悪印象を永遠に持つことになったにちがいない。飛ぶ鳥、あとをメチャクチャにする、だ。

4年間の大切な友達関係を一瞬に自分からぶちこわす。
こういうことは、その後の人生でもよくあったのだけど、どうも、これはわたしが転校を繰り返す子供であったためかもしれない、つまり、転校生の習性かも、と、いいわけかもしれないが思うのだ(そのわけはまたいづれ)。

あれは、わたしの「別れのあいさつ」だったのだな、と今は思うけど、そんな挨拶ってあるかよ、まったく。恥ずかしい思い出だ(こういうのは、高校、大学までくりかすのだけど)。友達にはひどいことをしてきた男ではある。懺悔。恥ずかしいから、今回は読まないでくれ(笑)





原爆の日 広島の思い出

2010-08-06 | 日記
今日は原爆記念日。

朝、NHKで原爆記念式典の中継を見ていたら、15分くらいで突然中断、「ゲゲゲの女房」に画面が変わった。菅総理の挨拶を中継したら、あとはいいだろう、と判断したのか、NHKの関心のなさ、ジャーナリズム精神の欠如をあらわすものだ。視聴者から苦情の電話が多数あった、ということだが、当然だろう。

ついでに、広島の思い出を。
小学校4年生の1学期間だけ、広島市の「みどり町」というところに住んでいた。この「みどり」、翠町と書くのだろうか。遠くに比治山という山があり、その上の白い建物が原爆病院だと聞かされた記憶がある。家族で、原爆記念館も見学した。子供だったので、ちょっと気分が悪くなった思い出がある。

広島にはあまりいい思い出はない。
片岡千恵蔵の「大菩薩峠」第三部を見たこと、マンガ雑誌「少年」で「鉄人28号」と「鉄腕アトム」に出会ったことくらいか忘れられない思い出か。本なんかは読まなかった。

このころは、学校では、毎日、勉強で、残されていた(残したって、無駄なのに)。色の真っ黒な男の先生だった。国語の方言の学習の時間に、わたしが大阪から転校してきたので、「おまえ、大阪弁を使ってみろ」といわれて、みんなの前で一言大阪弁を使った(大阪だって、一年も住んでいなかったのだが)。授業で当てられたのはこの時だけ。

1学期終業式のとき、わたしが転校することを忘れていたのか、みんなの前では何もいわず(転校をくりかえしてきたが、そういえばどこでもお別れ会なんてやったことがなかった。別にいいけどさ 笑)、あとで学校に来てくれ、と言われた。自転車に乗ってノコノコ出かけると、めんどくさそうに書類を渡され、最後にこう言った。「おまえみたいな成績では、東京なんかではとてもついていけないぞ」(次は東京へ転校だった)。暑い夏、いやーな気持ちになって自転車をこいで家に帰ったことを覚えている(笑)。

お好み焼きの元祖?は広島焼きだけど、あれも原爆と関係すると聞いたことがある。
廃墟の中で、残ったものは、家の「かまど」と女の人だけ(男は戦争でいない)。だれにでもすぐに出来るのが、あのお好み焼きだ。広島の女の人たちが、廃墟の中で、お好み焼きを作り、売り始めた、と。たしかなことはわからないけど。




親父の書き込み 戦争体験

2010-08-02 | 読書
実家で高木俊朗の「焼身」という文庫本を見つけた。高木俊朗の本は希少本なので、これはいいのを見つけたと思ったら、2行、線引きがあり、書き込みがあった。これは親父の本だが、親父はめったに線引きや書き込みはしない人だ。なにを書いてるのだろう、と思った。

1945年6月29日、佐世保市に大きな空襲があった、という部分に線をひき、「海軍世知原分遣隊にて体験する」と書いてある。

もう一つは、8月6日広島に原爆が落とされた、という部分に「海軍加茂衛生学校生徒として体験」とあった。

親父から戦争体験を聞いたことはほとんどない。海軍が好きで、軍国少年のままの思いを持っていた。戦争体験といっても、たった半年ほど訓練うけただけだろうと思っていた。佐世保で、城山三郎と同じ練習生だった、とかもいっていたが、話にホラも多いので、まともには聞いていなかった。広島の原爆を見た。救援にいかされた、ともいっていた。

そうか、親父は、賀茂の海軍衛生学校にいたのか、と今頃、認識した。

晩年は、広島の呉、賀茂などを訪ねるのが夢だといっていた。17,8才ころの最も多感で、また、激動の時代だったので、一番、思い出深い土地だったのかもしれない。なぜ海軍衛生学校へ志願したのだろう。わからない。

戦争が終わって、故郷に帰り、「わたしの非力のため、戦争に負けてしまいました。申し訳ありませんでした」と近所に挨拶回りをしたそうだ。

戦争体験者はもう絶滅寸前。しっかり話を聞くべきだったが、体験者は戦後を生きていくのに精一杯で語る余裕がなく、子供も戦後の現代っ子ということで、親父の話には頭から古いと耳を傾けなかったものなぁ。