虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

大阪散歩

2013-08-28 | 日記
今日は梅田で電車を降りたあと、肥後橋、淀屋橋、難波橋を過ぎ、天神橋商店街を1丁目から6丁目まで歩き、梅田までもどった。1時間半くらいは歩いただろうか。久しぶりの運動だ。猛暑の日なら、とても歩けなかったけど、暑さもやわらいだので、家に帰ったあと、なんだか身体の調子もよくなった。歩くのはやっぱりいい。

肥後橋の大同生命ビルの2階で「加島屋」の歴史史料の展示があったのです(無料 9月いっぱい)。
加島屋久右衛門といえば、江戸時代、鴻池と並び称された大坂の豪商。天明時代には打ち壊しにあい、幕末には、新選組や維新政府からも資金提供を求められた。大塩の乱のときは、大塩党は、ここまではやってこなかったので、無事だった。この加島屋が、明治後、加島銀行となり、大同生命になる。今の大同生命ビルは、江戸時代の加島屋の屋敷跡あたりに建てられている。




大同生命では、加島屋の文書を大学に委託して研究してもらっているそうだが、その一部を紹介している。パネル、史料の展示だけで、展示している史料をパンフレットか小冊子にしてくれていたらよかったのだが、それはなし。大坂の豪商に関心があったので、見に来た。でも、特に新しい発見はなかった。いったい、この加島屋に何人の従業員がいたのか、なども知りたかったのだが、こんなこともまだよくわからない。

江戸時代の大坂、北船場はどんなところだったのか、一番知りたいのだが、それを知るのは不可能に近い。加島屋(大同生命)のまわりは、高層ビル街、間近に高速道路の高架が走っている。
まったく、ひどいもんです。画像が大同生命ビル。




江戸時代の大坂の夏は橋の上でよく夕涼みをしたらしい。特に、難波橋の上から眺める景色は絶景だとか、西鶴か誰かが言っていた記憶があるけど、今じゃなんの風情もない。大塩一党は、難波橋まで進んでいたんだ、と想像するも実感なし。画像は難波橋から。



天神橋商店街。ここは、大阪を感じる。人通りが多く、賑わいがある。さすが大阪。愛媛の大街道も、宇和島のきさいやロードも歩く人はまばらだったが、ここは多い。古本屋も何軒かあった。ランチ屋も多い。おかまのおっさんもたっていた。リュックに買った本をつめこんで帰った。ただし、一揆の本などどこの古本屋にもおいていません。また、世界文学全集なども見なかったな。どこもいい値段だ。




大街道の友だち

2013-08-26 | 日記
松山ではNO1ホテルに泊まった。ここは安くておすすめです。朝食はバイキング。一人一泊5000円代です。

ホテルのそばに大街道がある。松山で一番にぎやかな商店通りです。昔はアーケードはなかった。



小学2年生の時に、この大街道で親が飲食店を始めた(といっても大街道の表通りではないが)。
名前は「あすなろ」。
環境のせいかどうか、タチの悪い子どもだった。学校から帰ると、ランドセルをほうりなげて、カウンターにすわり、サイダーをちびりちびり、つまみの豆をかじりながら、女給さんをネチネチといじめる(文句をいう)。酒飲みのまねをしたのかしら。働いていた女給さんは、「ご主人夫婦はいい人なのに、あの子がどうも苦手」といって、たしか辞めたような気がする。板前さんの背中を木刀でなぐったこともある。

映画館が多く、学校では子どもだけで映画を観ることは禁止されていたのだが、よく見た。とくに、わたしの店の近くの映画館は裏道から裏から入れる秘密の通路があり、そこからただで何度も見た。今でも、その映画館のあった場所は、シネマ館になっていた。

当時、大好きだった映画は、ラドン、赤胴鈴之助、少年探偵団、スーパージャイアンツ。

飲み屋で子どもが学習する環境にないと思ったのか、親は、近くに3畳くらいの部屋を借りて、勉強室にしてくれ、家庭教師をつけてくれた。愛媛大学の学生で、のち、NHKに入った立派な先生だったけど、まったく勉強しない。通信簿を見せると、うーん、今度は絶対にオール3にしてみせる、とつぶやいていた。のち、東京でお目にかかった。

学校は番町小学校。友達は、近所の大街道の店の子どもで、時計屋さんや洋服屋さんの子どもがいた。一番仲のよかったのは、帽子屋さんの山本くんと、母子家庭でうら通りで間借りしていた松本君。

今度、大街道を歩きながら、帽子屋さんをさがしてみた。帽子屋さんはあることはあったが、名前が山本ではないので、店に入らなかった。あの悪ガキの山本くんは、どうみても店を継ぐような子ではないと思っている。大街道も、昔はなかった店が増え、昔からの店は少なくなっていると思う。

山本君、松本君、あの「あすなろ」の悪ガキ、いつも腰にロープをつりさげていたオレなんだけど、もし、気がついたら、連絡してね(笑)。山本君については、三越の屋上で一緒に写真をとってもらっている男の子だ。

大街道には1年間しか住んでいなかったと思う。


わたしの原点 松山市日の出町

2013-08-26 | 日記
このブロフは個人的な日記、備忘録なので、私以外の人にはまったくどうでもいいことも書かせていただくので、ご容赦。


本日、四国旅行から帰った。
この夏は愛媛県へいった。
まず、松山市日の出町。松山市の中心からから車で十分くらいのところ。
ここに、わたしは、たぶん、4歳くらいから小学校1年生時代までいた。親に聞くと、それまで南宇和郡の緑僧都村とか城辺とかにいたそうだが、わたしの記憶にあるのは、この日の出町。それ以前の記憶はない。たぶん、この日の出町から、おんぶにだっこの生活からはなれ、一人であちこち歩き始め、遊び始めたのだろう。幼年時代の始まり。この日の出町から人生が始まった(笑)。

当時は、日本は貧しく、わたしも、麦飯を食べていたと思う(たまの日曜日に、白マンマだった)。
精米所の2階に間借りをし、水は1階の井戸、またポンプでこぐヤツ(名前を忘れた)、便所も、1階の離れた場所にあった(夜はこわかったなあ)。

テレビ、ラジオ、冷蔵庫、洗濯機、扇風機、風呂などもちろんなし。電気製品は裸電球のみ。夏は行水、冬は火鉢。

画像の川にかかる橋がなつかしい。右側の橋の下にはいつもゴザをかけて家族が住んでいたと思う。
あの橋の前に銭湯があり、2階は映画館だったと思う。夕方になると、いつもこの風呂屋の建物から
美空ひばりの「りんご追分」が流れてきた。毎日のように流れてくるので、この曲は、わたしの歌の原点になっている。この歌を聴くと、当時の情景が思い浮かび、なんとも切ない気持ちになる(笑)。



さて、日の出町のかつてわたしの家があった場所にいくと(むろん家はないが)、家の向かいの公園に石碑が立っていた。和田重次郎の像がある。和田重次郎とは、冒険家で、アラスカで活躍したらしい。新田次郎の小説にもなっているそうだが、まったく知らなかった。この和田重次郎の母親が日の出町の出身で、和田重次郎もしばらくここで生活していたそうだ。はじめて知った。もちろん、昔は何もなかった。最近、建てられたようだ。



わたしは、この日の出町のさくら幼稚園、蘇我小学校に入学した(2年生から大街道に転居したが)。

川の原っぱは公園のように整備されていた。
この川でよく遊んだ。子ども達がみんな川の中にどぼんと飛び込んで泳いでいるのだが、どうしても飛び込めず、飛びこもうかやめようか、ずっと迷って立ち尽くしていたことを今でもよく覚えている。まだ泳げなかったからだが、どうも、昔から勇気に欠けていたのかもしれない。




スズメちゃん

2013-08-08 | ツバメ
今、パソコンをしている窓の上からスズメの雛の鳴き声が聞こえる。
スズメはネットのケーブルの上に止まる。少しずつ巣に近づき、えさ(バッタとかの虫)をあげているようだ。もうすぐ午後7時近くになるが、朝から何度も何度も休みなくエサを運んでいる。



ツバメの時とちがって、雛の姿が見えないのが残念。

スズメの巣は、ツバメが卵を生んだころから、今の場所にあった。スズメはなんとアバウトなヤツだろうと思った。ツバメのしっかりした巣とちがって、小枝で無造作にぐちゃぐちゃに作ってある。ツバメが育児中のころは、ツバメの親に追い出されていたのか、スズメは巣にはあまり来なかった。スズメは途中でやめたんだな、やっぱり、スズメはアバウト、いいかげんだ、と思っていた。どうも、ツバメに比べてスズメを見下していたのかもしれない。すずめを無視していたのかもしれない。

鳥の姿としては、ツバメはたしかにかっこいい。紳士的。音もたてずに、スイースイーと羽を広げて自由自在に飛ぶさまは、まさに、ゼロ戦。速く、遠くまで飛ぶ。曲芸飛行までやる。

それに比べ、スズメは、羽をバタバタとはばたかせなければならず、スマートではない。飛行距離もあまりない。

しかし、小さなスズメだけど、子どもを育てる態度はツバメと変わらない。大きな鳩が電線にいると、3羽、4羽が必ず鳩のそばに止まって、対抗している。けなげだ。

ツバメは玄関の前の壁に堂々とどかんと泥で作った頑丈な巣を作ったが、スズメは2階の隅っこのすきまに目立たないように巣を作った。ツバメが巣立ったので、やっとスズメも育児に専念できる。

ツバメがちょっとエリートの下級武士だとしたら、スズメは百姓、庶民の代表かもしれない(笑)。古来、おとぎ話や、一茶や金子みすゞなど、俳句や詩にうたわれている。昔は、神の使い、ともいわれていたとか。ツバメ同様、スズメが巣を作ると縁起がいいともいわれるそうだ。かわいくて、親しみが持てる。スズメちゃんといいたくなる。

伊達仙台藩の家紋は、竹にスズメ。伊達宇和島藩も同じだ。

窓の外にスズメがいるので、ときどき、カメラにおさめようと、カメラを手にとる。窓をしめているのに、スズメはすぐに察知して、飛びたってしまう。人の動きを鋭くキャッチする。剣の達人にも似た危険察知力がある。うーん、鳥に学ぶことは多いぞ。






今日もお別れに ツバメの子

2013-08-07 | ツバメ


今日、夕方、ツバメ6羽が飛んできた。
そして、家の前の木の枝に4羽。これは、あの巣から飛び立った子ツバメにちがいない。
まるで立派に成長した姿をわたしに魅せるように、木の枝でしばらくじっとしていた。

いよいよ、旅立つのだな。グッドラック!

さて、ツバメばかり注目していたが、スズメもわたしの部屋の窓の外に巣を作り、すでに雛が生まれていた。雛を見たわけではないが、鳴き声が聞こえてくる。
ツバメのことばかり注目して、スズメさんを無視してきた。今度はスズメについて書きます。今日はこれにて。


さらばツバメ

2013-08-06 | ツバメ
8月3日、ツバメたち10羽ほどが私の頭上を飛び回った。
この日が旅立ちの日だったのですね。
やっぱりツバメは律儀です。

来年、また会おう!
以後、ツバメの姿を見ることはありません。

代わりにスズメが電線によく止まっています。
わたしの部屋の窓の外にスズメの巣があるのだけど、利用しているのかどうかはちょっとわかりません。


「手口を学んだらどうか」

2013-08-01 | 新聞・テレビから
今朝の天声人語。
「ぎょっとした。麻生副総理が7月29日、ある会で改憲にふれて、こう述べたという」が書き出し。「気づいたら、ワイマール憲法がナチス憲法に変わっていた。誰もきづかないで変わった。あの手口を学んだらどうか」と麻生氏の言葉を引用。結語は、「言葉の軽さに驚く」だ。

副総理には、朝日の番記者もついているはずで、その会合には朝日の記者もいたはず。しかし、記者はなんの問題も感じなかったのか、記事にはしなかったはずだ。この問題が騒がれ出したのは、ネットからの情報ではなかったのか。ネットで明らかになり、外国からの批判を受けて、やっと問題にしたのだ。

ところで、ある会合とは何なのだ。他の記事では、都内のシンポジュウムと書いたりして新聞は明らかにしないけど、麻生氏のコメントでその会合が国家基本問題研究所月例研究会とわかった。

国家基本問題研究所とは、なんだ?
理事長 桜井よしこ。理事に石原信太郎、屋山太郎のほか、伊藤 隆など、大学教授がずらり。なんとか憲法を変えたいと思っているグループだから、「手口を学んだらどうか」という麻生氏の言葉にもたぶん、同意しながら聞いていたのだろう。

「言葉の軽さに驚く」などと、今さらかまととぶらないでくれ。こんな言葉は、どこの研究所や有識者会議でも、たぶん、平気で使われている時代になっているじゃないか。