虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

平民社と山路愛山と清河八郎

2005-05-31 | 歴史
平民社に集う人々は、社会主義者ばかりではない。当時の「社会主義」というのが、一つの理論や主義に固まったものではないので、いろいろな人、しかし、明治で最良のデモクラットが集まった砦のような気がします。

たとえば、田中正造。正造もたびたび平民社を訪れたそうですが、長髪の髻をを結び、黒の綿服に袴をはいた田中正造が姿を現すと、平民社の同人たちは、尊敬の念をこめて慇懃な態度でむかえたそうです。

学生服姿で、頭を油で固めて、大ハイ(大杉ハイカラ)のあだ名をつけられた大杉栄も来れば、画家の竹久夢二も顔をだす。「平民社」との直接間接の関係者を数え上げれば、明治の在野の知識人の半ばを網羅するのではなかろうか。

史論家で、主戦論者で帝国主義者と自称している山路愛山もしばしば訪ね、激論を楽しんだらしい。この山路愛山こそが、清河八郎の文章を集めた「清河八郎遺著」を編纂し、出版したのです。山路愛山は清河八郎の「虎尾の会」をどう思ったのだろう。興味のあるところです。

漱石と「社会主義」

2005-05-30 | 読書
近頃、「社会主義」なんて言葉を使う人はいないかもしれない。テレビなどで使われる場合は、時代遅れ、知恵遅れの対象として冷笑される場合が多いようだ。だいたい、お上の意見に反対することじたい、なんだか悪いことをしているように感じさせられる時代だから。「社会主義」が消えたので、テレビなどでも土地の資産何万坪という資産家がもてはやされ、そのお嬢さん、奥さんがたにあこがれの目を向けた番組がけっこう多いのには驚く。

石川啄木と漱石とは交流があった。啄木は、漱石に、ツルゲーネフの「けむり」を借りにいっている。啄木は社会主義に明日への希望を感じた人だけど、この漱石も、明治最大の、わが国を代表する知識人である漱石も「社会主義」に近い志をもっていた。

漱石は、たしか幕末の志士のような気持ちで文学をやる、とだれかにいったそうだけど、「二百十日」などは、青年が世の金持ち連の腐敗を悲憤する志士的文学だし、「野分」も社会のために志士的に行動しようとする作品だ。漱石は、「坊ちゃん」とこの「二百十日」「野分」が好きだ。
まだ、読んでないのもたくさんあるけど。

さて、この漱石の奥さんが平民社の堺利彦など社会主義者といっしょに電車賃値上げ反対のデモに
でたという新聞記事が出たそうだ(都新聞)。漱石の奥さんはデモには参加してなく誤報なんだけど、この新聞記事を送ってくれた人に漱石は手紙でこう書いているそうです。
「電車の値上げ反対には行列には加らざるも賛成なれば、一向に差し支えなく候。小生もある点において社会主義ゆえ堺枯川氏と同列に加わると新聞に出ても少しも驚かない」

漱石の特権階級嫌いは有名らしくこんな文もあるそうです。
「同時代の人から尊敬されるのは容易である。1、皇族にうまれればよい。2、華族に生まれればよい。3、金持ちに生まれればよい。4、権勢家に生まれればよい。これらになればすぐ尊敬されるのである。しかし、百年の後には誰もこれを尊敬する者はない」

今日、山県有朋のひ孫が「億万長者の女性SP]てので出ていた。100年後でもなんだか尊敬してるような感じだったぞ(笑)

  参考 松尾尊よし「大正デモクラシーの群像」(同時代ライブラリー)

明治の青年 啄木

2005-05-29 | 歴史
「面白きこともなき世を面白く」が高杉晋作の辞世だけど、啄木にも、似たような文章があります。
「「何か面白い事はないか」。そう言って街々を的もなく探し回る代わりに、私はこれから、「どうしたら面白くなるだろう」という事を」、真面目に考えてみたいと思う」(「硝子窓」)
 あまり関係なかったかな(笑)

司馬遼太郎は、高杉晋作が明治後に生まれたら詩人になっていただろうと書いていたけど、わたしは、石川啄木の名が思い浮かびます。

高杉晋作と啄木に共通しているように思うのは、その気品だと思う。
与謝野晶子は、啄木について、「犯し難い気品が備わっていた。貴族趣味の人だと思っている。何の収入もなくて、東京にいたころ、夏になってもまだこの通り自分は袷を着ていますが、その為に昨日、これを1本買ってきましたと言って、白扇を帯から抜いてはたはたと使って見せた」と書いています。

貧乏暮らしだけど、人前では、凛として颯爽としている。周りの人も、啄木のこの魅力にひきつけられ、援助の手をさしのべます。明るく、肩で風をきって歩き、大言壮語する啄木。

啄木というと、小学校の教科書にものっている超有名人で、ただ薄幸な天才詩人というイメージだけで、それ以上知ろうともしなかった。高校のとき、弁当の時間に、隣席の男が啄木詩集を読んでいたので、ますますもって近づきたくなかった(笑)

啄木は、ただの詩人歌人じゃないですね。かれは、新聞人であり、小説家であり、社会に関心を持ち、社会を変えんとした安月給サラリーマンだったのですね。

明治の虎尾の会にも欠かせない青年だなあ、と、はたと気がつきました。
しかし、啄木も最近は宮沢賢治に押されて人気は凋落しているのではないか?
硬派の啄木が復活してほしい。




妙国寺 堺事件

2005-05-28 | 日記
堺の妙国寺にいってくきた。車のナビがつくと、どこでも簡単にいけるのが便利。40分ほどで行けた。

堺事件。慶応4年2月15日。店開きをしたばかりの明治政府が遭遇した外交事件。上陸したフランス水兵と堺警備に当たっていた土佐藩士(妙国寺を駐屯地にしていた)が衝突し、フランス水兵11名に死者が出ます。フランスは賠償金と加害者の処刑を求め、土佐藩士20名が切腹することになりますが、切腹が11人になったところで、切腹は中止になり、残る9名は流刑に。

森鴎外は、「堺事件」で、切腹が中止になったことについて、外国人の臆病、日本人の豪胆さをとりあげて描いたそうですが、中止になった理由はそうではないらしい。森鴎外批判の作品として大岡昇平の「堺港攘夷始末」や日向康「非命の譜」があります。

妙国寺(日蓮宗)の受付に入ると、「どうぞ、中に入ってください」と案内の一老人が出てくる(住職ではあるまい)。宝物室といった狭い部屋に案内される。そこには、土佐藩士の頭髪(切腹する前にみんな、髪を切って残したらしい)や、遺品が展示してある。そのほか、家康や水戸黄門のなんとか(わすれた)や、兼好法師の直筆の(?)徒然草なんかもあった。見終わると、広間で休んでください、と冷たいお茶を出してくれた。広間の欄間は左甚五郎の作という。休んだら外を案内します、という。サービスいいなあ。ただだろうか?と思った。

外では、まず、庭の蘇鉄。この蘇鉄は樹齢1000年以上もあるそうで、伝説的なもの(この寺は蘇鉄寺ともいわれる)。なんでも、信長が安土城にこの蘇鉄を移したのだけど、毎晩、「妙国寺に帰ろう」という怪しげな声がするので、信長が激怒し、この蘇鉄を斬らせたところ、血が流れたとかで、信長も返却したという。

庭には、11士の慰霊碑、そして、切腹が行われた場所には、英士割腹の跡という碑もたっています。この寺は、天皇の指定した寺(勅願寺というらしい)ということで、ここに11士の墓を作ることはできないということで、11士の死体は隣の宝珠院(真言宗)に埋められ、そこに墓が作られました。宝珠院にも案内してもらった。宝珠院は幼稚園を経営していて、お墓は幼稚園の運動場のはしっこにひっそりたっています。150年たっているだけあって、墓は磨耗し、表面の戒名など消えかかっているし、一部くずれかかっている墓もあった。
土佐藩士11人は、今は、幼稚園児のかわいいキャーキャー声を聞きながら眠っているのですね。

案内してくれた老人から、では、おひとり400円いただきます、と最後にいわれた。
拝観料400円。やっぱり。

豪遊と密約、記事二つ

2005-05-24 | 新聞・テレビから
今日の朝刊(朝日)で目に留まった記事二つ。

ひとつは、社会面に「一家で豪遊2泊35万円踏み倒し」のかこみ記事。
白浜ホテルに一家(夫婦と、妻の母、子供2人)の5人が、泊まり、豪華な食事を注文してドロンしたそうな。逃げ切れないと反省し、出頭したという。

ちょっと身につまされるなあ。こんな想像をする。ゴールデンウイーク。どこにも遊びにいけない家族。大黒柱がリストラされて無職なので、しかたがない。しかし、子供たち、妻、母の顔を見ていると、おもいきり楽をさせてやりたい、と思うのも当然。

江戸時代、九州の藩だったか(「葉隠」に書いてあったのかもしれない)、妻がもう米がありません、悲しげに訴えるので、「米くらいで嘆くな、なんとかしてやる」といって、お城に年貢を運ぶ村人を呼び止め、自分の家に運ばせた武士の話を思い出した。この武士は切腹になるところだったけど、武勲のある武士なので、武士にこんな苦労をさせるのも主君の責任とたしか切腹はまぬがれたのではなかったか。

たかが、35万円。住所と名前までも書く必要はないじゃないか。ひと事には思えない。自分だってする可能性なしとはいえない。しかも、かこみ記事にしている。そんなにおもしろい記事か?無職の家族の悲しみを思え。

もうひとつは、西山記者の「密約」問題。これは、澤地久枝のデビュー作(「密約}となった事件だ。元西山記者は、国を相手に訴訟を起こすという。

幸徳千代子の話

2005-05-23 | 歴史
「幸徳秋水の妻」という本が出てるのではないかと思い、ネットで探してみたけどなかった。

幸徳秋水の妻、師岡千代子に「どうして社会主義者になったか」という文があります。

「私は、ほんの子供の時、吉田松陰や坂本竜馬のような偉大な革命家の生涯を読むことが好きでした。そして、しばしば、ロシアの革命家たちの小説を読んで日夜を過ごしたこともありました。とりわけ、イワン・ツルゲーネフの著作、もっとも多くは日本語訳で読んだのですが、にひかれました。
私の父は徹底した人道主義者で、幕府に対する過激な態度のために六年間も囚えられていました。幽閉中に、父はたくさんの詩や評論を日本語と英語で書きました。それらを読むことによって私は啓発され、働く人たち、とりわけ農民の状態について考えるようになりました。
ー略ー 
八年ほど前、私の夫が初めて社会主義の研究に関心をもったとき、わたしも、その方面の生徒になりました。-略ー私は、現在、社会主義を研究して、時代のほんとうの光を見るようになったことを、ほんとうに喜んでおります。私は、父と同じように、監獄生活を余儀なくされた男性と結婚したことを喜んでおります」(思想の海へ「社会主義事始」社会評論社)

平田派国学者だった師岡正胤が英語で評論を書いていたとは驚きだ。正胤は、千代子が結婚する直前に亡くなったようですが、それまでどんな生活をしていたのだろう?師岡正胤についても、ネットで探してみたけど、その生涯というのはわかりません。どういうわけで宇和島に移り住んだのだろう。お母さんは、宇和島の奥女中をしていたそうだ。

千代子さんは、内気で、おとなしい人だったようです。父や夫、たとえ、謀反人であっても、尊敬してついていくような人だったのかな。

幸徳も、菅野須賀子という愛人ができて千代子を離縁するけど、「死に水は千代がとってくれる」と友人に語ったそうだ。

この千代子さんは1960年85歳まで生きていました。


幸徳秋水の妻 師岡千代子

2005-05-22 | 読書
林尚男「平民社の人々」(朝日新聞社1990年刊)は、平民社の中心的な人物だった幸徳秋水、堺利彦、木下尚江、大杉栄の4人の評伝を要領よくまとめた好著だ。司馬遼太郎の「坂の上の雲」は、明治の青春を描いた名著だけど、平民社に集った人々の青春も、もうひとつの明治を代表する青春でしょう。明治は、官財界に優秀で個性的な人物があらわれたといわれるけど、在野も人物が豊富です。このあたりの小説が少ないのがさびしい。

さて、幸徳秋水は、美人好きで、最初の17歳の女性は母親からは気に入られたのに、美人ではなかったので、里帰りさせ、そのまま離縁状を送り、離婚。2度目の妻が、元宇和島藩士の娘師岡千代子だけど、結婚式当夜、友人に吉原に行こうと誘う秋水。美人ではなかったのだ。

斉藤緑雨は、師岡千代子との結婚にさいして、「妻は茶漬けなり。全きを求めるのは夫の非道なり。幸徳君、みりん、かつお節は一時のみ。茶漬けは永遠なり」という祝辞を送っています。今のフェミニストが聞いたら何というだろう。まあ、明治の男ゆえ許してあげてください(笑)。

この師岡千代子も、大逆事件の前に離婚されますが、土佐のお墓には秋水の横に秋水の妻としてお墓が立っています。

この千代子さんは、英語、フランス語にも通じ、文章にも堪能な才女だったそうですが、父親は、師岡正胤。幕末好きの人ならごぞんじの京都の足利将軍の木像鳩首事件の首謀者の一人です。
平田派国学者だったんですね。事件後、信州に流されます。藤村の「夜明け前」にも主人公青山半蔵の同志として名が出ます。出獄後、宇和島に出たらしい。もし、千代子さんの父親が生きていたら、秋水との結婚をどう思ったことでしょう。
宇和島藩には、興味をもっているので、この人のこともっと知りたいと思っています。





高野山に行ってきた

2005-05-21 | 日記
今日は、日帰りで高野山に行ってきた。車で約2時間半。
土曜日だし、21日はお大師さんの日だとかで、けっこう団体の観光客の人がきていた。
高野山は、わたしにとっては、懐かしい場所で、これで3回目くらいかな。

大昔、学生時代の夏休みに、高野山の宿坊で1ヶ月ほどバイトしたことがある。
当時、高野山は小学校の林間学舎の場所として利用され、夏は忙しかった(会社の研修や団体の参拝客も多い)。

わたしたちの仕事は、宿坊内の掃除、食事の用意(膳を出し、片付け)、布団しき、など(女子は台所仕事で、お客さんの接待はしなかった)。
寺の坊さんと共に、5,6人のバイトが泊り込んで仕事をしていた。朝は早かったけど、昼は暇で近辺を散策したり、夜は、お客さんが飲み残したビールを集めて毎晩酒宴で、とても楽しかった。
坊さんって、一般人以上に遊び人がいると知ったのもこの時(笑)。現在は、林間学舎としては利用されてないらしい(昔、坊さんが児童の部屋に忍び込んだとかの記事がでていたが、そのあたりが原因かも)。

わたしが働いていたのは、桜池院という寺院で、大門の方面だった。懐かしいので、ちょっと
庭を拝見がてら寄ってみた。表には、桜池院という石標が立っているが、小林佐兵衛建立とある。
高野山奥の院にも小林佐平衛の墓があるが、桜池院の管理になっていた。

小林佐兵衛とは、司馬遼太郎の長編小説「俄 浪花遊侠伝」の明石屋万吉のモデルとなった人。幕末の大坂博徒です。小説には、土方歳三や桂小五郎なども出てきておもしろい。桜池院と明石屋万吉がどうして関係してるのかは知らない。

奥の院を歩く。四国遍路の白い着物を着た団体客も多かった。





トラックバック

2005-05-17 | 日記
トラックバックというのがついていた。トラックバックとは何かまだよくわからないし、まだ利用したことがありません。他のブログがくっついているのですね。よそのブログを見ることができる。そのブログ、とても貴重な情報が出ていた。がんばってる人はたくさんいるんだなあ、と感じて心強く思いました。コメント、どこでしたらよいのかわからないので、ここに書いちゃいました。ありがとうございました。

平民社の人々

2005-05-16 | 歴史
坂本竜馬の弟子が中江兆民(といっても、兆民が勝手にそう思っているだけですが)、兆民の弟子が幸徳秋水(これはほんまもんの弟子だ)ということで、竜馬から秋水までを結ぶ人もいるけど、これには異議を唱える人も多いと思う。

財界人にも竜馬の好きな人が多いけど、かれらにとって、社会主義者の竜馬なんて考えられないね。原理原則に忠実というよりも、現実感覚が豊かな竜馬は社会主義者にはならないでしょうね。でも、土佐勤皇党や虎尾の会にも名をつらねている竜馬のこと、平民社の周辺に近づく可能性は大いにある。

平民新聞では、どうして社会主義者になったのか、というアンケートを同人に問い、その答えを新聞にのせています(「余はいかにして社会主義者となりしか」)。

堺利彦はこうです。「余の少年の時、まず第一に予の頭にはいった大思想は、いうまでもなく論語孟子からきた儒教であった。次にはすなわち民約論やフランス革命史からきた自由民権説であった。-途中省略ー予の社会主義は、その根底においてはやはり自由民権説であり、やはり儒教であると思う」

幸徳秋水「境遇と読書の二なり。境遇は土佐に生まれて幼より自由平等説に心酔せしこと。読書にては、孟子、欧州の革命史、兆民先生の三酔人経綸問答、ヘンリー・ジョージの本」

中里介山「第一に貧困、第二に予はいわゆる三多摩の中で自由党熱高潮の地方に生まれたものだから、その感化」

木下尚江のようにキリスト教から社会主義に近づいた人もいますね。
自由民権運動の時代、子どもながらも、自由党員たちの演説を聞いた影響が大きいようです。

幸徳秋水という人は、竜馬タイプとちがい、人見知りし、初対面の人には愛想が悪くて、いつも苦い顔をしていたそうですが、慣れて、酒なんか飲むとけっこうへたな冗談いったりしておもしろいとこもあったそうで、あだなが渋柿だったそうな。ふだんは渋いけど、酒が入ると甘くなるからだとか。



明治の虎尾の会?平民新聞

2005-05-14 | 歴史
虎尾の会とは、幕末、清河八郎が作った同志との集まりをそう呼んだのだけど、虎尾の会とは、いかにも清河八郎らしい大胆不敵な名前。虎の尾を踏もうとする会なんだから。虎とは清河の時代は、徳川幕府ですね。

でも、この名前はもともと渡辺崋山を中心とする尚歯会(ひそかに蘭学を研究するグループ)が、自分たちの集まりを「虎尾の会」となずけていたということをどこかで読んだ気がします。崋山の尚歯会の一員だった羽倉外記の塾に清河八郎もいたので、ひょっとしたら師からこの名前を聞いたのかも。それはまあいいとして、幕末には、「虎尾の会」のような志士の結びつきは各地にできますよね。このころのスローガンは攘夷、尊王倒幕か?

自由民権運動の時代は全国に「虎尾の会」みたいなのが出来上がる。この民権時代は、元政府首脳だった板垣や大隈も運動に加わったので、これらも「虎尾の会」となずけることはできないかもしれないけど、その志士的気概は、幕末をひきずっていますね。このころのスローガンは、自由、民権。

次の時代の「虎尾の会」は、日露戦争を契機に立ち上がった「平民新聞」に集った人々ではないでしょうか。日露戦争というほとんどの日本人が支持した戦争に敢然と反対をとなえます。中心人物は、幸徳秋水と堺利彦。この2人の周りに多士済々の人物が参集します。

まさにこれは「虎尾の会」で、平民新聞は2年ほどで廃刊になり、平民新聞の中心人物は何度も投獄されます。虎の尾をふむやからです。この会のスローガンは社会主義でしょうか。
当時の社会主義という言葉は、若者にとっては、幕末の「尊王」、民権時代の「自由」という言葉に代わる一種理想主義的な言葉でした。

しかし、権力は、この言葉(社会主義)を地に落とし、汚し、死語と化すことに成功します。そして、若者の理想もなくなる。ナーンテ、時代遅れなんですな、わたしは。

ロシアナロードニキから書き始めて、とうとう平民新聞まできてしまった。19世紀ロシア文学を追いかけると、ここまできてしまうのですね。




隠し剣鬼の爪を見た

2005-05-13 | 映画・テレビ
山田洋次監督の「隠し剣鬼の爪」、やっとビデオが出たので、借りてきて見ました。
日本アカデミー賞にノミネートされていながら、今回は何にも賞をとれてないので、どうしたのだろう?と思っていましたが、やはり「たそがれ清平衛」の二番煎じということで、受賞しなかったのかもと思いました。

まあ、近頃の時代劇としては真面目に作っており、見て損した、という気はしない。まあまあ、おもしろかった。

でも、決闘場面に緊張感をあまり感じることができなかった。病み衰えた討たれ手というのは前作と変わらないけど、なぜか壮絶感が感じられない。前作と比較してしまうのだろう。藩内きっての遣い手同志の戦いにしては、プロの剣さばきを感じられない。討たれ手は、はっきりいって半病人なんだからしかたがないのかもしれないけど。

決闘のときの秘剣がおもしろかった。こんな剣法、たしかに初めて見た。敵に背中を見せて油断させて、くるっと回って斬る。でも、こんな秘剣を使う必然性があったか?と後から考えてしまった。

洋式歩兵練習の導入で、侍たちが困惑する場面もあった。武士は、走るときも歩くときも手をふらないのが作法。洋式軍隊の導入で、日本人の歩き方や走り方も変わってしまったんですよね。

前作同様、時代を幕末にしているけど、海坂藩の作品を映画化するなら、百姓一揆に対応する武士のことなんかもやってほしい。「唆し」という短編がそうだったと思う。三作目もぜひ作ってほしい。


啄木と大杉栄は同世代

2005-05-08 | 読書
啄木は、明治19年生まれ、大杉栄は明治18年生まれ。二人は同世代なわけです。
でも、一人はだれもが知る天才詩人、一方は虐殺されたアナーキストということで、あまりつながりがないようですが、二人は気がつかずにすぐそばまで近づいていたのですね。
啄木は、明治の人、大杉は大正の人というイメージでした。

啄木の遺品の中には、幸徳秋水、堺利彦、河上肇の著書、「国禁」の図書、「平民新聞」があったそうです。
大逆事件の時、大杉は入獄中で無事でした。啄木は、電車賃値上げ反対運動や赤旗事件には関心をもち、文章にもしていますが、その中に大杉栄という男がいたことは知らなかったでしょう。

大逆事件のあと、社会主義は大弾圧され、その出版も禁止され、活動家もなりをひそめるのですが、
まっさきに運動を再開するのが大杉栄です。

啄木が読んだクロポトキンを大杉は盛んに翻訳して紹介します。
大杉栄が殺されたとき、19世紀ロシア文学から伝わったロシアナロードニキの系譜も終わりになります。


石川啄木と二葉亭四迷とロシア

2005-05-07 | 読書
二葉亭四迷は、もともと「志士肌」で、そこにロシア文学の強い影響もあって、文学の枠にとどまらない(かれは、文学はわが一生の仕事ではない、と言ったとかの有名な噂もある)けど、石川啄木にも同じようなところがありますね。

啄木を幕末の時代に生まれさせたら、草莽の志士になるでしょうね。長州にでも生まれさせたら、高杉晋作か?(笑)。田中正造の鉱毒反対運動に義援金を送ったのも琢木16歳の時でした。
実生活はメチャメチャで、ことに奥さんには迷惑をかけっぱなしで、身体も弱くて兵隊にもとられなかったけど、きっと志士肌の若者だったような気が。

二葉亭が亡くなったあと、すぐに二葉亭四迷全集の編纂が始まるけど、この二葉亭四迷全集の校正をしたのが、当時、朝日新聞校正係だった啄木。啄木も二葉亭の文を一字一句を読んだにちがいありません。そして、ひょっとしたら、そこからロシアへの関心も生まれたかも。啄木は、二葉亭を「革命的色彩に富んだ文学者」といっています。

啄木が二葉亭全集の校正をしていた晩年(晩年といっても、啄木は26歳で亡くなるので、24,5才か?)、思想上の変化があったといわれます(金田一京助)。このころに、幸徳秋水の大逆事件があり、このこととも関係あるのでしょうが、無政府主義、ロシアへの関心です。

ヴ・ナロード!の言葉を入れた「はてしなき議論の後」という詩の他に、こんなのもあります。
    五歳になる子に、何故ともなく
    ソニヤといふ露西亜名をつけて
    呼びてはよろこぶ        (悲しき玩具)

ソニヤというのは、アレクサンドル2世を暗殺した女性革命家ソフィア・ペロフスカヤの愛称らしい。

啄木は、クロポトキンをよく読んでいます。クロポトキンは幸徳秋水が影響を受けたロシア革命家ですが、啄木は、幸徳同様に、無政府主義は決して危険な思想ではない、といっています。
しかし、大逆事件以後、この言葉は一般の人にとっては、悪の権化みたいに扱われます。

大逆事件の裁判は国民には知らされることがありせんでしたが、啄木は、この事件に強い関心を示し、病んだ身体でありながら、その事件の情報収集に情熱を燃やしています。

啄木はこんなこと書いています。
「この島国の子供だましの迷信と、底の見え透いた偽善の中に握りつぶされたような長い一生を送るよりは、むしろ露西亜のような露骨な圧制国に生まれて、ひと思ひに警吏に叩き殺される方が増しだ」

日露戦争に勝利してから、日本人のロシアへの関心はどう変わったのだろうか。
少なくとも、二葉亭、幸徳秋水、啄木たちの関心の持ち方とはちがったような気がします。

『鉄の男」が観たい

2005-05-05 | 映画・テレビ
BSの「大理石の男」を見た。やっぱりおもしろかった。

映画の中で、女子学生が、1860年代の蜂起をちらっとしゃべっていた。
ナロードニキたちがいたころのロシア、ロシアからの独立をはかろうとして(多くのロシア革命家も支援したのだけど)、弾圧された歴史だ。

今、ポーランドはどんな国になっているのだろう?

「大理石の男」と、続編の「鉄の男」がごっちゃになって記憶していた。
「鉄の男」は、大理石の男の息子が鉄工所の労働者になり、一人でストライキ運動にたちあがる話だったように記憶している。大理石の男以上に、おもしろかった。見たい!

ポーランドといえば、二葉亭はポーランドから来た革命家を支援したこともあるのですね。