虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

麻生鉱業

2005-11-29 | 新聞・テレビから
朝日の朝刊に旧麻生鉱業の徴用朝鮮人の資料の提出がない、として韓国側から不満が出ている、という記事が出ていた。

麻生鉱業とは、筑豊の御三家といわれた筑豊の炭鉱会社。その圧制ぶりは有名で、筑豊一の低賃金、たくさんの朝鮮人を連行して働かせていた。
この会社を経営していたのが、現外務大臣の麻生太郎氏の父。吉田茂の娘と結婚した人。
麻生氏は、かつて朝鮮人の創氏改名は朝鮮人にとっても都合がよかった、とか発言した人物だそうだ。

ポスト小泉とかいわれる若手のホープとかいう閣僚は、ほとんど財閥との血縁があるのではなかろうか。なぜ、こんな人が大臣なんだ?改革なんてウソだよ。

川西市郷土館

2005-11-27 | 日記
ちょくちょく行く古本市場や回り寿司からすぐそばだった。知らなかった。
川西市郷土館。住所は川西市下財町。

下財とは、銀山銅山で働く坑夫たちのことを言う。下財人といったり、下罪人とよばれることもある。上野英信の本では、炭鉱の坑夫たちも、ゲザイ人と呼ばれるようだけど、差別的な言葉だと思ったが、2代3代続く堀り子でないとゲザイ人とは呼ばないと坑夫から聞いたという文章があった。ここの館長さんは、下財とは、お金を使う、散財する、という意味といっていた。下罪人か下財人なのかどっちなのか。

とにかく、ここは、昔は坑夫たちが住んだ町だったのだろう。今は静かな住宅地だけど、ここに多田銅山の精錬所があり、明治から昭和の初期まで平安家が運営したそうだ。その平安家の屋敷が郷土館になっている。

平安家は銅山で大いに儲けたようで、家も立派。10mも続く廊下は松の木で、節がひとつもなく、柱は屋島からとりよせたとか。しかし、わたしにには家のことはよくわからない。大正時代に建てられた屋敷。鉱山資料を展示したり、お箸の展示室もある。サンダルはいて外に出ると、精錬所跡があり、そこには、旧平賀邸という大正期に建てられた洋館やミューゼレスポアールという美術館(川西市ゆかりの画家の絵を展示)がある。

ここもまた誰も訪れない広い場所で、静か。紅葉もきれい。カメラを忘れてきたので、また来たいと思った。平安家はその後どうなったのだろう。幕末からここに住んでいたらしい。

入館料300円。ご家族が住んでるようだ(平安家と関係あるかどうかは知らない)。


杵之宮結集(能勢一揆6)

2005-11-27 | 一揆
大助が村々に回した廻状には、こうある。

「その村々家別に1軒より1人ずつ今晩中、杵の宮に集まること。もし、集まらない村があったら、押しかけ、庄屋から上京の路用銀借用する」

はたして村人は杵の宮に集まるか。
地元の林蔵も何人かの村人に根回してはしていただろうけど、京都の帝さまに徳政を願い出る、ということは、村人の想像を超える計画だ。わざわざ京都まで?それでなくても、ご法度のデモ行進。
仕掛け人の林蔵にしたところで、裕福な家を少しばかり打ち壊して、米銭を借り出すくらいの暴れ方を考えていたかもしれない。大助の計画には驚いたはずだ。
しかし、廻状は出され、さいは投げられた。

日が暮れかかっても杵の宮にはまだ人が集まらない。林蔵も村を駆け回るが、反応はかんばしくない。杵の宮に集まれ、飯が食える!とでもいっただろうか。

日が暮れて、大助は林蔵に杵の宮の中にある寺の釣り鐘を乱打させた。驚いて集まる村人。それでも、杵の宮近くの村人30名くらいだったろう。
大助はこう言ったという。
「驚くにはおよばぬ。万民を救うために徳政を願い出る」
村人に趣旨を説明するとき、この杵の宮で、大助は人形をあやつったという風聞がある。「人形を自由に使い候て、いかなる事があろうとも、かくの如く人を使い候ゆえ、心配にはおよばず、怪我などはない」(浮世の有様)
人形を使ってアジ演説する一揆とはおもしろいではないか。江戸の薬屋は人形を使って売ったそうだが、大助も薬屋だったためだろうか。あるいは、能勢は浄瑠璃が盛んな土地で(現在、能勢には、浄瑠璃センターがある)、大助も得意としていたかもしれない。

また、大刀を抜いて、こうも言ったという。
「もし、不承知であれば、この場で斬る」
この言葉は必ず言わなければならない。この言葉があるから、村人は安心して参加できるのだから。どの一揆にも共通した強制の言葉だと思う。一揆の罪、責任は大助たち首謀者だけで、村人はやむなく参加したということで、お咎めはない。

杵の宮の鐘は朝までなり続け、深夜にかけ村人はだんだんふえてきた。「徳政大塩味方」「徳政訴訟人」という紙の幟をひるがえし、境内には篝火がたかれた。このとき、1村平均30戸として、周辺の村10ヶ村くらい集まったとして約300人にはなったろうか。しかし、京都にまで出るにはまだ人数が少ない。廻状は65カ村に回してある。

このとき、大坂から大助と一緒についてきた大坂玉造同心の本橋岩次郎と、今井藤蔵に雇われた三津平は事のなりゆきに肝をつぶし、夜の混乱に乗じて姿を消した。








上野英信 ひとくわぼり

2005-11-27 | 一揆
炭鉱といえば、上野英信。
山口出身だけど、京都大学を中退して、筑豊の小炭鉱の坑夫になり、以後、死ぬまで筑豊から作家活動を続け、たしか20年前くらいに亡くなる。

60年代、70年代には、上野英信に会いに筑豊参りする若者もいて、けっこうファンはいた。とても剛毅な作家だったと思う。地の底の過酷な暗い現実からの報告だけど、不思議と勇気を与えてくれる文章だ。代表作は岩波新書「追われゆく坑夫たち」。

この人がまだ世にでないころ、炭鉱仲間に読ませるために書いたものに江戸時代の農民を描いた民話がある。「ひとくわぼり」という題名だ。

舞台は江戸時代初期の秋月藩の村(嘉麻郡上西郷村)。この村には川がない。用水は、となりの黒田藩の領地を流れる川の水をわけてもらうしかない。しかし、黒田藩はそれをゆるさない。村人はひでりに苦しむ。この村にショージンという、村でははみだし者の若者がいた。怪力の持ち主で、常に立派な武士になって農民を救いたいと言っていたが、あるとき、武士になるつもりで、村を出奔。しかし、武士にはなれず、ただの男として村に帰るショージン。

村では、作物が実らず、どうしても黒田藩の領地から川の水を分けてもらわないと村人は生活できない状況になる。村人が黒田藩に頼んでも、許してくれない。ただ、「ひとくわならいい」という。堤防がひとくわで崩れるわけはないからだ。

ショージンは、再び、村を出奔、鍛冶屋に修行に出、帰ってからは納屋で一人で、鉄を打つ日々。村人は、ショージンは気が狂ったと噂しあう。ショージンは巨大な鍬を作っていた。

巨大な鍬が完成すると、ショージンは黒田藩の役人にひとくわ堤防を掘らせてほしい、と願い出る。ショージンがひとくわ掘ると、堤防は決壊、川の水は村人の土地にまで流れてきた。おかげで村人の暮らしはよくなるが、その後、ショージンは用水路の橋の上で役人に殺される。

けっこう長いお話で、1冊の労働者のための絵ばなし本として作られている。上野英信がいた炭鉱地帯の隣の村に残る言い伝えをもとにしたそうだ。
三池闘争に参加した労働者は闘争中、くりかえしこの本を読んで元気を得た、と上野に語ってる。

最も虐げられた者の視点、拠点からの発言をしていた上野英信。
しかし、そんな上野英信も忘れられていく・・・・。



映画「ひだるか」

2005-11-26 | 映画・テレビ
鉱山、炭鉱といえば、三池闘争。

子どものころ、安保闘争と同じように、連日、新聞やテレビで報道されていた記憶がかすかにある。総資本対総労働の戦いともいわれた三池闘争だけど、詳しいことは何も知らない。いまや、総資本に完璧に支配された日本だけど、あの三池闘争をふりかえる映画が上映されるらしい。現代のテレビ局を舞台にしたもので、かつての三池闘争を回顧するようだけど、どんなストーリーかは知らない。

大阪では、九条のシネ・ヌーボーという映画館で12月1日から1週間だけ上映するそうだ。見たいと思っている。

鉱夫たち 忘れられようとしている日本人

2005-11-20 | 日記
多田銀山、生野銀山を続けて見学したためか、鉱夫(婦)たちに関心がむいてきました。閉所恐怖症のわたしには考えられない労働に従事していた鉱夫たち。しかし、考えると、昔は日本全国各地に鉱山があり、そこで働いていた人の数がかなりの数になると思う。江戸時代は、幕府の経済的基盤を支え、明治後は、日本の基幹産業を支えた。

江戸時代の町人、農民、漁師といった人たちの記録はたくさん残り、けっこうその暮らしも解明されているようだけど、鉱夫の実態は、鉱山の多さを考えるとあまりにも少なすぎるのではなかろうか。鉱山事業を牛耳っていたのは、大財閥であり、政府。意識的に鉱夫の実態を明らかにしなかったのではなかろうか、と思うほどだ。どうも鉱山については、秘密主義の匂いがする。なにかありそうだ。

月が出た出た、月が出たーの歌はたしか炭鉱夫の歌だったと思うが、昔はよく歌ったと思うけど、最近は、もうわすれられた歌だろう。

でも、世界にはなお鉱山で働く人々は多いし、日本にもまだいると思う。
わたしも、もう1度地の底にもぐって考え直そう!(^^)




生野銀山

2005-11-19 | 日記
生野銀山。思ったよりもいいところです。見学できる坑道が長い。約1キロ。サッサと歩いても30分はかかる。多田銀山の坑道は無料だけど、たしか10数m。あそこは、だれもいなくて、ちょっとこわいけど、ここは、観光バスも来るらしく施設が整っている。坑道の中には人形の堀り子もいて、作業の様子がわかるようになっている。それにしても地の底で働く人々。どんな思いだったのだろう。わたしは、閉所恐怖症なので、1日で発狂すると思う。江戸時代の銀山銅山は、明治以後は、財閥の所有になったけど、そこで働く人々についてはあまり世間には流してないのではないか。昭和までは、炭鉱があったけど、もう地の底で働く人々はいない。いや、まだどこかにいるか?

竹田城史跡

2005-11-19 | 日記
山の頂上に立つ城。といっても城はなく、石垣だけが残っている。平地からも山の上の石垣は見えた。

兵庫県朝来市の竹田城だ。天空に立つ城跡、ネットなどで、写真を見て前から行きたかった。昨日の朝日の夕刊にも「勝手に関西世界遺産」という連載記事でここが出ていた。さすが、プロのカメラマン、雲海の中の城跡を見事に写している。
わたしのデジカメでは画面が小さくて、とても竹田城を写すことはできなかった。

駐車場があるが、そこから、20分ほど山道を歩かなければならない。これがかなりきつい。久しぶりに心臓がはタハタと鳴った。天守台、大手門、本丸、二の丸、花屋敷などの標柱が立っているが、苔むした石垣のみで、そこは平坦な草地。何にもない。景色はいい。兵どもが夢の跡、とつぶやきながらぼんやりと座っているのは最高だと思う。でも、寒いのですぐに下りた。南北400m、東西100mでけっこう広い。

竹田城は、山名宗全の家臣太田垣光景が初代城主で、5代城主太田垣朝延の時、秀吉軍に没収(秀長が陥落させる)、その後、赤松広秀が城主となるが、赤松は関が原で西軍に味方し、この城は廃城となったそうだ。

石垣は、穴太積みといって、近江坂本で発達した石垣構築法らしい。積み方は、野面積みという、自然石をそのまま積んだもの。すき間が多く、一見して粗雑に見えるが、水はけがよくて、崩れをふせぐそうだ。案内板に書いてあった。


杵の宮の廻状(能勢一揆5)

2005-11-12 | 一揆
大助一行は、7月2日の朝、妙見山の旅籠を出立、旗本能勢氏の地横陣屋のある野間を過ぎ、名月峠を越えて、杵の宮(現岐尼神社)に到着。
ここは、大助が18歳まで遊んだ土地で、山田村の大助の生家も、北へ10分ほど歩いたところにある。大助一人だけでも、母親の墓参りをしたかもしれない。

山田屋大助の母は大助が18歳のときに病でなくなり、大助が自分で墓を作っている(父親はすでに大坂に出ていた)。大助が作った小さな母の墓は今も山田村の田んぼの丘のどこかにあります。わたしも1度行ったことがあるけど、標識もなにもなく、どこにあるのか、また探すのは苦労する。いずれ、デジカメにとってきます。

さて、杵の宮の宮守の名は蔵雲。
大助たちは、武士的に鄭重な態度で、「万民を救うため」と企図をを説明し、宮守の了解を得たと思う。ここを立ち去るときも鄭重に礼をいい、銭を置いていったそうな。

杵の宮での最初の仕事は、廻状の作成。村人を集め、行動によびかけるための文章を書かなくてはいけない。これは、書家の今井藤蔵の仕事。現物を見たことはないが残っているそうで、なかなか雄渾な筆跡だそうだ。以下、適当に句読点を入れたり、かなになおしたりしたけど、その廻状です。

           乍恐奉願口上書

数年来、米価高値、疫病流行、餓死人夥しく、当春以来百人の内廿人は乞食等に相成り、餓死仕候、然る処、この節当秋は財宝も尽き候上、次第に米価高値に付きこの後は当秋取込候まで日数凡そ九十日、百人の内五十人は餓死仕るべき事歴然の事にて、御田地不相続に申し候間、何卒或者一部或るは一国惣有米を精略致し、其の跡其の国の惣人数平均に割り渡し、当秋取込候迄は諸人御命仕り候様、仰せ付け下されたく候事

この数年諸色大高値に付き、在町とも小前末の者は真実困窮に付き、当秋たとえ豊作にても借銀済方仕るべき様なく候間、何卒諸国一統かりかし等 徳政仰せ下され置きたく、若し、徳政仰せ下されず候へば、数十年困窮仕罷りあり候につき、是より何ケ年相立て候も、小前末々の者生立候儀出来申さず、惣御田地相続あい成らず候間、何分格別の御仁徳をもって、帝様より諸御地頭え仰せ付け下され候はば、ととえ、いかようの厳科に仰せ付け候えども、有難き仕合せに存じ奉り候 此れにより、此の談、願い奉り候。以上
  7月
 関白殿下
 御披露

前書の通り、願い出申し候間、其の村の家別に一軒より壱人宛、今晩中に杵の宮え相集まるべく申し候、若し、延引いたし候村へ押しかけ、庄屋に上京の路用借用候、この廻状早々順達、留より杵の宮え相戻すべき候。以上
能勢 杵の宮
      ( このあと、回すべき村の名前が書いてある。)

要するに、帝さまに次のことをお願いしにいくので、みんな集まってほしいということだ。
1、秋の収穫までに、餓死者がふえ、生活もできないから、全国の米の量を調べ、それぞれの国の人数に合わせて平等に分配して命を救ってほしい。
2、たとえ、この秋が豊作でも、借金で生活は困難であるので、かりかし無しの徳政を命じてほしい。




レーニン

2005-11-12 | 新聞・テレビから
今日も、朝日の朝刊に「レーニン、廟から移す動き」というニュースがかなりのスペースをとって報じられていた。モスクワ支局大野正美記者の記事だけど、大野さん、がんばってるな、という感じだ。最近、大野さんの記事よく見るから。
今、記者としてがんばらないといけないのは、フランス支局の記者だけど、大丈夫か?政府発表だけの記事にしないで、あちこち取材してるかい?といいたい(笑)

レーニンといえば、よく寄るブックオフにレーニン全集が今、1冊100円で並べてある。かつては、レーニン全集を申し込んだ労働者がいたのではないかと思う。学者、研究者ではなく、労働者として。男はつらいよ、のさくらの夫ひろしなんかもよく本を読んでいてそんな労働者だけど、わたしもそんな先輩に出会ったことがある。

学生のとき、新宿歌舞伎町の東京ジューキビルで宿直兼電気室兼清掃員のバイトをしていた。みんな帰ってしまうと、職場を放棄してシャッターを開けて歌舞伎町に飲むにいくこともしばしばだったけど、ここの電気室の担当の宮本さん(当時40代だろうか)。電気室とは、そのビルの電気関係を管理する部門で、ボイラーを動かしたり、いろいろな電気機器のスイッチがあった。宮本さんは昼勤務で、わたしは、夜間。

ある時、わたしは、なにげなく、「海行かば」の曲を口笛でふきながら機器を見回っていた。「**くん、その曲はどうかと思うな」と笑いながら注意された。

人に聞くと北海道で漁船に乗っていたとか、しかし、どういうわけか電気技師の資格をとり、東京でビル管理の職員に。この人ならおそらくレーニン全集を買っていたのではないか、そう思える労働者だった。

夜、わたしにまかせることがとても不安で(正しい)、「ズボラな**くんへ」と書いたていねいなマニュアルの紙ををいつも残してくれた。

レーニンについては、あまり知らないけど、「国家と革命」という本で、将来は、国家(政治)がなくなる。政治とは、自治会の清掃当番のようなものになる、というところに、共感したことがある。










妙見宮での密議(能勢一揆4)

2005-11-11 | 一揆
大助一行は1日夕、能勢妙見宮に参拝し、ここで、計画成就を祈り、その夜は、妙見山の旅籠で、決行前の下相談をします。

この旅籠に、能勢山田村の林蔵が現れます。林蔵は、山田屋大助を能勢によびよせた男で、もし、この男が大坂の山田屋大助を訪ねてこなかったなら、3人の大坂浪人の運命もちがっていたでしょう。

林蔵は、大塩の乱のあと、大坂の大助のもとに村の窮状を訴えたそうです。大塩の乱はもとはいえば飢饉が原因。米価は以前上がり続け、庶民の困窮は続いている。
大助たち一行が大坂から能勢に来るまでの道中にも飢えによる行き倒れ者は少なくなかったはずです。

特に能勢地方は山間部でふだんから気候も低く、作物もあまり実らず、炭焼きや、銅山の堀子などで暮らす人もいて、飢饉の影響は他の土地以上だったかもしれません。しかも、一人の殿様に支配される藩ではなく、幕府領、旗本領が入り乱れ、みんなの面倒を見てくれる殿様は地元にはいない。いきおい、地元の裕福な人から借米をたのむしかない。どんなに庶民の生活が困っていても、一方で裕福なお金持ちがいる、というのは、いつの時代でも変わらないな。

こんな話があります。山田村で、人々が飢えに苦しんでいるので、その村で格別裕福で金も米もたくさん蓄えている者に、秋の収穫まで米を借りようと村の人たちが頼みにいきますが、何度頼んでもダメ。若い人は打ち壊してやるといきくけども、なだめ、その村に住む剣術使いにたのむことに。しかし、その人がかけあってもだめだったという話(浮世の有様)。この山田村の剣術使いとは、大助の親父ではなかったか、とは思うのですが、まあ、村の人が、山田村出身で大坂ではある程度成功し、顔も広い世間師でもあった大助に村の窮状を訴えたことはたしかでしょう。

親分、頼むといわれたら、ひとはだぬがざるをえないのが、大助では。それでなくとも、大坂の人たちは大塩の一党の義挙の興奮がまださめてはいない。大助も人生観が変わるほどの衝撃を受けた。

大助は、もし、強訴を企てるような最悪の雰囲気になったら、すぐにおれに知らせよ、おれに考えがある、と林蔵に語ったようです。

あるいは、林蔵としては、村の人々だけで強訴、打ちこわしをやるのは、村社会の中ではなにかと都合が悪く、よそ者を責任者にして騒ぎをおこすつもりだったのかもしれません。林蔵、遠島の処分になります。








大塩の乱と山田屋大助(能勢一揆3)

2005-11-11 | 一揆
大坂を旅立った一行は昼過ぎには池田に到着。ここで、飴屋の平三郎なる者を誘ったともいわれます。

画像は、天保12年創業の福助堂。うまいまんじゅうを売っています。この前の道を大助たちも歩いたかもしれません。ここは、坂になっていて、池田のしし買いという落語にも出るそうだ。池田は当時は、文人墨客も多く滞在したけっこう繁盛した町で、大助たちもここで、休憩をとったにちがいありません。

さて、ここで、こちらも休憩ということで、大塩の乱と大助について。
山田屋大助は、町を行進する大塩を直接目撃したのです。「味方につけー」ときっと声をかけられたでしょう。

当時のルポルタージュともいうべき「浮世の有様」には、こうあります。

「大塩平八郎乱妨放火せし時、かかる事とは思いよらず、ただ尋常の火事と心得、山田屋大助天満の方へ火事見舞いにいたりしに、十丁目筋とやらんにて、思いがけなく大塩が鉄砲、石火矢、刀槍の鞘をはずし、いかめしき様にて出来れるに出会いしかば、大いに肝をつぶし、あわてうろたえて走りかえりしが、船場にて鴻池、三井等を焼きたて火勢大に盛んになり、加島屋作兵衛、加島屋久右衛門等をも石火矢にて焼打ちに来れるよし、専ら取り沙汰にして、市中一統騒々しかりしにぞ、大助が有様、大にうろたえ、こはいかがなりぬることやらんとて、顔色血色を失い、あわてさわぎぬる有様、彼が平日に武芸を諸人に教え、高慢なる様子とは雲泥の違いなるゆえ、大に人目に立ち、諸人の物笑いになりしという」

大助は、長年、加島屋久右衛門(鴻池と並ぶ当時の大銀行)の用心棒、警備責任者みたいなこともしていたようです。とにかく、大ショックを受けた。

その後、大助は、大塩が配布した檄文を読んで、大塩の心事を理解したかもしれません。
(大坂の大助の自宅から大塩の檄文が発見されています)。

また、大塩の乱を鎮圧することに最も功のあった大坂城定番与力坂本絃之助(たしか吉田松陰もこの人を訪問している)は、大助に会って話したこともあるらしく、こう書き残しています。

「江戸堀の篠崎小竹が借家に住居せし山田大助という手習い師匠をして少々兵学なども教え居しものありて、これが常々大塩の事を嘲り笑って、軍学を知らぬゆえ、拙きことをしたりと、誹りおりし」

たしかに大塩の乱は、気持ちはわかるが、無策といえば無策。
大助には、どうせやるのなら、策がなければ、と考えたのかもしれません。


能勢にきた大坂浪人(能勢一揆2)

2005-11-11 | 一揆
天保8年7月1日早朝、大坂の町から5人の男が能勢にむけて旅立った。

山田屋大助。
大坂の斉藤町(今の西区。西船場か)で、薬種業を営むかたわら、対馬藩の蔵屋敷に道場を持っていて、大坂の与力や同心、また町人たちに柔剣術を教えている人物。その腕は鬼神のごとしだとか。住居も立派で、けっこう豊かな暮らしをしている。若い妻(後妻)と娘と息子がいる。能勢山田村の出身で、多田院御家人の子孫。この人物については、まだまだ書くべきことが多いけど、割愛して先をいそごう。

今井藤蔵。
三河出身の浪人。山田屋大助の住居に近い横堀に住み、そこで、書道と算術の塾を開き、大勢の弟子がいる。妻とまだ10歳にならない娘がいる。山田屋大助とは、義兄弟の仲で30年来の友。年齢も大助と同じくらいで、40代の後半。

佐藤四郎右衛門。若い。20代で独身。因州鳥取藩を浪人し、御堂筋河原町で、研ぎ屋をしている。

本橋岩次郎。若い。大坂城玉造口定番同心。前記の今井藤蔵の甥といわれる。

三津平。今井藤蔵に雇われた小者。

本橋(遠島)と三津平(牢死)は、現地に到着して騒動が始まると逃げ帰ってしまうので、主役は、山田屋大助、今井藤蔵、佐藤四郎右衛門の三匹の侍ということになる。

大助は、故郷の能勢山田村の父親の病気見舞いに、今井は、能勢妙見参りに、と言い残して長年住み暮らした大坂を旅立ちました。

3人とも、半年前の大塩の乱におおきなショックを受けた血の熱い男たちです。

ブログって、いったい何字まで書けるのだろう。わからないので、とりあえず、ここまで。


山田屋大助の乱(能勢一揆)1

2005-11-10 | 一揆
能勢の歴史といえば、この人のことを等閑視するわけにはいかない。
能勢だけでなく、この騒動は、今でいえば、能勢町、豊能町、宝塚市、川西市までまたがる広い範囲にわたった一揆だ。

ただの一揆と違う。天保8年2月の大塩平八郎の乱に直接の影響を受けた一揆だ。有名な大塩の乱。しかし、大塩に続く乱というのは、意外と少ない。天保8年6月に越後柏崎で起きた生田万の乱と、この山田屋大助の乱くらいだ。

この能勢一揆は、その規模も大塩の乱、生田万の乱(共に半日で終わる)よりも地理的範囲は広く、期間も長い〈4日間)。向かった捕り方も大坂町奉行所、大坂代官所はもとより隣接諸藩からも動員され、1000人を越える。

原因は、天保の飢饉、人々の飢えだが、一揆のスローガン、幟に書かれた言葉がおもしろい。一つは、「大塩味方」、一つは「徳政訴訟人」。

行動目標は、能勢から百姓たちを京都まで動員し、朝廷に、全国の米の量を調査し、みんなに平等に分けるようにしてほしい、ということと、今までの借金は帳消しにする徳政を実施するよう、地頭(幕府)に命じもらうこと。

つまり、幕府を相手にしていない。朝廷に直接訴えている。勤皇運動の魁だという人もいる。

これほどの歴史なのだけど、地元能勢でも知る人は少ない。
この乱が始まったのが、天保8年7月2日、能勢の杵宮神社の境内からです。現在の岐尼神社(画像)です。

乱の経過を簡単に紹介するつもりです。





ミステリーの多い多田銀山

2005-11-09 | 日記
多田銀山史跡保存顕彰会発行の「多田銀山・史跡と伝承」という冊子を手に入れた。多田銀山に関する本は出てないのではなろうか。これには、顕彰会の会員が多田銀山の史跡と伝承について書いた60ページほどの冊子で史跡マップもついていて、便利だ。

読むと、やっぱりあそこ(多田銀山)は怪奇な伝説がいっぱい。初めて行ったとき、なんとなく異様な気がしたけど、そうだったのか、と思った(わたし、すごいおくびょうもの)。なにせ、金山彦神社も甘露寺も、見学できる間歩も、だーれもいないのです。あまり、来る人はいないのでしょう。

途中に、中谷工業というのがあるらしく、いったい、なぜこんなところに工業会社が、と思ってあとで、ネットで調べると、梱包の会社らしいけど、それは外面で、実際は、財宝発掘の仕事をしてたりして(笑。中谷工業さん、失礼。冗談です)

登っていくと、左に曲がる坂道があって、左に曲がると、太閤時代の間歩(坑道)や中谷工業もあるはずですが、わたしは、そこでひきかえしました(大きな犬が道で番をしていたこともある)。でも、そのまま左の道を進むと、「墓の元」という地名になっていて、、そこには立ち入らない方がよかったのかも。

ここの造成工事のとき(昭和40年代)、新車のダンプカーが転落。数日後、別のダンプカーで現場に向かったのですが、ダンピカーがぜんぜ動かず、作業ができないことがあったそうな。最近になって造成されたそうだけど、また不幸なことが現場であったそうです。ここは無縁墓がたくさんあったそうで、立ち入るとたたりがあるといわれているそうだ。

そのほか、甘露寺に霊が出たとか、坑道の中で鎧を着た武人がでてきた、とか(最近の話)たくさんミステリーがあるようだ。。首斬り池とか底なし穴、身投げの井戸、死罪人間歩などもある。銀山というのは、過酷な労働で、多くの人々の浮かばれない霊があるのかもしれませんね。ああ、こわ。あるいは、財宝を守るために、人を近づけさせないために、こんな話がある?

多田銀山は謎に満ちています。