虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

四天王寺近辺散策

2010-04-29 | 日記
四天王寺の古本祭にいった。これも業務の一つ(笑)。

ここまで来たついでに、近くを散策した。四天王寺から一心寺ー安居神社ー清水寺ー大江神社ー愛染堂ー口縄坂を歩く。往復1時間もかからない。

四天王寺の前の表通りは車や人の往来も激しいが、一歩、細い道を入ると、静かでのんびりした通りがある。

安居神社。ここは真田幸村終焉の地。大坂夏の陣で家康をぎりぎりまで追い詰めたのだが、果たせず、疲れ果て、ここで休んでいるところを敵に発見され死ぬ。
真田幸村は戦国武将の中で一番好きな武将だ。幸村も、最期はやることはやった、と悔いはなかったにちがいない。49才。ごくろうさま!

清水寺は京都清水寺の音羽の滝を模した玉出の滝というのが江戸時代に作られたそうだ。今日も、上半身裸になって、滝にうたれている人がいた。

愛染堂は夏の愛染祭りでにぎわう。愛染かつらでも有名。

口縄の坂は石畳がくちなわ(蛇)に見えるところから名付けられたらしい。織田作之助もよく歩き、愛し、その小説の舞台にもなっているそうだが(知らない)。
坂のわきには坂をスケッチしている人がいた。

文楽の植村文楽軒、麻田剛立、田村竹田、芭蕉などの碑もあった。

もう少し歩くと、新選組大坂屯所があった萬福寺、夕霧太夫の墓のある浄國寺、井原西鶴の像がある生国魂神社があるが、そこまではいかなかった。

このへんは夕陽丘というらしい。このへんの散策に便利な「夕陽丘歴史の散歩道」という散策マップは一心寺でもらえるので、その地図をもって歩くといいです。

史蹟は京都や奈良ばかりではない。大阪にだっていっぱいあるよ。

画像は安居神社の真田幸村の碑。横に幸村の銅像があるが、座っている姿。最期の休んでいる時の姿だろうか?

龍馬伝 海軍の龍馬?

2010-04-25 | 映画・テレビ
大河「龍馬伝」。
次回は「海軍を作る」だそうだ。

この「龍馬伝」では、海軍を作り、国を守るために力を尽くした龍馬を描くのだろうか?
「坂の上の雲」の海軍と「龍馬伝」の海軍の龍馬と連携したドラマ作りを狙っているのではと、最初、邪推したのだけど、やっぱりそうかもしれないと思い出した。

「篤姫」のときもそうだったけど、幕末を描くとき、最近のNHKはしきりに「国を守る」というセリフをいわせるが、龍馬にもいわせている。「海軍を作って国を守る」。

しかし、今まで、龍馬と海軍をここまで結びつけた説があっただろうか。
いや、龍馬自身に「海軍を作る」なんて言葉があっただろうか。勝海舟ならわかる。かれは近代海軍の父だろう。しかし、龍馬に「海軍志向」があっただろうか?船と海軍を結びつけるのは強引だ。

どのように龍馬が作られていくか、これはちょっと油断はできないな、と思う。

福山のせいではなく、脚本、演出のせいだけど、福山龍馬はやっぱり個性がものたらない。ある意図のもと(企画)で龍馬が動かされているためだろうが、あまりにもふつうの青年すぎる。

勝海舟からは、「落ち着いていて、ちょっと犯しがたい威厳があった」と評され、横井小楠からは「乱臣賊子になるな」と注意された龍馬。

もう少し不敵な面があってもいいなあ。毎回「ありがとうございます!」ばっかりだもの。

画像は義仲寺。本文と関係ありません(笑)



幻住庵 岩間寺 石山寺 義仲寺

2010-04-24 | 日記
桜のあとは、緑の若葉。
今の時期の緑は実にいい。緑が生き生きとしている。
緑を見に車を走らせた。

京都は混んでいると思ったので、大津にした。

俳句もやらないし、芭蕉についても何も知らないのだけど、今日は、すべて芭蕉に関係した場所を訪ねることになった。不思議だ。

まず、幻住庵。芭蕉がしばらく住んでいた所。山の中。苔むしている風景がいい。
苔は大好き。ここは、竹下登さんが総理のときの「ふるさと基金」で整備したとか。

そのあと、ボケ封じにと岩間寺。ここも芭蕉と関係のある寺。芭蕉はここで霊感を得て蕉風を確立したとか。ちょうど秘仏の観音さんもご開帳していた。15cmくらいのミニ観音。
めったに公開していないそうだ。けっこう広い寺。駐車場もある。

石山寺。さすが観光寺。広い。ゆっくり見たら半日は過ごせる。紫式部が源氏物語を書き始めた寺。芭蕉庵もある。公営駐車場といいながら、600円もとるのはひどい。

最期は、義仲寺。木曽の義仲の墓と芭蕉の墓がある。
芭蕉は大阪で死んだのだが、遺体はここに埋めてくれと遺言していたそうだ。
小さなただの石。いかにも芭蕉らしい。

ここは、駐車場もない小さな寺。戦後、荒廃し、存続も危ぶまれたそうだが、個人の寄付で復興されたらしい。奥に保田興重郎の墓があった。なぜ、ここにあるの?と聞くと、保田はこの寺の保存に各方面に精力的に働きかけて力を尽くしたらしい。

もともと、この寺は巴御前がひそかに庵をむすんで義仲の霊を弔ったところらしい。巴御前は90才まで長生きしたとは知らなかった。

芭蕉はなぜここが気に入ったのだろう。
芭蕉は荘子のファンだったはず。芭蕉を知りたい、と思った。
画像は、また、なにかのついでにのせます。今回は若葉。

千葉重太郎

2010-04-22 | 歴史
千葉重太郎といえば、桶町千葉道場の千葉定吉の息子で、坂本龍馬の友人。龍馬のドラマでは必ずといって登場し、どちらかといえば、ノンポリで単純温厚な好男子みたいな役柄。今の大河では、渡辺いっけいが演じている。

さて、この千葉重太郎も山国隊と深く関わっている。
仲村 研の「山国隊」を読むと、山国隊が江戸にいるとき、しばしば千葉重太郎が出てくる。この本は、山国隊の総代だった藤野 斎の日記をもとにして書いているが、藤野とも親しく交際している。交際どころか、山国隊に500両も貸している。返してくれよ、としきりに返済を要求して藤野を困らせてはいるが、しかし、よくぞ500両も出したものだ。

なんと、千葉重太郎も因幡藩士(鳥取藩)なのだ。因幡藩の江戸藩邸での周旋役を務めていたようだ。

ネットで調べると、父定吉も嘉永6年に鳥取藩の剣術師範役になり、重太郎は万延元年に因幡藩に仕官している。江戸藩邸の仕事をしていたのだろう。戊辰戦争にも因幡藩の歩兵頭として出陣している。

因幡藩は尊皇攘夷派が多く、長州人との交際もある。桂小五郎が池田屋を訪ねたとき、因幡藩邸に立ち寄っていたので、新選組の災難にあわなくてすんだ。
千葉重太郎も尊皇攘夷派だったにちがいない。龍馬を連れて勝を斬りにいった、という話は納得できる。

前回の龍馬伝では、龍馬は勝海舟という存在を恋人の平井加尾さんから教えられるという設定だったけど、いくらなんでもそれはないだろう。


千葉重太郎さん、その後、鳥取藩、北海道開拓吏、京都府などの役人になったそうだ。
千葉重太郎の語り残しみたいなのはないのだろうか。

薩摩、長州、土佐に比べると、因幡藩というのはほんとに注目度が低い。
前回、書いた山国隊隊長になる河田左久馬、初代の鳥取県県令になっている。

山国隊 ③

2010-04-20 | 歴史
前回の山国隊の墓標の説明、訂正。一番右が原 六郎で、そのとなりが河田左久馬、そのとなりが水口市之進。
水口市之進は山国隊の代表の一人だが、もう一人総代の地位にあった藤野 斎(いっき)の墓標はどこにあるのだろう?
だいたい、この神社で、なぜ地元山国の藤野や水口の説明が一切なかったのだろう。

藤野 斎が京都の芸者との間にできた子供は日本映画界の父といわれた牧野省三。
牧野省三は映画「山国隊」を作ることを夢見ていたそうだ。

また、隊士の中に北小路という名前の人がいるが、この人はかつて60年安保のとき全学連委員長として名を鳴らした北小路敏の先祖だそうだ。

隊員たち83名の名前、出身村 年齢などはわかっているはずだけど、いったいどこで確かめたらいいのだろう。

さて、山国という土地は古来、皇室とは関係が深かったらしい。平安遷都のとき、その造営の材木を提供したのはこの土地。江戸時代までは皇室領だった。江戸時代になってから、皇室領、旗本領、門跡領に分割され、村人にとっては、皇室領に統一されることが願いだったようだ。

戊辰戦争が始まるとき、朝廷は丹波の村々に檄を飛ばした。西園寺公望の出した檄文にはこうある。
「官軍へ加わり候村々は、当年限り年貢半納の御沙汰これあるべく候、もし、狐疑いたし、不参せしむるにおいては、その一村たちどころに御誅罰あい加えられるべき事」

相楽総三たち赤報隊は、一足先に年貢半減を掲げ、東に進んでいた。
山国隊は、その後を進む東山道軍に属した。
摂津の多田御家人たちの多田隊も同じく、このとき、檄に応じて東山道軍に参加している。
「山国隊」という名は岩倉具視がつけたそうだ。

さて、山国隊は、近藤勇たちとの勝沼の戦いや彰義隊との戦い、奥羽戦争まで転戦するが、その費用は自弁で、なんと七千八百両かかったそうだ。

戦いが終わっての章典は、他の草莽への報いと同様、わずかなもので、莫大な借金だけが残ることになる。

武士で他藩の河田左久馬や原 六郎たちは中央に出て出世をしていくが、山国隊員たちは、みな、山国の地で一生を終えた。

古本うしおに堂のブログにも、山国隊の本について少し書いておきました。



山国隊 ②

2010-04-19 | 歴史
山国護国神社の説明板のつづき。

「尚 この間に明治15年7月14日京都府は「自今、招魂社祭祀及び修繕等の諸経費は皆官費を以て被支給候事」の通達を出し、昭和20年の終戦に至るまで官費をもって招魂社の諸費は賄われて来た。また、明治16年8月には社殿を新築し、石棚を造り、招魂場としておなり、の体裁を整えた。招魂社が明治2年に設けられて以来明治16年までに支出した金員は2千余円の多額にのぼる旨が記録されている。
憲法が改められて以来、官営の招魂社は認められなくなり、昭和20年宗教法人山国郷社となり、昭和26年宗教法人山國護国神社となって、町民崇敬の社となっている。明治百年祭より、日清・日露・大東亜戦の戦病死者を昭和42年より合祀されている」

説明板は以上です。

石段をのぼると、まず、明治2年に造られたという招魂碑(石)がある。また、明治16年ころに建てられた3メートルくらいの顕彰碑(京都府知事槙村正直が碑文を書いたのだろうか、なに書いているのかはよく見えない)。そして、隊士の墓標がずらりと立っている。隊士は83名いたというけど、数えてないけど、83あるのだろうか。
墓標は1段目(上)と2段目(下)に分けられていたけど、これは山国隊は東軍と西軍に別れたというから、そのためだろうか?わからない。

何の説明もない。いや、隊士83名の名前くらいははっきりと説明板に書くべきだろう。
墓標に、名前は刻んでいるといっても、読みにくい。

個人の小さな説明板はある。池田慶徳、河田左久馬、原 六郎、槙田正直の4つだ。
池田慶徳は因幡藩藩主(水戸斉昭の子)、招魂碑の石の「大きみの御たてとなりし ますらおの いそしを 世々にたつる石ふみ」という歌はこの人が作ったらしい。

河田左久馬。因幡藩士。因幡藩きっての攘夷志士。山国隊は因幡藩とともに行動することになり、河田は山国隊の隊長になる。

原 六郎 (但馬の出身だが、生野の変に参加したあと、因幡藩に保護を求めた)。山国隊の司令長になる。

槙村正直(長州藩士。行政裁判所長官となり、無役地事件にもかかわる) 京都府知事。

この4人とも山国の人ではない。4人とも明治後もそれぞれ栄光に包まれた生涯を送った人だ。

なぜ、山国出身の人を、山国隊士全員の名を出し、かれらの事蹟を知らしめようとしないのだろう。

画像は墓標。一番、右が隊長河田左久馬、その隣は原 六郎。他の墓標よりも少し土台が高くなっている。差をつけているわけだ。なんだい、これは、おかしいよ。

この墓標が造られた頃は、すでに天皇制軍隊も確立され、草莽の存在よりも、天皇を上にいただく階級意識が濃厚になってきていたのだろうか。

山国出身の山国隊の主人公たちはどこにいるのか。とりあえず1杯飲ってからにしよう。



山国隊探索報告 ①

2010-04-19 | 歴史
山国神社と山国護国神社とは違うようだ。
山国護国神社は、山国隊の隊士たちを祭る場所で、隊士たちの墓標が立っている。画像が山国護国神社の入り口。この横に説明版が立っているが、手書きの文字で、だれが書いたかも記入していない。いや、上にのぼると、いくつか人物を説明した板も立っているが、だれが書いたか、わからない。ふつう、こういう説明版は教育委員会が書くけど、これは村の人が書いたのだろうか。

ここはたまたま通りがてらに、見つけてちょっとしか見ていないのだけど、いろいろ疑問に感じることがあった。

まずは、神社下の説明板をそのまま書いてみる。

「    山國護国神社由緒

王政復古の政変に際し、勤皇隊の総司令官西園寺公望公の要請に呼応して、山国庄の名主等が農民兵を組織して勤皇隊に加わり、鳥羽・伏見の戦はもとより遠く江戸、奥羽地方まで転戦した事は史実に基づいても明らかな所であります。
其の山国隊が、山国庄に明治2年2月21日凱旋した日に伍長会を開いて戦病死をした戦士の招魂場を設けることを話した後、2月24日全隊員が先ず王社明神に参拝して報告祭を催し、その足で、先日議決した薬師山に戦病死をした七隊士の墓標をたて招魂祭を催した。その隊士の名は次の通りである。

仲西市太郎(江戸) 田中浅太郎(安塚) 田中伍右衛門(上野) 新井兼吉(安塚) 高室重蔵(江戸) 高室治兵衛(安塚) 北小路萬之助(京都)

明治8年12月15日最初の招魂祭を京都府の監督官の臨席のもとに催したが、これが恒例となって、毎年、山國村民が多数参列して現在に至るまで盛大に執行せられている。」

まだ、続くが、ひとまず、ここで1服。

京都北山の桜

2010-04-17 | 日記
京都北山にある常照皇寺にいった。ここの桜は有名らしい。
駐車場は無料、拝観料は志納料300円だけで、京都の寺にしては良心的。
京都南から1時間もかかる山の中だからかも。
本堂も広く、境内の桜もきれい。散りかけてはいたが、みんな今年の最後の桜をカメラにおさめていた。画像は常照皇寺の桜。

帰りは、栂尾の高山寺にいこうと、常照皇寺を下ってしばらく走ると、山国護国神社という標識を見つけた。これは、幕末維新の山国隊のことだな、と気づいたので、神社の前に車を止めた。やっぱりそうだった。ここに、山国隊士の墓碑があった。山国隊はこの土地の村民たちが自弁で維新の戦いに参加した。京都時代祭りの行列ではたしかこの山国隊が先頭を歩くらしい。維新政府に参加した草莽隊だ。わが北摂からは多田隊が参加しているが、多田隊は、記念碑も何もない。でも、ここも、地元の人以外はだれも訪れない、忘れられたような場所になっている。山国隊については、あまり知らないので、いずれ、また書く。

高山寺は、明恵上人がいたところ。「鳥獣人物戯画絵巻」や「明恵上人樹上座像」の絵がある。明恵上人についても何も知らない。ただ、いろんな人が明恵上人については書いていることは知っている。

明恵上人の遺訓が「あるべきようは」とのことだが、意味はよくわからんが、なかなかしゃれた人物のようだ。この高山寺とアッシジの聖フランシスコ教会は兄弟教会の約束をしたらしい。アッシジのフランシスコと明恵上人は同時代人で、その清貧の生き方が似ているとか。

明恵上人が作った、月の歌がおもしろい。

あかあかあかやあかあかあかやあかあかや
            あかあかあかやあかあかあかや月

茨木の古本屋

2010-04-14 | 日記
用事があって茨木市までいったが、そのとき、小さな古本屋さんを教えてもらった。
スーパーの前にある。スーパーの駐車場は利用できるし、人が集まるしで、立地条件はいい。いや、この立地条件だからこそ、生き残っているのだろう。

四畳半一部屋くらいの広さだが、アダルトビデオ(CD)やアダルトマンガと普通の古書が半々。こうでないと、お客さんは来てくれないのだろう。これも生き残りの策かもしれない。店主は髭面の、いかにも古本屋のおやじらしい人。古書の品揃えはいい。日本の名著や岩波文庫も多い。大塩平八郎もあった。趣味はあう。ただ、ブックオフみたいに安くはない。日本の名著で、600円くらい、文庫はどれも定価の半額で売っている。また、来たいな、と思った。

それにしても、茨木市といえば大きな町で、人も多いのに、ここにはブックオフがない。ない土地もあるんだな。

ちょっと調べてみたが、大阪はブックオフは46店あって、近畿でトップ。近畿で一番少ないのは和歌山、4店。

四国や九州など地方の県は店舗数一けたのところが多い。ところが東京は146店とダントツ。

物忘れがひどい

2010-04-13 | 日記
物忘れがひどい。大丈夫か?と心配だ。

住所とか電話番号を突然聞かれたりすると、パッと答えられないときもある。
本をどこに置いたか、すぐにわからなくなる。
銀行からお金を引き出したのもすぐ忘れる。たぶん、銀行のお金はいつまでも減らずに、そのままずっとあると思っているのだろう。自分が使ったことは忘れる。
薬を飲んだかどうか忘れる。
昨日、何を食べたか、何をしたのかも思い出せなくなる。
ぼけたのかなあ。しかし、人に貸したお金は決して忘れないんだけどな(笑)。


これから、忘れないように、日記を書いておこうと思う。
でも、パソコンの日記はパソコンが故障したら、いっしょにパーになるので、ノートに書こうと思うけど、字がめちゃめちゃ下手なので、数行書いたら、いやになる。
よし、手帳にメモをしておけばいいのだ。明日、100均で、手帳を買おう。
明日、おぼえているだろうか?


さらば桜

2010-04-11 | 日記
明日は雨だそうだ。その雨で桜も散ってしまうな。桜も今日で終わりかもしれない。
2週間くらいだったけど、目を楽しませてくれた。また、来年、会おう。

井上ひさしさんが亡くなった。「9条の会」のよびかけ人、これで、小田 実、加藤周一、井上ひさし、と3人がなくなった。

一方で、石原とか平沼とかいう人たちが新党を作る。日本の伝統文化を守るとかいって、憲法改正を訴える。

来年は、どんな日本で桜を見ることになるのだろう。


NHKで見たトルストイ

2010-04-09 | 映画・テレビ
ついこの間、NHKのETV特集でトルストイが出た。記録映像で、生きて、動いているトルストイの姿を初めて見た。びっくりしたのは、その手だ。でっかい。びっくりした。指も長く太い。わたしの2倍は確実にある。やはり巨人だと思った。戦国時代に生まれていたら、豪傑だ。このテレビを見て、トルストイを読みたくなり、うしおに堂にトルストイを注文してくれた方もいた。いい番組だ(^^)。

龍馬伝 坂崎紫瀾

2010-04-04 | 映画・テレビ
龍馬伝第二部。
第一部と同じく、冒頭に坂崎紫瀾が岩崎弥太郎から取材をするところ。
しかし、いくらなんでも、自由民権家の坂崎が岩崎に取材をするだろうか。

よりによって岩崎に聞かなくても、他にいるはず。ドラマでは板垣退助の洋行費を岩崎に出してくれるように頼む人も出ていたが、たしか、板垣は三井の金で洋行した、とさんざん批判され、これは自由党分裂、解党の原因になる。岩崎は自由民権運動を弾圧する側の人だ。

坂本龍馬が生きていたら、岩崎弥太郎のようになる、ということはない。少なくとも、初めて「龍馬伝」を書いた坂崎紫瀾は、岩崎弥太郎など、龍馬と比べるにも値しない、と思っていたはずだ。
坂崎は、背広を着ていたが、坂崎なら、たぶん、まだ着物のはずではないのだろうか。とはいえ、坂崎紫瀾については、あまりよくわかっっていないらしい。

武田鉄矢の勝海舟も出た。勝がかわいそうだ。

10時から、NHKで、トルストイの非戦論をやる。これは見よう!

花は桜木

2010-04-03 | 日記
桜がきれいだ。

以前は、桜はあんまり興味なかった。
だいたい、みんなから注目されるのものは、なんだかなあ、という気で見ていた。
大鵬よりも柏戸、吉永小百合よりも和泉雅子、坂本龍馬よりも清河八郎をひいきにする(笑)。

でも、最近は素直に桜を見ることができるようになった。あのうすいピンク色、ほんとに春にふさわしい。きれいだ。

ところで、和泉雅子。今、どうしているのだろう。年上の人だけど、高校時代はファンだった。

冒険家になり、冒険のために脂肪をつけ、映画スターだった頃の面影は今はないそうだ。
しかし、彼女も自分の道を行く人だった。立派だ。やっぱり、おらの目にまちがいはなかった。

話が支離滅裂。失敬!

わがまま

2010-04-02 | 読書
「私が愛している一つの、いな、唯一の徳目がある。その名を「わがまま」という」。

うーん、こういうことを言う人って、日本にはいないなあ。
これは、ヘルマン・ヘッセがいった言葉(ヘッセ「人生を思う」)。

われのままなる心、それは万物にある。いや、万物はそれで生きている。人間と、人間に飼い慣らされた家畜だけがそうではない、といっている。