虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

2008-09-28 | 日記
パソコンは回復した。F8を連打することで、システム復旧機能を使える。ひとつ、おぼえた。

急に寒くなった。すっかり秋だ。

新聞、テレビでは、自民と民主の一騎打ちということで、またもや自民か民主かの観客型選挙モードに入っている。前もそうだったではないか?
憲法も、外交も(イラク戦争も防衛も)、教育も不問。
自民党は政権を降りると思うけど、民主党も油断はできねえ。

自民か民主か、といっている間は、どちらにころんでも財界もマスコミもどうってことないとたかをくくっているはずだ。

北御門訳の「アンナ・カレーニナ」を読み始めている。


請求書が送られない怖さ

2008-09-27 | 日記
電話とインターネットをセットにしてEO光ネットを利用しているが、請求書が送られていないことにいまさらながら気がついた。調べると、請求書は送らないそうだ。必要な人はそのように設定してくれ、と書いてある。その設定をしようとすると、くりかえし、もう1度試してください、などと出て、めんどうくさい。

請求書が送られないまま、銀行から勝手にお金が引き落とされていく。考えると怖い。もし、突然、事故などで死亡した場合、だれかが解約手続きをしないと、延々と銀行から勝手にお金を引き落とされる。また、インターネットは入会はいとも簡単だが、解約はやたら面倒にできている。

請求金額はパソコンで見ることができるが、ネットも決して安くない。ただではなかったのだ。請求書くらい送るべきだ。

物語 フランス革命

2008-09-27 | 読書
パソコンがまた故障した。電源を押すと、ウインドウズの最初の画面は映るのだが、そのあとは真っ暗。夜中に息子が勝手にこのパソコンを使ったらしい。終了するとき、「休止状態」にして終わらせたということだが、なぜだろう。やむなく、今、息子のパソコンを使っている。しかし、人のパソコンからでもブログに書くことができるのだ(知らなかった)。

昨日、新聞の広告で安達正勝「物語 フランス革命」(中公新書)が出たのを知ったので、今日、早速、購入した。

「フランス革命」の本なんか久々ではないか。
著者は、文献案内で「日本語で書かれたフランス革命史の中でももっともすぐれていると私は思う」と中公文庫の世界の歴史10桑原武夫編「フランス革命とナポレオン」をあgへていた。日本語で書かれた本では、これ1冊だけしかあげていない。この本は書かれてからすでに半世紀近くたつのではなかろうか。それほど、日本語での優れたフランス革命本は少ないのだろう。

読みやすく、わかりやすいフランス革命通史だ。
現代も、フランス革命はいまだならず、だ。

「ぶった斬ってみろ」 海音寺潮五郎

2008-09-22 | 読書
海音寺潮五郎のこの逸話は知っていたのだが、だれが言った話かわかったので書く。
海音寺潮五郎全集第17巻(武将列伝下)の月報に書かれてあった。
書いた人は井伏鱒二だった。
昭和16年11月、海音寺や井伏ら作家や新聞記者、文化人など約120人がが陸軍徴用で大阪の兵舎に入隊。徴用者心得には、軍刀を持参せよと書いてあったそうで、そのとき、海音寺は、普段着の背中に朱鞘の大刀を佐々木小次郎のように真田紐でぶらさげて現れたそうだ。入隊式のとき、指揮官の訓示が生意気だったらしい。話はこうだ。一部、引用する。

「指揮官の訓示が強引すぎた。宣誓式がすむと壇上に出て、いきなり居丈高にこう云った。「お前たちの生命は、今からこの俺が預かった。ぐずぐず云う者はぶった斬るぞ・・・」すると、徴員たちの誰か一人が、「ぶった斬ってみろ」と大きな声で云った。一同騒然となった。途端に卒倒して医務室に担ぎ込まれる者がいた。「ぶった斬ってみろ」と云ったのは海音寺潮五郎であった。当時、軍人に向かって、しかも自分の直属指揮官に向かって、そんな発言をするのは容易な覚悟ではない。背中の日本刀がそれを発言させたわけでもあるまいが、常識では考えられぬことである。海音寺さんは、戦地に着いてからもずっとそんな態度を崩さなかった。朱鞘の大刀も相変わらず背中にぶら下げていた。自分で納得がいかないと梃子でも動かない人に見えた」

こういう作家は今、いないよなあ。

トルストイ全集

2008-09-21 | 読書
トルストイ全集で一番あたらしいものは昭和40年代後半に出版された河出書房新社の愛蔵決定版トルストイ全集全20巻だろう。その後は、出ていない。しかも、河出書房新社の愛蔵版も今は絶版中で、古本屋では全巻5,6万の値がついている。それより前となると、ネットで出てくるのは、大正やら昭和初期に出された大トルストイ全集。それも全巻はそろっていない。わたしは、以前から、愛蔵版の宗教論(全集の15巻、16巻)がほしいのだが、まったく見つからない(図書館では借りられるのだが)。

海音寺潮五郎は、トルストイを大豪傑だといっていた。そう思う。国家、教会、どんな権威に対しても一人で立ち向かった人だ。しかも、その世の中への疑問、批判は子供のように素朴な目から出発している。たとえば、こうだ。聖書では、キリストは暴力には暴力で対するな、といった。人を裁くな、といった。なぜ、軍隊があるのだ?なぜ裁判所があるのだ?貧しい多数の農民がいて、貴族がいる。これはどういうことだ?こんなことってあるのか?

ふつう、われわれは子供のような素朴な疑問を持っていても、わけ知りの学者から教えられたり、世間一般の理屈をいわれると、すぐ、なるほどそんなものか、とそれ以上追求はしない。憲法9条?理想だよ。攻められたらどうする、とか、革命?社会主義の革命は失敗だったではないか、などといわれると、それ以上、議論は展開しない。ところが、トルストイは違う。自分で考え抜き、相手の欺瞞を破っていく。実に剛毅な精神と強靭な知力の持ち主なのだ。

今こそ、新しいトルストイ全集を出すべきではないのか。トルストイはちっとも古びていないと思うのだが。

DVD「帰らざる日々」

2008-09-21 | 映画・テレビ
レンタル屋さんで山田洋次監督の「母べえ」を借りたが、ついでに藤田敏八監督の「帰らざる日々」も借りた。

昔、見たことがあるのだが、高校時代の苦い青春時代を回想するという話で、けっこう印象に残っていたからだ。監督はすでに故人だが、俳優でもあり、たしかNHKの「腕に覚えあり」でも居酒屋の主人をしていた人ではなかったか。

作家志望で東京のキャバレーで働いている永島敏行に父親の死の知らせが届き、新宿から電車にのって6年ぶりに帰郷するところから始まる。電車の車中で回想は始まる。高校3年生、1972年の夏の話だ。親友役は江藤潤。二人とも当時の青春スターだ。

そうか、舞台は信州飯田だったのか。飯田の夏祭りを背景に苦い青春の日々が描かれる。

アリスの「帰らざる日々」を聞くと、この映画を思い出す。

「母べえ」を見た

2008-09-20 | 日記
レンタル屋さんで山田洋次監督の「母べえ」を借りて見た。
家族愛とかの「母親もの」というのは苦手で、なんで母親ものの映画なんか作るのだろう、と見る前は思っていた。しかし、いい映画だった。

「母親もの」というより、時代を描いた映画なのだ。戦前の自由の空気のない時代を描いたものだが、それは過去の時代というより、今の時代を鋭く撃つ。今の時代からこそ、あの時代を映画にしたんだな、とわかった。ここに描かれている時代は、われわれもあと数年したら経験するのではなかろうか。そうしてはならない。山田監督のメッセージだ。

大阪府の橋下知事が学力テストの結果を見て、「このざまはなんだ」と市ごとの結果公表をせまる。府教育委員会は、はじめは「公表できない」というものの、1日で豹変し、知事の言うことに従い、市町村に公表を要請。市長たちも大半が知事に賛成、新聞によると、「知事、もっと教育介入してほしい」などといいだす始末(だまって聞いていてよいことか?)。テレビでは住民にインタビューして住民の大半も公表に賛成です、などと追従。吹田市長は、「非公表」を宣言したそうだが、新聞では、橋下知事の教育への不当な介入についての正面からの論評はなく、教育学者、教育界からの反論もない(何も言ってないのかもしれないが)。まるで、ファシズムではないのか。「このざまはなんだ」といいたくなる。

教育を変えることは、おそらく橋下知事のはじめからの最重要事項だったはずだ。それが手っ取り早い政治だからだ(昔からそうだ)。学力テストをあげることが目的ではなく、学校を政府の、財界のための下受け機関にするだけ(戦前のように)。しかも、それを保護者と共に地域社会で推進していこうとする。学力テストのあとは、次は国歌や道徳教育などの強要を視野に入れているはずだ。東京都の学校のように。昔の学校や地域社会のように。

今日の朝刊に大阪大空襲の被災者らが集団で国を提訴、という記事があった。こういう運動は、権力者にとっては困るのだ。労働組合はつぶし、大企業の社員はほとんど奴隷社員にしたが、まだまだお上にたてつくよからぬ人間はいる。今日の社説では共産党の機関紙を勤務時間外に配った公務員を有罪にした事件を論じていたが、朝日はその不当に抗議することなく、地裁の考え方を「わからないわけではない」などと書く。

いづれ数年ののち、地域社会の集会に出ても、異論は発言できない空気になっているのではないか。

映画「母べえ」を見て、昔のことじゃない、と思った。
ちなみに母べえの夫は思想犯として治安維持法で牢屋に入れられるが、トルストイの「戦争と平和」を差し入れてほしい、と頼んでいた。夫の恩師(大学教授)は夫の境遇に冷淡で、まるで今のマスコミを代表しているように見えた。浅野忠信が演じるヤマちゃん(父べえの教え子で母べえを支援する)が好演だった。




古本 海音寺潮五郎全集

2008-09-20 | 読書
海音寺潮五郎全集のうち、第五巻の「天と地と」だけはネットの古本市場から長いこと姿を消していたのだが、最近、ネットの「日本の古本屋」を見てみたら、出ていた。やっと手に入れた。500円。海音寺潮五郎全集はだいたい1冊1000円くらいが相場で(一部の数巻は500円のもあるが)、今回、見てみて全巻それぞれが500円で売っていた。お買い得だ。海音寺潮五郎全集は、いかが(笑)。

「復活」雑感

2008-09-17 | 読書
「復活」は結末に聖書を出してきたりして、唐突に終わらせた、という感じをもつ。「え、もう終わりかい」という感想だ。

物語は、まだまだ続きそうで、その後のカチューシャの運命やネフリュードフにも興味を持つのだが。前半はロマンなのに、後半から、社会評論、ルポルタージュの比重が多くなり、ちょっと破格の作品だ。

トルストイは、「復活」の続編、ネフリュードフのその後の人生も書きたかったようだ。トルストイのメモによると、「彼の活動、疲労、目覚める貴族根性、女の誘惑、堕落、失敗・・・」という言葉が書かれ、ネフリュードフのその後の新しい人生も容易ではないようだ。
しかし、トルストイこそが、ネフリュードフのいう自分の霊にしたがって人生をやり直した男、トルストイの人生そのものが、「復活」のその後といえるかもしれない。

カチューシャは、ドストエフスキーやツルゲーネフを読んだ、と本文にある。ことに、ツルゲーネフの「静寂の宿」という作品が好きだったそうだ。どんな作品やろ?

イタリア版の映画「復活」は最後の場面あたりを原作と変えている。あの映画は、かなり原作に忠実に描こうとはしていたが、カチューシャ役の女優がちょっと地味すぎた。原田美枝子に似ているが、16歳のカチューシャを演じるのは苦しい。ネフリュードフ役の男性も魅力がない。ネフリュードフは今でいえば空気を読めない変人なのに、まわりをはらはらさせるような存在感がない。

トルストイの文章には随所にそのまま格言になるような文章があちこちにあるが、一つだけ、メモしておこう。

「人間も川のようなものなのだ。水はどの川でも同じで、どこでもただ一つであるが、どの川も狭くて速かったり、広くて緩やかだったり、澄んでいて冷たかったり、濁っていて暖かだったりする。人間も同様である。各人はその内部に、すべての人間性の萌芽を秘めていて、ある時はある性質、またある時はほかの性質が現われ、しばしば同一人物が、まるで別人の観を呈したりするのである。ある種の人々の場合は、その変化がことのほか激しい。そしてニェフリュードフもそうした種類の人間の一人だった」

今度は、ドストエフスキーをして「完璧」といわしめた小説、「アンナ・カレーニナ」を北御門訳で読んでみたい。



能勢温泉 その他

2008-09-15 | 日記
今日、温泉好きの友人を誘って、能勢温泉にいってきた。10時半ごろに入って、12時くらいに出た。ここは、以前は簡保の湯で、露天風呂はなかったのだが、民営化になり、露天風呂を新たに作り、能勢温泉と名称を変えた。700円。

朝なのに、駐車場に車はもういっぱい。みんな、どこへいくのだろう。お風呂はまあまあすいていた。露天風呂は一つで、そんなに大きくはないが、入ったり、出たり、のんびりできた。昼から雨が降ってきた。午前中のこんな過ごし方もいいぞ。

温泉からの帰り、ビデオ屋に寄り、イタリア製の「復活」を借りた。以前、借りたのだが、「復活」を読んでいるので、もう1度、確かめたくなった。だめですね。原作の10分の1のおもしろさもない。映画ではトルストイのおもしろさはわからない。あたりまえか。

夜、BSで「ベン・ハー」をやっている。今もやっているが、ビデオに録画している。この「ベン・ハー」は今年のBS映画では、最高のものだろう。
初めて見たのは、中学生の時、安い三流映画館で見た。そのスケールの大きさ、波乱万丈のドラマには感動した。映画は洋画だと思った。

「復活」はやはりおもしろい

2008-09-14 | 読書
北御門二郎訳の「復活」、もうすぐ読み終わる。

やはりおもしろい。なぜ、「復活」を何度も読み直しているか、わかった気がした。「戦争と平和」や「アンンア・カレーニナ」より短い(1冊で終わる)。登場人物が他の2作品に比べて少なく(ロシア名はおぼえにくい)、筋も理解しやすい。トルストイの回心後の作品で(トルストイは「戦争と平和」も「アンナ・カレーニナ」も自分で否定した)、前2作品に比べて、国家、社会に対する批判、抗議など革命思想家トルストイの怒り、思想が直裁にわかる。

なかでもすばらしいのはやはり、第一部のネフリュードフ(北御門訳ではニェフリュードフとなっているが)が裁判所でカチューシャを目にし、カチューシャに許しを乞うまでのドラマの流れだ。

「まぎれもなく、それはカチューシャであった。ニェフリュードフとカチューシャの関係は以下のごとくであった」とわずか20ページだが、そこで語られるカチューシャとネフリュードフとの初々しく、そして悲しい恋の描写だ。何度読んでもすごい。感嘆する。この魅力的な20ページで読者はネフリュードフと共に物語を最後まで読もうとする。

第二部は、カチューシャやその他の囚人を助けるために、国の支配階級に属する人々と接触せざるをえず、その特権階級の人々、また、農民や労働者などを描き、裁判制度、国家制度に鋭い筆誅を加える。

第三部は、シベリアへと同伴する中で観察した政治犯(革命家たち)の群像だ。献身的に大衆に奉仕するすばらしい女性革命家たちもいれば、ただやはり権力欲にかられたエリート革命家の存在にまでふれる。人民の意志党、あの「ナロードニキ運動」の志士たちだ。

1を聞いて10を知る、という人がいるが、わたしは10を聞いてやっと1を知るタイプなので、今度、読んではじめて知ったことも少なくない。

あのネフリュードフ。「霊性」(精神世界)と「獣性」(俗物性?)の二つの内部世界を持つ(みんな、そうだろうが)ネフリュードフは常に魂が揺れ動く。

カチューシャの裁判に出る前は、婚約者がいて、人妻との関係をどう解消しようか、などと考えている男。婚約者との結婚を迷っているが、それは、もっといい女性が現れるかもしれない、また、相手は過去に今までも恋愛したことがあるにちがいない。もし、そうだったら、いやだな、なんて考えるヤツ。

カチューシャに会って、赦しを求めようと回心したときも、それは自己満足のためで、カチューシャのためではなく、自分のために涙を流す(すぐに、そういう自分の醜さに気づくのだが)。カチューシャから、「わたしをネタにして自分を救わないで」なんていわれる。「どこの貴族令嬢でも結婚したがっているこのおれが、結婚しようとしてるんだぞ」なんて心の動きもある。実際、カチューシャの救出活動をしているときも、ある貴族婦人から誘惑されそうになったりする。

この作品は10年かかったそうだ。途中で、トルストイは書くのはいやになったそうだ。それは、このネフリュードフをどう書くかでいき詰まったのだと思う。一歩まちがえば自己中心主義、偽善者にもなりかねない。揺れ動く青年。

でも、ネフリュードフはトルストイのいう「霊性」の勝った人で、陽明学ではないけど(笑)、自分の内部の霊性に導かれて行動していく。

ある人々を救うための資金をかせぐためにトルストイは後編を書き始めるが、トルストイの筆はカチューシャとネフリュードフの心理よりも、国家権力の犯罪をネフリュードフの目を通して告発する。それはまるでルポルタージュだ。その告発は、今日でもまったく的を得ている。
「蟹工船」がブームになったそうだが、この「復活」の社会告発は、現代日本にも
あてはまる。「復活」は現代でも危険な傑作だ。

北御門二郎訳「復活」

2008-09-10 | 読書
ブックオフへ寄ったら、東海大学出版会の北御門二郎訳の「復活」「アンナ・カレーニナ」「戦争と平和」(これは上中だけ)がおいてあった。
値段を見ると、1300円。ブックオフなら100円だろう。もし、これに100円の値札をつけていたなら、ブックオフを見直す。1冊1300円はいい値段だ。かなり悩んだ。しかし、めったに出ない本だ。小遣いが残りわずかなので、「復活」の1冊だけ買った。アンナもほしかったけど、あきらめた。アンナはきっと売れてしまうだろう。

北御門二郎は戦前、トルストイに心酔して徴兵拒否を実践した人だ。その訳は頭ではなく、心で訳した、といわれるが読んでみたいと思っていた。トルストイくらいの偉大な小説になると、だれの訳で読んでも感銘は変わらないと思うけど。

「戦争と平和」は何度も挫折しているが、不思議と「復活」だけは何度も読んでいる。「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」と並べると、華やかさ、生命感、躍動感に乏しく、地味で暗そうなはずだけど、なぜか気に入っている。人生をやり直そう、社会を根本から見つめなおそうとする青年の物語だからかもしれない。

画像は当麻寺本堂 

当麻寺 中将姫

2008-09-06 | 日記
当麻寺前の駐車場はお金をとられる(500円)。

拝観料もとられる(本堂・講堂、金堂の中を拝観できる)が、ここまできたら拝観しないわけにはいかない。
本堂には中将姫が蓮糸で織ったとされる曼荼羅が本尊としてかざられている。4メートル四方の曼荼羅。鉄の網でかこってあるので見にくいけど、こんな大きな曼荼羅を見るのは初めて。しかも、これを17歳のとき、一晩で織ったらしい。女性の外国人が一人でこの曼荼羅を拝観していた。

古代、奈良や平安などの知識はまったくなく、またまだ興味も持てないのだけど、この中将姫は継子いじめにあい、この寺に仏門に入ったそうな。29歳のときに浄土から迎えにきたとあるから、29歳で亡くなったのだろう。ここは折口信夫がしばらく滞在していた寺らしく、小説「死者の書」は中将姫をテーマにしたそうだ(読んでいない)。

講堂や金堂にも仏像があり、それぞれ見ごたえがある。本堂の曼荼羅や講堂の仏像もカメラにとりたかったけど、撮影厳禁なのが残念。仏像は少し好きになりかけている。

三重塔も西塔と東塔の二つあり、天平時代の創建当時から現存するのはここだけらしい。いい姿だ。
画像は当麻寺の西塔。
当麻寺から大阪の北摂まで1時間で帰れます。


叡福寺から当麻寺へ

2008-09-06 | 日記
叡福寺(えいふくじ)とは、聖徳太子のお墓がある寺だ。太子町という聖徳太子ゆかりの町にある。近くには、推古天皇の墓や小野妹子の墓、近つ飛鳥博物館などもある。
思ったよりも広かった。駐車場は無料。拝観料もとられない。聖徳太子御廟には宮内庁の文字が。

そのあと、竹内街道を走って当麻寺へ。竹内街道とは、日本最古の国道で、大阪堺と奈良飛鳥を結ぶ道路で、遠くシルクロードともつながる文化伝達の街道だったらしい。司馬遼太郎の「街道をゆく」はたしか「竹内街道」から始まったのではなかったか?司馬も好きな街道にちがいない。

途中、竹内街道資料館というところに寄った。館長さんらしき人物が近寄ってきて、当麻寺にいくならそこに車を置いて石光寺にいき、その石光寺の裏に碑が立っている。その碑は五木寛之の「風の王国」という小説に出てくる。見てみたらいい、と言ってくれた。だいたい、人の話はいつも半分くらいしか理解できない男なので、その碑がなんなのかはわからなかった。

叡福寺から竹内街道を30分ほど走り、竹内峠を越えると奈良の当麻寺だ。近い。
当麻寺に来ると、さすが叡福寺の記憶は消えてしまう(叡福寺もよかったのだけど)。ここは建物だけでなく、曼荼羅、仏像なども見ることができ、さすが有名な当麻寺だ。ここだけで十分。石光寺には寄らなかった。

画像は叡福寺。見てのように、ほとんど人がいない。このブログは画像は1枚しかのせられないのが残念。

「翔ぶが如く」雑感

2008-09-02 | 読書
司馬遼太郎の「翔ぶが如く」を再読している。

読んだことがあるのだが、よくわからないまま終わり、中身も少しも覚えていないからだ。再読しても、さすが司馬遼太郎で、おもしろく読める。そして、わかりやすく書いてくれる。でも、やはりわけのわからなさが残る。

読んでいる時は、司馬一流の、たとえば、・・・といえるかもしれない。・・・といってもよい。・・・のようでもある、・・・といえなくもない、などの魔法の語り口で話を聞かされわかった気になるのだが、読み終わったあとは、魔法がとけたようにわけのわからなさが残る。わたしにとっては、司馬の作品の中で一番、わかりにくい。これ以前の幕末ものの作品はそうではなかった。一人の主人公を強烈に描き出していた。しかし、これは、ちがう。

この作品は司馬の幕末維新ものの総まとめ、総決算でもある。司馬がたくさん描いた志士たち、かれらが幕府を倒したあと、かれらは、そして後の世はどうなったのか、を描いており、この作品以後、司馬は幕末志士や政治家を描くことはやめている。司馬遼太郎のターニングポイントになった作品だろう。

文庫本で全10巻、前半は川路や大久保、西郷についても近距離で描こうとしていたが、後半に入ると、西郷も大久保も遠距離におかれ、前半、かなり詳細に描かれた宮崎八郎も、後半はあっさりと片付けられる。廃藩置県と共に維新の大改革だった地租改正の記述はなく、むろん、明治9年の地租改正一揆はない。7、8、9巻は西南戦争の詳細な推移にページが費やされる(それはそれでおもしろいのだが)。

大久保についても西郷についても宮崎八郎についても最後までわからずじまい。
大久保や川路が西郷暗殺を指令した、という決定的な問題も、わからずじまい。
もし、これを事実としたら、明治政権、いや、その後のこの国の官の根幹に関わる問題になるだろう。大久保政権が薩摩を挑発して戦争を仕掛けた、とはいっているが、西郷暗殺については、司馬は魔法の話術であいまいにする。いや、この作品はわからないところはわからないまま書こうとしていて、その意味で、小説ではなく、歴史読み物だ。

西南戦争時の西郷の記述を読みながら、西郷はすでに暗殺されていたのではなかろうか、あの時の西郷は影武者だったのではないか、と空想したりした。そんな可能性はないだろうか(笑)。

西郷暗殺問題をはっきりしろ、なんてことは明治時代はおろか、その後の歴史学会でもきっとタブーに属する問題にちがいない。
司馬遼太郎は、「翔ぶが如く」以後、変わった、と思っている。

岩波新書の「西南戦争」(小川原正道)は昨年出た本だけど、巻末に参考文献をたくさん挙げているけど、司馬の「翔ぶが如く」はない。徳富蘇峰の近世日本国民史の「西南の役」もあげていない。なぜだ!この二つは西南戦争の最も詳細な読み物ではないか。
画像は、御母衣湖