虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

WTO決裂 農業改革の大合唱

2008-07-31 | 新聞・テレビから
WTOが世界貿易機関という名称の略だったことも知らなかった男だけど、29日の夜、WTO交渉決裂のニュースが流れたときは、翌日の社説はこれだろうとおもった。ところが、30日は、報道記事のみで、社説はなし。大手各紙とも同じだ。そして、今日、31日に大手5紙、一斉に社説。
朝日の社説の見出しは、「合意へ、出直しを急げ」。
交渉が決裂したのは、残念だ。自由貿易を進め、経済発展のためには合意は必要。日本の農業が滅びるなんて心配しないで、競争に勝てる農業に体質改善せよ、ということだ。各紙とも、同じだ。

「しかしいまこそ、ラウンド再開に備え農業改革に取り組むべき時だ。世界的な食糧高騰で内外価格差が縮小している。農業が脱皮して国際競争力をもつには、またとない好機なのだ。」 (朝日)


「高齢化と生産性の低迷に悩む日本の農業は存亡の危機に直面している。今こそ農業改革に果敢に取り組むべき時だ。耕作放棄地の対策や次世代の農業担い手の育成、企業の参入機会の拡大などを早急に進めなければならない 」(日本経済)

「日本の農業に対する市場開放圧力は今後も止まらない。農業の生産性を向上させ、競争力をつける構造改革が急務だ」(読売)

「国内の農業に目を転じれば、WTO交渉に関係なく、体質強化が待ったなしだ。交渉による外圧が薄れたからといって、必要な改革を先送りするようでは、日本の農業が衰退に向かうのを止めることはできないだろう。政治や行政はその点を心しておくべきだ」(毎日)

「日本は交渉で農産品の大幅な市場開放を迫られた。決裂は安堵(あんど)ではない。現在、オーストラリアとの交渉でも広範囲に市場開放を迫られている。自給率わずか39%という現実から脱するために、農業改革に真剣に取り組むときだ」
(東京)

またもや構造改革?経済界の代弁しているのだろうか。農業改革とは、農業の企業化をすすめることか?

WTOもよく知らなかったくらいだから、この問題はわたしにはわからん。しかし、大手マスコミがかくも口をそろえて大合唱をすると、首を傾げたくなる。大手マスコミ、まるで相談して社説を書いたよう。あるいは、政府から頼まれたか?
ここ数年、大きな問題についての意見(社説)はどれも似たようなものが多くなっているので邪推したくなる。

交渉決裂、当然だ、という意見はやっと個人のブログの中で発見できる。

竹島問題、大手5紙はどんな意見を言うだろうか。

田代栄助 草の乱

2008-07-27 | 一揆
最後です。田代栄助。写真がのこっていますが、いい男です。林隆三がやってもおかしくはありません。しかし、貫禄となると、やはり片岡千恵蔵にやってもらわなくては(古すぎる?)。
会議室では、ときどき、お遊びで、インタビュー形式で書いたりしたこともあります。田代栄助はインタビューです。饒舌、冗舌でおはずかしい。長いです。

この人に聞く 田代栄助(1)
( 8) 01/08/11 14:16 10626へのコメント コメント数:
今回は瓦版屋吉三郎さんのまねをして、「この人に聞く」シリーズとして
書かせてもらいます。

「まいどー。親分、インタビューさせてもらいまっかあー」

栄助「馬鹿野郎。お盆にインタビューにくるヤツがいるか。今、忙しい。ノー
   コメントだ。帰れ」

「親分さん、いや総理!あなたの写真を見て、あこがれてたんですよ。面長
  で、高い鼻。きりりと結んだ口元、手には煙管。はっきりいって男前です
  よね。声も渋くてしびれます。」

栄助「そうかなあ。それほどでもないと思うけどなあ」

「若いころは、貴公子だともいわれていましたよね。知ってますよ。もとは
  ええとこの人なんでっしゃろ?」

栄助「まあね。もとはといえば関東北条家の遺臣、先祖は鉢形城の武士だよ。
   秀吉に滅ぼされてからは、農になったが、ずっと名主さ。まあ一番大き
   な名主かな。きみ、お茶、飲んでいくかい?」

「おおきに。では、さっそくインタビューを。そんなお大尽の名主さんが、
  なんで博徒におちぶれたの?」

栄助「馬鹿野郎。きみは、おれの訊問調書を読んだか。『自分は性来強きを挫
   き、弱きを助けるを好み、貧弱の者くるときは、附籍いたさせ、その 
   他、人の困窮に際し、中間に立ち仲裁等をなすことじつに18年間、子分
   と称する者ニ百有余人」と話しているじゃないか。名主も親分も似たよ
   うなものさ。弱いものにたのまれたら、いやとはいえないのよ。」

「慶応2年には武州世直し一揆がありましたね。秩父陣屋までおしよせたた
  いへんな一揆だったそうですが」

栄作「おお、覚えてる。一つ山を越えた名栗山の紋次郎が頭取だったそうだ 
   な。おれが32歳のときだった。大宮郷におしよせてきたので、自衛団
   組織して鎮圧したよ」

「栄助さんも自衛団を作って一揆に対抗したのですか」

栄作「ノーコメントだ」

「それにしても、維新以後、財産はなくなりましたね。土地なんかどうなっ
  てしまったのですか?」

栄助「フン、おれは金もうけをするつもりはないからな。それにだ、維新後、
   財産がなくなったのはオレだけではないぞ。あの激動の時代、暮らしが
   変わらないヤツのほうが不思議だよ.特に、ここは養蚕国だからな。当
   時の輸出産業、日本の基幹産業だぜ。好不況の差が激しい。繭のねだん
   が下がると、食う米買うために借金しなくちゃならない。みーんな高利
   貸しに土地も財産も吸い取られたんだ」

「維新後は、代言人もしていたということですが」

栄助「当時は弁護士も今と違って免許はいらんかったからな。今、思うと、当
   時の代言人はえらいぞ。文字を知ってるもの、口利けるヤツは代言人に
   なって人を助けた。そのうち、政府は資格を作って、制限してしまった
   けどな」

「唐突ですが、博徒は博徒同志のつながりがあったと聞きますが、博徒の本
  場、上州で知ってる親分はいますか」

栄助「そりゃあ、忠治親分だろ。嘉永3年、おれが16の年よ。」

「上州の山田城之助親分は?」

栄助「てめえ、よく知ってるな。明治の山田城之助親分は上州一だったな。
   上州自由党ともつながりがあったお方だ。顔見知りだよ」

「むかし思えばアメリカの独立したるもむしろばた ここらで血の雨降らせ
  ねば、自由の土台が固まらぬ、と歌った群馬事件にかかわった親分です 
  ね」

栄助「ふん、俄勉強しやがって、なんにもしらねえくせに。むりすんじゃ
   ねえ」

「すいません。親分と自由党の関係をお聞きしたくて」

栄助「自由党なんてでえいきらいだ。なんの関係もあるもんか。まず、酒を飲
   ませろ。話はそれからだ」


RE:この人に聞く 田代栄助(2)
( 8) 01/08/11 18:31 10627へのコメント コメント数:1

「昼から酒を飲む、こんなぜいたくはありませんね。親分、もう1ぱいいかが
  ですか」

栄助「この酒、うまいな。摂津の呉春とな?さてと、自由党についてだった 
   な・・・」

「はい。自由党」

栄助「自由党ねぇ・・・。おめえなんか想像もつかないと思うけど、当時、自
   由党という言葉はすごいもんだったぜ。在野のもんにとっては、まあ、
   勤皇の志士、世直し神みたいなもんよ。実態は知らんけど、イメージが
   な」

「明治17年に大井憲太郎が秩父で演説していますね。聞きにいきましたね」

栄助「ノーコメントだ。しかし、大井憲太郎といえば、当時、関東では自由党
   の闘士として人気抜群だったね。英雄だったね。明治の清河八郎といっ
   ていいくらい、だ」

「自由民権としては中江兆民、植木枝盛なんかは現代でも有名ですけど、大
  井憲太郎の名はほとんど消えてますよ」

栄助「それはいかん。彼も清河八郎みたいに誤解されやすいタイプなのかもし
   れない。大井がもっとがんばってくれたら、なんとかなってたかもしれ
   ないけど、でも、大井一人の力じゃ無理だなあ。でも、大井を抹殺して
   はいけないぞ」

「ところで、大井が秩父で演説したころ、親分は秩父自由党の幹事村上泰治
  という人のところへ自由党入党を申しこみますね」

栄助「そうだ。聞いてくれ。相手はまだ17歳の小僧だぞ。それが秩父の麒麟児
   だとか噂されてね。わしは、当時、51だよ。自由党とはどんなものか姿
   勢を低くして聞きに行った。わしは自由党の主義はなんですか?と率直
   に聞いたのよ。この小僧、わしのような博徒が『主義はなんですか』な
   どと聞いてあきれたのかもしれない。『自由党に別に主義はない!』と
   答えるきりだ。おまえのような学のないヤツに説明してもわからん、と
   いう態度だ。腹はたったが、がまんして、加盟したい、というと、紙を
   出してくれ、調印した。それから、もう1度聞いてみた。『自由党であ 
   れ、改進党であれ、会社であれ、結合したものには、主義があるはず。
   それを書いた主意暑とかあったら見せてほしい。なかったら、口でいい
   から教えてほしい』とたのんだんだ」

「ちゃんと親切に教えるべきだね」

栄作「ところがだ。その返事は、突然、大声で漢詩を2回も吟ずるだけよ。こ 
   しゃくな野郎だと思わねえか」

「志士意識というか、エリートのいやらしさだね。」

栄作「わしは憤然と席を立ったよ。こんなのが自由党員か。がっかりだ」

「その村上はそのあとすぐ暗殺事件にかかわって逮捕され、獄死してます 
  ね。」

栄作「そうらしいな。考えると、まだ若いのにかわいそうなことだ。わしを密
   偵かなんかと勘ぐったのかもしれんな」

「でも、そのあと、今度は自由党の人も含めていろいろ人が相談にのってほ
  しいと頼みにきたでしょ。何回も」

栄助「うん、おれは会いたくないから、いつも裏山で飼ってる蚕を見にいって
   いた。誘いにはのりたくなかったんだ」

「でも、結局は参加してしまう」

栄助「貧民を救うために是非たのむ、といわれては断りきれないじゃないか。
   それに、誘いにきたのは、自由党員といっても、村上のような金持ちの
   旦那自由党ではなく、真剣に村人のことを考えて実際に活動している男
   たちなんだな。もう、勝手にだいたい話はできているんだ。わしは頭に
   なるだけなんだ」

「自由党はすでに解党しちゃいましたよね。それにしても親分、ちょっと主
  体性がないなあ。西南の役の西郷さんではないんですよ」

栄作「おお、西郷さんか。明治政府の軍隊と戦ったのは、西郷軍と秩父困民党
   軍だけだったな。でも、わしだって、自己を主張したことはある。もう
   少し、その呉春を飲ましてくれたら、話すよ」


この人に聞く 田代栄助(3)
( 8) 01/08/12 00:47 10628へのコメント コメント数:1

栄助「きみは、関東一斉蜂起って知ってるかい」

「はい、幕末、清河八郎もきっと夢想し、相楽総三は実際にその準備に奔走し
  ていましたね。でも、実際にやったのは、百姓。連絡をとってたわけでは
  ないけど、関東はあちこちで一揆勢が蜂起しましたよね」

栄助「明治17年の関東もそのような雲行きだったんだ。関東はどこも養蚕農家
   だしな。自由党の壮士連中も多いし。福島、栃木、群馬、長野、神奈川、
   埼玉、あちこと不穏な動きがあったんだが、各個撃破されてしまうん 
   だ」

「幕末の清河八郎みたいな大将はいなかったんでしょうか」

栄助「大井憲太郎しかいない。しかし、大井にも手におえないよ。自由党が解体してし
   まうんだからな。大井は秩父自由党の仲間から決起するという知らせを受けるけ
   ど、中止するようにと急いで子分を派遣するんだよ」

「栄助さんはどう思ってたの?」

栄助「合法的な請願行動をとるならいいけど、実力行使に出るなら、秩父だけ
   ではだめ、上州とか信州とか他の土地とも連絡をとって関東一斉蜂起を
   するのでなければ、目的は達せられない、と思ったさ。だから、決起前
   夜、1ヶ月の延期を申し入れたんだ」

「大将の言うことを聞かないんだね。自分達が頭領にひっぱってきたのに」


栄助「幹部連中も反対したさ。中にはわしに白刃を向けるものまでいた。実 
  際、日々、武装蜂起に準備している者にとっては待てないギリギリの線 
  だったのだろう。わしは、直接、そこに屯集している大勢の村民にむかっ
  ても言った。『1カ月延期してくれ』ノーの返事だ。で、『15日間延期し
  てくれ』ノーの返事だ。『1週間待ってくれ』ノーの返事。そこで、わし
  は、村人を扇動してたくさんの人を集めた男を前にひっぱりだし、『この
  男の首を斬って謝る。延期して欲しい』とも言った。答えはノーだよ」

「大勢の村人達自身がもう動き出しているんですね」

栄助「そう、動き出したら、もうだれにも止められないよ。で、11月1日決起と決まっ
   た。わしとしては残念だった。あと1カ月あれば、関東一斉蜂起も夢で
   はないと思ったのだが」

「でも、信州から菊地貫平さんなんかが助け人にきてくれましたね」

栄助「うん、信州勢はがんばってくれたよ。でも、蜂起の前は帰ろうとしたこともある
   んだぜ」

「どうして」

栄助「菊地さんは自由党の理想を持ってるんだ。国会早期開設とか主義があるんだな。
   秩父の現実は高利貸し退治だから百姓一揆だ。百姓一揆なんかやだ、というん 
   だ」

「で、なんて言ったの」

栄助「1度、決起の内容を話したからには、他国人であろうとここからは帰さねえ、と 
   言ったさ」

「さすが親分の貫禄ですね」

栄助「いや、菊池さんも考えなおしてくれてね。自由党の理念よりも目前の村人の現実
   を見たら、村人たちの闘争が大事だと思ったのだろう。いざ、決起してからは大
   活躍してくれたよ」

「決起は11月1日の夜。下吉田の椋神社に集合ですね。前夜は集会のあと、栄助さんは友人の神官の家で静かに酒を飲んだということですが、どんな心境でした?」

栄助「ノーコメントじゃ」


この人に聞く 田代栄助(4)
( 8) 01/08/12 12:25 10629へのコメント

「決起は11月1日の夕、いよいよ吉田の椋神社に集結ですね。頭領になるこ
とをひき受けたのが9月、この2カ月はお疲れだったでしょう」

栄助「もう身体はボロボロ、あー、疲れた。あとは、きみが説明してくれ」

「吉田椋神社に夕方約3000人の農民が集まり、親分はそこで、みんなの前で
  役割表を発表しますね。総理、副総理、甲大隊長・・・とか。きっと集合
  した農民の大きな喚声がわきおこったでしょうね。それにしても、小隊長
  とか会計長ばかりでなく、兵糧方、合薬方、小荷駄方とか細かく役割分担
  してますね」

栄助「あたりまえよ。大勢でやる行事は、祭りだって、役割が必要だ。」

「決起してからは、栄助さんの仕事はここで、役割を発表するだけで終わっ
  ていますね」

栄助「そういうもんさ。あとは、参謀長や大隊長たちにまかせればいいのよ。
   参謀長が軍律をみんなの前で発表してるだろ。それも書いてくれ」

「1.今般、大事件中、金円その他を私に押領いたすまじき事。若し犯すも
  のは斬。
  2.事件中、決して婦人に関係いたすまじき事、若し犯すものは斬。
  3.酒宴遊興は一切いたすまじき事、若し犯すものは斬。
  4.私の遺恨をもって人を暴害いたすまじき事、若し犯すものは斬。
  5.すべて指揮するもの、命令をうけず私に事をなすまじき事、若し犯す
  ものは斬」
  甲州一揆や武州一揆で一揆勢が決めた掟と似ていますね。

栄助「さあ、早く出発しよう。もうそろそろ話を終わりたいんだ。お盆だから
   あいさつまわりにいかなくちゃ」」

「午後8時、椋神社を出発、鉄砲隊、竹槍隊、抜刀隊と列をなして進みま 
  す。途中、高利貸しを打ち壊したり、駆り出しをしたりしなふがら、夜 
  中、諏訪神社で野営。翌日、いよいよ秩父の支配所である大宮郷に突入で
  す。あらかじめ、先発隊が大宮(現秩父市)を偵察すると、郡役所、警察
  はもぬけのから。官服をぬぎすて、髯をそりおとして退散したそうな。大
  宮郷を見下ろす音楽寺の鐘を乱打して、突入。無血入場ですね。
  郡役所を本陣にします。役所、警察所、裁判所も占拠、囚人も解放したと
  いうから、秩父コミューンの成立ですね。このときは10000人になっていた
  とか」

栄助「もう、そこまででいいだろう。あとは、いいよ」

「どうして?」

栄助「負け戦の話は聞きたくない」

「負けるのがあたりまえですよ。なにせ、あなたの敵は薩長ですからね。
  報告を聞いて軍隊を派遣したのが、内務省の山県有朋(長州)、近衛連帯
  参謀が乃木希典(長州)、警視総監が薩摩の大迫貞清。埼玉県知事が薩摩士
  族、内務省に連絡した埼玉県小書記官が長州士族。西郷さんや吉田松陰さん
  の後輩たちに弾圧されたわけだ」

栄助「幕府時代とは違うよ。電信、鉄道ができているから、鎮圧軍に包囲されるのは早かった。しかも、こっちは、猟銃だけど、むこうは新式村田銃だしな」

「11月4日、3時ころ、あなたは本陣をぬけて逃げますね。逃げたことを怒っている
  人もいるそうですよ」

栄助「わしは、戦国武将ではないし、最後まで戦う必要はないよ。無駄な戦はしたくなかったのさ」

「どうもありがとうございました。最後になにかひとこと」

栄助「振りかえり見れば昨日の影もなし 行く先暗し死出の山道   辞世」









大野苗吉 草の乱

2008-07-27 | 一揆
次は大野苗吉。
「天朝さまに敵対するから加勢せよ」。有名な言葉ですが、映画でも、はじめのほうに出てきます。若い俳優が演じていました。最後は銃撃されて死にます。最も戦闘的だった風布村とは、長瀞のあたりだそうです。わたしも長瀞では船に乗りました。

甲源一刀流と秩父事件(2)

つぎは、大野苗吉。
文久2年(1862)生まれだから、事件当時は22歳?かな。

寺尾五郎の「草莽吉田松陰」は次のような文章で終わっています。

「かつて松陰は、「恐れながら、天朝も要らぬ」と叫んだ。
いままた新しい主要矛盾、天皇制と全人民の矛盾にたちむかうち秩父の貧農大
野苗吉は叫ぶ。
「恐れながら、天朝さまに敵対するから加勢しろ」
と。ここに、松陰の革命思想が連結し、再生しているのだ。」

松陰の革命思想が秩父事件に再生しているかどうかは知らないけど、大野苗吉
が言った「おそれながら、天朝さまに敵対するから加勢しろ」の言葉にきっと
インパクトをうけたのでしょうね。

この人も甲源一刀流の逸見道場で剣を習った一人。大野苗吉は秩父の「風布村
(ふっぷ)」の人。この風布村の人達は、秩父事件を通して最も積極的に果敢
に戦い、困民党の中核になったっそうです。

秩父に長瀞(ながとろ)という景勝地(キャンプ場にもなってる。岩場が多
い)がありますが、東京の人はごぞんじですよね。埼玉には数少ない(失
礼)、東京からの日帰り観光コースの一つかも。わたしも昔、行ったことがあ
ります。でも、このあたりが、秩父事件に多くの参加者を出した「風布村」と
は知りませんでした。

さて、この大野苗吉。寺尾五郎は「貧農」と書いているけど、苗吉の家は中堅
農家で、むしろ「お大尽」の部類に入るそうな。農閑期に甲源一刀流を習いに
いってたらしい。前に話した新井周三郎とも親しい仲だったでしょう。

新井周三郎が斬られ、戦線をしりぞいたあと、困民党の本陣はくずれますが、
苗吉が周三郎にかわって甲大隊長になって指揮をとります。
村田銃をかまえた憲兵隊にむかって白刀を「すすめ、すすめ」と叫んで突進し
ていったそうな。消息不明。おそらく戦死したのでしょう。あるいは、どこか
で生き残ってるかもしれません。

甲源一刀流の剣客、まだまだいそうだけど、秩父事件はまだよく知りませんの
で(書いたこともまちがいがあると思う)、これで終わります。





菊池寛平 草の乱

2008-07-27 | 一揆
続いて菊池寛平。映画では雪の中、信州へいき、東車流(だったか?)というところで戦う場面も出ていました。ここに碑が立っています。知らない俳優さんでした。


百姓と秩父事件
( 8) 01/08/10 22:49 10625へのコメント コメント数:1

江戸会議室に秩父事件なんて、と思われるかもしれませんが、秩父事件を通して
江戸時代の百姓の顔が少しはのぞけるような気もしました。

秩父事件には膨大な訊問調書が残されているし、幹部連中の写真もあるし、そ
りゃ具体的です(もちろん、あくまでも江戸期と比べた上でですが。不明なこと
はやっぱり多いけど)

江戸時代の百姓一揆の記録を見ても、頭取になったものの記事(それも鎮圧側
の記録)がほんの少し残ってるだけで、他の一般の人の顔やようすなんかまっ
たくわかりませんよね。農民といえば、ぜいたくせずに、真面目に汗して黙々
として働く、七人の侍に出てくる農民か、下手すると、まるで絵に描いた工場労
働者みたいなのを想像してしまう(^^)

でも、百姓だっていろいろ。
賭博はするし、剣術は習うし、学問もするし、芝居も見るし、おしゃれはする
し、働かないのもいれば、商売するのもいるし、船にのるヤツだっている。ワ
ルいヤツだっているし、

領主としては、ぜいたくしないで、賭博もせず、文句もいわず、まじめに年貢
だけ納めてくれる百姓を期待したいでしょうが、そういうわけにいくかあ!
(^^)

甲州騒動の武七さんなんかは、秩父事件の田代栄助なんかを連想させますね。田
代さん、博徒ということですが、職業としては、養蚕家、農です。博徒みたいな
個性も、それは百姓としてそんなに異端ではない個性だったのでしょう。だから
こそ、総理にもなれる。

秩父事件で参謀長になった菊池貫平という信州佐久の男がいます。

本陣解体後、総理田代栄助が逃げたあと、自ら総理となって200人ほどつれて信
州佐久にまで転戦します(ここに「会津の先生」なんかも参加しますが)。ま
あ、最後まで戦った闘士です。信州の佐久に「秩父暴徒戦死者の墓」が建ってい
ますが、これは菊地貫平の子孫が建てたものです。菊地貫平は死刑の判決をうけ
ますが、大正まで生き延び、家族に見守れて大往生です。

菊地貫平、職業は養蚕家(村内屈指の養蚕家だそうな)、まあ農民ということ
になりますが、一般の農民のイメージはないですね。
貫平の孫はまず曽祖父についてはこんなこと書いています。

曽祖父は米吉と呼ばれ、名主様の次男坊で、なかなか利口者であったが百姓仕事
が大嫌い。寛政の改革のころ、信濃の片田舎では大名でも絹織物に遠慮した時代
に、この人ばかりは、『やわらかい着物でなくて手が通せるかい』とばかりすま
してつむぎを着ていた。

この息子が菊地貫平です。弘化4年生まれ、元治4年に菊地家に婿養子に入りま
す。村内屈指の養蚕家だったそうです。

井出孫六の「峠の廃道」(平凡社)によると、貫平、婿入り後のようすはこんな
だったようです(伝記作者による)。略して書きます。

昼は岳父のいいつけをまもり、夜はむづかしい本ばかり読んでると、

隣りの大伯父「貫平、本ばかり読んでてどうする!若いものと付き合わずに
       そんな本ばかり読んでいると、信用なくすぞ、碁か将棋でもや 
       れ!」
       で、碁、将棋をはじめる。スルト・・・
川向こうの従兄「やい、貫平、耄碌した年寄りの暇つぶしみたいなものをしてど
        うする!三味線とか手踊りとか若者は若者らしいのを覚え  
        ろ!」
        で、べんしゃらりとやりだすと、
坂上の従兄「馬鹿野郎!することにことかいて三味線とはけしからん。男らしく
      剣術をやれ!」
      で、やっとーの練習をする。
隠居   「泰平無事の世に剣術とは。生兵法はケガのもとじゃ。やめなさい。
      詩歌俳諧の道に入りなさい」

こうして、貫平さん、なんでもマスターします。後、代言人になり、佐久の農民
からこんな風に証言されます。

「いったい貫平という者は・・・なまけ者にこれあり、東京へいくのまたはど
こへ行くのと言うて在宅すること稀なる人物にて、越中の薬売りが3年泊まりて
も顔を見たことがないというくらいの人間にこれあり候」

百姓といってもいろいろですね。少なくとも江戸時代は、ただ黙々と働くだけ
じゃないよ。
甲源一刀流と秩父事件(3)
( 8) 01/08/08 20:10 10616へのコメント コメント数:1


甲源一刀流と秩父事件が関係するような話題がまだありましたので、追加しま
す。まだやるのか、と言われそうですが、なんせ机龍之助の剣ですからご容赦(^^)

信州佐久郡の菊池貫平は困民党の挙兵時、参謀長となり、死刑の判決を受けま
すが、逃亡。明治19年に逮捕されるも、恩赦で無期懲役、明治35年に出獄し
た人です。
この人の孫(高橋中禄)が祖父から聞いた話を書き残したのが「秩父一揆巨魁
の逃鼠」という文章(井出孫六編「自由自治元年ー秩父事件資料・論文と解
説」〔教養文庫)。

その中にこんな一節がありました。

「明治16年の初秋ーといえば暴動勃発の時より1年余りの以前の出来事であ
る。初秋とはいえ、海抜4000尺、日本有数の寒村にはもう初霜の降りるころで
ある。武田の勇将相木盛之助の出生地として、その城跡のある、信濃国南佐久
郡北相木村に、ある日の午後、漂然として一人の旅人が現れた。袋小路のドン
詰まりみたいな、この村へ由緒ありげな旅人が来るのは、村人の不思議をあが
なうに値する。しかし旅人は村へ入るとたじろぎもせずに、村内の名家と知ら
れた宇久保の菊池家へ入った。菊地家の当主は貫平。才能近隣に比類無しと知
られた自由党員である。

 白皙長身、由比正雪のような漆黒な長髪をゆさゆさと肩に切り下げていた。
家人は妙なお客だ?と思ったそうであるが、主人は熟知の間柄らしく、いそい
そと奥座敷へ迎えて日暮れまでぼそぼそと何か密談をやっていた。(旅人、実
は剣客であって、後日、村を立退くまで姓名を秘していたそうであるが、秩父
の産、逸見愛助という人であったらしい)
 その翌日から、菊池家の納屋を臨時の道場として近在の生年壮年が集まって
きて、盛んな剣術の稽古が始まった。-略ー
この道場は一種の移動式道場で、半ケ月くらいで次から次へと、村内外の有力
者の家を廻ってそこを道場に人々を集めていた。-略ー
 村の青年どもがそれぞれ自分免許の天秤棒を振り回して野良猫の尻を追い回
すころになると剣術の先生は忽然と村から姿を消していた。以下略」

甲源一刀流の逸見愛作は関東一斉蜂起を画策する影のオルグだったんでは、な
んて想像したくなりますね。
でも、逸見愛作は秩父事件のときには自警団に手を貸した、という話もあるよ
うで、よくわかりません。
しかし、関東の農村地帯では、剣術の先生が村を回り、豪家の蔵や納屋を借りて
出張教授したってことは江戸時代からありそうな風景ですね。

甲源一刀流道場から遠くない下吉田の貴布弥神社の篇額には、明治14年に掲げた
逸見愛作の門弟百数十名の名があり、そこには世話役として井上伝蔵の名も
あるそうです。

井上伝蔵といえば、蜂起時、会計長をつとめました。困民軍が崩壊したあと
は、土蔵の中に1年ほど隠れ、そのうち北海道(北見)にわたり、そこで結
婚、家族から出自を問われても決して語らなかったそうですが、事件から35年
後、死の数時間前に秩父事件の首謀者であることをはじめて語り、同志たちの
追悼を息子にたのんだ人ですね。








加藤織平 草の乱

2008-07-27 | 一揆
同じく、7年前の会議室での話をコピーします。杉本哲太の演じた加藤織平です。
杉本哲太もちょっとなあ、という感じ。昔、NHK大河「翔ぶが如く」で桐野利秋役でメジャーデビューしたけど、この桐野の魅力のないこと。加藤織平なら、若い頃の丹波哲郎にでもやらさねば。

博徒と秩父事件
( 8) 01/08/09 22:28 10620へのコメント コメント数:1


天保7年の甲州騒動の噂はきっと秩父にも聞こえていたと思います。
秩父も甲斐郡内と同じく、養蚕で生計をたてている山国ですから。このとき、
秩父困民党の総理になった田代栄助はまだかわいい3つの幼児です(^^)。

江戸時代、秩父は忍藩の支配下にありましたが、田代家は、その筆頭名主の一
人だったそうです。田代栄助は天保4年生まれ、幕末世代です。維新のときには
34歳です。

秩父事件の総理は田代栄助、そして副総理は加藤織平。二人とも博徒というこ
とで、秩父事件を政府は、博徒やゴロツキ、貧民があばれた暴徒として宣伝し
ますが、そんなゴロツキではありません(当然)。

秩父困民党の頭領になった博徒の親分について書いてみます。

まず、総理の田代栄助といきたいところですが、副総理になった加藤織平親分
から。
田代親分は、やはりまわりから頭にかつがれたという印象が強く、実際にリー
ダーシップをとって指導した中心人物は副総理になった加藤親分みたいだか
ら。

加藤織平の生家は秩父の石間にまだ現存しているそうです(こういうところが
山国のいいところですね)。少し前までは白壁のりっぱな土蔵もあったそうで
すが、今は取り壊されたそうな。村ではかなり大きな農家だったのでしょう。
朝、だれよりも早く起きて馬にまたがりをまわって村人に声をかけ起こし
て歩くのが日課のはじまりだったそうな。働きものだなあ。でも、侠客として
の名も遠くにまで聞こえていたそうで、きっとめんそう見のいいにいさんだっ
たのでしょうね。事件のときは36才です。

この織平の子分に3人の男がいます。落合寅市、高岸善吉、坂本宗作。
3人とも織平親分の家からそんなに離れてなく、きっと足しげく織平さんちの土
蔵に賭博をしに通ったかもしれません。でも、チンピラ3人組などと思わないで
くださいね。
この3人は「秩父困民党トリオ」ともいわれ、この3人こそが秩父事件の発起人
ともいわれるのです。

かれら3人は秩父の人々の困窮は、高利貸しの収奪にあり、悪逆非道な高利貸し
をなんとかしてくれ!と役所に陳情にいくのです。陳情にいく前に何度も村人
と集会をしたと思います。もちろん、役所は耳を貸しません。3人は自由党にも
加入します。
おっと、秩父事件の詳細を書くことが目的ではないので、こまかいのはカット
します(書けないし)。まあ、あれやこれやがあって、親分、これはなんとか
しないと、って織平さんとも相談したんでしょうね。織平さんは、質屋さんみ
たいなこともしていて近隣に150円の貸し金があったそうですが、それを一切ご
破算にして、企図に参加します。


あの剣士新井周三郎も織平の家に来る。信州からの応援者(菊地貫平、井出為
吉)も織平の家に来る、上州かたの応援者(小柏常次郎)も織平の家に来る。
織平の家、土蔵は、中心的メンバーが集まる場所になっています。ここで秩父
事件は誕生したといえるかもしれません。

そして、「おれは、まだ貫禄がたりん、頭領にたのむなら田代の親分にたのも
う」と織平は田代栄助かつぎだしに乗り出します。

田代栄助よりも織平が主導した、ということは、蜂起前の10月に11月1日に蜂起
するか否かの戦術会議をしたときにもわかります。

田代は関東一斉蜂起を期待し、延期を主張、しかし、織平たちは1日即蜂起を主
張して、対立、結局、織平たちの主張を通します。

取り調べにあたった係官は「一党の中で一番人物ができていた」と加藤織平に
ついて語り残しているそうです。死刑。

加藤織平の墓は子分だった落合寅市が恩赦で出獄してから建てたものだそうで
す。名前の下には「志士」と書かれています。
でも、墓の角は欠けていて、これは戦前、子供たちに石を投げられたからだそ
うな。戦前はずっと、「志士」ではなく「暴徒」として見られていたのです
ね。いいかげんなこと書いていると思うので、正確なことはみなさん、ご自分
で調べてくださいね。





新井周三郎 草の乱

2008-07-27 | 一揆
昔(7年前だ)歴史会議室に書いた記事をコピーしておきます。なにせ、会議室なので話は饒舌です。まずは、わたしのお気に入りの剣士新井周三郎から。映画では、ひげをはやしていたが、ひげはないほうがよかったのに。

甲源一刀流と秩父事件(1)
( 8) 01/08/06 22:22 10603へのコメント コメント数:1

甲源一刀流逸見(へんみ)道場は秩父市の小鹿町にありますね。「るるぶ」にも
のっていた(でも、秩父事件も甲源一刀流には1行もふれてないや。食べ物ば
かり(^^))

この道場は資料館にもなってるようです。両神村小沢口にあります。
明治17年の秩父事件には甲源一刀流を習った剣士たちも参加していますので、
今回はその剣士を紹介しますね。

秩父事件は明治の話ですが、なにせ明治になって17年しかたっておらず、参加
者も十分江戸を知っている年代です。それに、最後の百姓一揆といっていいほ
ど、一揆の伝統を受け継いでいるので、この部屋で書いてもいいよね?

新井周三郎 ニヒルな机龍之助をイメージするのは妄想しすぎかもしれませ
ん。

年は若い。事件のときは20歳。若いけど、甲大隊長になっています(秩父困民
党は、軍勢を甲乙の2つにわけました)。大幹部の一人といってよいでしょ
う。この周三郎が斬られた瞬間から蜂起勢の瓦解が始まるのですから、いかに
力だのみにされていたかわかります。6尺の巨漢、白面の美青年。この人も逸
見(へんみ)道場で甲源一刀流を学んだそうな。

男衾郡(埼玉県寄居町西ノ入村)の豪農の次男坊として生まれます。田畑山林
多数所有し、近郷近在の素封家だったそうです。妙善寺の寺子屋で卓抜な成績
をおさめた周三郎は、18歳のとき、上京。資産家だから東京遊学ができるん
ですね。当時の甲源一刀流の道場主逸見愛作と親しかった「雨宮春たん」とい
う人の学問塾、また剣道場に学ぶ、とあります。ということは、18歳までに甲
源一刀流をすでに習得していたのでしょうね。

教員検定試験にパスし、故郷に小学校教員(鬼石小学校)として帰る。このこ
ろ、自由民権の志士なんかはけっこう小学校の教員というのが多いですね。
欠食児童も多く、村の実態を知り、モロに国家権力とむきあう場所だったのかも
しれません。しかし、言い伝えでは、その小学校の同僚の夫人と恋仲になり、
その小学校を辞め、2人で秩父に。

秩父の石間の小学校に欠員があることを知り、石間を訪ね、そこで、困民党の
副総理になった侠客の加藤織平を知ります。加藤織平はちょうど蜂起の相談の
真っ最中。周三郎は一気にその話にのめりこみます。
「教員の念を断ち、一に細民救助に尽力せん事」を誓います。

蜂起前から、資金強奪などに周三郎は抜群の行動力と統率力を示します。11月1
日夕刻吉田村椋神社で一斉蜂起が計画でしたが、周三郎の1隊は早くも警官隊と
衝突、周三郎は巡査の首を一刀両断。しかし、周三郎の獅子奮迅の働きも4日間
で終わります。

11月2日に困民軍は秩父大宮(現秩父市)の郡役所を占拠し、本陣としますが、
11月4日、朝、捕虜にしていた警官に背後から突然斬られて重傷を追います。
新井周三郎が斬られた、ということは、味方にとっては軍の柱が倒れたという
ショックを与えたようで、その日の昼過ぎには本陣は解体、総理の田代栄助も姿
をくらまします。

周三郎、重傷をおいながらも、故郷の西ノ入村の妙善寺に潜んでいましたが、
11月9日多数の警官に包囲されます。しかし、甲源一刀流の剣の達人周三郎を
逮捕にむかうものは一人もなく、ただ包囲するばかり、結局、妙善寺の和尚
(周三郎の恩師)が説得して手錠をはめて警官に渡したそうです。

周三郎の訊問調書がおもしろい。
問い  目的は
周三郎 なにも目的はない。早く申せば当時気違いになっていたのだろう。
問い  こんな暴挙をおこして、どうしようと思ったのか
周三郎 (笑って)自分は大総督になろうと思った。
問い   大総督とは?
周三郎 日本陸軍の大総督なり

死刑になりました。行く秋に 今日は劣らぬ 心かな
蜂起直前、故郷に帰って老父に渡した辞世です。

       参考 井出孫六「秩父困民党群像」〔社会思想社現代教養文庫)





草の乱を見た

2008-07-27 | 一揆
DVD「草の乱」を借りてきて見た。
富めるものはますます富み、貧しいものはますます貧しくなる(大井憲太郎の言葉)この時代のこの戦いは、「蟹工船」と同じく若者に見てほしい映画だ。

主演は、緒方直人と林隆三。前作「郡上一揆」でも同じ顔ぶれだった。なぜ緒方直人がやるのだろう(実は、あまり好きではない)。林隆三は、近江の天保一揆のテレビドラマでも頭領役を演じたが、一揆に思いのある役者なのだろうか。

前作「郡上一揆」よりもよかったと思う。下吉田の椋神社、音楽神社、秩父神社など昔、訪ねたことがある舞台が出てくるので興味深かった。また、百姓一揆とちがい、今度は、一揆勢は刀を差した武装勢力なので凛々しく思えたのかもしれない。しかし、武器をもってなぜたちあがらねばならなかったのか、というその背景や秩父の民の困窮の説明があっさりしていたので、よく知らない人は、政府が言うように暴徒と思ってしまうかもしれない。そこをのぞけば、まあ、一通りは描いている。よし、としておこう(笑)。打ちこわしの場面などがあって、うれしかった(笑)。

北海道の井上伝蔵(緒方直人)が、死ぬ前に、自分の前歴を家族に話すことから始まり、秩父一揆の話になり、最後は、井上伝蔵が家族と記念撮影をするところで終わる。

一揆では、主要な登場人物はみな出ている。剣士新井周三郎(知らない俳優だった)、大野苗吉(知らない俳優)、加藤織平(杉本哲太)、菊池寛平(知らない俳優)、高岸善吉(田中実)、大井憲太郎(益岡徹)、山県有朋(原田大二郎)、伊藤博文(山本圭)、田代栄助(林隆三)。

軍隊に次々に銃撃される困民党軍の人々。戦争ではない。もともとただの山の民ではないか、なぜ銃撃されなければならないのか。無念の思いだ。

秩父事件については、5,6年前だったか、興味をもって、パソコン通信の歴史会議室に書いたことがある。今は、すっかり忘れてしまったので、記憶をよびもどすために、そのころの記事をコピーしてメモとしてこのブログにも一部、投稿しておきます。

ちなみに、昔、秩父にいったとき、田代栄助のお墓にもいきました。大きな自然石だった。セブンスターを1本、墓の上においてきました。

この映画が上映されてから何年もたつが、やっとレンタル屋さんで借りられるようになった。いいことだ。たくさんの人に見てほしい。


タスポ

2008-07-26 | 新聞・テレビから
今朝の朝日の社会面に、囲み記事で、大阪市内のたばこ店が制服姿の高校生にタバコを売ったとして書類送検した、という記事。書類送検されたのは、82歳のおじいさんだ。タスポ導入で売り上げが落ち、未成年でもタバコを売ったらしい。こんな記事を新聞にのせるな!と思ったが、ネットで見ると、読売も、毎日も、同じ記事が。警察発表の記事なのだ。ここには、タスポについての是非も、販売店の苦労も、未成年の喫煙についての文もなし。ただそのまま警察発表をのせるだけ。新聞に書くべき記事は他にないのか!

タスポはカードを持ってないし、あんなものを利用する気はない。
だいたい、金かけてあんな機械を導入する意味はない。だれがお金を出すのだろう。あれ、税金?もうかるのは、あの機会を売る会社だけだろう。

未成年の喫煙を減らすために、あんな馬鹿な着想を立て、あれよあれよと実行してしまう。今の政府の政策はすべて、この手だ。

昔、坂本龍馬は中江兆民に「中江のにいいさん、タバコかってきておうせ」とたのんだらしいが、龍馬でなくても、子供にタバコを買ってくるお手伝いを命じた親は多いだろう。ああいうお手伝いもさせられなくなった。
いや、高校生のときは、わたしも、堂々とタバコを買った。ひそかに吸った禁じられたあのタバコの味(わたしは、ひびきを吸っていたが)、あの味は最高で忘れられない。吸う、吸わないは、あんな機械を導入しなくても、自分で決める。未成年が吸ってはいけないことはわかってる。罰せられるのは、吸う本人だ。未成年でも罰せられる覚悟はある。売った82歳のおじいさんが罰せられるとは。いやな世の中だ。そういえば、タスポ反対の記事は朝日で読んだことがないぞ。

浪人街

2008-07-26 | 映画・テレビ
DVDを借りてきた。「浪人街」と「続道場破り」。どちらも白黒の松竹作品。
こんなのを借りるのは、おじさんか、時代劇マニアくらいだろうな。

「浪人街」は、黒木監督の映画で原田芳雄がなった浪人に近衛十四郎、勝新太郎がなった赤牛という浪人に河津清三郎、あと一人は藤田進。この「浪人街」は戦前に作られヒットしたようで、その後、東千代介なども演じたことがあるらしく、何度も映画化されているようだ。最近では舞台で唐沢や中村獅堂もやったとか。この作品は1957年の作品。

黒木監督の「浪人街」では夜鷹を救うために3人の浪人が旗本と闘うが、この映画では、近衛が助けるのはヨメさんだ。勝新太郎の赤牛は自分で自分の腹をつき、旗本といっしょに死ぬが(あそこはおかしかった、いっしょに斬りあいさせたほうがすっきりしたのに)、河津の赤牛は旗本と斬りあって死ぬ。最後、赤牛の位牌に酒をそそいだ藤田は、一人で、大勢の捕り方に斬りこむところで、終わる。藤田進は、いい役柄だ。

「続 道場破り」。前作「道場破り」は山本周五郎の「雨あがる」が原作だったが、これは、前作とまったく関係がない。山本周五郎の「大炊介始末」が原作らしい。由緒ある道場の若先生(長門勇)が突然、人を斬り、乱行を重ねる。それを探索する長門と幼馴染の丹波哲郎。はじめ、見たとき、長門は悪役だったのか、と思ったが、それには、ある秘密があることがわかる。しかし、この映画ではまったく説得力がなく、わけわからんかった。菅原文太が長戸に斬られる役で出ていた。
しかし、丹波の武士姿はやはりいい。浪人姿が似合うと思う俳優は、丹波哲郎、原田芳雄、成田三樹夫だ。みんなクセのあるマスクだ(笑)。

「草の乱」がDVDになっていた。貸し出し中で借りられなかったのだが、これはぜったい見なくてはいけないと思っている。

「山の民」

2008-07-25 | 読書
「蟹工船」が若い人に売れているということだが、「百姓一揆」もブームになってくれないだろうか(笑)。徒党厳禁の時代に徒党を組んだ先人の知恵を学ぶべきではないか。憲法で言論、集会の自由が保障されているとはいえ、今もなお、徒党厳禁の時代だ。諸君、徒党を組むことを恐れるな(笑)。

閑話休題。
百姓一揆を書いたプロレタリア文学作家に江馬修がいる。かれは、飛騨の出身で、「本郷村善九郎」も書いている。この夏には飛騨にいくので、かれの代表作「山の民」に挑戦してみた。ずっと前、1度挑戦したのだけど、中途でやめた。今回も、やはり半分読んだところで、あきらめてしまった。むずかしいわけではないのだけど、文章が、わたしには遅すぎるのだ。司馬遼太郎のような簡潔な文体の歴史小説に慣れているので、まだるっこしく感じるにちがいない。この名作は、わたしの体質に合わないのかもしれない。

しかし、この梅村騒動は興味深い。3人の他国者の勤皇の志士が飛騨にやってくる。まずはじめに阿波の志士竹沢寛三郎。飛騨の先鋒鎮撫使として入国し、郡代を追放し、相楽総三のように年貢半減なども口約束する。飛騨では、神様のように歓迎されたようだが、讒言され、牢屋に。

次に送り込まれたのが、梅村速水、水戸脱藩浪人で、天誅組や赤報隊とも関わりがあった(と思う)若い志士。若いだけに、新時代への情熱を燃やし急激な改革をすすめるが、飛騨の民の総スカンにあい、一揆がおき、これまた、牢屋に(牢死)。

竹沢寛三郎を、そして梅村速水を京都に讒言したのが、岩倉の家来で目付け役の脇田頼三。脇田頼三は、多田院御家人の末孫だ(能勢の出身かどうかはわからない)。この脇田頼三ものち、処刑されるのだが、小説では、竹沢、梅村、脇田についての史実紹介が少ないのが残念。この3人についてもっと詳しく知りたかった。

司馬遼太郎であれば、この題材をこうした志士たちを中心にして描いたかもしれない。「山の民」は、維新に翻弄され、裏切られ、反抗した人々を描いたものだが、この3人の男たちも、維新に失敗した男たちだった。

作者江馬修の父は、梅村速水の有力な部下だったようで、小説の中にも登場する。江馬の家も一揆勢によって打ち壊される。作者の筆は、梅村速水をただの圧制者としてではなく、同情を持って描いている。

途中で、本を最後まで読まなくなるのは、よくブックオフなどに寄って、ちがう本を買ってくるからだと思う。とにかく、そのために興味がコロコロ変わる。今日は、古本市場で、眉村卓の「消滅の光輪」(SF)を手に入れた。買ってきたら、ちょっと読みたくなるではないか。すると、今まで読んだ本への興味はうすまる。気の移りやすいわたしは、長い作品を読み通すのができない(そのくせ、大長編に読書欲がわく)。わたしの大きな欠点だ。

でも、「山の民」、一揆のハイライト、騒乱の部分を読まないのは、もったいないかもしれない。終わりの部分から読んでみようかな。

里山のジャズライブ

2008-07-22 | 日記
猪名川の里山にライブをするジャズカフエがある。

「カフェガレージ アンクル」という店だ。今年、開店したそうだ。外観はガレージのようなプレハブ作りで、ちょっと喫茶店とは思えないけど、店の中はけっこう広く、雰囲気のいいカフェだ。ここで、月に1度くらいジャズのライブをしている。ジャズ喫茶が少なくなっているのに、こんな里山でライブが聴けるなんて。
さっそく、今日、いってみた。ワンドリンク付きで1000円。安い!午後7時から9時すぎまでたっぷり演奏してくれた。

演奏するのは、204トリオ。ピアノ松田忠信、ベース小松タカシ、ドラム相原八美。3人の年を合わせると、204歳になるらしいが、すばらしい演奏だ。ジャズのスタンダードから、月の沙漠、夏の思い出、浜辺の歌などもジャズ風に演奏。ボーカルは、この店のマスターの奥さんでもある山中るい。いそしぎ、小さな花、コーヒールンバ、ケサラなど。ゲスト歌手(名前を忘れた)も出て、ラ・メール、ラストダンスはわたしになど。

これで、ドリンクつきで1000円は安すぎる。ピアノの松田氏が「お帰りのときは、チップをかごの中にお願い」といっていたが、みんなチップを入れていた。当然だろう(小銭の人もいたけど 笑)。すてきなライブだった。

ここはあまり人には教えたくないなあ、と思ったけど、紹介しました。

水俣

2008-07-21 | 映画・テレビ
NHKBSで先週、深夜に放送していた土本典昭の「水俣 患者さんとその世界」録画しておいたので、今日、見た。2時間49分の長編記録映画。土本監督が亡くなったのを記念しての放送だった。

圧巻は、チッソの株主総会に患者さんたちが出席し、訴えるところだ。会場は怒号に包まれるが、前の役員席に座る役員たちの能面のような無表情な顔。
総会会場に入るときに、警官の姿は画面に写らなかったが、よくぞ、会場に入れたと思う。今では、無理なのではなかろうか。

田中正造が、公害で亡国をとき、水俣では、「たちあがれ」と訴えたが、その公害(資本主義の毒)は、一部の人、一部の地域だけでなく、いまや日本中の人々の問題になっているが、たちあがる気力さえもない。これも病いなのだろう。

岩波新書の「むのたけじ」

2008-07-19 | 読書
久しぶりに新刊屋さんにいった(といっても、ジャスコの中の本屋さんだけど)。
岩波新書の新刊、93歳のむのたけじの聞き書き「戦争絶滅へ、人間復活へ」(聞き手黒岩比佐子)を買うためだ。
7月18日出版の予定だったから、もう出ているだろうと思って、店頭を調べたらまだ置いてない。店の人に言って、まだ開けていないダンボールの中から出してもらった。

おそらく、これが、むのたけじの遺言となるのだろう。

むのたけじは、学生時代に知った。偶然、大学の図書館で手に取った「たいまつ16年」という本。朝日新聞を敗戦と同時にやめ、故郷秋田の横手で小さなミニ新聞「たいまつ」を発行するまでの経緯を綴った本だ。言葉に、著者の命、人生が刻まれている文章を久しぶりに読んだという感動を味わった。

ちょうど、妻子がいながら、まだ学生の身で、将来のあてもなく、どうやって食っていこうかしらと途方にくれていたときで、この本から勇気をもらった。何をしても食っていける、よし、おれも新聞作ろう、と小さな業界紙に勤め、謄写版を買ってきたりしたこともある(笑)。

社会人になってから横手のむのたけじ宅に電話し、「たいまつ」の購読を申し込んだ。電話には奥様が出たが、今はすでに故人になられている。半年ほど、タブロイト版の「たいまつ」も購読したが、継続はしなかった。安月給で予算がなかったのか、そのころで、「たいまつ」は終わったのかもしれない。

1970年代以降、「解放への十字路」以後、むのたけじの本は出版されず、マスコミ界からは忘れられた存在になり、たまにむのたけじの言葉を集めた詞集「たいまつ」が刊行される程度だった。大嫌いな武田鉄也がこの詞集「たいまつ」を推薦しているのを見て、なんだかむのたけじが冒涜されたような気がしたこともある(笑)。

この岩波新書は、インタビューに答えたもので、むのの文章ではないかもしれない(目を悪くし、文章を書くことは困難らしい)。しかし、むのの元気さには驚く。「人生は60歳からだ。物事がよく見えるようになるには、やはり60年は苦労しなければならない」といっている。

もう体もあちこちおかしいし、ぼけてきて、だめだーなんていっている自分が恥ずかしい。いや、また、勇気をもらった、というべきか。
戦後の最も良心的なジャーナリストむのたけじを若い人向きに紹介した本です。




社説 漁業ストについて

2008-07-17 | 新聞・テレビから
15日の漁業ストについて、今日(17日)、朝日の社説。「危機の漁業 原油高に耐える体質を」。なんとも冷淡な態度だ。原油高は変わらないのだから、原油高でも続けられるような産業へと体質を変えていくしかない、という。原油高だから、食料品高騰も避けられない、それに耐えられる質素な生活を、とそのうち消費者にも説教してくるだろう。大手紙は、みな同じような姿勢だ。社説の中に、「ストライキ」のスの字もない。国民運動になることを恐れているかのよう。

ある日曜日

2008-07-13 | 日記
暑い。
朝日の1面トップは、15日の漁船ストについてだ。各地の漁港の声を取り上げているが、最後の結びの文がいただけない。「しかし、原油高騰で苦しいのは、トラック・タクシー業界も同じ。財務省のある幹部は、こう指摘する。「燃料費などコストが増えた分は、やはり魚の値段に上乗せして消費者に転嫁するのが筋ではないか」。
15日の社説を注目しておこう。それにしても、労働組合も消費者も声をあげるべきではないのか。

同じく朝日の読書のコーナーに、山崎朋子が「私の大切な本」として、ロマン・ロランの「魅せられたる魂」をあげていた。この本は、自殺寸前であった著者を引き止めてくれた、と書いてある。
ロマン・ロランの本は、文学通の人には冷笑されるが、生き、戦っているふつうの人には、勇気を与える本だ。理想主義すぎる、甘い、などといわれるが、たとえば、ベトナムで戦っていたベトコンにも愛読者がいたし、革命家ローザ・ルクセンブルクが「獄から出たら、まっさきに会いたい人」とロマン・ロランをあげていた。だが、今、この本を若い人が手にすることはむずかしい。新刊屋書店にはないのだ。岩波文庫は品切れであり、すべて古本屋でしか手に入らない。

ガソリンを使いたくないので、近くのビデオ屋さんでCDを借りた。映画は見たいものがひとつもなかった。

金子由香利ゴールデンベストとベストジャズ100ピアノスタンダードの2枚。
ベストジャズのほうは6枚のCD入りで7時間以上もある。こういうベストものは演奏があまりよくないのが多いけど、これは選曲も演奏もなかなかいい。一日寝ころがって、疲れをいやすつもりだ。
明日、14日は、パリ祭、いや、革命記念日だ。