虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

禁煙セラピー

2005-07-31 | 読書
「禁煙セラピー」がベストセラーらしい。
芸能人がこれで禁煙できたということもひとつのきっかけか、なぜかベストセラーに。

この「禁煙セラピー」、実際は、数年前に出版されたものだ、わたしも2年ほど前だったか、ブックオフで100円で手に入れたが、すぐにゴミ箱にほってしまった。走り読みしたので、内容はあまりおぼえてないけど、特にどうってことない本でむろん禁煙の役にはたたなかった。禁煙したい人は、ムダだとは知りながら、ついこの種の本には手がのびてしまうのだ。

それが、今年になって、ベストセラー。おそらく売り手側の販売作戦によるものだろう。禁煙セラピーの事業所を作ったり、ネットで宣伝したり、また芸能人に宣伝させるの一つの作戦だったのだろう。つまらない本でも、ベストセラーにすることができる今の出版界のありさまがわかる。

今朝の朝日まで、書評欄にこの本が紹介されていた。筆者のアレン・カー氏はさぞ喜んでることだろう。人を説得することは、こういうことだ、と書評には書いてあったけど、ちがう、人に乗せられるとはこういうことだ。

禁煙や、ダイエットなどの誘導ならまだいい。
政治などの問題でも、どうしようもなくくだらない言説がテレビで大きくとりあげられ、ベストセラーになるということも大いにありうる昨今だ。

でも、禁煙したいよー。


田辺聖子と清河八郎

2005-07-31 | 読書
ブックオフで田辺聖子の「姥ざかり花の旅笠」(集英社文庫)を手に入れた。

これは天保のころ、九州の商家の奥さんが伊勢、善光寺、江戸見物をした旅日記(東路日記といい、著者は、小田宅子といって、高倉健の先祖だそうな)。
田辺聖子は、この日記をたどりつつ、当時のいろんな紀行文なども紹介しながら、当時の庶民の旅の姿を語っていく。

ほしかったのは、この本で清河八郎の「西遊草」がたびたび引用されているから。
田辺聖子は清河八郎にはその「西遊草」を読む中で次第に好意を持ったようで、話の最後には、清河八郎について10ページほど割いてその人生を語り、こう結んでいます。

「折々の人間スケッチが温かくて、「西遊草」の八郎は〈百才あって一誠なし)という奇才とはまた、一風ちがう、温かい風合の男のようである」


香川敬三と多田隊

2005-07-24 | 歴史
香川敬三をごぞんじだろうか?
新選組ファンなら、近藤の処刑を主張したにっくきヤツ。
子母澤寛の「新選組始末記」には、有馬藤太が香川敬三を憤慨する言葉をのせている。
「実に口惜しいことであった。どうせ殺すなら拙者の手にかけてやりたかった。武士の情けさえ知らぬ香川ごときになんとしても心残りでたまらぬ」と、ある。

また、香川敬三は相楽総三の敵でもある。
長谷川伸の名著「相楽総三とその同志」で木村亀太郎という相楽総三の孫が、総三の形見の髪の毛を発見し、母親からこういわれる場面があります。
「祖父をそういう目にあわしたものの一人は香川敬三と今いっている人で、香川はわたしたちに怨み深いものだが、当今では高位高官で、宮内省のえらい人になっているから、お前がもしも相楽総三の孫だと知れたら、どんなことになろうか知れないから、心をつけて、覚られぬようにしなくてはいけない」
木村亀太郎は、宮内省の給仕をしてたんですね。

さて、摂津の多田院御家人の系譜をひく多田隊の人たち、どうも、この香川敬三の手足として利用された形跡が濃厚です。

岩倉たち公家は、藩ではなく(藩士は藩主との関係もあって、ややこしい)、自分直属の兵がほしかったのですね。それには、草莽が一番、使いよい。金もかからないし。

京都を出発したときの東山道鎮撫総督は、岩倉具定(具視の息子)。その旗本軍(中心軍)は、多田隊(20名)、山科隊(12人)、力士隊(25人)です。草莽です。
そして、参謀ではないけど、岩倉の側用人みたいな立場で香川敬三がいる。三井の手代もいる。

当然、相楽総三の赤報隊の処刑にも多田隊(新井三郎)がかかわり、近藤を糾弾したのものも多田隊員(脇田頼三)といわれる(「戊辰戦争と多田郷士」)。

特にこの脇田頼三という人は、香川の手駒として使われたようで、飛騨の監督に出た竹沢寛三郎のもとに小監察として派遣し、竹沢を逮捕させている。

相楽総三も飛騨の竹沢寛三郎も「年貢半減」をとなえたのが東山道鎮撫総督の怒りを買った理由だ。けちくさいのは、香川の特徴だと思う。

子母澤寛の「新選組始末記」に、香川が有馬になぜ近藤を殺したんだ、と聞かれて、こう答えています。「近藤を生かして置くと、それを監視するために、莫大な兵力を要するから仕方なく斬った」。

多田隊の脇田頼三は香川に用いられ、岩倉直属の部下になりますが、なぜか、処刑されてしまいます。利用され、捨てられたのでしょう。

多田隊

2005-07-24 | 歴史
慶応4年、正月、京都の参与役所から、禁裏御用につき至急上京すべし、の知らせを受け、多田郷士(多田院御家人の系譜をひく者)は多田院に集結してから出発、京都の浄国寺が屯所になります。(屯所はその後、禁裏付組屋敷とか変わる)。

このとき、摂津の多田院周辺の村から集まった多田郷士は約80名。しかし、多田郷士が驚いたことには、見知らぬ浪人たち80名ほどが、すでに多田隊として先着していたのです。

その浪人組の隊長は、たしかに元は多田院御家人の系譜を引く者ですが、20年ほど前に村を出奔し(殺人事件に関わりがあるといわれる)、幕末の動乱の中で多田院御家人の名を利用し、浪人たちを集め、多田隊を組織し、岩倉に禁裏守護を願い出ていたのでした。今度の多田院への上京の命令はこの浪人(奥西唯右衛門)のさしがねだったのです。奥西さん、ちょっと小清河八郎みたいだ(笑)。

由緒ある正式の多田院御家人の系譜である国元組と、素性のわからない浪人組の多田隊。多田隊には、二つの組ができることになります。この二つの組は対立し、屯所も分かれるのですが、しかし、禁裏にとっては知ったことじゃない、多田隊は一つです。多田隊には、岩倉邸など、宮様警護などの任務のほか、岩倉直属の兵として、利用されます。このへんはややこしいので、割愛。

東山道鎮撫の軍として関東に行き、北越征討軍として、新潟まで行きますが、明治2年7月、隊は解散、1年7ヶ月の活動でした。

自弁で多田隊として活動し、死者まで出したのに、わずかの礼金のみで、多田院御家人としての名誉復活(士族復籍)はかないませんでした。ところで、多田隊でおもしろいのは、香川敬三です。これは次回に。

参考  宮川秀一「戊辰戦争と多田郷士」




多田院御家人

2005-07-23 | 歴史
能勢は大阪の最北に位置する。
低い山に囲まれた田園地帯だ。キャンプ場などもあり、緑が心慰めてくれるので、たまに車で走る。ところどころ、草葺の屋根の格式ある民家が目につきます。大阪もちょっと足をのばせば昔の農村風景を目にできるのがいい。

その古くて立派な家の中には、元多田院御家人の家系の人が住んでいるのではないかといつも思います。このあたり農村の庄屋役や有力者は、多田院御家人の子孫が多いそうだから。でも、今では、その子孫も多田院御家人なんて知らないかもしれない。

能勢出身の友人がいるけど、能勢出身でも、多田院御家人のことを知らなかった。それ、何?という感じ。1000年以上も前の話だから当然か。

しかし、江戸時代はそうではなかっただろうと思う。
系図や家系、武士の誇りなどが重んじられた時代だ。武士団の元祖である多田院御家人が、江戸時代は、武士ではなく、農、郷士としての身分を余儀なくされた。家康はじめ、大名のほとんどは系図も怪しいのが多いけど、多田院の周辺の農村に住む多田院御家人ほど由緒の正しい家系はない。
おれたちが武士でなくて、だれが武士か、という思いもあったのかもしれない。

江戸時代、多田院御家人の武士身分復帰、つまりは、知行地回復の運動をかなりやったようだけど、無理だった。だれかの家来になって武士になるのではなく、多田院御家人という集団が武士になるのは無理だ。

慶応4年、鳥羽伏見の戦いのあと、京都の岩倉具視から、禁裏御守衛のため至急上京すべしの飛脚が多田院に届きます。こうして多田院御家人の子孫たちは、多田隊として維新に参加します。
武士としての働き口をやっと見つけた、という感じでしょうか。
続きは、書けたら書きます(^^)。



源氏発祥の地

2005-07-21 | 歴史
ネタがないので、地元の話を。
車で15分も走ると、多田神社にいけます。
周りは住宅街なのですが、猪名川にかかる赤い橋を渡った森の一画が多田神社。
静かで、けっこういい所です。ここが源氏発祥の地なのです。

祭神は源満仲、頼光、頼信、頼善、義家。
このへんの歴史は、まったく弱い。満仲といわれても、知る人は知っているのだろうけど(今昔物語にも出てくるそうだ)、わたしにはわからない。満仲は清和天皇の孫源経基の子らしい。この満仲がこのあたりの土地を開発し、多田院を創建したそうです。
満仲の息子頼光は、酒天童子の鬼退治で名前だけ知っている。頼光の家来がまさかりかついだ金太郎(坂田金時)?

多田神社の近くには、満願寺というお寺があって、ここには、金時のお墓があります(足柄山ではなかったのか?)。頼光寺という寺もある。

とにかく、源満仲が、多田(現在兵庫県川西市)に館をかまえ、最初に武士団をつくたのは、今から1000年以上も昔の話。頼朝や義経が活躍する200年前の話。その満仲を祭ったのが多田院です。源氏の祖廟です。

多田院を警護する武士が多田院御家人で、鎌倉時代にできたらしい。でも、戦国時代、御家人は禄を失い、農になります。

農になっても、多田院御家人たちの由緒意識は強く、幕府に対して執拗に禄の回復を求めますが、結局は苗字帯刀を許可されただけでした。

家康も清和源氏という系図だけど(すこぶる怪しい)、多田院御家人たち(主に、川西や能勢地方に住んでいた)の系図の方はたしかです。多田神社のホームページを見てみると、清和源氏同族会というのがあり、ご入会希望の方はたしかなる系図を持って宮司と面接しなければならない、とあった。おそらく多田院御家人の子孫たちが集まっているのかもしれません。

多田神社(多田院)は、昔からときどき建物が鳴動する、という記録があり、多田院の鳴動は有名だったらしい。事変が起きる前に鳴動するとか。ここは、地震の活断層があるのではと思った。









書写山円教寺

2005-07-18 | 日記
海の日に書写山円教寺(姫路)にいってきました。
別に寺が好きなわけでもなく(信心なし)、ろくに参拝もしないのに、けっこうお寺って行っている。静かで、いい景色の自然があって、歴史もある所って、どうしてもお寺になるのかもしれない。

書写山は、昔、弁慶が幼児のとき、大暴れしたという伝説があり、映画「ラストサムライ」のロケ地にもなったところ。なんでも、西の比叡山といわれ、近畿では有名なんだ。

ロープウエイ乗り場に車を止めて、ロープウエイに乗る。約3分くらいで書写山に着く。往復900円。ロープウエイからおりると、和泉式部の物語絵の看板が立てられている。和泉式部にはあまり関心ないのでサッサと通り過ぎる。なんで和泉式部と書写山が関係するのかも読み取らなかった。

円教寺の境内の入り口(仁王門)まで約600mほど登り道。途中、いろいろな観音像が建っていた。数えたら33体あった(しかし、これは新しいもので歴史はない)。円教寺の入り口で拝観料300円払う。まだ山の上り坂はつづく。

10分くらい歩いて、円教寺本殿の摩尼殿につく。この本殿に着く前に弁慶のお手玉石という大きな石がふたつくらい置いてあった。
摩尼殿は、京都の清水寺みたいなつくりで、石の階段を登っているとき、顔をふりあげると、摩尼殿から外の景色を眺めている人が見える。気をつけないとスカートの中が見えてしまうと思った〔笑い)。

摩尼殿から、また歩くと3つの大きな建物がコの字型に並んだ大講堂に着く。大きい。ここは、僧が修行した場所だそうだけど、何百人も収容できそうだ。こんな山の上にこんなりっぱな建物があるとはびっくりだ。ラストサムライで舞台にしたのはここではなかったか?
大講堂の前には、姫路城城主の本多家の墓所になっている。たしか千姫と結婚した殿様の墓もあった。

大講堂から奥の院に。このあたりになると、人は少なくなる。展望台から播磨灘を見る。晴れた日は四国まで見えるそうだけど、この日は海も見えなかった。

ロープウエイからおりてじっくりゆっくり一通り見て回れば2時間はかかるでしょう。わたしは、さっさと歩くので、約1時間で一巡。

清河八郎の「西遊草」にも書写山は出てきます。
「姫路の西より道の右、半道ばかりへだて書写山という霊地あり。いにしえ、弁慶の面に墨をぬられ、怒りし処にて、松樹老いしげり、岩かど荒れ、いたって景色のよき山なり。吾は先年登山いたしぬるなれども、女人禁制の山ゆえ、この度はのぼる事ならぬなり」

軽い登山、ハイキングにはいいところかもしれない。標高371mだけど、姫路では一番高い山だそうだ。

帰り、近くなので、お夏清三郎比翼塚(雲慶寺)というのを見て帰った。デジカメ持ってたら画像をアップできるのになあ。



自殺予防対策?

2005-07-16 | 新聞・テレビから
自殺者が年間3万人を越えたという報道があったのは、数ヶ月前だったか。どこかで社説にとりあげられたくらいで、ジャーナリズムでは大きな議論にはならなかった。50代以上が急激に伸びていて、これは、構造改革かなんか知らないけど、この10年の企業社会、職場環境の変化をあらわすのは明瞭なのに、この問題を大きく取り上げる論議は聞かなかった。
しかし、政府は手早い。3万人という数字が発表されたあとすぐ、来年度は予算をふやして対策に乗り出す、そして、今日の新聞には、自殺予防の拠点センターを設置して、自治体、警察、学校、NPOなどと連携して対策に乗り出すという。実にうさんくさい!

SF小説(未来小説)にもこんな社会はあったのではなかろうか。
働きたくない、働けない、と悩んでいると、「心のケア対策」として専門家がやってきて、不適応症状として、治療される。そんな問題じゃないだろ!この社会のありかたがおかしいだろう?と訴えると、専門家は首をかしげ同情しながら、治療所に収容する。こわい。

経済については民営化か企業化かしらないけど、心、精神の領域については、国営化に乗り出しているのかもしれない。対策と称して、国民の監視監督体制の網の目をはりめぐらせたいのかも。

以前、町の回覧板が回ってきたが、町のお知らせにまじって、警察のちらしが入っていた。不審な人物はいませんか、今度、訪問いたします。テロをなくそう、とかの案内だった。
こんな山奥にまでこんな回覧板が回る。


まい姫さん

2005-07-15 | 日記
まいさん、こんにちは。
コメント欄は書きにくいので、ここに書きます。いいよね。

>でもご安心くださいね、あの散人さんもパソコンはそれほどじゃないんです。

へー、信じられないです。URTというのがHPに行けるドアなんだということがはじめてわかりましたよ。妖怪城の人はみなさん、すばらしいHPを持っているのですよね。なんと、吉三郎くんもブログを持っているのを発見!言えばいいのになあ、吉くん。
HPとブログのちがいもよくわからず、今日なんか、突然、通信不能になりあわてました。
PCは突然、通信ができなくなり、病気でも事故でもないのに、音信不通になるのが最大の欠点ですね。

>荘太郎さんのブログは読み応えがあって私は好きです。実にシンプルで読みやすくて・・。しかも中味がぎっしり興味深いですし。

そんなこと言ってくれるのは、まいさんだけですよ。おおきに。
今年はぜったい画像をのせられるようにしたいです。

>もしよろしければ・・一揆観光も復活してくださいません?

また、やりたいですねえ。



ポスト小泉?

2005-07-10 | 新聞・テレビから
朝日の朝刊に「ポスト小泉 2人が意欲」という見出しで、平沼赳夫前経済産業相と谷垣財務相を紹介していた。

平沼赳夫は平沼騏一郎の養子(大叔父。騏一郎は独身)。母親の曽祖父は徳川慶喜とか。

平沼騏一郎の印象はわたしには悪い。
平民新聞に集った若者たちとは、正反対の立身出世コース、権力にひたすらあこがれた人生を送ります。
たしか、大逆事件では、検事として捜査の指揮をとり、山県有朋に近づき、社会主義者弾圧に腕をふる。天皇機関説など、昭和の言論弾圧にも大きな功(?)があり、軍部、右翼(自らも右翼団体を作ったが)と結びつき、日本から自由主義的精神を排除し、あの太平洋戦争に突入した異常な社会(司馬は魔法にかかった時代といっていたが)を作り出した責任者の一人。人権とか民主主義などという言葉はこの人の頭には存在しない。ある意味、なぜこういう人が出てくるのか興味はあるところだけど。
大正、昭和の歴史や本を見ていると、ちょこちょこ出てきて陰で暗躍しているので、名前だけ印象に残っていた。

念願の総理大臣になるが、好きなドイツがきらいなソ連と中立条約を結ぶと、「欧州の外交は複雑怪奇だ」とかなんとか無責任な言を残して辞職。三国同盟を推進していた。A級戦犯になっている。

2世の平沼赳夫さんは、新聞によると、憲法を改正して天皇を元首とし、自衛のための軍隊と武力の行使を明記したい、などと書いてあった。
この人がポスト小泉?戦前の昭和の歴史をくりかえすのはごめんだよ。しかし、どの人も似たり寄ったりの感じ。出口なし。



辻政信

2005-07-08 | 歴史
司馬遼太郎は、ノモンハン戦を書こうとして準備をしていたけど、ついに書くことは放棄します。
書くと、身体がボロボロになる、命がなくなる、とかいったとかの噂がある。

いろいろな理由があると思うけど、戦争を指導した人物への憤りもあると思う。
日常の生活でも、一番ストレスを感じ、疲れさせられるのは、いやな人物との対応だもの。

ノモンハン戦、ガダルカナル戦を指導した参謀辻政信は、この時代の日本人の一典型として(今でもこのタイプは存在するけど)徹底検証したい人物だ。

孔子が最も憎んだ人物像は、「郷原」といわれる。正確な意味はわからないが、組織の中、ある小さな地域(集団)の中では君子としての評判があるが、実際は自分の利害しか頭にない利己主義者。偽君子。みんなそうではないか、といわれればそうなんだけど、多くの人々の生死を左右する軍の指導者を「郷原」が占めると悲惨だ。

シュテフアン・ツバイクは、フランス革命を生き抜いた無思想、無性格、無道徳なジョセフ・フーシェの伝記を書き、背徳漢、爬虫類的人物、変節漢、下劣な岡引き、カメレオン人間とさんざん誹謗されたフーシェを解剖した。辻政信は、ジョセフ・フーシェほどの大物ではないけど、日本人のある性格を代表していてだれかに解剖してほしい人物だ。でも、きっとだれも詳しくは検証しないと思う。短い人生、いやな人物とは付き合わないにかぎるからだ。

司馬がノモンハン戦の作品化を放棄した理由として、作品の重要な登場人物として考えていたノモンハン戦生き残りの隊長から絶交をいいわたされた、という噂も聞いた。生き残りの須見隊長(だったか?)は、司馬が瀬島龍三(大本営参謀)と対談したことを怒ったらしい。

辻政信は、戦後、国会議員になり、瀬島龍三は臨調審の会長を務めた。


小松左京

2005-07-07 | 新聞・テレビから
今日の夕刊(朝日)に小松左京の記事が出ていた。久しぶりだ。
現在、74歳という。それにしてはふけ過ぎている。若いころは、太っていてエネルギッシュだったけど、写真で見る限り、肉体的な老いが進んでいる感じだ。しょっちゅう、タバコを吸っている感じなので、喫煙は老化を早めるのだろうか。

それはさておき、少年のころは、小松左京のファンだった。わたしにとっての最高傑作は、「果てしなき流れの果てに」だ。日本SF草創期の作品が新鮮だった。短編では、「お召し」という作品が好きだった。これは、小学校が舞台で、12歳以上の大人が突然この世から消えてしまうという話。残された子供たちだけの力で生活を作っていくのだけど、これは、小松左京の戦後体験が投影されている。

最近はまったくといってもよいほど、SFを読んでいない。まわりの環境があっというまにSFの世界みたいになってしまったものな。小松左京は最新の科学知識、技術を貪欲に吸収し、利用する人だった。小松左京の早すぎる老いはそのためではなかろうか、と心配したりする。

「日本沈没」はまた映画化されるそうですね。日本沈没。自然災害だけでなく、経済的にも政治的にも目前に迫っているので、ちょっといやだな。

開高健と小田実と小松左京は友人同志で3人が風呂に入ると3人とも肥満体なので、なかなか見ものだったらしい。すでに開高健は存在せず、左京は老いて痩せ、小田も遺言みたいなもの言いをしている。
戦後世代の先輩たちが退場していくのは心寂しい。


ビデオ「人間の条件」

2005-07-04 | 映画・テレビ
最近、ぜんぜん、このブログに書けていない。
忙しいこともあるけど、内容がいつのまにか明治社会主義になり、なんだか理屈っぽくなってきて、続けられなくなった。あんまり、むつかしく考えず、気取らず、なんでも気軽に書かなくては。

最近、ビデオ屋さんで、大昔の映画「人間の条件」の第一部第二部を借りて見た。
仲代達矢が好きでないし、内容は見なくても想像はつくので(戦争の悲惨、非人間性を訴える?)、今まで見たことがなかった。

戦争映画としては、子供のころは、東宝のはよく見た。「太平洋の翼」とか佐藤允の「独立愚連隊シリーズ」なんかの勇ましい活劇のが好みだった。

「小人に国家を治めしめば災害ならび至る」とは、大塩平八郎の檄文にも書かれている聖賢の言葉だけど、小人に国家をおさめしめた時代が、明治以降、昭和の戦争へいたる時代でしょう。
英雄の研究よりも、小人(もちろん、自分を代表とする)の研究こそが必要で、小人の研究をするには、あの戦争時代には無数の材料、見本がある。小人は、知恵、才覚、能力あり、ゆめゆめ油断すべき人たちではないと思っている。

五味川純平の本は、文春文庫で「御前会議」「ガダルカナル」「ノモハン」「関東軍の野望と破綻」というノンフィクションを持っている。どれもすぐれた作品だと思う。でも、どの本も解説はなしで、著者のあとがきだけ。だれも、解説をする評論家はいなかったのか?
五味川の本を解説し、評価するのは勇気がいることなのだろうか?

今度の休みには、ビデオの続きを見てみよう。なつかしい俳優がいっぱい出ているのも楽しみ。