虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

試写室

2005-12-24 | 日記
朝日新聞の番組欄には、毎日「試写室」という番組紹介の記事がある。

かつては(もうかなり前になるか)、かなり厳しい見方をし、辛辣な批評記事もあったと思うのだが、最近は、ただの番組宣伝記事、提灯記事になりさがった気がする。記者の顔ぶれは定まってなく、交代で書いているようだが、若い記者に書かせているのだろうか。こんな記事を書かせているようでは、新聞記者としての将来が心配だ。今日の記事は別にそれほどでもないが、(それでも、最後は、こう結んでいる。「「世界一受けたい授業」「最強の講師陣」の看板に偽りなし。いいものを見た」だ)、前から、この欄にはあきれる思いがしてきた。よくもそこまで持ち上げるものよ、という記事を書く。

朝日の番組批評で、気に入っているのは、島崎今日子(フリーライター)が書く番組批評。ときどき、コラムとして掲載されるが、同感できることが多い。

朝日の記者でも、「くっだらねーや!やめちまえ!」という番組批評でも書いたらどうだい。無理なんだろうなあ。

映画「秘剣」

2005-12-20 | 映画・テレビ
明日のお昼、BSで映画「秘剣」があるようだ。さっそく、録画予約しておいた。
市川染五郎(昔の)が野心に燃える天才剣士を演じる。月形龍之助が宮本武蔵。
やっぱり、チャンバラが好きなんですな、わたしは。
監督は、稲垣浩。東宝。原作は五味康助の短編。

中山誠一郎

2005-12-18 | 読書
今、小島直記「三井物産初代社長」(中公文庫)を読んでいる。
これは、三井物産初代社長益田孝の伝記。益田孝については、いずれ書くとして、この本で、オヤッと思ったのが、中山誠一郎の名が出たこと。

中山誠一郎といえば、国定忠治を捕えた腕利きの関東取締出役。いわゆる八州さまで江戸好きの人にはなじみの侍かも。有能なだけに幕末は甲府代官になったことは知っていたが、明治になって、隠居して横浜に住んでいたようだ。益田孝(幕臣)とは懇意で、幕府がなくなったあと、益田は、中山に横浜に来るようにいわれた、とある。
小島は、「中山のことを益田は親戚だといっているが、どういう筋の親戚かははっきりしない」と書いてある。

浪曲「国定忠治」では、忠治も中山には一目置いていて、「中山様」とかいってなかったか?(このへん、よく知らないが)。

中山誠一郎が明治になって横浜でひっそりと(だが、目先の効く中山のこと、暮らしぶりは悪くなかったにちがいない)生きていたとは、おもしろい。

今朝は、家の前は雪がつもっていた。



資料 三池争議

2005-12-17 | 読書
三井鉱山株式会社編、日経連発行の「資料 三池争議」を古本屋で手に入れた。
我ながらどういう風の吹き回しだ?

2100円だったけど、「日本の古本屋」で見ると、2万円くらいで売っている古書店も少なくない。厚さ6センチ〈枕になる)、ページ数1100を越える膨大な本だ。
会社側の本なんだけど、組合側の資料や当時の新聞資料なども豊富に載せていて、資料的には価値がある。(といっても、三池闘争の研究をするほど暇ではないし、この膨大な本を見て、三池闘争への意欲はかなり減退してきた)。

三池闘争を今の人にわかるように事実に沿って書いた記録ってあまりないのではないか。当時の組合側の記録はあるのだろうけど、独占資本、とか階級闘争とかの活動家の言葉が並び、そこで働いていた労働者の姿はあまり浮かんでこない気がする。新聞記者やルポライターの三池の記録はあるものの、あの戦いの全体を記録したものではない。会社側にこのような膨大な三池争議の総括があるのに反し、労働者側に決定版がないのは、残念だ。社会主義協会編の「資料三池闘争史」もペラペラめくったが、これは論文集であって、事実を記録した闘争史ではなかった。

「資料 三池争議」の付録には、会社の沿革史がのっていて、三井が財閥になるにさいして功績のあった人として、三野村利左衛門、中上川彦次郎、益田孝、団琢磨の名が出ていた。これらの人々は、それぞれ小説や伝記になっている人物だ。

ちなみにこの沿革史には、当然のことながら、朝鮮人の強制徴用の記述は1行もなく、軍国主義と共に拡大した経営規模も、「政府、軍当局の要望ないしは下命にもとづく強制的な企業活動の動員であった」と書かれてある。





見知らぬわが町(大牟田)

2005-12-11 | 読書
昨日の続きを少し。

著者の中川雅子さんは、南新開の炭鉱のヤグラを見て、何だろうと探索をはじめるのですが、そのうち、興味は、囚人墓地、朝鮮人中国人等の強制連行、与論島からの移住者などにうつります。写真もはじめはヤグラが多いけど、そのうち、墓や碑がふえてくる。

探索を始めたころは、三池闘争のことは知らなかったようで、この本では、三池闘争については何も書かれていません。あれから10年たっているのですから、今はきっと三池闘争の探索を始めているかもしれません。この南新開というところは、会社側と組合とのはげしい「海戦」もおこなわれた場所です。

いくつか本の中でおもしろかったところを紹介。

囚人墓地というか番号だけが記入された無縁墓に家から持ってきたカンビールをかけてあげ、父親の引き出しから持ってきたハイライトをおいてあげたりしています。囚人たちに禁止されていたのが酒とタバコと女だったということを知ったからです。

また、ある囚人墓地の碑を求めて薄暗い藪の中を分け入って進むのですが、そのとき、2羽の黒アゲハが現れ、驚き、あわて、目的の碑の写真がピンボケで写ってたりするのもおもしろい。この黒アゲハはその後、探索していく先々で現れ、作者に不思議な感慨を抱かせています。

与論島も出てくる。与論島といえば、1度はいってみたい観光地としてしか頭になかったけど、三池炭鉱の歴史では逸すべからざる島なんですね。与論島から炭鉱の町に移住してきた人々は最も過酷な労働を負わされ、差別されます。

こんなことを高校生が調べ、考える。
自分の高校生時代に比べるとえらい違いだ!スゴイ!

大牟田、荒尾、三池の廃坑、行ってみたいなあ。しかし、遠すぎるなあ。


高校生が探訪した「見知らぬわが町」

2005-12-10 | 読書
中川雅子「見知らぬわが町」-1995真夏の廃坑 (葦書房)

大牟田に住む16歳の高校生が夏休みの宿題レポートとして、カメラをもって、自転車を乗り回し、町の廃坑や囚人墓地を探索した記録です。

夏のある日の夕暮れ、河向こうにそびえる異様な建物(ヤグラ)を見て、「あれは何だろう?何の廃墟だろう?」「あそこで、きっと遠い昔に、何か哀しい出来事があったにちがいない」と感じてひと夏をその探索に費やします。

もともとは手製のコピーで10部くらいしか作らず、知人に配ったものでしたが、地元の新聞などでも取りあげられ、出版されることになったそうだ。10年前の出版だ。

あの塔のようなヤグラ、なんに使ったのかはわたしにもわからないけど、あの建物は、SFアニメなどでも、廃墟の星の残骸のようで、異様な存在で、たしかにわたしも興味をひかれる。高校生の子が惹かれるなんて、すごい感性だ。

この高校生はえらい。だれもいない無縁墓地などに足を運び(わたしでもちょっと気がひける、こわい)、権威のある研究者が書いた説に対しても、はたしてそうか?と自分で考えることも忘れない。

かつて三池闘争で殺された久保清さんが住んでいた四山の町なども今はだーれも住んでなく、町が消えていることもわかった。


追われゆく坑夫たち

2005-12-07 | 読書
今、図書館から岩波新書「追われゆく坑夫たち」を借りて読み直している。

1960年第1刷とある。
今、読み直しても衝撃力は変わらない。
「だれも書きとめず、したがってだれにも知られないままに消え去ってゆく坑夫たちの血痕を、せめて一日なりとも一年なりとも長く保存しておきたい」というひそかな願いからであり、そうせずにはおれなかった」(あとがき)上野英信の志が胸に突き刺さる。

1960年といえば、日本は、「貧困」の解決がまだ最大の問題だった時代で、特に炭鉱労働はその過酷さ、非道さは特別といえばいえるけど、しかし、少しも別世界のことではなく、本質は今もちっとも変わっていない、という気がする。

今、姉歯設計士のことで、マンションが危ないというニュースが連日報道されているけど、企業が利益を得るには、賃金を下げるか、コストを下げるかするのは常套手段。人命軽視は、食品業界でも運輸業界でもいわれたことだ。

建築業界って、みんなこうではないのか?調べたらほとんどの民間住宅は欠陥があるのではないか、というのは、市民みんなが持っている疑いではなかろうか。

マスコミがこの問題をどこまで追及するか。大資本、政府はこの問題の早急な沈静化にたぶん、やっきになって取り組むだろう。マスコミも適当なところで、うやむやにしてしまうかもしれない。

「追われゆく坑夫たち」に描かれる坑夫たちは、非道な経営者に対しておとなしく、無気力でさえある。わたしたちと同じだ。



宮崎兄弟伝完結篇

2005-12-06 | 読書
宮崎兄弟伝完結篇がすでに(昨年か?)出ているようだ。知らなかった。

今まで、5巻葦書房という九州の出版社から出ていたが、この完結篇は、葦書房ではなく、ちがう出版社からだ。なぜ、葦書房ではないのか。著者と出版社の間で何かゴタゴタがあったのだろうか。著者の上村希美雄氏は、たしか司馬遼太郎の「翔ぶが如く」にも出てきたと思う。

完結篇が出ているのに、書評は目にしなかったぞ。ただ、見逃していただけなのか?

話は変わるけど、宮崎滔天の長男竜介氏が結婚した柳原白蓮の前夫も筑豊の炭鉱王伊藤伝右衛門だったね。


荒尾

2005-12-05 | 日記
「三池闘争」という言葉だけは知っているけど、正直いって、三池が日本のどこにあるかは知らなかった。昔は中国地方あたりかと勘違いしていた(笑)。

福岡の大牟田市なんですね。いや、熊本の荒尾市も含まれる。

大牟田市は興味はなかったけど、荒尾は、以前から九州で行ってみたい土地だった。

あの宮崎滔天(兄の八郎も)の故郷なのだ。荒尾には、宮崎兄弟資料館もあるらしい。荒尾から、「草枕」の舞台となった玉名郡もあまり離れてはいない。
その荒尾にも、三井資本による炭鉱があり、万田坑というのが今、指定文化財としてあるようだ。三池闘争には、大牟田と共に荒尾という地名もよく出るので気がついた。

荒尾の万田坑では、以前、テレビで「青春の門筑豊篇」のロケにつかったそうだ。
筑豊篇は昔、読んだ。上野英信の本に、ある炭鉱夫から、こんな炭鉱を描いた小説はけしからん、抗議してほしい、という訴えがきた、という文があったが、それは、この作品ではないか、と思ったことがある。

炭鉱を描いた文学って、あるのだろうか?漱石に「坑夫」があった(読んでないけど)。

最近、鉱山とか炭鉱に少し関心が出てきた。
何よりも廃鉱の姿。多くの人が血と汗を流し、そこで生活し、死に、しかし、廃墟と化す。その残骸。古城を見て、つわものどもの夢の跡、どころではない。われわれの現代文明の夢(?)の跡。

今までふりむきもしなかったけど、今度、旅行したら、炭鉱跡みたいなところにも行ってみたくなった。

これも、映画「ひだるか」からの刺激かもしれない。


後日談(能勢一揆)

2005-12-05 | 一揆
7月5日の早朝、大坂斉藤町の山田屋大助の家に町奉行同心衆がきて、大助の妻、娘(18)、息子、下女2人、客1人を会所に連行、妻と息子はすぐに入牢、娘と下女は町預けとなるが、娘は数日後に入牢となる。

家には、大小、槍、長刀、弓、鉄砲などの武具もそろっていたそうな(これも御取り上げ)。

子どもは、親の鏡というけど、大助の子たちは立派です。
「少しも恐れ悪びれしことなく、涙一滴もこぼす事もなく、泰然として覚悟を極めぬる有様、役人は申すに及ばず、いづれも感心せしという事なり」。

弟(猿之助という名)も同様で、落ち着いていつもと変わらぬ様子。で、町の人がつきそって、能勢まで連れて行き、親父の死骸を見せて初めて「屈伏せし」という。

この兄弟がいじらしいのは、母親は若い後妻で、継母になり、日ごろ、よくぶたれたりすることが多かったそうですが、父親の事件を知ってからは、母親をかばいます。

「猿之助が死骸を見届けてかえってから、その罪のがれがたきを知り、兄弟口をそろえ、私どもは、実子のことに候えば、いかようなるご仕置きを蒙りしとて、とくと覚悟いたし候えども、母が事は、わたし方へ参られてまだ格別の年数もあいならず、何も母の知ることはなく、ごれんびんをもって、母の一命をはお助けくだされよ」と。

猿之助は男牢。妻と娘は女牢に入りますが、女牢では、今井藤蔵の妻と同じ牢。(今井の娘は10歳以下なので町預け)。

この今井の妻が「大助にそそのかされて主人は非命に死んだ!」とその怒りと嘆きを母娘をぶつけ、母娘はさんざんな目にあったそうです。母親も、娘も、そして猿之助も牢内で病に倒れたため、7月いっぱいで牢を出されることになったのですが、娘は29日に牢で病死してしまいます。

大助の家族のめんどうを見たのは、家主篠崎小竹。篠崎小竹といえば、当時の大坂文壇の大御所的存在で、天下の名士。幕末の志士たちは、篠崎小竹の書をよく持っています(後年、清河八郎も揮毫をもらいにいっている)。山田屋大助とはかなり深い関係があったと思えます。

写真は、池田の法園寺。能勢から大助の死骸を大坂町奉行所に運ぶ途中、この寺で一泊したそうです。

三人の最期(能勢一揆11)

2005-12-04 | 一揆
やっと三人の最期です。
無名の浪人ですが、3人は大塩の最期よりも立派です。

まず三人の浪人は刀をぬいて寺の坂を降り始めます。
坂の下にいるのは大坂町奉行からの出役たち。「百姓たちに罪はない。すべてわれらが所業。今から勝負しにいく。われらを捕えてみよ」と大声でいったかどうか。
あるいは、自分たちの趣旨を説明しようとしたか。しかし、喧騒の中でだれもその声を聞き取った者はいないでしょう。

三人が鉄砲を捨て、刀をぬいて、堂々と坂を降りはじめ、捕り方の方へ向かったのは事実のようです。三人を鉄砲隊がねらっている。町奉行は、池田の音吉(猟師)という鉄砲の名人も従えてきている。

今井藤蔵がまずまっさきに刀をふりあげ、寺の坂を一気に駆け下りようとしたとき、池田の音吉(乙吉?)の銃弾が命中。今井は坂の上に倒れる。それを見た大助、いそいでかけおり、今井を起こし、名前を連呼するが返事はありません。大助はその場で今井を介錯します。そのとき、大助にも銃弾が命中、大助は立ったまま、刀を逆手に持ち、腹に突き刺します。背中から刀が突き出たそうですから壮絶です。佐藤四郎右衛門の肩先にも銃弾が命中。佐藤は本堂にかけもどり、そこで鉄砲で腹を撃って自害します。腹から血が流れて床をゆごさないように腹に布切れをつめていたといいます。このときの大助は白装束です。死衣装に着替えていたのでしょうか。

史料によって諸説あり、先に死んだのが大助で介錯したのは今井だとか、いや、先に死んだのは佐藤で、本堂で死んだのは大助だとかいろいろあるようですが、3人が武士らしい立派な最期をとげたのは事実のようで、捕り方の武士も襟を正して三人の死を悼んだそうな。

この寺の履歴を説明した案内板にも山田屋大助の乱の文章が1行だけ書かれています。また、かなり前になるのでしょうが(30年以上前?)この寺で、3人の法要が営まれたこともあるそうです。
能勢一揆については、三上参次の「江戸時代史」にもかなり詳しく書かれているのですが、能勢では、3人の浪人の名前はほとんど(まったく、といってもいいか)知られていません。

                             南無釈迦佛

興福寺(能勢一揆10)

2005-12-04 | 一揆
来週は忙しくなりそうなので、もう一気に片付けてしまいます。
ちょっと雑になってしまいますが、ごかんべん。

7月5日、昨夜の地震(?)騒ぎで半分の村人が逃げ帰った。この朝、境内で朝食をとったあと(朝食は庄屋に用意させる)、大助と今井藤蔵の二手に分かれて村々を押し歩き、現三田市の木器村の興福寺で合流することにした。この間、大原野、波豆、下佐曽利など村々を回り、人数を回復し(約1200人ほどか)、昼ごろ、興福寺に到着。昼飯は寺の隣の升屋から取り寄せた。

すでにこのころには、捕り方も近くに迫っていた。大坂町奉行所、大坂代官所、京都所司代、安部藩、飯野藩、麻田藩、一橋藩、大津の代官所などで、討伐軍は、幕府の直轄兵約1000人、諸般の手勢約2000人、合計3000人といわれる。

ここにこのころの大助たちの様子を伝える興味深い史料がある。一人の若者が捕り方(町奉行)のもとに大助たちからの手紙を持ってくる。それには、「このたびは、遠路、ご苦労。拙者どもを召し捕りに参った由、聞き及ぶ。こちらから押しかけ勝負をいたしたいが、返答つかまつるべし」
幕府方をおどかしているのですね。

また、興福寺を逃げ帰った村人から首謀者の様子を聞くと、こんな答えが返ってきます。
「悪党3人の者、興福寺の奥座敷に机にもたれ、本をながめ居り、なかなか落ち着いた者どもに申し立て候由」

この騒乱の中、いや、わが命の最期のつかのまの時間、静かに本を読む浪人。ちょっとすてきな風景ではないでしょうか。その書物は「老子」だったりして(これは空想、笑)。

本堂、寺の境内には1000人近くの村人がざわめいています。鉄砲も二百挺は持っていたそうだ。戦えば、戦えないことはない。しかし、大助たちは、村人たちにけがをさせないと約束したし、戦いは大助たちだけで引き受けるつもりだったようだ。

午後3時、興福寺は3000人の捕手に全包囲される。
捕り方の合図で鉄砲が一斉に撃たれる。しかし、これは空砲である。しかし、この射撃を合図に寺にこもった村人はなだれのように逃げ出す。残ったのは、林蔵など当初から参加していた暴れ者10人程度。それぞれ、寺の本堂から鉄砲を撃って応戦するが、大助はそれもやめさせたらしい。

これは、われら、3人の戦いだ。



万正寺の怪(能勢一揆9)

2005-12-04 | 一揆
今日は雨降りでどこにも出かけなかったので、続けて書くことにします。

景福寺で小休止をとったあと、大助たちは、南下します。これから一揆は能勢を越えて、猪名川、宝塚にかけて広がります。

途中、清水村の質屋へ押しかけ、昼食の世話をさせ、銭100貫を強要するなど、何件かの裕福な家から米銭を差し出させます。

この日、新たに参加した村人は7、800人で、合計1500人くらいにはなったそうです。このくらい一揆の人数がふくれあがると、庄屋たちもどうすることもできなくて、おとなしく米銭を出したようです。村人は、一様に蓑笠を身に付け、竹槍、鉄砲を持っています。鉄砲は撃つためでなく、鐘や太鼓の代わりに音を出すためでしょう。庄屋たちは、村人に、追っ手ははじめは空鉄砲を撃つからそのときは逃げ帰ってこい、と言ったそうな。

この夜は、現宝塚市の上佐曽利村の万正寺に泊まります。画像が万正寺ですが、数年前はたしか屋根は瓦葺だった気がします。素朴で、大きなお堂で、ここもいいお寺です。もし、屋根が変わってなかったら、能勢一揆の寺の中では一番のお気に入りです。

さて、この寺で、夜、不思議なことが起きます。
一揆勢が声をあげ、気勢をあげたところ、お堂が揺れ、崩れかけたというのです。
村人は恐れおののき、そのために半分ほど、夜中に逃げ去ってしまいます。

「千五六百人の者鯨波をあげ候ところ、不思議なるは、諸堂一時にうち崩れ申すようにあい見えて候て、このひびきにて六七百人ばかり驚き我一と逃げ去り候趣、五日朝右堂は何事もなきの由」(応思穀恩編)

「その夜、万正寺の堂うごき、その時、大将恐れ、刀をぬき空中を切り払い申し候」(浮世の有様)

多田神社には、何か大事があるときにはお堂が鳴動するという伝説がありますが、これはなんでしょう。地震か、集団幻覚か、一揆の終焉を告げる合図か。大助が空にむかって刀を振り回したというのもおもしろい。


景福寺(能勢一揆8)

2005-12-04 | 一揆
この能勢一揆は、舞台となったお寺や神社の画像をアップしたくて書き始めたようなものです。この景福寺〈猪名川町)。大助たちが、4日の昼、休憩のために立ち寄っただけでそんなに重要な舞台ではないのですが、ここにきて、やー、こんなきれいなお寺があるのか、と思いました。自然公園にもなっているらしく、お寺の参道のわきにはたくさんの観音さんの像が立っていて(けっこう新しいようだ)、紅葉も実に美しい。夏には沙羅双樹の白い花も咲くそうで、寺の建物よりも回りの風景がいい。

さて、3日の夜は、大助、今井藤蔵、佐藤四郎右衛門の3人は相談したにちがいありません。今後、どうすべきか。村人を連れて京都に出ることは不可能だと思ったのではないか。名月峠の上にあがるのろしを見たときの村人の驚きの顔。鉄砲で待ち構える峠を押しわたろうとすれば、きっと逃散してしまう。この気勢を維持するには、もっと村々を回り、参加する村をふやし、騒動を広げることだ。

ひょっとしたら、あの朝廷に訴えるという廻状も、もともと村人のためのものだったかもしれない。この騒動の原因はすべて大助たちにあることになるのだから。これが村人にお咎めがなく、村で騒動を起こし、村人に米銭を与える方法か?
大助の心中は、謎です。

翌日の朝、杵の宮の境内で再び朝食の用意をし、腹ごしらえをしたあと、出発。その朝、大助は、杵の宮で宮守(蔵雲)を上座にすえて、深々と頭をさげてこう言ったそうな。「世話にあいなり、かたじかなく候えども、今日よりは出立、もはやこれにて暇乞い申す。何ぞ謝儀もいたしたき候えども、その儀なし」しかし、「出立の跡にてみれば、床に銭5〆文差し置きこれあしの由」(浮世の有様)

礼儀正しいではないか。

大助いっこうは(このときは、まだ800人くらいか)、名月峠とは反対の方向、西へすすみます。大助の村、山田村をすぎ、中山峠を越えて、杉生村へ。このころには、大坂町奉行所も池田に到着。大坂代官所や隣藩の役人たちも動き出し、人足の徴集にかかっています。大助たちも行く先々で人足を集めます。

この景福寺で昼の休憩をとったっそうです。


斬る!(能勢一揆7)

2005-12-04 | 一揆
前回で、朝までに300人くらい集まった、と書いたけど、村人も1枚の廻状だけで集まってくるほどそんなに甘くはないかもしれない。30人くらいしかいなかったかもしれない。ここに大助の誤算があったか。本来なら、この7月3日に村人を引き連れて名月峠を越えて亀岡を通って京都に向かうはずが、この1日は大助自身が人を集めるために村を駆け回ることになる。

7月3日朝、杵の宮の境内で大釜で米をたき、村人たちに朝食を食べさせ、村ごとに点呼。村ごとに旗をつくり、人数を数える。これは佐藤四郎右衛門が担当したかもしれない。

調べると、なんと杵ノ宮の目の前の村である稲地村からだれも来ていない。番人の幸助が庄屋の家の前で六尺棒を持って立っていて面会をゆるさない、という知らせが飛びこむ。大助は、数十人の村人と共に稲地村庄屋宅に駆けつける。「庄屋に会いたい。救民のために京都に願い出る。人足を借りたい」「お頭の許しがない。断じて会わせない」

この番人()はなかなか剛毅な男だったかもしれない。庄屋からはひっとらえろ、とでも言われていたのでしょう。。
史料にも「彼是と申し候」とか「その村の番人、大将の胸ぐらをつかみ候えば、大将刀をムネにてうち候エバ、ムネにて切れぬと申し候」とか記述がある。
ここで、この場を去ったら、大助の企図はいっきょに崩壊し、大助たちは笑いものになる。大助と番人のやりとりを注視する村人たち。

この番人、おそらく清河八郎を襲った目明し(だったか?)のように大助に撃ちかかったのでしょう。大助、しかたなく、抜き打ちに斬ってしまいます。隣国無双の達人の聞こえあり、といわれた大助の剣さばきを目の前に見て驚愕する村人。この報が村中に流れると、次々に村人の参加はふくれます。もう、あとには引けない。

この1日、大助たちは、今井藤蔵、佐藤四郎右衛門をそれぞれリーダーとする班に分かれて村中を東に西に駆け回ります。今西村、稲地村、平野村、上杉村、神山村、垂水村、長谷村・・・

垂水村では、その土地の酒造家から銭50貫、白米2石を差し出させ、人足には200文ずつ配った、といいます。また、片山村では、庄屋が裏の山に逃げ込んだため、その家を打ち壊しています。大将たちは、駕籠に乗っていたというが、これは、村人たちに責任者はこの人として運ばれたような思いもする。

村人は蓑笠を身に付け、鉄砲なども持ち、村人の鯨波と松明の明かりは夜まで続き、まるで祭りのような騒ぎになります。この夜には、どの史料も1000人以上、1400人から2000人の人数になったと伝えています。

しかし、この日の昼、名月峠と坂井峠(京都に出るにはこの峠を越える)にのろしがあがっています。前夜、知らせを受けた旗本能勢氏の地横陣屋が峠を固めたのです。

画像は日本の棚田百選にも選ばれている長谷村。この村も一揆の集団が駆け回りました。