虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

野村軍記 八戸藩稗三合一揆

2007-06-30 | 一揆
「野沢蛍」というちょっと風雅な題名の一揆史料がある(日本庶民生活史料集成)。これ、野村軍記という八戸藩家老の事歴を物語風に書いたものだ。中に怪談話などもあって、おもしろい。

万石騒動の川井藤左衛門、備後福山一揆の遠藤弁蔵と同じように、殿様の信を得て権勢を得、藩の財政改革に取り組み、果ては百姓一揆の責任をとらされて閉門、蟄居(この人は切腹したらしい)する。

天保5年1月だ。雪国の八戸、厳寒の中、雪をけちらして進む一揆勢。

百姓たちは、70以上の願書を出すが、願書のほかに二つ願い事がある、という。一つは、こうだ。
「野村軍記、これまで色々の諸過役を申しつけ、まこと持ち合いの穀物まで取り上げ、凶年違作に一粒の施しもなく、1日に1人稗3合の割り渡し、百姓こぞって嘆きまかりあり候間、同人を頂戴つかまつり、1日玄稗3合づつ食べさせ、田畑働きいたさせ、薪芝をとらせたい」という。
もうひとつは、この寒中の中、野宿している者もいるので、町家で休息させてほしい、というもの。

備後福山一揆のときにも百姓たちは、遠藤弁蔵をもらいうけたい、遠藤に百姓をさせ、6、7月に年貢をおさめさせたい、といったそうだから、百姓の気持ちは同じだ。

野村軍記の先祖は、明智光秀の草履取りをしていたそうで、光秀が死んでから、諸国を遍歴し、八戸の野沢という村で代々百姓をしていたそうだが、そのうち、下級役人に取り立てられ、軍記のときに、大出世する。

野村は、藩の産物を統制し、領民から安く買い上げ、これを江戸や大坂に高く売りつけて、財政をふやした。また、八戸の名を高めるために、神社仏閣を壮麗にしたり、江戸の横綱をおかかえにしたり(藩籍にする)、八戸の三社大祭で、騎馬打球を復活させたりする。ネットで野村軍記を検索したら、この八戸の三社大祭が出てきた。

天保の飢饉のとき、新潟、大坂に出張して米を買い入れるが、これを領民には渡さず、一部をよそで高価に売って麦を買い、家臣には、米給与の代わりに麦給与にする。百姓には、1合の米もわたさず、ただ1日1人稗3合を渡して、それ以外の穀物を出させ、藩札で安く買い上げたそうな。

野村軍記の権勢がさかんなときは、誰一人、野村の意に反対することはなかったが、さて、いったん一揆がおこってみると、野村の失政を非難するものが出てくる。家老会議で、野村がただちに一揆勢を鉄砲でおいはらえというと、1人は、「貴行の御百姓にてもあるまじ。天下は天下の天下なり。百姓も天下の民なり」
といって、反対する。

野村の処置をどうするか。家老たちは、お役御免にしようとしたが、長く野村を信任してきた殿様はなかなかそれができない。で、家老たちは、「御家と君とは替えがたし。この上、お迷いあそばされ候はば、重役一統退役申し、切腹いたすほか手立てあるまじ」と決心して殿様に言上、野村の処分がきまったそうだ。


ヤフーの検索で「野村軍記」は33件あったが、その中で、井伏鱒二がこの一揆について書いてあった。久慈街道を訪ねたときの文だ。野村軍記にもふれていた。


仁木直吉郎(美作改政一揆の義民)について

2007-06-29 | 一揆
直吉、または直吉良、直吉郎ともかく。
津山市の加茂町行重の真福寺の境内に、この人の義民碑がたっているようだ。
加茂町行重って、どこや、と地図でみたところ、津山市の北、山の中です。

この一揆は、津山藩領全土をまきこんだ大一揆(小豆島まで飛び火している)だけど、組織的、計画的なものではなく、直吉に続いて各地で立ち上がった。参加した階層も百姓ばかりか、、無宿人もいる。

ただ、はじめの発頭人が、直吉で、しかも、直吉は、一揆の頭取として、訴えの願書をもって自首した。永牢を申し付けられたが、翌年、大赦になったそうだ。しかし、慶応4年には死んでいる。

はじめはこうだ。直吉は、なんとかせんと、3人の仲間を呼んで相談。このさい、直訴しようと思う、と。仲間はそれでは村々の人に相談し、手紙も出してみようという。直吉、いや、多人数で相談などしていればそのうち人の心も変わる。ただ、3,5人が立てば、村の人々も立ち上がるだろう。わかった、ではいつ?と仲間が聞くと、まだわからん、師走のころになるか、決まったらまた言う、と別れる。

その夜、先刻仲間に話したが、話した以上、必ずもれることもある。もはや、のばすことはできない、と、翌日、仲間をよび、今夜、立ち上がることにした、願書はできている、と答える。えー、せめて一日くらい待てよ、準備もある、ととめるが、直吉は、いや、今晩、立ち上がる。どうやって、人を集める?と聞くと、それぞれ、松明を2,3丁ずつ用意し、荒坂峠に登り、六つ半時に、鯨波の声をあげよ、そのとき、寺の鐘をつかせよう。そうすれば一同、騒ぎ立てん。そのとき、とよばわれば、きっと大勢になる。
「案にたがわず村々より、てんでに松明ふりたて、火事かと尋ねる人もなし。よ強訴よとよばわれば、御城下さして押し出す有様、すさまじくも又恐ろし」(改政一乱記」

この史料の註によると、ここでいうとは、賎民身分のそれではなく、飢人、乞食の意だそうだ。また、農民が、自らをと名乗ったのは、百姓を同様の境遇に落とした領主に対する批判と、となのることによって、だれの支配もうけないアウトローとしての行動の自由を確保した、という意味があるとか。


行重村の直吉。自首する時に歌二つ。

「子は親を大事にかけよ親は子をまごを愛せよ別にわけなし」
「我と我が散るにあらねど山ざくらただその時の風に吹かれて」

直吉が牢にいるとき、他の地域の頭取も牢に入ってくる。大庭村の原田平六郎というもので、「30歳、生得強気にして、身の丈5尺6寸、眼中するどく、たくましき人品なれども、慈悲心深く万人にこえ、強きをひしぎ、小力を助ける人道なり」
という人だ。
この人が、牢で、直吉にあいさつ。。
「あなたは、この役所に自首なさったよし、うらやましく思っていました。わたしなどは、そんなこともできず、馬鹿者どもに召し取られ恥ずかしい」
直吉「ごあいさつかたじけない。歯は硬いとががあるゆえに早く損じ、舌はやわらかなる徳があるゆえに長くたもちます。生きるのは難しく、死するのは安いことです。わたし、手練とても足らず、後の納め方も考えず、安き死につき、こちらこそ、お恥ずかしいかぎりです」

直吉は牢内で病気になり、娘のお鶴が代わりに入牢を願い出たとかの話もあるらしい。

「美作改政一揆義民物語」(加茂郷土史研究会編)とか、「孝行和讃物語」(これは直吉の娘お鶴の物語らしい)の史料もあるようだけど、ちょっと手に入れるのは難しそう。



慶応二年美作津山藩改政一揆からちょっと

2007-06-28 | 一揆
津山藩は越前松平家の家柄で佐幕。

幕末だ、藩政改革による増税、長州征伐の陣夫徴発、献納金の強要などで、庶民の暮らしは破壊され、慶応2年11月から翌正月まで暴れ回り、藩はお救い米2万4千俵を出してやっと鎮撫する。また、この一揆で、佐幕派が藩政を終われ、倒幕派が藩政をリードすることにもなる。

この一揆の史料は、近世日本庶民史料集成にあるのだけど、けっこう詳しく、しかも、他のよりも読みやすい。で、ちょっとだけ読んだ。「改正一乱記」という史料だ。書いた人は、当時の草莽。

この一揆の
発頭人は、仁木直吉郎 註によると、出雲大社のお札配り(にせ札ともいう)をしていて、行重村の後家お千代の入り婿になったという。持ち高10石。

史料では、「評にいわく。仁木直吉郎。今年、55歳にして、身の丈5尺3寸、四方肥えて、ひたいうすく、ほうひげ、むかうばたらずといえども(意味不明)、弁舌あざやかなり。心強なりといえども、生得、柔和にして、一度、この者と話してなびかずということなし。近来、まれなる曲者なり」とある。

また、この史料には、津山藩士井汲唯市という剣客が出てくる。
神道無念流。江戸の斉藤道場で、桂小五郎の次に塾頭になった人。勤皇派であり、天誅組騒動があったとき、井汲も仲間だと讒言する者があって、牢屋に入れられることも書いてある。この人は、第二奇兵隊脱退騒動を起こした立石孫一郎の剣の先生でもあって、立石が倉敷を襲った後、井汲を救い出すという噂を聞き、藩の迷惑を思って自殺した人だ。
一揆の史料に、幕末の倒幕派の人が出てくるのがおもしろい。幕末ならあたりまえか。この史料、腰すえて、今度読んでみよう。




海音寺潮五郎とトルストイ

2007-06-27 | 読書
久しぶりに新刊屋さんに入ったら、海音寺潮五郎の「列藩騒動録」の文庫がまた再刊されていた。これはいい本だ。持っているから買わなかったけど、海音寺潮五郎の本が再刊されるのはうれしい。

「海音寺潮五郎短編総集」という文庫(全8冊、絶版)を捨てずにちゃんと持っているのが自分だけの自慢だ。

はじめは海音寺潮五郎は好きではなかった。
歴史小説というのは、司馬遼太郎ではじめて読んだ(吉川英治は別にして)。
で、海音寺潮五郎の「天と地と」を読み始めたが、とても読み通せなかった(これは今でもまだ読めていないけど)。
司馬とぜんぜんちがう。
司馬は、説明が巧みだ。主人公を一筆のもとに印象的に描く。歴史を知らなくても物語に入れる。斬新。天才。それに比べると、海音寺は、オーソドックスというか、奇をてらうところがない。まったく才気走っていない。

でも、「平将門」や「西郷隆盛」を読んで好きになった。
海音寺は、トルストイのファンだそうだ。戦争と平和は10回以上読んだとか。
トルストイの「戦争と平和」や「アンナカレーニナ」の構成表を自分で作ったりしたこともあるそうだ。たしかに、トルストイを手本にして小説(史伝は別)を書こうとしたところを感じる。

画像は千姫の銅像から見た姫路城




備後福山の一揆 遠藤弁蔵

2007-06-27 | 一揆
備後福山一揆の記録「安部野童子問」の序文に「古人いう。智をもって国を治むるは、国の賊なり」とある。

頭のいいやつが政治をとると、ろくなことにならない、というのは、江戸人の常識としてあった。ところが、明治以降、「頭のいいやつ信仰」が流行り、今もなお、「頭のいい人の話し方」「頭のいい人の快眠術」「頭のいい人のなんとか」とかの本がいっぱい。

備後福山一揆をひきおこしたといえる遠藤弁蔵は、頭のいいやつの筆頭だった。人の気持ちを敏感に察し、弁舌さわやか、目から鼻にぬけるような理解力の早さ、しかも外面は温容。

備後福山一揆は、この遠藤だけが原因ではない。この遠藤の成果を評価し、遠藤をどんどん引き上げた上司(殿様)の成果主義、評価主義も原因だ。

遠藤弁蔵はもともと福山藩の徒士組に属していた。徒士組は1年の給銀が金7両2歩だったが、財政難ということで金六両にされる。徒士組の面々は、これでは食っていけない、給銀の他に助力米をお願いしよう、それがかなえられなければ、やめようと、徒士組一同ストライキの一味同心の相談をしていた。遠藤弁蔵もその仲間にいたが、その一味の相談を上司に訴えたのが出世のはじまり。

殿様は、寺社奉行をつとめ、次は老中をねらっている安部正倫。とにかく、賄賂に使う金がほしい。遠藤弁蔵は、どんどん金を作り、成果をあげ、殿様の評価をえて、藩政を支配するにいたる。金を作ったのは、農民からの過酷な取り立てだ。

遠藤弁蔵の油断のならないところとして、たとえば、遠藤は、わざと村々に強訴の立て札を立てさせる。「きたる15日徒党強訴すべし。寺社の鐘を合図に惣郡中百姓残らず出張すべし」。百姓の様子を知るためだ。だれも動かないと見ると、安心して自分の政治を進める。

結局、備後福山の百姓2万人が蜂起して、遠藤弁蔵は閉門になるが、もし、一揆がなかったら、遠藤弁蔵は、大出頭人として名が残ったかもしれない。

昔、「百姓は生かさぬよう、殺さぬよう」という徳川時代の支配を伝える言葉を習った気がする。「あたらしい歴史教科書を作る会」だったかの頭のよい人たちは、これはウソだ、年貢も低いし、江戸時代の農民は、豊かだったとか、江戸の支配は悪くなかった、とかの論も出したようだが、江戸時代はさておき、今、現代もやはり、「生かさぬよう、殺さぬよう」の政策が続けられているのはたしかだ。

画像は姫路好古園の道


りんご追分

2007-06-24 | 日記
昨日と、今日、NHKBSで「美空ひばり」特集をしていた。
あちこちチャンネルを回しながら見ていたが、「りんご追分」を歌っているときは、じっと聞いてしまう。この歌だけは、わたしにとっての、最高の歌だ。
この歌を聞くと、まだ目鼻ができていなかったころの幼児時代の景色を思い出すからだ。
まだ、幼稚園に入る前のころ、毎日のように近所の銭湯から、夕方になると、この曲がながれていた。完璧にすりこまれている。
日本はみんな貧しく、夜、銭湯から帰って、やかんに入った水を飲むことが最高の幸せだった時代だ。なんだか、自分の原点(幼児)に帰れるような気持ちがする。

大菩薩峠に、お玉という歌い手が、「間の山節」を歌う場面がある。忘れたけど、机竜之介もその歌声に聞き入ったのではなかったか。どんな調べかはわからないけど、三味線だから、今の歌とはまったくちがうけど、しかし、この「りんご追分」を連想する。

りんご追分は何回聞いてもいい。わたしには、古い、遠い記憶がよみがえる。

姫路へ

2007-06-23 | 日記
姫路へいった。
姫路城前の駐車場に車を入れたけど、城には入らなかった。
姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」に入った。
面積約1万坪に「茶の庭」「流れの平庭」「夏木の庭」「御屋敷の庭」「花の庭」とか、九つの庭がある。池があり、小川が流れ、なかなかいいところでした。人も少ない。広いので、迷子になりそうなくらい。

そのあと、姫路文学館へ。
南館が、司馬遼太郎の部屋で、北館の二階が、三上参次、辻達之助、柳田国男(他にもいたか?)、3階が、和辻哲郎、椎名隣三、阿部知二、ほかにもいたけど、忘れた。あと、岸上大作の日記も展示してあった。岸上は福崎の出身らしい。南館の最上階の部屋のドアをあけると、「青コーナー、なになにさん」とか司会者がいっていて、座席にたくさん人が座っていてびっくりした。「詩のボクシング」というのをやっていたのだ。

建築は安藤忠夫で、内容に比してやたらでかい。建築費、受付、警備員さんを雇って、これでは採算がとれず、ぜったい赤字だろうと、思った(笑)。
三上参次は、「江戸時代史」を持っていたので、知っていた。あの江戸通史は、山田屋大助の乱がけっこう詳しく書かれている。昭和11年には、文部大臣にと要請されたそうだが、断ったそうだ。

仕事で、1度、姫路にきたことはあるが、観光できたのは初めてだ。姫路って、人が多そうで、いやと思っていたけど、そうでもなかった。姫路には、他にもいっぱい見るところがあるようだけど、今日は、この二つしかいけなかった。ふたつの中では、むろん、好古園の方がよかった。

画像は、好古園から見えた姫路城

「ドゥホボール教徒の話」、「トルストイ」

2007-06-17 | 読書
木村毅「ドゥホボール教徒の話ー武器を放棄した戦士たち」(恒文社)を古本ネットで手に入れた。1050円。

これは、トルストイ、あるいは、「復活」に興味のある人には、おもしろい読み物だ。
ドゥホボール教徒とは、ロシアのコーカサス地方で、戦争絶対放棄を実践した農民の宗教団体だ。かれらは、軍隊を拒否、ばかりか、家からも人を殺傷するあらゆる道具を捨て、「汝、殺すなかれ、悪にさからうな、暴力に向かうに暴力で抵抗するな」の精神を実践しようとする。当然、ロシア政府の迫害、弾圧をうけ、カナダに移住することになる。しかし、2万人近い人々をカナダに移住させるには、莫大な費用がかかる。この費用を捻出するために、トルストイは放棄していた「復活」の執筆を再開し、完成させる。

この教徒のことと、その救援に力を注いだトルストイの話だ。
いろいろ挿話があって、おもしろい。最初のノーベル賞はトルストイが候補にあがったが、トルストイは拒否、かわりにこのドゥドボール教徒に与えるようにすすめたとか。
あのクロポトキンも、この教徒の移住には、力を尽くしたらしい。
「復活」のモデルのこと、これは、よく知られていることだけど、そのモデルについてや、「復活」を最初に読んだ日本人は、広瀬武夫、伊藤博文だとか、トルストイを訪問した徳富蘇峰、トルストイといっしょに「老子」をロシア語に訳した小西増太郎、など日本人のことも数多くふれている。
日本でのニコライ皇太子暗殺未遂事件で、日本嫌いだったマリア皇太后に、拝謁した西郷従道、マリア皇太后に、「あなた方、日本海軍士官は、どんなことが一番好きですか」と問われ、西郷は「さあ、やっぱり、酒と女でごわしょう」と答え、マリア皇太后は、「こんなおもしろい外国使臣には会ったことがない」と、それから日本ひいきになった、とかの噂も書いてある。あくまでも噂だけど。

こないだ、テレビでソフィーマルソーの「アンナ・カレーニナ」をやっていて、見た。ソフィー・マルソーは美しいとは思わないのだけど、しかし、また「アンア・カレーニナ」を読みたくなった。とにかく、トルストイは端倪すべからざる巨人だ。「救民」の大豪傑でもある。

序文で、著者は書いている。
「直接の動機は、いま、日本の憲法の第9条の条項が抹殺されそうな危機にあることだ。ー略ー私はその国民をバカにした野放図さに憤慨を禁じ得ないのだが、考えてみると、内に、みんなの心の中にしっかりした一線をひいておかぬと、この通り基本法の憲法でさえも空念仏に終わって、無権威の空文に堕する。その精神的な一線をひくには、ともかくも、ドゥホボールの踏んだ路が、何かを教える。最高、最良のことを暗示する」

これは、今、書かれたのではないのですよ。昭和40年、今から42年前の言葉です。

「チェ・ゲバラ遥かな旅」を見た

2007-06-09 | 映画・テレビ
期待にそむかぬドキュメンタリー。よかった。NHKBS、やるじゃないか。
ゲバラは本で読んだこともなく、ただ、ゲバラ青年時代の旅を映画化した「モーターサイクルダイアリーズ」を見ただけで、ゲバラの生涯はよく知らなかったのだけど、知らない人にもゲバラのことがわかるように作られている。構成が巧みだ。

ゲバラ最期の土地ボリビアを訪ね、ゲバラと最後に関わった人にインタビューをする旅だ。インタビューの間に、たくさんの写真や過去のフィルム映像を挿入して、ゲバラの生涯がわかるような構成になっている。

青年時代の南米の冒険旅行、そこで知った南米の過酷な現実や不平等、そして、カストロと知り合い革命運動に入ったこと、2度目の結婚をし、日本の広島まできたこと、カストロと別れてボリビアに入るまで紹介している。

ゲバラが捕らえられ、監禁されていたのは、ボリビアの片田舎の小学校。ゲバラと最後に言葉を交わしたのは、その小学校の女教師(当時19歳)。そおっと、小学校の教室を開けると、そこには縛られたゲリラ兵士。驚いて黙っていると、ゲバラが「こういうときは、おはよう、というものじゃないの」と話しかける。
このとき、女性は、ゲバラが何者か知らず、ゲリラは極悪犯人としか思っていなかったが、服がボロボロ、髪がぼうぼう、髭もじゃのゲバラを「美しい男でした」と語る。
「あなたは、家族があるの?」と(家族があるのに、ゲリラになんかなって、という意味をこめて)問うと、その意味を了解したように、「妻もあれば、子どももいる。だけど、ぼくは、妻や子どものためではなく、思想のために生きる。これが僕の思想で生き方だ」と答える。「君こそ、こんな片田舎の何もないところで、どうして教師なんかしてるの」とゲバラから問われ、女性は、「これは私の天職です。これが私の思想であり、生き方です」と答えると、ゲバラはにっこり笑ったそうだ。
たった半日のゲバラとのわずかな交流だったが、この女性はゲバラとの出会いがその後の人生を大きく変えたようで、「貧しい人間のために戦い、人々のために命をかけた」ゲバラと最後に話を交わし、食事を与えた人間としての誇りを持ち続けている。

他に、ゲバラの死体を見て暗殺されたと見抜いた医師、死体を洗った看護婦さん、ゲバラと共に戦った同志、友人のインタビューもある。
ゲバラは死んでもあの大きな目は閉じなくて(だれがやってもまぶたは閉じなかった)、目を開いたままの死体が公開される。極悪人として公開したのに、ゲバラを見た人は、横たわったゲバラを見て、「キリストと似ている」と言い出したそうだ。

ゲバラの写真やフイルム映像はたくさん出てきた。たしかに、ゲバラは男前というか、美しい男だ。魅力的だ。カリスマ的存在になるのもうなずける。

常に太い葉巻を加えていた。戦陣でも、執務中でも、人を抱擁しているときも、片手から葉巻をはなさない。この嫌煙の時代、南米の人たちは、タバコはどうしてるのだろう。

ゲバラの埋葬場所は、そこが聖地になることを恐れる政府によって秘密にされ、その埋葬場所が発見されたのは1997年のことらしい。

ゲバラは「平等な世の中を作りたい、不平等をなくしたい」そのために生きた。
ゲバラも「救民」を志した男なんだ。

取材、構成、ディレクターも戸井十月氏だ。責任も戸井十月氏にある。NHKでは作れないだろう。しかし、NHKもよくこの企画を受け入れ、放送した。よくやった。

備後三原の一揆とはほんとにあったのか?

2007-06-04 | 歴史
天保8年2月の大塩の乱に影響を受けた一揆、乱として、どの歴史の本を見ても、
4月、備後三原で大塩門弟をなのり800人の一揆、6月、越後柏崎で、生田万の乱、7月、摂津能勢の山田屋大助の乱がかいれある。たとえば、小学館の大系日本の歴史第11巻「近代の予兆」(青木美智男)にもあるし、岩波書店の小型の日本史年表にも天保8年の欄には、この3つの騒動が出ている。

6月の生田万、7月の能勢騒動はたしかに事実だが、備後三原の一揆はほんとにあったのだろうか。これは風聞だけだったのではないだろうか。事実だったら、も少し詳しい事実がわかってもいいのだけど、この備後三原の一揆については、まったくわからない。備後三原の郷土史には書かれているのだろうか。あったけど、あとで情報を抹殺してしまったのか。あるいは、もともとなにもなかったのだろうか。
ちょっと知りたいと思っている。

それにしても、大塩の乱は全国に影響を与えたといわれるけど、直接的には、たった3つ、ひょっとしたら、たった2つの小さな乱をしか起こしていない。少なすぎる!

飢饉が大塩の乱にきっかけだったと思う。
天保8年の9月から米価は下がり始めたというから、飢饉が終わると、「救民」の旗はもう用がなくなったのやろか?



七人の侍

2007-06-03 | 映画・テレビ
久しぶりにビデオに録画してある「七人の侍」を見た。
何度、見てもおもしろい。やはり一番好きな映画だ。
特に、志村喬の勘兵衛が最高。
前編、百姓から差し出された飯椀を「この米、おろそかには食わんぞ」と言って受け取るシーン。前編のラスト、刀をぬいて、百姓を追いかけ、「自分のことだけ考える者は自分をも滅ぼす」としかる場面。
後編でも、戦いの指揮官としての貫禄を見せ、ほんとに惚れてしまう。

三船敏郎も若くて、いい。昔の(戦後)日本は、こんな野性的で、生命力をプンプンさせた自然児たちがたしかにいたと思う。いや、近所のガキにも、ケンカがめっぽう強い、こんな暴れん坊はいたな。今は、いないよなあ。

百姓を助ける。これは「救民」だ。
映画は野盗から百姓を救う話だが、百姓にとって、野盗よりも恐ろしいのが、年貢の増徴や飢饉による飢え死に。

侍が、百姓のために、「救民」のために立ち上がった話は、歴史上では大塩、生田などほんの少しの例外をのぞいて、ほとんど見つからない。歴史上では、百姓は「救民」のために、自分で立ち上がっている。「義民」とされている男たちがそうだ。侍ではないけど、「七人の侍」のような男たちはいっぱいいた。なぜ、もっとドラマにならないのだろうか。

江戸時代、250年かかって、やっと天保時代くらいに、人々にとっての「義」(価値)とは「救民」にある、と気づいたのではなかろうか。大塩も意識するとしないに関わらず、天保期の一揆に影響をうけざるをえず、武士でありながら、「救民」のために、結果的に武士社会を否定するような180度転換の武士像を示す。
幕末に一番はやった芝居は、「佐倉惣五郎」だ。「救民」の価値は、全国的に支持された。

維新から140年、江戸社会に定着していた「救民」の言葉もすでに死語になり、「佐倉惣五郎」「義民」も消え、今は、毎日、NHK大河の将軍さまや武将さまのお話ばかり聞かされる。「救民」はお奉行さまがしてくれるものらしい。

また、話が飛んでしまった。「七人の侍」みたいな映画がもっと見たい。
「浪人街」も夜鷹を守る話で、まあ「救民」の映画とはいえる。

画像は、旗本能勢氏の菩提寺「清普寺」(能勢地黄)にある薬師如来の石塔。鎌倉時代のもので、かなり磨耗していた。







唇さみしなんとやらと大塩と新聞

2007-06-02 | 新聞・テレビから
朝日は先月、国民投票法案がと成立したあと、5月の後半からは紙面から憲法についての記事は消えた。相手をキッと見据えて、ダメだ!と反対することはおろか、一人だけ周囲から飛び出した言論をすることを恐れる。ただ、もぐもぐと不満をつぶやきはする。おれもほんとうは気がすすまないのだが、とは言うが、結局は衆に従うというご仁だ。

今までの社説の見出し。
国民投票法案 さあ改憲だとはいかぬ 
イラク特措法 反省も総括もないままに
集団的自衛権 何のために必要なのか
教育3法   疑問がいっそう膨らんだ
米軍再編措置法 説明不足の見切り発車だ
年金法案   これでは不信が高まる

こう書きながらも、しかし、文中に、「反対」も「抗議する」の言葉はどこにもない。お上を批判はするが、「反対」という言葉は禁句になってしまったのだろう。しかも、ぶつぶつ文句らしいことを云うのはそのときだけで、あとは忘れている。
今日の、
教育再生会議についての社説の見出しは、というと。
「一から出直したら」だ。
いかにも、反対しているみたいだが、文中に、この言葉はどこにもない。会議を公開にし、オブザーバーを置いたら、と提案しているだけ。この見出しはおかしい。反対のそぶりだけじゃないか。

話は変わるが、「大塩研究」という雑誌(1990年、28号)に藤田覚という学者が、松浦静山の甲子夜話の話を紹介しているのを見つけた。

「ある日、余(松浦)が聞きしは、諸氏登城のとき、大広間にて、あるご家門の某侯、何かについて、しかも大声で言わるるには、大坂に平八とか騒乱に及びしと云うが、民を救うとあれば、この事なれば、我らにも加担すべき筋ありといわれしを、その余の列侯は、目と目を見合わせて、一人も一句も言い出す人なかりきと」

江戸城の大広間で、たぶん若い殿様で、江戸城では新人だったのでしょう、大塩が救民の目的で騒動をおこしたのであれば、わたしも味方したい、と大声でいったのでしょう。
他の殿様連中が、「この世間知らずのアホ」と目と目を合わせて黙っていたたようすが目に浮かびます。

今の新聞、世間がこの「目と目を視比して、一人も一句も言い出すべき人無し」という中、大音にて物を云った殿様を見習わねば・・・。



漱石と多田源氏

2007-06-02 | 日記
清和源氏の祖廟とされる多田神社。
江戸時代は多田院といった。
徳川家も一応、清和源氏の出と称しているので、家綱の時代に再興された。
もともとは、源満仲が創建した。平安時代の人だ。
この多田院を警護した郎党たちを多田院御家人とよび、武士団の元祖といわれる。気の遠くなるほど古い話だ。

しかし、能勢はこの多田院御家人たちの子孫たちが一帯を支配した。
秀吉の時代、多田院御家人は知行地をとりあげられ、帰農させられたが、生き残ったのが能勢氏。関が原のとき、家康に味方した功で旗本になり、幕末まで続く。大目付や町奉行になった人もいる。

農に帰った多田院御家人たちの子孫たちは、この能勢では多くが庄屋として暮らしたが、自分の家系への誇りはとりわけ強かったようだ。知行地回復など、武士身分への復帰運動を執拗にくりかえしたと聞く。江戸時代は系図作りがはやり、家康をはじめ、諸大名はほとんど系図を創作したが、多田院御家人の子孫たちは、「わが家系ほど、最も古く、たしかなものはない」という思いだったのだろう。

漱石の「ぼっちゃん」は、この多田院御家人の末裔なのだろう。
宿直部屋でバッタ事件にあったとき、こう書いてある。
「これでも、元は旗本だ。旗本の元は清和源氏で多田の満仲の後裔だ」

また、新聞に坊ちゃんのケンか騒ぎが載り、「近頃東京から赴任してきた生意気な某」と書いているのを見て、「某とは何だ」と、こう書く。
「これでも、れっきとした姓もあり名もあるんだ。系図が見たけりゃ、多田満仲以来の先祖を一人残らず拝ましてやらあ」
2回も多田満仲の名が出る。江戸で旗本なら、「坊ちゃん」は、能勢氏の一族なのだろうか、と思った。

気になって、註を見てみると、漱石の祖先は江戸の名主だったが、夏目家に伝わる系図によると、先祖は、多田の満仲の弟の多田の満快から八代目の「夏目」という旗本だった、と書いてあった。ふーん。