平民社に集う人々は、社会主義者ばかりではない。当時の「社会主義」というのが、一つの理論や主義に固まったものではないので、いろいろな人、しかし、明治で最良のデモクラットが集まった砦のような気がします。
たとえば、田中正造。正造もたびたび平民社を訪れたそうですが、長髪の髻をを結び、黒の綿服に袴をはいた田中正造が姿を現すと、平民社の同人たちは、尊敬の念をこめて慇懃な態度でむかえたそうです。
学生服姿で、頭を油で固めて、大ハイ(大杉ハイカラ)のあだ名をつけられた大杉栄も来れば、画家の竹久夢二も顔をだす。「平民社」との直接間接の関係者を数え上げれば、明治の在野の知識人の半ばを網羅するのではなかろうか。
史論家で、主戦論者で帝国主義者と自称している山路愛山もしばしば訪ね、激論を楽しんだらしい。この山路愛山こそが、清河八郎の文章を集めた「清河八郎遺著」を編纂し、出版したのです。山路愛山は清河八郎の「虎尾の会」をどう思ったのだろう。興味のあるところです。
たとえば、田中正造。正造もたびたび平民社を訪れたそうですが、長髪の髻をを結び、黒の綿服に袴をはいた田中正造が姿を現すと、平民社の同人たちは、尊敬の念をこめて慇懃な態度でむかえたそうです。
学生服姿で、頭を油で固めて、大ハイ(大杉ハイカラ)のあだ名をつけられた大杉栄も来れば、画家の竹久夢二も顔をだす。「平民社」との直接間接の関係者を数え上げれば、明治の在野の知識人の半ばを網羅するのではなかろうか。
史論家で、主戦論者で帝国主義者と自称している山路愛山もしばしば訪ね、激論を楽しんだらしい。この山路愛山こそが、清河八郎の文章を集めた「清河八郎遺著」を編纂し、出版したのです。山路愛山は清河八郎の「虎尾の会」をどう思ったのだろう。興味のあるところです。