虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

インターナショナル

2008-05-31 | 日記
インターナショナルという歌を知ったのは、大学に入ってからだと思う。大学構内の集会で歌っていた場面にいたと思う。「いざ、戦わん、なんとか・・」という歌。その後、社会に出て、労働組合の集会でも、最後に、この歌が歌われる場面にいたこともある。なんでインターナショナルやねん、まるで「日の丸」みたいやないか、と思った。この歌、どういう歌かよく知らなかった。ソビエトかどこかの革命歌かと思っていた。

だいたい、みんなで集まって、歌を歌うようなことは好きでない、というか、面映いと感じるタイプだ。キャンプファイヤーとかサークルで手をつないで歌を歌うなんて大の苦手。いざ戦わん、なんて白々しい、恥ずかしいぜ、照れくさいぜ、と思う(そのくせ、高校時代、フォークダンだけは女の子と手をつなげるので、ひそこかに侵入して喜んでいたようなイヤなヤツなのだが)。

なんで、大学で、労働組合で、インターナショナルを歌うのかよくはわからなかった。

この歌は、パリ・コミューンの中から生まれたことを最近、初めて知った。詩を書いたのは、コミューンの評議員で詩人のウジェーヌ・ポチィエ。1871年、6月(この詩に曲がつけられたのは、ポチィエの死の翌年1888年らしい)。

パリ・コミューンといえば、あのアルチュール・ランボー。この若者もパリ・コミューンに激しく心を動かされ、コミューン敗退後は、詩の筆を絶って放浪の旅に出ることになる。

大仏次郎の「パリ燃ゆ」は今年、新装版で復刊された。若い読者をどれだけ獲得できただろうか、とちょっと知りたい。1冊3000円以上するので、若い人には手は届かないかもしれない。わたしは、昔の古本の「パリ燃ゆ」を3セット持っている。古本屋を開いたら、売りたいと思うからだ。
とはいえ、わたしは、この本、まだ半分しか読了していない。長いので、途中で、他のことに関心をもち、そのうち、前後の内容がわからなくなって、そのままになっている。でも、ただならぬ名作であることは、半分読んだだけでもわかった(いいかげんな男)。

労働組合の集会で「インターナショナル」を歌うのは、やっぱり、よしてほしい、と思う。歌うなら、自分たちで新しい歌を作ってからだ、と思う。とても、歌う気分にはならないけど。

パリ・コミューン。ちょうど、明治維新のころです。



ジェットストリーム

2008-05-25 | 日記
たまにCDで城達也の「ジェットストリムーム」を聞くことがある。イージーリスニングだ。今もFMで続いているそうだが、若いころを思い出す。学生時代、東京東中野の日のまったく当たらない安アパートに住んでいたとき、深夜12時、いつもラジオから「ミスターロンリー」の曲が流れていた。これを聞くと、瞬間で20歳のころに戻れる。大学生だったけど、大学には行かず、バイト(それも警備員ばかり)の毎日で、同じ大学の友達は一人もなかった。さびしいといえばさびしいけど、それでも充実していた日々だった。今も、精神的には、あのころと、ちっとも変わっていない。年輪を重ねるにつれ、成長し、変化する人もいるけど、わたしは、成長できないタイプなのだった。人は20歳のころからはそんなに変わらないよ。

「鉄の男」を見た

2008-05-24 | 映画・テレビ
アンジェイ・ワイダの「鉄の男」をビデオで見た。「大理石の男」以上におもしろかったと記憶していたのだが、やはり映画館の大画面で初めて見た印象とビデオではちがうのか、前作「大理石の男」の方が、作品としてはよい、と思った。なんだ、こんなのだったか、という感想。でも、大理石の男」を見た人は、「鉄の男」も見なくてはならないだろう。

「大理石の男」は、若い女性映画人が、かつて大理石にまでなった労働英雄(レンガ工)の人生をいろいろな人からの取材の中で明らかにしていく物語で、最後は、その労働英雄の息子と出会うところで終わるが、この「鉄の男」はその息子の物語になる(若い女性映画人は、この息子と結婚する)。

前作同様、「鉄の男」も人々にインタビューすることで、その男の姿を明らかにしていく。前作「大理石の男」では、取材していく女性が、しきりにタバコをプカプカふかし、傍若無人に行動する強烈な個性の持ち主だったが、今回は、テレビ局のアル中気味の地味な中年男。グダニスク造船所のスト指導者(鉄の男)を貶め、ストを分裂させるようなレポートをするように上層部から命令される。
学生時代の友人や、母親、その妻(「大理石の男」の女性映画人)などに取材し、その人間像に近づく中で次第に労働者(鉄の男)を理解し、最後は、この男は、上層部に「免職にしてくれ」と電話し、仕事をキャンセルする。

前作の方が取材する側に個性があったので、ぐいぐい物語にひきこむ力があったように思う。

主人公の妻になった女性は、「大理石の男」ではタバコをスパスパ吸っていたが、今回、拘置所の中でもタバコを与えられると、うまそうにスパスパ吸う場面がある。この映画では、タバコがどうも印象に残る。このころは、まだタバコが堂々と吸えたんだなあ、と、涙が出そうに・・・(笑)。劇中、ワレサが出てくるが、これはやりすぎだったのでは。

しかし、今回の「鉄の男」も、ストライキとかビラくばり、とかの労働運動を映画の主題にしたもので、こんな作品は貴重だ。その後のポーランド、最近はちっとも報道されないが、「連帯」はどうなってしまったのだろう。

日本政治裁判史録 昭和篇

2008-05-21 | 読書
日本政治裁判史録 昭和篇 例によって、目次だけのせる。

昭和前編

・通史
・木崎村葬儀
・京都学連事件
・松島遊郭移転事件
・3・15、4・16事件
・天理研究会不敬事件
・山本宣治暗殺事件
・勲章・鉄道疑獄事件
・浜口雄幸狙撃事件
・桜田門外大逆事件
・血盟団事件
・5・15事件
・河上肇事件

昭和 後編
・赤化判事事件
・神兵隊事件
・帝人事件
・第二次大本教事件
・2・26事件
・ひとのみち教団不敬事件
・人民戦線事件
・河合栄治郎事件
・企画院事件
・ゾルゲ事件
・尾崎行雄不敬事件
・横浜事件

この日本政治裁判史録は、毎日出版文化賞をうけたらしい。しかし、こんな本が出ていたのは知らなかった。昭和45年ころに出版されている。背表紙を見ただけでは、法律に関心のある人以外は手にとってみることもしないだろう。一見、専門書、学術書のように見える。しかし、これはおもしろい歴史書である。信頼でき、貴重な史料によって書かれた事件史。しかも、わかりやすい。知られざる名著かもしれない。
編集委員 我妻栄 林茂 辻清明 団藤重光
執筆者  松尾洪也 大島太郎 大島美津子 田中時彦 田宮裕 許四楷 
     小田中聡樹 宮地正人

ネットで探すと、5冊で1500円から2000円で売っている店もある。

鉄の男

2008-05-20 | 日記
最近、オークションを利用することがふえた。
ネット販売は危険なこともあるらしい。知人で、商品(カメラ)を申し込んでお金を振り込んだけど、商品が届かなかったこともあったらしい。知らない人や会社に、住所、電話番号を知らせるのもちょっと不安だ。

でも、あきらめていたような商品が見つかることもよくある。蘇峰の「近世日本国民史」46巻はまだ1万円で出ている。安いと思う。
明治書院版が1冊100円で売っていたので、6冊だけ買った。ちゃんと商品は届いた。古本屋に出ていない本もときどきある。あっと驚くほどの安い値段がついていることもある。

アンジェイ・ワイダ監督の「鉄の男」も出ていたので、申し込んだ。これは、ビデオ屋さんに置いていない。映画館で見たけど、「大理石の男」と共にぜひ持っておきたい、と思ったからだ。鉄工所で働く労働者が一人でストライキをよびかけるビラを配る場面など、実にスリリングだった。政治映画は、サスペンス映画でもある。

「冒険は何もアラビアの砂漠や太平洋上にだけあるのではない。あなたの会社、あなたの家庭、あるいはあなたの恋人、夫の会社にもある。今もしあなたの恋人や夫が労働組合のない会社にいて、彼が組合創立をめざして動いて行こうとしたらなら、あなたはどうするだろうか。」
小田実が「冒険者」について述べた文章の一節だが、こんな言葉を思い出させる映画だ。

ワイダは「鉄の男」を撮ったあと、ポーランドを亡命、そのあとフランス革命の「ダントン」を撮ったが、この「ダントン」はオークションには出ていなかった。
これは見てない。ダントンになっている俳優があまり好きではないのだが・・・。



オークション 

2008-05-17 | 読書
オークションで徳富蘇峰の近世日本国民史46冊が1万円で売り出されている。明治書院版だ。織田信長から幕末の尊王攘夷篇あたりまで。明治書院版は古本ネットでは1冊1000円はするので、これは安い。しかも、希少本になっている朝鮮役の篇もある。この朝鮮役篇3冊だけでも古本ネットでは5000円もする。お得だと思う。おすすめだ。だが、わたしは買わない、買えない(笑)。やはり、1万円を出すのは決意がいる。3000円くらいなら考えるのだけど・・・。もうこずかいはない。本を置くスペースもない。このオークションはあと数時間で終わりだそうだ。

それにしても、古本の価格はかなりの差がある。あの日本政治裁判史録だって、全5冊で1万円から1500円までの幅があった。

最近、新刊屋さんで買ったのは、「リトルキャロ」NHKテキストだけだ。

歯医者

2008-05-10 | 日記
歯が痛んで頬がふくらんでしまった。耐えられなくて、朝一番で近くの歯医者に飛び込んだ。奥歯を抜かれた。おれは、とても拷問には耐えられない。拷問されたら、すぐに何でも白状するだろうと思った。こぶしは自然ににぎりしめ、足先もぐっと直立してしまった。

歯医者さんでは、目はつぶるのが正しいのだろうか。わたしは、いつも目をつぶっているが、人に聞くと目を開けている人もいるという。目を開けてじっとみつめられると、歯医者さんもやりにくいと思うのだが。散髪屋さんでもわたしは、目をつむっている。好きにしてくれ、おまかせする、という意志表示なんだが、歯医者では、小心者と思われるのだろうか。大の男が歯の治療するくらいで、身を固くするのは恥ずかしい、という思いがまだある(みえっぱり)。三国志の関羽だったか、麻酔なしで腕の手術をさせながら平然と碁をうっていた、なんてまねなんてできないな。

食料品高騰の記事をときどき目にする。まだ小さな記事だが、これが大きな問題にならないか心配だ。異常気象、温暖化、不作など自然現象の理由をあげているが、人災にきまっている。農業を葬り去り、教育をこわし、人民が災いを受けることに何の頓着もない今の世界だ、いよいよ食料品に儲けを見込んで、食糧危機を引き起こすのも朝飯前かもしれない。

大井憲太郎

2008-05-06 | 宇和島藩
明治24年大井憲太郎と共に宇和島にやってきた壮士たちの中に、大阪事件に関わりを持った人物が 大井をふくめて4人いる。小久保喜七、山本鹿蔵、伊賀我何人もそうだ。

明治18年自由党大阪事件。よくわからない。
福島事件、高田事件、加波山事件、静岡事件、飯田事件など自由党激化事件の最後のものとして位置ずけることもできるし、一方、自由民権から離れた侵略のお先棒担ぎになっってしまった、と大井憲太郎を非難する評者もいる。

事件は、爆発物をもって朝鮮に渡航する前に大井の仲間が逮捕され(裏切りがある)、事件は未然に終わったのだが、朝鮮の独立党を支援し、清国からの支配から解放し、朝鮮に自由民権社会を実現しようとするものだった。むろん、清国は黙っていない。日本と清国は険悪になり、国民の中に危機感が生まれ、社会刷新の機運が出てくるだろう。その勢いで、専制政府を倒そうとする。こういうものだろうか?なんだか幕末の志士が攘夷行動をして、幕府を弱らせ、その攘夷のエネルギーで幕府を倒そうとした策にも似ている。

大井がこんな計画に同意したのも、自由民権派が弾圧に次ぐ弾圧で、民権派の出口が見つからなかった状況もあるにちがいない。自由党はすでに解党し、秩父事件の翌年の事件だ。

この大阪事件には秩父事件に参加した落合寅市もいる。北村透谷の親友大矢正夫もいる。北村透谷は、その資金集めの参加を求められて断り、運動から離脱してしまう。村野常右衛門もいる。日本で最初の女性革命家といえる福田英子も爆弾運び屋になる。福田英子は、獄中で大井憲太郎に求婚され、その後、離婚、晩年は田中正造のよき援助者になる。
裁判をした大阪控訴院の院長は児島惟謙だ。なかなか興味深い。しかし、真相は今日でもよくわからないらしい。

大井の顔は広い。中江兆民らと親しいのは当然だが、宮崎滔天とも高徳秋水とも会っている。葬儀委員長になったのは、頭山満だ。

ふだんは、貧しい者の味方で、よい男なのだが、酒を飲むと、暴れるらしい。「大井憲太郎などが非常にあばれて皿をこわすこと三百有余、ふすまを壊すこと何十本、というくらいで、なかなか非常なことをやった」「一度酒を飲めば別人のごとくなる」「ごうも傲慢の風あるにあらず、実にたんたんたる愉快の気象をもてる人にて、特に修飾を好まず、また、もっとも腕力を重んず」などの評言もある。
愛人への手紙をまちがえて自分のヨメさんに出したという逸話もたしかこの男だ。
フランス学をやった洋学紳士のはずだが、豪傑君だったのだろう。

大井の死を報じる読売新聞の記事を引用する(大正11年10月17日)

「政界往年の大立物馬城将軍大井憲太郎翁(80)が15日午前11時に死んだ。同じく自由党の三傑といわれた人でも星亨氏のあの英雄的な最期、功なり名をとげたという形の河野広中翁の現在の境遇、それに比べれば、世間からはまったく忘れられて逆境に沈みながら、牛込甘騎町の形ばかりの寓居に数年越しの半身不随の身を病床に横たえ、さびしく死を待っていた翁の晩年こそ真の悲惨の極みである。それでも頭山満翁や森久保作造氏などは旧情をいだいて時々病床を訪れていた。ことに頭山翁はその臨終に立ち合っていたが、「数年越し不自由がちに病床にありながらも死ぬまでごうも不平不満苦悩の状を見せず、まったく安心しきって天命を待つというような覚悟の体を見せていたのはさすがに大井だ」と非常に感動していたということだ」(あとは、その経歴を概説しているが、長くなるので、略)

見出しは、「死んだ馬城将軍 大井憲太郎氏は労働問題の先駆者だ」

葬儀は、東京神田のニコライ堂でおこなわれる。大井は長崎時代に日本で一番古いキリスト教に入信していたそうだ。

大井憲太郎、幕末から大正の普通選挙運動、労働運動にまでつながる実に興味深い人物だが、研究書、人物伝というものは、平野義太郎のものしかないそうだ。もっと多方面から注目されてもよい人物だと思うのだが、この人も抹殺された一人だろう。大井憲太郎の憲は、憲法の憲から自分がつけたもので、日本人で最も早く憲法を大切に考えた一人かもしれない。

画像は、丹波達身寺の、捨てられていた仏像群。本文とは関係なかったね。

市村敏麿41 晩年

2008-05-04 | 宇和島藩
敏麿は、大正7年5月29日、宇和島市須賀通りの家で死亡。80歳。
大正7年に入り、食道癌にかかり、食物摂取が困難となり、漸次、衰弱し、痩せ衰え、5月29日午前4時永眠。葬儀は、5月31日宇和島中間八幡神社官渡部氏により、神式をもって、龍光院市村家墓地に埋葬。
生前の命名。

天籟梓園厳鉾言別彦命(アマツブエアズサソノイカシボココトワケヒコノミコト)

墓にはこの文字だけ刻まれている。

晩年、30年近く生きたわけだが、敏麿が何をして生活していたかはまったくわからない。赤貧あらうがごとき極貧の生活をしていたことはたしかなようだ。藩士時代に殿様から拝領した着物も、庄屋時代に先祖から代々伝わってきた財産も、家屋敷、土地も、すべて無役地裁判闘争に投入した。

「敏麿の面影」では、敏麿の長男田中操氏のこんな記述がある。

「ちなみに、小生、医学に志し、大正元年8月下旬、初めて東上せる際には、父敏麿より、大井憲太郎氏へあてたる依頼状を持って当時東京牛込箪笥町に居住せられしを訪ねて行きましたが、老齢にて世話も難きにつきとて、弟子であった当時政友会代議士小久保喜七氏の依頼状を貰い、四谷の宅へ訪ね行き、いろいろお世話になりました。小久保氏は役地事件にて大井氏と共に宇和島へ来た人で、後には貴族院勅撰議員となり政友会の長老になりました」

大正までつきあいのあった大井憲太郎も大正11年に貧窮のうちに死亡。このころは、大井も世間からすっかり忘れられた存在になっている。

「敏麿の面影」の付録の中に、熊本県在住の大野通夫氏から手紙があり、こんなエピソードを書いている。

「父につれられ翁の落魄した陋屋を訪ねたとき、声は朗らかで、明瞭、大志に生きるという感じだった。「貧乏はしているが、甘藷さえ食っていれば立派に生きていけるから結構なものだよ」呵呵大笑されたのが、印象深い」

裁判闘争に敗れ、貧窮の暮らしをしながらも、自分の生き方にいささかの後悔もしなかったようだ。

画像は大正7年5月16日午後5時撮影。老病が癒えざるを悟り、記念として自宅で撮影させたようだ。この13日後に亡くなる。自分の死期を知り、袴羽織を着て最後の写真をとらせるとは、なんと覚悟のできた人ではないか。草莽としての人生を貫き通したといえる。

以上、「市村敏麿の面影」から、その生涯をおおざっぱにメモしてみた。裁判内容など、他の史料などもまだあるようで、わからないこと探索しなければならないことはまだまだある。これからも、おりにふれ、わかったことや気のついたことは、随時、メモすることにして、とりあえず、ここらで一度、おやすみします。

市村敏麿40 無役地事件判決書

2008-05-03 | 宇和島藩
「市村敏麿の面影」では、大井憲太郎が宇和島にきた文章をのせたあと、谷本市郎氏が保管していた無役地事件判決書をのせている。これは明治25年、大阪控訴院の棄却の判決だ。

控訴人 愛媛県東宇和郡中川村大字清沢70番戸
    平民 宇都宮伊八外32人

    右訴訟代理人 大井憲太郎 辻村友之

被控訴人 愛媛県東宇和郡中川村大字清沢11番戸
    平民 農  辻 隆市
    右訴訟代理人  清水新三 柿崎鉄吾


右当事者間の本年一部の㈹2号焼く棒地返還要求の控訴事件につき、当控訴院に判決すること左のごとし。

本件控訴は、これを棄却す。訴訟費用は控訴人において負担すべし。
控訴人は第一審と同一の事実を陳述し、第一審裁判全部を廃棄して、控訴人請求の地所反別2町2畝19歩を被控訴人より返還すべしとの判決あらんことを申し立てたり。被控訴人は、第一審と同一の事実を陳述し、かつ追加乙第48号証を提出し、庄屋転村は売買に出たるものにして、官吏転勤のごときものと同一視すべからずとのことを証し、第一審判決全部を認可し棄却あらんことを申し立てたり。」

理由 

全部書き写すのもめんどうだし、裁判内容そのものについては、また調べて改めて詳しく書いてみるつもりなので、今はカットする。要するに、裁判所の言い分は、村民の共有地である証拠がなく、庄屋役地は、藩主が新たに与えたものだ、というものだ。毎回、同じ理由だ。

「以上、説明のほか、数多の論述、および挙証ありといえども、みな枝葉にして本訴を断ずるに適切ならざるものと認めるをもって、いちいち説明を与えず、右の理由なるをもって、本件控訴は、民事訴訟法第424条により、棄却するものとする。

大阪控訴院民事第一部裁判長
          判事 海野 勤
          判事 一賀 道友
          判事 伊藤 景直
          判事 蔦葉 正道
          判事 甲山 辰治郎         」

無役地闘争は、この裁判のあとは後退していくが、しかし、明治33年あたりまで裁判は続けられたようだ。その裁判に市村敏麿が関わったかどうかはわからない。おそらく、敏麿もこの明治25年で、闘争の一線は退いたにちがいない。闘争にたずさわること、約20年、敏麿も55歳。当時では老齢になる。



映画「アイアム レジェンド」

2008-05-03 | 映画・テレビ
息子がDYDを借りていたので、見た。

やはり、原作とはちがう。
原作は、まわりが吸血鬼だらけになり、たった一人正常な人間である主人公は日中は、眠っている吸血鬼にくいをうちこみに町を歩き、日が没すると、隠れ家に帰る、という吸血鬼との戦いの日々をくりかえす。

たしか、犬といっしょだったのは同じで、ついに女性と出会うのも同じだが、原作では、この女性は敵側(吸血鬼)から派遣された者だったと記憶している。なにせ大昔でよくおぼえていないのだが、最後は、吸血鬼側に投降することになり、収容所に監禁される運命になる。まわりすべてが吸血鬼になってしまうと、正常な人間である自分がいまや異常な化け物と見られていることを主人公は知る。そして「おれはいまや、伝説の男になったのだ」と言うが、この伝説の男とは、吸血鬼をさす、と思っていた。

ところが、映画では、伝染病を退治するために命を捨てて人類を救ったとして、「伝説の男」になった、と後にいわれた、ということだ。まったく違うなあ。おもろない。

それにしても、なんで題名は、「アイマムレジェンド」なんだ?英語のタイトルそのまんま。いつから洋画は英語の題名をそのまま使うようになったのだろう。

さてと、今夜はやっぱり「椿三十郎」を見てしまうだろうなあ。

市村敏麿39 大井憲太郎

2008-05-03 | 宇和島藩
大井憲太郎は、当時、時の人だった。自由党は、士族、豪農層が中心メンバーとなるが、大井は、富裕層ではなく、平民、庶民、貧困層に運動をよびかけ、いわば、自由党の左派の中心的人物だった。明治19年には、「時事要論」で土地を平均に国民に与えよ、と説き、後年には、土地国有論を唱えている。農民、労働者の問題に目をつけ、社会問題を論じた先駆者といえる。でも、社会主義者ではない。なんといっても天保生まれなのだ。そこまではいけないだろう。もっとおそく生まれていたら、なっていたかもしれないが。

明治18年、自由党が弾圧される中で、起死回生の策として朝鮮での改革を企図して投獄される(大阪事件)が、憲法発布の大赦で明治22年に出獄したときは、人々に英雄として大歓迎されたという。

天保14年(敏麿の4つ下)大分生まれ。長崎で蘭学を学び、江戸の開成所でフランス学を学ぶ。江藤新平は民法をフランス法から翻訳させたが、大井もその下でフランスの法律書を次々に翻訳する。明治14年、代言人なり、自由党が結党されるや入党、常議員となる。関東地方での勢威は他を圧倒するものだったようだ。加波山事件などの弁護をする。いろいろ興味深い話はあるが、長くなるので、このへんで。

「無役地事件一夜説」によると、明治24年4月敏麿は、大井の代理として、大阪代言人事務所長東京組合代言人辻村基之氏と京都市在住島根県人菅龍貫氏を宇和島に連れて帰る。予備調査のために二人は来たのだろう。二人とも、当時は人に知られた人物のようで、「一夜説」には履歴の説明をしているが、それははぶく。
5月、いよいよ大井憲太郎がきた。大井だけではない。

「辻村基之、官龍貫、小久保喜七、中野徳松、三戸岡市九郎、八下田勝蔵、篠崎有一郎、野田藤太郎、山本鹿蔵、瓜生吉治郎、弓削基、佐々木正善、中野栄太郎等の数氏悠然として来宇せり。続いて東京より有名なる群馬県人伊賀我何人氏も下向せられたり。

大井氏一行到着せらるるや、当日は雨天なりしにもかかわらず、四郡の有志者参集、大いに歓迎敬礼はなはだ鄭重、大旗、小旗をなびかせ、煙花数十本うちあげ、大井馬城氏の広徳を頌賛し、車馬あいつらなり、威風凛々として予て定められたる旅館堀端通旧藩家老桜田氏邸に安着し、爾来、懇親会を開き、来安の忝けなきを表彰す」

大井憲太郎がきたときに打ち上げられた花火。これは無役事件と市村敏麿を飾る最後の花火であったかもしれない。

6月3日をもって、東宇和郡中川村大字清沢人民惣代宇都宮伊八および50余名の代言人として大井憲太郎および辻村基之氏より役俸地返還要求事件という訴状を松山地方裁判所宇和島判事谷重安氏へ提出せり」

「市村敏麿の面影」にある「役地事件一夜説」は、判決前に書かれたのか、ここで終わっていて、その後、どうなったかについては書いていない。

むろん、松山地方裁判所は棄却。大阪控訴院にも上告するが、棄却。

画像は明治23年2月 敏麿52歳のときの写真。




小野武夫編「維新農民蜂起譚」

2008-05-03 | 一揆
昭和40年再販の小野武夫編「維新農民蜂起譚」(刀江書院)を古本ネットで安価で手に入れた。これは、小野武夫の「徳川時代百姓一揆叢談」の姉妹編になるもので、維新後の農民一揆談を集めている。「百姓一揆叢談」と同じく堅牢な作りの、600ページを超える重量級の立派な本だ。全部で10篇の一揆、外編として伊予の一揆史料をのせる(むろん、野村騒動あり)。
例によって、目次をのせよう。(おまえは本を手にしても、目次しか読まないのだろう、といわれそうだ。しかり!)

1、三河の僧侶一揆
2、備後の旧知事引き留め騒動
3、土佐の脂取り騒動
4、越後の分水騒動
5、甲斐の大小切騒動
6、日向の佐土原一揆
7、筑前の竹槍騒動
8、越中の小作一揆
9、相州地主の焼打
10、上野の株場騒動
11伊予一揆(外篇)

別篇 維新農民一揆の研究資料

以上だ。

初版が出たのは、昭和4年。