虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

裸の王様とトルストイ

2008-10-27 | 読書
トルストイはアンデルセンが好きだったらしい。中でも、「はだかの王様」。
世界最高の服だとだまされて、はだかのままの王様。まわりの人たちも、同じようにすばらしい服だといい、だれも真実をいわない。子供だけが「王様ははだかだ」と真実を言う話だったか。グリムはよく読んだけども、アンデルセンはほんとうには読んだことがない。たしか、こんな話だと思っている。

トルストイはこのお話の子供のように、だれもが言わないことを言ってきた人だ。
教会について、裁判所について、おかしいことはおかしい、といい、教会から破門され、書くものは発禁処分にあう。専門家は専門家で、かれは文学者だから、と黙殺するか冷笑する。

たしかに、わたしたちも、「はだかの王様」に出てくる王様の家来たちと同じだ。
王様ははだかなのに、真実をいわない。自分の目よりもまわりの目を大事にするためか、権力者に同調するためか。

憲法がそうだ。戦争はいけない。軍隊は持たない、使わない、と誓っている。それなのに、軍隊を持ち、それを使用している。子供だったら、おかしい、と思うはずだ。憲法にかぎらず、真実から目をそむけさせようとする言論ばかりのようだ。
この金融危機を契機にして、王様の家来であるマスコミはまたどのように言論を誘導していくか、見ものではある。

トルストイと老子

2008-10-26 | 読書
トルストイは老子や孔子など東洋思想が好きだった。西洋の作家で、これほど論語や老子を賛美した作家はいないのではないか。「荘子」は残念ながらまだ翻訳されていなかったのか、読んでいない。惜しい!

トルストイの日記によると、56歳のとき、「老子」を一部、翻訳している。晩年、日本からきた小西増太郎と共に翻訳するが、それ以前の話だ。この年、3月11日の日記には、「孔子の中庸の教えは驚嘆すべきものだ。老子と全く同じだ」とある。3月15日「精神状態がよいのは、孔子や、とくに老子を読んだためだと思っている」3月19日「孔子読む。いよいよ深く、いよいよよし。彼と老子を欠いては福音書も完全ではない。一方、孔子は福音書なしでも何ということもない」

63歳のときには、人への手紙で「自分に影響を与えた本」として、幼児期から14歳まで、14歳から20歳まで、20歳から35歳まで、35歳から50歳まで、50歳から63までに分けて本を列挙しているが、50歳から63歳までの本をあげてみる。

「ギリシャ語の全福音書、創世記(ヘブライ語)、ヘンリー・ジョージ「進歩と貧困」、パスカル「パンセ」、孔子と孟子、仏陀について(フランス人が書いたもの)、老子(ジュリアン著)」とある。これらの本の影響は絶大、と注記してある。

老子については、小西増太郎と翻訳にとりくんでいるとき、こんな言い伝えが残っている。「老子」を翻訳しているとき、「老子ともあろうものがこんなことをいうはずがない!」と怒ったそうだ。それは「老子」31章。「兵は不祥の器。君子の器にあらず。やむをえずしてこれを用うれば、恬淡を上と為し、勝ちて美とせず」の部分だ。

この章は、「兵は不祥の器。ものつねにこれをにくむ」という軍隊や戦争を批判する部分で始まる。老子は当然、非戦論者だ。しかし、途中で、「やむをえずしてこれを用うれば」などの文章が混入している。これは後世の利口者が加筆したにちがいない、とトルストイは考えたそうだ。

福永光司の「老子」によると、たしかに、この章は文章に重複混乱が見られ、古来、注解者の文章が混入しているという説がある、と書いてある。

本来の言葉をのちの利口者がどんどん改変していくのは、聖書や聖賢の書ばかりでなく、日本の憲法もそう。

またパソコン故障

2008-10-25 | 日記
また、パソコン故障。この秋で3回目だ。今回はインターネットに接続できない。
タバコと同じく、いつもやっていることができないと、落ち着かない。しかたなく、いつも来てもらう近所のパソコンサポートの人に頼んだ。
無線ランが故障しているらしい。「コレガ」という製品を使っていたが、「コレガ」は故障が多い、といっていた。結局、新しい無線ラン(今度はバッファロー)とその設定費用で、しめて13000円。これで、今月の小遣いは消えた。もう古本は買えない。クソッ。パソコンとタバコのない生活。それがたぶん、新生活になるのだろう。

衆院選までの記事

2008-10-22 | 新聞・テレビから
最近、忙しくてじっくり新聞をよく読んでいない。あいかわらずテレビ番組欄だけ見て終わり、という感じ。

衆院選の選挙が近いという。
前回の衆議院選挙は、郵政選挙だとかで、小泉のパホーマンスにマスコミも振り回された。そして、選挙後、なされたことは教育基本法改正、国民投票法安改正とかだった。

今回、金融危機、景気対策とかで、やたら経済対策をいう。経済対策なんてどこが政権とってもやらざるを得ず、たいした違いもないだろう。経済危機をあおっていながら、選挙が終わると、またぞろ、憲法改正、自衛隊の海外派遣という路線をすすみそうだ。

今度の選挙は、自民対民主の戦いではない。この国の政治家(支配層)と国民の戦いだと思っている。ひょっとしたら最後のチャンスなのかもしれない。憲法の記事がこれからどのくらい出るか、チェックしてみるつもりだ。

古本市場はどうなっているのか

2008-10-22 | 読書
先日、ブックオフに寄ったら、吉川英治の全集本の三国志や徳間の「中国の思想」シリーズが1冊800円の値がつけられていた。昨年あたりまで、これらは1冊100円で売っていた本だ。どうなってるんだ?ブックオフ。
ブックオフは本の入荷が減ってきたのだろうか。文庫を見てもほしいと思うものがほとんどなく、手ぶらで帰ることも多い。ブックオフも100円よりも、300円、500円もする文庫が多い、激安の本屋ではなくなった。

いい本、けっこうオークションに流れている。

70年代は出版事業が最も活況をていしていた時代で、たとえば、中央公論社の「世界の名著」シリーズなどもそうだ。ミシュレのフランス革命史とか、王陽明の伝習録とか「プルードン・バクーニン」とかこのシリーズでしか読めない本も多い。しかし、これも絶版状態(一部は中公クラシックとして出版はされているけど)。

オークションでは「世界の名著」は200円から8000円の幅で売られているのがおもしろい。なぜ、こんなに幅があるのだろう。同じ本なのに10倍以上値がちがう。
同じ中公の日本の名著シリーズの「大塩平八郎」など、今では希少本になっているはずだ。昔はブックオフでも「世界の名著」100円で売っていたのに、近頃は姿を見たことがない。古本市場、今、大荒れに荒れているにちがいない。
古本屋のおやじになれるのだろうか?

反貧困世直しイッキ大集会

2008-10-20 | 新聞・テレビから
レーバーネットで昨日、東京で、「反貧困世直しイッキ大集会」があることは知っていた。昨日はテレビを見なかったので、テレビで報道したのかどうかは知らない。今朝の新聞にはのるだろう、のせなかったらおかしいぞ、と思っていた。朝日の記事は最初、気づかなかった。大集会の記事はないと思っていた。だが、よく見るとあった。でも、それは報道記事としてではない。見出しのどこにも「集会」も「イッキ」も「反貧困」の文字もないのだ。
見出しを紹介する。
「貧困 選挙にもいけず」「派遣転々、今度は行動」「2000人、政治に注文」

[変転 08選択]というカットがあるので、これは報道記事というより、編集部の特集記事として意図したのだろうか?

その意図とはこうだ。始めの1行をかかげる。
「社会保障の充実や雇用の安定といった貧困対策を、近づく衆院選の争点に据えようとする動きが目立っている。」
つまり、こういう観点でこの集会をとらえている。ごていねいに、参加者に次の衆院選の投票にいきますか、と問い、○×の回答ものせている。集会の参加者と,この新聞社との意識のちがいが見える。

これはすりかえだろう。
まずは、「反貧困世直しイッキ大集会」というこれまでなかったような集会があった、ということがニュースであり、広く伝えなければならないことだろう。
ところが、朝日の記事では、反貧困ネットワークの団体の説明もなく、主催者の名前もなく、おまけに東京のどこで集会が行われたかも書いていない。都内の公園で、と書くだけ。また、この記事と関連させて、8日に生活保護を受ける男性が政党に要望書を出したとか、9日に労働者派遣法の抜本改正を求める集会が開かれた、とかの記事まで書く。反貧困大集会だけを独立した記事にしたくないのだろう。衆院選の争点?そんなの関係ない。こういう集会があったという事実の報道が大切なのだ。これは記者が取材した記事を編集部が改竄させたか、あるいは、はじめからこういう取り扱いをする方針だったのかもわからない。





手にいらないトルストイ

2008-10-19 | 読書
北御門訳のアンナ・カレーニナは半分、読了。

図書館で、トルストイ全集の14、15巻を借りてきた。宗教論だ。14巻には、要約福音書や懺悔も入っている。

ネットの「日本の古本屋」で調べると、トルストイの「懺悔」は5件しかない。しかも、岩波文庫のものはなし。岩波文庫でずっと前、出たはずなのだが、絶版が続いている。これは、トルストイの作品では必読なのに。

トルストイ全集の14巻は、ネットの古本情報で調べると、なんと9500円の値がついていた。希少本なのだ。

トルストイ全集の16巻(人生論、われら何をなすべきか)と19巻(日記)は持っている。買っててよかった。

しばらくトルストイ翁にお世話になりそうだ。

福永光司

2008-10-15 | 読書
ネタがない。
で、古本屋をやるとしても、売りたくない、売るなら、もう1冊ストックしておきたい本がある。どの本だろう、と考えた。
まず福永光司の「老子」「荘子」だ。これは希少本になりつつある。古本屋ネット、オークションにもあまり出ない(出ていることもあるが。安くはない。)。

福永光司の「荘子」(内篇)は戦後、福永が大阪の高校に勤めるかたわらその宿直室で執筆したという(30代の後半から40くらいかな)。
福永は「荘子」という書物があることを知って、中国哲学を専攻することにしたらしい。それほど、強く「荘子」に魅入られた。

体格がよく、柔道の強豪者だったということだが、繊細な人柄であったらしく、戦地に召集されたときは、「万葉集」とキルケゴールの「死にいたる病」、プラトンの「パイドン」、「荘子」の4冊を携えていったらしい。しかし、明日をも知れぬ戦場では、ただ「荘子」のみが心の支えになったそうだ。

そういう福永光司の書いた「荘子」だから、その解説も他の学者と違う。独特の福永荘子なのだ。福永は、のち、京都大学の教授となり、日本の道教研究では第一人者となるそうだが、そんな権威があろうがなかろうが、福永の「老子」「荘子」は
多くの庶民に老荘への理解の道を広げたと思う。
手離すことができない書物だ。

福永光司が個人としてどんな人なのかさっぱり知らないが、朝日新聞社刊の中国古典選「老子」「荘子」にはおそらく福永光司の青春と人生観のすべてがつまっているのだろう。世界恐慌におびえ、明日はどうなるかわからない今、どん底の地ベタからたくましく哄笑する「老子」「荘子」は、これからもわたしにとってのバイブルだ。





豆腐

2008-10-11 | 映画・テレビ
レンタル屋。いい映画を見たいなあ、と思って、棚を眺めるが、洋画は荒唐無稽なアクションかホラーの刺激をあおり、ただ疲れさせるようなものばかり。で、邦画の「あかね空」と「花よりもなほ」の時代劇を借りた。

つまらない。「花よりもなほ」に比べたら、まだ「あかね空」の方がまし。でも、B級だ。安っぽすぎる。
時間を無駄にしてしまった。アンナ・カレーニナを読んでりゃよかった、と思った。楽することに慣れ、読書するのもめんどうに感じるような怠け者になっている。「あかね空」はとうふ職人の話で最初、とうふ作りが出てくるので、とうふの大好きなわたしは、とうふが食べたくなった、だけ。

北御門二郎が書いていたのだが、昔、朝日で「わたしの1冊」というアンケートをしたとき、海音寺はトルストイの「戦争と平和」をあげ、「この年まで生きてくると、人生にはそれほど楽しいことのないことがわかってくるが、この小説を読むことだけは楽しい。たった一つの至福とさえ言ってよい」と書いてあったそうだ。

湯豆腐で酒を飲む。これがまあ、拙者の至福の時かもしれぬ。

「我れ独り昏昏たり」でいくべし

2008-10-06 | 日記
北御門二郎訳の「アンナ・カレーニナ」第二編まで読み終わった。

「アンナ・カレーニナ」は1870年代に書かれている。ロシアの1870年代とはナロードニキ運動が最高潮に達したときで、ロシア青年が最も理想に燃え、社会も大揺れに揺れていた時代、ロシア革命前史の時代にあたる。その時代の貴族社会が描かれる。アンナとヴロンスキーの恋愛だけでなく、そのへんも興味深い。

初めて「アンナ・カレーニナ」を読んだときは、このへんに興味がなかったので、なんとも退屈だった。レーヴィンとキテイの恋愛話なんかも余計だ、と思っていた。

ところが、このころはレーヴィンという人物もおもしろい。だいたい、トルストイの作品には、周囲とちょっと肌合いが違う、世俗とずれた人物が出てくる。「戦争と平和」のピエールも「復活」のネフリュードフもそうだろう。正直で、自分に忠実であろうとし、人生を真剣に思い悩む。人と合わせるのは下手。不器用。

われわれは、昔からこうした人物に親しみを感じ、愛してきたのではなかったか。学力がなくても、仕事ができなくても、見た目が悪くても、愛し、大切にする文化というのがあった。今はそれが壊滅状態ではなかろうか。

学力がない子供を「よし」と肯定する親がどれだけいるだろう。仕事ができない男、経済力のない男を愛する女性が今、どれだけいるのだろうか。組織や仲間に過剰に合わせようとする人が多いのではなかろうか。

このあいだ、露天風呂につかっているとき、大学のクラブの仲間集団が入ってきた。風呂の中で若者たちは仲良く話をするわけだが、なんとまあ、仲間に調子を合わせることか。その世間知をどこで覚えたのだろう。

話が飛ぶが、今の日本と最も遠く離れているものが「老子」だろう。
「老子」はこんなつぶやきを残している(第20章)

「人々は浮き浮きして大判ふるまいを受ける招待客、まるで春の日に高台に登った物見客のようだ。だが、わたしだけはひっそりとして心動く気配もなく、まだ笑うことも知らない嬰児のようだ。しょんぼりとしおたれて宿なし犬もいいところ。人々はみんな裕福なのに、わたしだけ貧乏くさい。愚か者の心だよ、わたしの心は。のろのろと間が抜けていて。世間の人々はハキハキしているのに、わたしだけがうすぼんやりで、世間の人間は明快に割り切ってゆくのに、わたしだけグズグズとふんぎりがつかない。ゆらゆらとして海のようにたゆたい、ひゅーっと吹きすぎる風のようにあてどない。人々は有能なのに、わたしだけ頑かで、野暮くさい。わたしだけが変わり者で、乳母なる「道」をじっと大切にしている」(福永光司訳)

若者よ、仲間なんかいなくてもいいじゃないか、と温泉場で独りおっさんは思っていました(笑)。

古本めぐり

2008-10-05 | 日記
昨日から天神さんの古本祭りが開かれているので、久しぶりに覗きにいこうと思っていたが、雨なのでやめにした。往復2時間、探索を含めると3時間はかかるし、金もかかるし、出不精になっている。100円コーナーの本は見たかったのだが。

かわりに、古本のネット探索をしてみた。
ドイッチャーのトロツキー伝3部作が今、オークションで2000円で出ていた。「日本の古本屋」ネットでは3冊が1500円で売っている店もあった。わたしは、持っているが(貴重本として大切にしている)、持っていない人はおすすめだ。

長い伝記だが、学生のとき、熱中して読み、トロツキーファンになったほどだ。食べる金を得るために古本屋に手渡してしまったが、何十年か後、また、手に入れた。難しい理屈を抜きにして、おもしろい。すばらしい読書体験をさせてもらった本は手離したくない。

小林秀雄全集も、オークションで3000円で出ていた。学生のとき、この中の「ドストエフスキーの作品」という巻を持っていて、友人にこれをやるから金をくれと、交換した思い出がある。司馬遼太郎は小林秀雄に私淑していた形跡があるのだが、司馬は小林秀雄については一切沈黙している。

オークションは古本屋より安く手に入ることもあれば、古本屋の方が安いのもある。

新刊では「出星前夜」という島原の乱を描いた小説が出たそうで、読んでみたいけど、新刊はとても手が出ない。

画像は延暦寺根本中堂。


比叡山延暦寺

2008-10-04 | 日記
比叡山延暦寺に行った。関西に住んでいながら、今まで1度も行ったことがなかった。

比叡山は、東塔、西塔、横川の3つのエリアに分けられる。観光客が多いのは東塔だ。根本中堂、大講堂、阿弥陀堂などがある。外国人もけっこう見学にきていた。食堂もある。
西塔は、東塔から車で5分くらい走ったところにある。西塔は、釈迦堂や弁慶ゆかりのにない堂(常行堂・法華堂。ただし、今、僧が修行中とかで立ち入り禁止になっていた)がある。ここには、お土産屋も食堂もなく、見学者はぐっと少なくなる。
西塔から車で20分ほど下ったところが横川エリア。ここには横川中堂、恵心堂がある。恵心僧都は「往生要集」の作者で、源氏物語宇治十帖で浮舟を助けた僧のモデルになったとか。ここは紅葉がきれいだと思う。虚子(高浜虚子)の塔もあった。

東塔の根本中堂は大きかった。中に入ると、僧が護摩を焚いているのも見ることができた。印象に残った。ここは、最澄が立てた仏教大学で、親鸞、日蓮、道元の修行の場でもあったので、最澄だけでなく、親鸞、日蓮、道元の生涯も絵看板にして並べてあった。

根本中堂をはじめ、だいたいが朱塗り、緑に朱は映えるかもしれないが、わたしは、朱塗りの大きな寺よりも、恵心堂のような小さなひっそりとしたものが好きだなあ。

山を下るとき、料金所で通行料を3000円以上とられて唖然。とりすぎだぜ。
聖地としては、高野山の荘厳さには及ばないのに!プンプン。
まあ、これで2度といくことはあるまい。

画像は恵心堂。

ドキュメント現代史

2008-10-03 | 読書
1970年代に、筑摩書房から出されたドキュメント現代史の13冊(ロシア革命、中国革命、ドイツ革命、キューバ革命その他)をオークションで2000円で手に入れた。

ブックオフよりも安い。オークションでも1冊1000円で売られている店もあるのに、1冊200円以下の値段ということになる。他にも落札者がいたら値は上がるが、だれにも気づかれないときは、最安値で手に入れることができる。オークションからは目が話せない。

このシリーズの「ロシア革命」は持っているので、買って損はしない本だと思っている。
それにしても、70年代の出版界は意欲的だったと思う。良心的な本が多かった。その後30年、出版不況というか、世界を、現代史を、市民のために提供しようとする意欲的な企画はない。今こそ、現代史が必要なのに。

イラク戦争、アフガニスタン、イスラム世界の現状、ソビエトの崩壊、中国の変貌、アジアの動乱、アメリカ帝国の狂気、そして、80年代から今日までの「日本の転落」などなど。本来なら、今こそ、世界の同時代史が必要だ(どこの国のことも、さっぱり知らないのだ)。再度、ドキュメント現代史が出されなければならない。でも、イラク戦争一つにしても、市民のために書かれた決定版的なドキュメントはまだないのではないだろうか。どの事件に対しても、われわれはあいまいなままの情報しか与えられていない。学者、ジャーナリスト、出版界の良心の火が消えているのか。