虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

パソコン リカバリー

2009-08-31 | 日記
パソコンがまたおかしくなって、画面が真っ暗になる。
東芝に電話すると、最後の手段はリカバリーするしかないという。
要するに、買ったときの状態で、オフィスやワードなどもCDを使ってあらたにインストールする。パソコンに残っているドキュメント類、文書や画像などはすべて消えてなくなってしまった。ただ、ブログは残っている。ブログに書くことの利点はここにあるな。パソコン内で日記を書いていたら、全部消えてなくなっていたところだ。それにしても、やだやだ。ああ、パソコンは嫌いだ。


それがどうした?ニュースか?

2009-08-29 | 新聞・テレビから
今日の朝日夕刊。

大分県の公立中学校で、夏休み明けの社会科の課題達成度テストで「もし、現在あなたに選挙権があったならば、今度の選挙でどの政党を支持しようと思いますか。その理由も具体的に答えてください」という問題を出したそうだ。採点対象にはしていないそうだが、このどこが問題なんだ?いいじゃないか。

生徒の支持政党を批判したり、教師の支持政党をおしつけたりしたものではないんだろ。選挙は明日だし、生徒に社会の動きに関心を持たせるにはタイムリーだ。これが問題だったら、社会科教師は、時事、政治を教えることはできない。生徒も政治を考えることへの興味をなくすだろう。学校への取材でわかった、と書いているが、だれかの通報を受けて取材したのだろう。朝日は、これを問題視するのかい?

ついでにもうひとつ。その隣に、「投票所の立会人、携帯で野球観戦」の記事。
淡路の投票所の立会人が携帯で高校野球のテレビ中継を数分間、見ていたことがわかった、という。それがどうしたん。市民がいやな気分になり選管に通報したそうだが、選管、または立会人が謝ればすむことで、新聞記者に伝えることか?あるいは、この市民は新聞社にも通報したのだろうか。記者は、選管から、あるいは市民からこういう通報があったとしても、これはニュースだと思うのか?
こんな出来事なら、警察官やお役人、病院、その他どこでもいっぱいあらあな。しかし、個人で解決できることじゃないか。記事にすることではない。いいかげんにしろ。


学力調査

2009-08-28 | 新聞・テレビから
全国学力調査の記事。
1面、そして、2面の時時刻刻、28、29面の全面2ページ。38面の社会面にも。

「小学校は改善、中学低迷」。大阪、中学に課題だって!
何十億もかかってする意味のない学力テスト、そもそも税金の無駄遣いではないか、という議論はどこにもない。

新聞には、二つ問題がのっていたが、いやー、実にくだらぬ。算数の問題はわたしにはさっぱりわからぬが(読むのもいや)、国語は調査資料を見て文を書くもの、正答例が出ていたが、あほくさすぎる。パーセントだけで調査人数も出ていない。わたしなら、無回答の1パーセントを見て文を書くだろう。「この回答者は問題のくだらなさにあえて無回答にしたのであろう。さりとてはの者である」と。

だいたい、この学力調査の問題、全部、公開すべきだ。共通一次とかはいつも新聞に載せているのだから、当然、全部公開すべきだ。どんな問題を出しているのか知る必要がある。人を試すものは、また、試されてしかるべきだ。問題を公表しないのがまずおかしい。

大阪はだめだとかいっているが、子供が聞いたら「ほっといてくれ」だろう。最高の県の平均と最下位の県の平均点も10店くらいの差だ。大阪など、全国平均との差は2~5点くらいのもの、数字にまどわされてはいけんばい。

テストの結果が学力を示すものではなく、学力がその人の知性、教養を示すものではなく、ましてや人格を表すものでないことは子供でも知っていることだ。

この学力テストについては新聞は文部省や知事市町村など役人側の記事ばかりのせ、教師、親、子供から取材をしようとする意図が少しもない。

教育学者の団体、あるいは一個人でもいいけど、この馬鹿な学力テストについて反対する、という声明を出しているところはないのだろうか。出しても新聞は黙殺しているのだろうか。

学力テストで大騒ぎをして学校をある方向に統制していこうとしているのは明らかではないか。

沖縄、最下位だということだが、子供たちは、このテストの馬鹿らしさを見抜いているのかもしれない。こんな形でテストされるなんて屈辱以外のなにものでもないもんな。立派だぞ。



市村62 政治を考えるとは  無役地裁判原告の人々

2009-08-25 | 宇和島藩
最近は、大昔(明治)の一地方のマイナーな話題(無役地裁判)ばかり書いているけど、でも、ほんとの気持ちは、これは一地方の特殊な事件だとは思ってなくて、「人々が政治を考える]、とは、こういうことではないのか、という思いで書いている。

生活者である人々が政治を考えるとしたら、それは国会議員やどこかの大臣のように、天下国家を手玉にとったように、国際情勢などを論じることではない、と思っている。民主党ではないけど、政治とは生活だ。自分の生活の中から自分に向かってくる具体的な問題に対処することが、政治を考えることだろう。

となると、たとえば、宇和島藩時代の村民にとって、直接、自分に支配(政治)として見えてくる相手は庄屋の支配であり、年貢だろう。村民が勤皇の志士よろしく、攘夷か開国かなどと論じるのは村民にとっての政治ではない。

しかし、なかなかそうはできない。自分の身の回りのことから政治を考えるのは厄介だ。たとえば、わたしたちが政治を考える、ということは、まず、税金であるべきだろう、何に使われているのか?
会社員ならなぜもっと賃金が得られないのだ?会社とはなんだ?なぜ働き口がないのか?学生ならなぜ授業料が高いのか、なぜテストをするのか?(笑、よい例が思い浮かばん)などなど個別具体的な問題はたくさんあるのだけど、それを追求するのはしんどい。

それになによりも、そういうことを考えることは、政治を考えることではなく、そういう方向に思考がむかうのは、それは謀叛人、お上にさからうおかしなヤツという風に思わせられてきた。

ちょっと無駄口が過ぎたな(笑)。
明治初期の宇和島人民の無役地裁判は、お上の決めた処置に対しておかしい、と異議を唱えたもので、これこそ、人々が政治を考えるほんらいの姿ではないか、と思う。

宇和島にかつてこのような人々の闘いがあった。そしてそのような人々の存在は忘れられてしまった。

その人々は決して小野武夫が書いていたような無知な農民ではなく、人権が認められた明治日本において、人民がその権利を主張した最初の闘いであり、むしろ宇和島人の名誉になるものだろう。名前を再度、書いておきたいと思う。たくさんいたはずだが、ここでは、明治15年宇和島裁判所に訴え、明治24年、大井憲太郎を迎えるまで10年以上も闘争に参加した人々の名前。一部だけ。

東宇和郡横林村(今の野村町)
  向 初治、中野平八、
北宇和郡保田村(今の宇和島市)
  京下官吾、入江徳三郎、岡田武三郎
北宇和郡清水村(今の広見町)
  末広寅吉

士族で、旧藩庁にいた人で市村を支援していた人もいる。

鈴木重雄(この人は旧藩庁で民政局の仕事をし、この人の出した書類を裁判の証拠書類にもしている)。
市原匡勉(この人は敏麿の長女を妻にしている)。

長谷村では萩尾家(萩尾忠七、伊予太郎、倉茂、基吉とかこの性が多いようだ)。
きりがないから、他にもいるけど、やめとこう。

この人たちの子孫は今も宇和島にいるのだろうか?そして先祖のたたかいについてどう思っているのだろうか?
でも、まず、宇和島にはもう住んでいないのかもしれませんね。

庄屋だった人の方は土地があるだけにまだ現地に家が続いているかもしれません。








市村敏麿61 宇和島の政財官界を占めた庄屋群像

2009-08-24 | 宇和島藩
以前、無役地裁判の被告になった牧野純蔵は衆議院議員になった、と書いたけど、衆議院議員になったのは牧野だけではない。無役地事件の被告になった庄屋側は宇和島では有力者として地域住民の上に君臨する。

別に庄屋側が被告だから悪くて、原告側に正義があったというつもりはない。
被告側にも言い分はあるはずだ。ただ、被告、庄屋側は資産家であり、原告側はそうではない。大きな格差があった。今風にいえば金持ちと貧困層の対立。それは江戸時代から続く。庄屋階級は圧倒的な権力と富をもって農民に対してきた。その基盤となったのが無役地。

なにしろ何町という広い田畑を持ち、その耕作も農民にさせる。明治3年の野村騒動は、その庄屋への不満が爆発したもので、そのために藩庁は庄屋役を廃止し、庄屋の無役地を取り上げるという処置に出た。その無役地を再び庄屋に返還したことで、この裁判は始まった。

だからこそ、宇和島では、抹殺された歴史は無役地事件だけでなく、この野村騒動もタブーになったのだ、と思うのだが、どうだろうか。野村騒動を明らかにすれば庄屋の実態がわかる。

無役地事件の被告、被告の代理人、代言人になった人をあげてみよう。

別宮周三郎(明治16年大阪控訴院被告) 県会議員、衆議院議員
玉井安蔵(明治16年大阪控訴院被告) 衆議院議員
清水静十郎   庄屋同志の結社の集会をこんも清水宅で開く 衆議院議員
清水新三(明治24年大井憲太郎の大阪控訴院で訴訟代理人)県会議員
都築温太郎(最初の裁判被告) 県会議員 

当時、衆議院議員になる、ということは、相当の資産がなければ不可能だ。

被告になっているわけではないが、裁判に積極的に協力したと思われる人、これは多数だけど、

緒方睦郎(緒方惟貞の子供)  県会議員
都築 温  (旧宇和島藩士  宇和島三功臣の一人)   郡長
竹場好明  (旧宇和島藩士 )         郡長
末広鉄腸(都築 温の弟)衆議院議員 朝野新聞で原告側を非難。
緒方惟貞(野村の大庄屋。田畑山林260町余所持していたという)
児島惟謙はこの緒方惟貞の親戚になり、惟貞の世話になったようだ。名前の惟ももらったのだろうか。土居通夫もこの人に世話になる。今でも、地元には「緒方惟貞」という銘柄の酒も売っているそうだ。

土居 完(被告に名前あり 戸長)

まだまだ調べはぜんぜんついていないけど(調べたらたくさんいると思う)、戸長などは旧庄屋がなることが多いし、宇和地方のいわゆるボスは旧庄屋側といってよいでしょう。
それでなくても、宇和島の庄屋たちは江戸時代から、血縁での結び付きも網の目のようにはりめぐらされ、その結束はとても強かったはず。村の若衆宿にも庄屋の子供は入らなかったそうで、庄屋とふつうの農民とは判然と区別されていたそうだ。
旧庄屋たちは無役地の資産をもとに銀行や紡績業など産業ブルジョワジーになり、あるいは政界官界で大きな発言力をもっていく。

こういう地域の中で無役地裁判に訴えるということはまさに虎の尾を踏むような行動。裁判ののち、訴えた農民たちは馬鹿にされ、さげすまされ、また村にいられなくなった者もいたということだが、その志は壮とすべきで(今、だれがこんな勇気をもつか)、名前を書きとめておきたいくらいだ。

映画「20才の原点」

2009-08-24 | 映画・テレビ
ケーブルテレビで高野悦子の「二十才の原点」の映画をやっていた。わたしのテレビでは見られないので、人に録画してもらった。

今日、見たけど、つまらねえ!

脚本、監督が悪い。キャストも悪い。主役の角ゆり子はまあまあがんばってはいたが。(この人、もう女優をやめたらしい)

「二十歳の原点」という本はいわば心の中の秘密、もやもやを自分でもわからないまま書き綴った日記、だからこそ、恥ずかしい青春の日記なのだが、それを映画の中でおおっぴらに読みあげられるとは、彼女もきっといやだろうと思う。

彼女がタバコをすううとき、マッチをすっていた。そうだ。この時代にはまだ百円ライターはなかったのだ。彼女の本箱に小田実の「現代史」が並べてあった。このへんがちょっとなつかしいかな、という気がするくらい。

彼女は大学の授業料を払わない。(お金はあるのだけど払わない)。くだらない大学に授業料を払う必要を認めないのだ。これはよくわかる。大学をやめればよかったのだ。やめた人はたくさんいる。

でも、この時代、あれほど大学が荒廃し、だれもが大学の学問に期待を持たなかったとき、するすると大学院にいき、大学教授への道をすすんだ者たちがいる。そして、きっとアメリカ留学もしたにちがいない。それが近頃はやりの大学教授なのだ。ろくなもんであろうはずがないではないか(笑)。1968年からの問いかけは今日にまで続いているのは明らかだ。

伊予宇和島独案内

2009-08-23 | 宇和島藩
図書館に「宇和島」の本が少なかったので、国立国会図書館のHPを見てみた。
さすが、近代史文庫などの史料がずらっと並んでいる。でも、所蔵は東京で、関西館にはないらしい(関西館も行ったことがないけど)。

近代デジタルライブラリーを見てみる。ここは、史料を画面で見ることができる。
ここにもいいのが見つかった。「北宇和郡誌」。
大正6年に愛媛教育協会が出したそうだが、井関や告森、林などの旧藩士が書いたもののようだ。これは宇和島藩についての1級の史料だろう。人物編もあって、宇和島藩士についてもかなり詳しそうだ。いつか読んでみよう。

もうひとつ、「伊予宇和島独案内」、明治24年9月発行。筆者は藤井南陽。
この中に短いけど、無役地裁判の記述を見つけた。

「明治24年6月、大井憲太郎、小久保喜七、旧庄屋無役地事件にて宇和裁判所に訴訟を起こせり。蓋し、維新前、旧里正と人民の間の田地納税の事件、数年解けず、これを訴えるも利あらず、今また、再燃す。市村秀麻呂を首としこれを主張しよってこの訴訟あり」という文字が読める。

新聞をのぞけば、無役地事件を報じた最初の本ではないだろうか。
しかし、ネットでこんな史料が読めるなんて、便利になったなあ。

宇和島の歴史はどうなってる?

2009-08-23 | 宇和島藩
リクエストしていた宇和島市誌(上下)、取り寄せた、という連絡を受けたので図書館にいく。大阪府立から取り寄せたもので、館外貸し出しはできない。館内で閲覧し、必要なところはコピーしようとはりきって出かけたのだが、がっかりだ。

分厚い上下2冊を机に運んで、本を開けるが、ペラペラとページをめくり約2分で、返却。「もういいんですか」「はい、ありがとうございました」。

コピーをするところもなかった。市誌ということで、明治以降から現代までで、藩政時代のことが書かれていないのはしかたがないが、それにしても内容がまるで市制案内みたいなのもので、つまらない。だれが書いたのだ?と編集委員を見ると、助役さんとか市役所関係のえらいさんの名前がずらり。

これでは、宇和島の歴史は勉強できないよ。もう1冊リクエストしていた「宇和郡の民俗」は貸し出しができるので、持って帰ったが、こちらの方がまだまし。しかし、これも昭和36年に出版されたもので、学者の調査報告書みたいなものでおもしろいものではない。

大阪府立図書館のHPで「宇和島」で本を検索してみると、35件しかでない。その中から選んだものが、今回の本なのだ。

宇和島市立図書館のHPで「宇和島藩」で検索してみた。さすが126件でた。だが、ほとんど、伊予史談とか研究史料で貸し出しは不可で、一般向きの宇和島の歴史を書いた概説書はない。宇和島市立図書館に出かけたとしてもあまり役には立たないようだ。

これでいいのだろうか。意外な気がする。宇和島は、四国の端のあまり広くない土地(それも山国)だとはいえ、藤原純友をはじめ、伊達宗城、山家騒動、武左衛門一揆、高野長英、村田蔵六などなど、豊かで奥深い歴史を秘めた土地だ。宇和島を旅すると、宇和島人はぜったい歴史が好きだろうな、と感じていたのに。それなのに、宇和島の歴史を書いた市史すらもないのだろうか。(あるのだったら、教えてほしい)


変だなあ 考えすぎ?

2009-08-22 | 日記
テレビでは酒井法子の報道ばかり。同じ覚せい剤違反の押尾学の事件はあまり報道していないように思えるのだが、これは変。

押野の方は女性が一人死んでいる。こちらの方が大事件だろう。芸能界の方で圧力がかかっているのではなかろうか。警視総監が芸能界に対して異例のお願いをしたのも何かにおう。そこに取引はなかったのか?たとえば押野学事件から大物芸能人が関わっていたとする。その芸能人がたとえば某局の大河ドラマに関わっていたとすれば、なん億円もの製作費が無駄になり、製作中止にもなりかねない。圧力と取引で闇に葬る。妄想か?

気が早いもので期日前投票に行った。
投票所の机の前には立候補者の名前が書いた紙が貼ってあるのだが、民主党の下には、大谷なにがしと、藤木なにがしの名前が。藤木なにがしは幸福実現党だけど、党名はない。本人の名で申請したとかで、党名は書いてないらしい。

これはおかしくはないか。選挙についてよく知らない人は、民主党は二人いるのだ、と思ってしまうのでは。二人いるのなら女性にしとこ、とか(いないだろうか)。
選挙には党名だけで投票所に来て、候補者の名前も知らない人だっているだろう。藤木なにがしを民主党とまちがえて書いてしまう人だっているかもしれない。

これは、そのとき、気がついて係の人に言った。あとで大きな問題にならないようにと親切心からだけど、そのままだろうか。幸福実現党は全国的に立候補しているが、どこでも同じように党名がないのなら、勘違いで名前を書く人もいるかもしれない。わたしの考えすぎで、そんな心配はないのだったらいいけど。

裁判員審査は明日からだって。チェ、また、明日いかなければならないのかよ。二人にはぜったい×をつけなくては、と思っているから必ずいく。

市村敏麿60 メモ 横林村庄屋大野正盛について

2009-08-20 | 宇和島藩
以前、無役地事件の被告予子林村庄屋大野常一郎の父は大野正敬(市村に示談を申し込む人物)で、その父は大野正盛ではないか、と書いたけど、やはりそうだったので、ここにメモしておきます。

西園寺源透は、大野正盛の養子になった大野金十郎正武の子供になる。

ところで、孫の西園寺源透が「偉人だ」として小冊子に伝を書いた大野正盛だが、やはり、この人も庄屋時代、市村敏麿と関係あります。いやあ、宇和島藩も狭い。

谷本市郎が残した「市村敏麿伝」の庄屋時代のこととして、次の文章があります。

「横林村庄屋大野三郎右衛門に対し、百姓不帰腹にてしきりに故障あい続き候につき、代官川名謙蔵説得のため御出張につき、古市雄左衛門、矢野太兵衛、説諭方申しつけられ出張」

大野正盛は世襲の庄屋ではない。
もともとは貧しい境遇で、若党、つまり中間ともいわれる短期雇用派遣労働者みたいなもので、藩士の臨時下男役として江戸や大坂にもいったことがあるようだ。

ある時、梶田長門という宇和島藩士のお供で大坂に出たとき、主人の梶田が大病にかかり、日夜看病に尽くしたので、主人に感激され、主人から四書の素読を教わり、それから文字に明るくなったとか。

江戸にも4年ほど若党として勤め、15両をため、故郷に帰る。この金で母親といっしょに西国霊場など神社仏閣巡りの旅に出る。この旅の目的は追放刑になった兄を捜す旅でもあったようだが、兄は見つからず。

21歳のとき、大坂に出て袋物の仕立ての修業をし、27歳で宇和島に店を出す。店は繁盛したようで、金を貯め、31歳のときに、川内村庄屋家督を買取り、庄屋になる。33歳で養子を迎え、37歳で家督を養子に譲って引退。48歳のときには横林村の庄屋家督を買って庄屋になる。慶応4年66歳でなくなる。正敬が後を継ぐ。

以上は、正盛の孫の西園寺源透の「運魂鈍」による。
しかし、庄屋というのは、農業を知らなくてもできるのか、とちょっと驚き。この人は商売人だったはずだ。江戸や大坂で働き、おそらく計数に明るく、にかなり世慣れてはいたのだろう。当時の宇和島の庄屋は、農というより商売人、実業家が多かったそうだから、珍しくはないのかもしれない。でも、山奥の庄屋が勤まっただろうか。

横林村(今の野村町)は山国で、博徒や怠け者が多く、郡内屈指の難治の村、また貧窮の村などといっているが、村民からすれば文句をいいたいところがたくさんあった庄屋にちがいない。大野正盛庄屋に対してしきりに村民が抗議したようだ。


さて、西園寺源透という人は、愛媛の偉人、先覚者の一人だそうだ。
元治元年川内村の大野正武の長男に生まれ、明治4年に西園寺家の養子に。
村長、郡長などを勤め、明治25年には県会議員。おそらく無役地裁判では庄屋側として農民の運動に反対した人だろう。
明治41年には松山に移住し、大正9年、伊予史談会を設立。
昭和22年、84歳で亡くなる。

愛媛県立図書館も宇和島市立図書館も「無役地」とか「野村騒動」で検索しても何も見つからず、宇和4郡の無役地裁判闘争が今なお地元愛媛でも宇和島でも知られることがないのは、この人の力があったのだろうか。


明治24年行政裁判所

2009-08-15 | 宇和島藩
さて、行政裁判所の第1回審問は明治24年6月13日。
出廷者 原告 萩尾伊代太郎、前野勝三郎、熊谷栄蔵。
    被告 愛媛県属近藤義次、山田喜代次
裁判長 槙村正直
評定官 本田親雄ほか4名
書記  石田轍郎

行政裁判所長官槙村正直について。

近代史文庫の「無役地事件」史料には行政裁判所長官として植村正直、と書いていますが、これは槙村(まきむら)正直の書き間違いでしょう。

槙村正直、長州藩士です。天保5年生まれ。桂小五郎の子分格?京都府知事になり、「小野組転籍問題」(?)とかで江藤新平から厳しく追及されたとか(くわしいことは知りません)。明治29年63歳で没。明治24年は58歳。

被告の愛媛県知事勝間田稔。天保13年生まれ。この人も長州藩士。戊辰戦争にも従軍した経験あり。伊藤博文の下で内務省に勤務し、明治18年には愛知県知事。さすが長州閥、このころはあちこちのえらいさんになっています。

元長州藩士が裁判長で、被告も同じ長州藩士、この勝負、最初から決まっていたかもしれません。

なお、行政裁判所は、東京にひとつしかなかったそうな。


(裁判長)今から審問を始める。原告はまず申し立てをしなさい。
(原告代人前野) 被告愛媛県知事のなした旧村吏役料地の処分取り消しを請求するものです。

(萩尾)  庄屋家督の由来をのべ、旧藩は無役地を4分6分に分け、6分をひきあげるが、県になって、無役地のすべてを庄屋の私有にしたことは違法だと訴えるが、長いので省略。
(裁判長)  被告は原告の申し立てに対して陳述すべきことがあればいいなさい。
(近藤) 明治5年に土地所有権は確定しています。それ以前は領主が地主であり、人民は小作人に過ぎません。所有権はありません。しかも無役地は庄屋の私有地であります。その理由は庄屋は世襲で、庄屋の相続人が幼少のときは、他村の庄屋が後見をし、無役地から得られる所得は幼者の所得とします。県庁の処分は不当ではありません。原告の請求を棄却されるように願います。
(裁判長)原告は被告の答弁に申し立てすることがあればいいなさい。
(萩尾)被告の答弁書はすべて嘘です(被告は審問の前に答弁書を出している)。
人民は、県庁の処分になんの不服も申し立てなかった、とありますが、決してそのようなことはありません。人民が苦情を申し立てこと数え切れず、県庁は人民が苦情を起こすごとにこれを捕縛し、これを殺したこともいく人もいます。しかし、人民は命を投げ出して不服をとなえたのです。今の県知事はこの事実を知らないからそんなことをいうのです。また、庄屋は世襲ではありません。幼者の場合、隣村の庄屋が後見人がつとめますが、それは名目のみ、実際は横目が事務をします。
・・・・・

と、まだずっと審問は続けど、吾輩もさすがあきてきた(笑)。「もういい」。無役地事件はちょっと休憩にします。気分転換をしなくちゃ。





近藤義次 県役人の調査報告

2009-08-15 | 宇和島藩
愛媛県の役人近藤義次は無役地事件調査のため宇和島に出張ています。
明治24年4月から行政裁判所で被告愛媛県知事の代理人として出廷していますから、近藤義次にとっても詳細な調査が必要です。

勝間田知事は各宇和郡の郡長に通達を出し、部下近藤義次の便宜をはかるように伝えています。

この近藤義次はできる男だったのでしょう。出張がおわってから長い復命書を出していて、短い間によく調べているのがわかります。また行政裁判所では9回ほどの審問があるのですが、そのたびごとに知事に様子を報告しています。かなり出世をしたのでは。でも知事は転任してしまったら、それまでか?

以下、調査旅行の概要。

7月25日松山を立ち、翌26日宇和島に着。まだこのころは松山ー宇和島間の鉄道はなかったはずだから、足は船でしょうか。松山から宇和島まで1日かかっています。

宇和島には7月30日まで滞在、その間、伊達市所蔵の「弌野載」や「宇和郡旧記」等の藩の史料を借覧。

7月31日、宇和島から卯之町にいき、中川村の旧庄屋の梶原景栄とそこの農民に面会して話を聞く。東宇和郡長山下興作から「藤蔓延年譜」を借りる。

8月1日、卯之町から笠置村の旧庄屋牧野純蔵に会う。ここで「事実をたずね、大いに納得」と書いています。市村敏麿が関係した大阪控訴院の判決状やそのときの証拠物の写しを借りる。その日のうちに八幡浜へ。

八幡浜には8月5日まで滞在。ここでは旧庄屋浅井記博、双岩村旧庄屋清水常記などから持っている古記録を点検。また、宮内村旧庄屋都築温太郎の家にいき、その家に所蔵している古記録を閲覧。組頭からは帳簿類を借りる。宮内村の都築温太郎は無役地事件で最初に訴えられる人です。宇和島では有名な人ではないか?


8月6日八幡浜を出発し、再び宇和島にいたり、8月廿日まで滞在、とある。廿は20日のはずですが、ちょっと長い(10日かな?)。

宇和島では、旧庄屋清家信篤、桜町の玉井安蔵、北宇和郡長竹場好明に会って、話を聞いたり、証拠物を見せてもらったりしている。

玉井安蔵は市村敏麿が控訴した裁判の被告。牧野純蔵につづいて、この人も衆議院議員になり、また土居通夫とともに、宇和島鉄道かなんかの社長となった人です。

宇和郡の旧庄屋さんは無役地の大きな財産を手にしたためか、銀行とか鉄道とか事業に投資した人が多いのだろうか?

8月廿一日、宇和島を発し、廿二日帰庁せり。

この人が書いた報告書では、「不鳴条」という史料(判決では信用しがたい、といわれた史料)について、「これまで排斥されたといえども、これは旧宇和島藩で中見役と称する税吏松江某が編集したもので、記するところは信頼できるに足る」と書いています。

また、判決では昔、洪水があったかどうかわからない、いや、洪水はなかった、とか宣告されたのですが、旧庄屋の都築温太郎たちも、必ずしも洪水がなかったとはいえない、と語ったと、書き、洪水は歴史上の事実ではないか、と報告しています。

さて、次はいよいよ萩尾伊代太郎と近藤義次の対決。行政裁判所です。



萩尾伊代太郎② 無役地

2009-08-15 | 宇和島藩
史料は、物理や化学の教科書を読んでいるような感じ。いや、英文を読む感じか。日本語のはずなのに、よく意味のわからないところがあり、ところどころだけわかるいうような状態。
めんどうなので、各章の一部分だけ適当に紹介。無役地とは何なのかなんとなくわかるかも。

第4条

庄屋の役地を耕作する方法は、村民の中より順番に田植え役、農役など村方の話し合いにより各人の分担を決め、役地を割りつけ、その主要な業務は少しも庄屋の預かるところでなく、みな純然たる村民の負担です。だから、無役地は、一村共有地を代表する1個の法人です。

第5条

当時、徴税法は年貢といわず、御物成と呼びました。半額以上の税率で、負担が重いので、農民は当時、本百姓になるのをいやがりました。

第7条

廃藩置県のあと、突然、庄屋は役料地という理由でこれをひきあげ、後役の給料にあてたのは、すなわち村有地たる確証を示すものです。

第8条

明治5年に庄屋役地は村民に告知せずに保管を命じ、その収益を後役の給料にあてながら、庄屋の住宅に限り、役宅としてこれだけ村に返還したのはどういうわけでしょう。役宅と役地は同じ村有地なのだから、役地も役宅と同様の処置にすべきではないでしょうか。組頭家督は、庄屋役地と同じもので、これは明治7年に村有になっています。

第9条

当宇和4郡に限り、今日まで村民が貧しく、学校も皆無で、教育も低いのは、ひっきょう、祖先において均田の際、各耕地を村内に差し出したからで、庄屋役地も村内から割り出したものです。

第11章

旧庄屋という役義は1カ村の一名主で、村民と同格であり、村内で働く者に代わり、古来、被治者の義務役で、相当の報酬を与えられた一個のやとわれ人で、公民間の用達、周旋役です。だから、位階の点では村民と同じで、平民です。しかし、宇和島藩は、庄屋の給料は村民共有地から作られた米を村民から与えさせ、藩主もまた人民への義務として、村役料にあてる土地は無役地で、雑税を免除しました。庄屋は、当時の村吏であり、庄屋給料も村費である雑税ですから、雑税を産出するこの土地が村有地であることは明白です。

第12章

農民は、知識がなく、働くことの本分に安んじて、社会の交通に暗いため、つい文字のある者を知識人として尊敬する弊風が生まれ、庄屋役ごとき、文筆で生活を依存する村用人に村民は権利を奪われました。庄屋は村役を私物のように世襲とし、領主もまた年貢に害がないので黙認しました。給料も世襲のようになりました。しかし、いったん、事故があって、村役人の資格を失ったときは、同時に世襲であった給料地も村に返還したことは、大名や士族と同じです。庄屋世襲の役料地は村有であることは明らかです。

第13条

明治4年に旧藩主が庄屋役を廃止し、庄屋家督田畑をひきあげた処置は至当であり、6月に4分6分にわけてその4分を庄屋に与えたのは恩恵の情からでたものだと思います。しかし、残りの6分もいつしか庄屋の私物のようになっているのはどうしたわけでしょう。

第14条

庄屋の給料を生んだ無役地は、華士族の知行地にあたる土地と同じですから、庄屋廃止と同時に村内に返還すべきです。

第18章

隣りの藩、松山藩、今治藩でも、その庄屋役地は宇和島藩と同じですが、みな村内に返還し、村有地となっています。当宇和4郡にかぎり理由なく共有地を旧庄屋に渡しているのはどういうわけでしょう。

以上は、明治24年1月に伊代太郎が愛媛県知事勝間田稔に出した伺書。
このあと、伊代太郎は東京の行政裁判所に県知事を被告に訴えます。

当時、庄屋は富裕階級。村人は貧民でした。伊代太郎は100年前の「貧困」村を代表する活動家青年だったのかもしれません。



無役地裁判 萩尾伊予太郎

2009-08-14 | 宇和島藩
明治24年には市村敏麿の裁判闘争とともに、萩尾伊予太郎という青年が総代になって別に裁判闘争をしている。25歳の青年だ。負けてばかりいる市村敏麿の裁判闘争にあきたらなく、自分で闘おうとしたのだろう。伊予太郎という名もおもしろい。

東宇和郡渓筋村長谷の住人。
長谷村の農民15名を代表し、愛媛県知事 勝間田稔を被告にし、行政裁判所に訴える。

近代史文庫の「無役地事件」の史料集は、この萩尾伊予太郎の裁判史料が半分以上を占め、8回の審問調書などもあり、市村敏麿の裁判をよりもこちらの方が詳細。

無役地事件はいま一つよくわからないので、(農民の暮らしを知らないのだから当然だ)、いろいろ読んだら少しは理解も深まるかと思い、この萩尾青年の裁判史料も読んでみることにする。

ところで、原告の萩尾伊予太郎の住んでいる東宇和郡渓筋村長谷とはどこか?

現在の西予市野村町です。市村敏麿が大井憲太郎を代言人にした予子林村も今の野村町になります。あの野村騒動の舞台になったところです。訴訟はここだけでなく、海岸沿いの保内町など宇和郡の各地から起きたのですが、まあ、騒動の震源地といえるかもしれません。グーグルアースで見てもわかるけど、山、山、山。

まず、萩尾伊予太郎が愛媛県知事勝間田稔に出した「旧村吏役料地御処分の義につき伺書」を見てみます。

第一条

そもそも伊予国宇和の四郡は山間僻地で、古来住民少なく、全郡、山でなければ石です。そのため、人々はわずかの耕地をたがやして暮らすも、山の谷地に住んでいるで、水害にあうこともしばしばで、人間らしい生活を願うこともできず、まことに不幸な貧しい土地で生活しています。

寛文六年領内、大洪水があり、田畑反別およそ1万3079町強、村数275の全土の過半が流失、ちょうどそのころ、吉田藩が分封されたので、領高に不足もあって、同10年より検地をし、村浦全部の耕地を平均にし、百姓何人前と定め、すべてを皆、村有地に改正されました。その中から庄屋役料地として特に、十段の法則を設け、村高に応じ、全村の耕地の十分の一を土地を無役地にし(無税にし)、その土地を村民が耕し、作った米を庄屋の給料にしました。

このあと、庄屋無役地の変遷についての記述が続くが、第二条、第三条は省略、第4条から次回に。

ちなみに、この裁判で萩尾青年の相手となったのは、愛媛県知事より代理人として任命された愛媛県属の近藤義次氏。この人は宇和島の無役地事件を調べるために明治24年7月から約1カ月宇和島地方に滞在して調査している。

近藤義次氏は、愛媛県で出世しただろうか。萩尾青年はその後、どうなっただろうか。知りたいものです。


市村敏麿59 明治24年松山地方裁判所 判決

2009-08-12 | 宇和島藩
明治24年松山地方裁判所宇和島支部 判決

この無役地裁判は、いったい、土地はだれのものか、という根本問題まで問うているのが興味深い。ほんとに、土地はだれのものなんだ?

よく、「あの山はわしもの、あの山を売ってお金にした」なんて話を聞くが、土地はみんなのものやろがい!とふつう思う。

判決は、土地はもともと天皇のものである。明治になって天皇の恩寵によって地券を与えられたとき、初めて人民は所有権を得た。それまで人民に所有権はない、と話を始める。その最初の部分だけ紹介します。

               判決

本案件を断じるには、すべからくまず我が国の制度上の沿革から論じなければならない。そもそも、我が国古来の制度である井田法により、その主義とするところは、普天の下、王土にあらざるはなく、率土の浜、王臣にあらざるなしとするにあり。その後、分田の制あり、王家功臣を賞するに、田をもってし、功田、賜田、位田などの名称があるが、いずれも、使用、収益の二つの権利を付与されたにすぎず、その所有権はいぜん王家にあった。

のち、数世を経るにしたがい、皇威が衰え、武家が権力を握るようになり、源頼朝が幕府を開き、総追捕使の名をもって王土を占有し、その部下に土地を分与し、もっぱら処分権を実行し、北條その後を続け、後醍醐帝のとき、これを復讐するが、足利がつぎに起こり、源頼朝の故智にならい、織田豊臣を経て、徳川にいたり300の諸侯を封じ、封建制度を完成、それぞれ各土地の処分権を実行したが、そのことは王家の黙認、もしくは承認があってのもので、所有権を持っていたわけではなく、ただ、その代理で処分をしていたにほかならない。

もちろん、人民にいたっては、一般に四公六民、もしくは五公五民、あるいは六公四民の制度により、ただ小作者に過ぎず、ひそかに相互に土地の売買をしていた所があったとはいえ、その売買は小作権にとどまり、その土地の所有権は持っていなかった。

さて、王政維新のさい、諸侯みな藩籍を奉還し、処分権実行の代理を解かれた。ここにおいて、土地の所有権は名実ともに王家にもどった。

王家は国利民福のため、明治六年第二百七十二号の布告を発し、地所に地価をつけ、地所所有権を人民に恩寵し、同時に、その土地に関する公租その他の義務を負担させるようにした。そして、その恩寵するところの標目は、従来の小作者について各町村の水帳その他小作に関する書類を取り調べ、その地所をその小作者に下付し、これに地券を与えたこと、以上のことは、我が国の今日までの実歴により、皆人の知るところである。すなわち人民が地所所有権を得たのは実にこのときで、すべて王家の恩寵によるものである。

それゆえ、王家の恩寵以前にさかのぼって所有権の有無を争うことはまちがいであり、本訴の地所について原告が被告に返還を請求することも、当然、その権利はない。また、所有権恩寵に関する処分の可否も司法裁判所の判定すべきことではない。しかし、あえて、恩寵である小作権は古来、被告、原告のどちらにあるかを定めるためには、昔を知らねばならず・・・・・。

と、ここまでで、全体の4分の1。このあと、こまかい話にはいっていくが、それは省略。なぜなら、いいかげんつかれてきたから。「もういい」と裁判官にいいたくなったから(笑)