虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

市村敏麿45 明治25年判決書 補足

2009-07-30 | 宇和島藩
市村敏麿40で明治25年の大阪控訴院の無役地事件判決書を書いたけど、その理由などはめんどうなのでカットしていた。今回は裁判所の理由についてもうちょっと書いてみる。

庄屋の無役地は村民の共有地である、という江戸時代からの慣行を立証するため、敏麿たちは江戸時代の古文書など証拠物件を示すが、裁判所が棄却した理由は、大きく2点にわけられる。

1、共有地であるという村民の主張は信用できない。
2、当時の藩庁の主権は絶大であり、無役地は村民の共有地ではなく、藩庁が庄屋  に与えたものである。

市村たちは、宇和島藩において、庄屋の無役地が設けられた経緯について、寛文6年の大洪水がおき、領内の田畑が荒蕪地になったので、藩は新たに検地をしなおし、「クジ取法」で村民に田を分与し、村役人の給料は共有地をもって与えるようになった、と主張したが、裁判所は、こう述べる。

「控えに大洪水ありとの事実を証する「不鳴条」(宇和島藩の記録)は決してその事実を証するに足らず」とし、宇和島の真ん中にある吉田藩は寛文年度に検地をしたことがないので、洪水の事実は信用し難い。

「要するに、洪水の事実はこれを信用しがたきを以て、従って本件の係争地が控訴人の述べるごときい事実により控訴村民の共有地となりしものとは認めるを得ざるものとす」
これが裁判所がまずはじめに述べた理由だ。

次、しかし、裁判所も寛文年度に検地をし、「クジ取法」で田畑を村民に分配したことは認めている。書き方はこうだ。

「いかなる原因に基づくものかこれを確知し得ずといえども(村民は洪水だといっているの!)、その事柄の実際挙行せられたることは当事者双放の陳述および証拠により動かすべからざる事実なるも(洪水の事実は信用し難いといいながら、検地し、土地を分配したことは認めている)、ここからがややこしい、裁判所は、土地を分配したのは藩庁であり、藩庁が庄屋の無役地を庄屋の給料として、用益権だけを与えたとは認めがたい、という。その根拠は、こうだ。

「各藩庁は当時、その領内に主権の実を行いたるものなれば、その必要と認めたる事柄はあえて、これを人民の利害ある等に関せず、これを実行したるは一般の状況なりしをもって、宇和島が当時、施政上かかる処置をなしたるもまた怪しむに足らざるものとす」

「人民の利害ある等に関せず、必要と認めたことは実行する」それが藩庁である、という論理はめちゃくちゃだ。ゆえに、とつづく。「庄屋が得たる土地は、人民の共有地より出たるものにあらずして、藩庁より新たにこれを庄屋に付与したるものにして決して村民共有地の憑拠となるものにあらず」

宇和島では庄屋の無役地は庄屋の私有になったが、同じ村役人だった組頭の無役地は共有地となっており、この点も市村達は共有地の理由として主張したが、裁判所は、「ことごとく、組頭たる者が土地を返還したるにあらざること明らかなり、いづれも藩庁の処分でその時その場所で一定の原因があってしたものだから、これをもって共有地の証拠にはならない」

判決書の最後は、裁判所の控訴人への悪意を感じる。

「要するに、控訴人の主張する事柄はただ被控訴人の権利を非難するに過ぎずして、一も控訴村民の共有たるものにあらず。そもそも被控訴人は、明治維新後に控訴村民総代の認証を経、政党の手続きをもって地券の下付を受けたるのみならず、明治21年度にいたるもなお被控訴人の所有たるを認め、控訴村総代がその反別地価地租誤謬の訂正願書に押印したる等の事実に徹すれば、本件の地所は控訴村村民の地所にあらざるをもって控訴人の請求は理由なきものとす」

控訴村総代とは市村敏麿をさす。明治21年の押印とは、たしか36か37で書いた謀略事件をさすのだろう。
敏麿は、裁決理由を聞いて空しくなったにちがいない。


まあ、明治25年の時点ではこの裁判で勝利することは不可能だった気がする。
憲法が発布され、自由民権運動も下火になり、政府、官庁は何よりも治安を最優先した。庄屋の無役地を返還させることになれば、すでに地券を交付している以上、経済上、かなり混乱するだろうし、民権の空気も息をふきかえすかもしれない。

しかも、この時の大審院院長は宇和島の庄屋の味方である児島惟謙だ。児島惟謙は大阪控訴院長時代からこの裁判には干渉してきたともいわれる。

大井憲太郎も憲太郎だ。鳴り物入りで宇和島に迎えたのに(どれだけ金がかかったか)、いったい、どんな論陣を張ったのだろう?残されていないのが残念だ。
大井憲太郎は、大阪事件のとき、大阪控訴院長だった児島惟謙に恩義を受けた、といっているが、まさか手をぬいたんじゃあるめえな。

ほんとうは読書がきらいかも

2009-07-29 | 読書
図書館のカードは家族や実家の住所や勤務先を利用して何か所か持っていて、先日は他市の図書館から本を借りてきた。

まず、「餓死一揆碑めぐり」(杉山勝)。これはもう手に入らない本。図書館の本も著者から寄贈されたものだ。しかも、書架にはなく、地下の書庫。
著者は昭和2年生まれ、とある。もう80歳を過ぎておられる。一揆は高齢者によってになわれている。若いものが後を継がなければならないのだが。よし、がんばるぞ(笑)

2冊目「史料が語る坂本龍馬の妻お龍」(鈴木かおる)。
お龍は、立身出世した龍馬の同僚や弟子たちに自分を頼むことなく、その後の人生を市井に貧しく生きた。幕末の志士というのは、かなり出世主義者、野心家、エリート志向が強い人が多いと思うけど、このお龍さんを見ていると、龍馬はそういうタイプとはちがう平民主義だったような気がする。龍馬、大好き。

3冊目「検証島原天草一揆」(大橋幸泰著)
かつて島原の乱は、おもてむきはキリシタン一揆だが、本質は領主の苛政に対する百姓一揆だとする説が主流だったそうだが、今は、百姓一揆というより宗教一揆の説が主流らしく、著者もその立場である。著者は、歴史の評価は歴史学を取り巻く社会状況に影響される、といっているが、つまり、今や、百姓一揆のような階級闘争的なことは好まれないのだろう。なんだか学者としての自立性がない感じだ。
もうかなり前から、江戸時代の百姓の暮らしはよかった、領主の政策は悪くなかった、年貢も重くはなかった、百姓一揆も農民同志の争いが主で、領主への反抗は少なかった、などというまことしやかな学説が幅をきかせていたが、これも保守的な時代に迎合した学説であろうと思っている。

以上、ペラペラとめくってみただけ。これで読んだ気になっている。
だいたい、わたしは図書館からよく本を借りるけど、読まない。欲張って何冊も借りるけど、読めるはずがないではないか。本をさわるだけ。さわるのが好き。また、買った本は、これまたいつでも読めるという理由で、読まない。置いておくだけでいい。本を読むには長時間、じっとしていなくてはならない。わたしはじっとしているのが耐えられないのだ。すぐ動いてしまう、落ち着きのない男なんだ(笑)。

ワッパ騒動 義民顕彰碑

2009-07-28 | 一揆
9月11日(金)にワッパ騒動 義民碑除幕式・祝賀会があるそうです。
義民顕彰会から栞が送られてきたので、一揆ニュースとしてお知らせします。

今年、顕彰碑の設立の募金をよびかけ、9月には除幕式とは早いものです。
寄付金は736名、4団体の計740件からで、約312万円。
寄付金の大半はやはり騒動に関係ある県内の地区からで、県外からは約80名
(多いのか少ないのか、わからないが)。

顕彰碑は、巾2、5メートル、高さ1,7メートル、奥行き1,1メートルの自然石(?)に「ワッパ騒動 義民之碑」と刻まれるそうだ。碑のあるところは、鶴岡市大字水沢の大松庵。
水沢といえば高野長英の出たところでなかったか?

ワッパ騒動は、県に対する裁判闘争であり、裁判には宇和島の児島惟謙も関わっているので、興味がある(でも、まだ、中身はよく知らない)。

県内の寄付者の名簿を見ると、本間、斎藤、成沢、佐藤とかの名前が多いが、庄内には多い名前なのだろう。「本間さまにはおよびもせぬがせめてなりたや殿さまに」(だったか?)てな言葉もあったよな。
清河八郎も本当の名前はたしか斎藤だったよな。

闘争には1万数千人が参加し、裁判闘争には勝利したのだが、現在、名前のわかっている参加者は767人という。闘争に勝利したにもかかわらず、その後、語ることをタブー視されてきたのだろう。

あれから135年たって、その義民の碑を建立する。庄内には義民の魂を伝え残そうとする人たちがいるのだ。すばらしい。

市村敏麿44 大井憲太郎 歓迎順序次第

2009-07-28 | 宇和島藩
市村敏麿や無役地事件に関心のある人は宇和島人も含めてもひとけたの人数ほどなので、ここに書くのも気が引けるけど、マイナー好きだから書く。

吉川弘文館の人物叢書「大井憲太郎」(平野義太郎著)は戦後出た本だけど(昭和40年)、ここには、「歓迎順序」という冊子(史料)の表紙が写真で出ていた。でも、ここでも、この歓迎は大阪の市民大衆の出獄歓迎行列だとしている。

宇和島人がここの記述とその史料を見たら、即、これは宇和島での歓迎行事とわかるはずなのに、昭和12年に最初の大井憲太郎伝が出版されて以後も、訂正も何もない、ということは、宇和島人は、この本を見てない、ということか。それほど、大井憲太郎は忘れられ、今も忘れられたままで、研究者はだれもいないのかもしれない。

人物叢書の平野義太郎の本も読みにくく、よい伝記とはいえない。この平野義太郎は、左派の学者であったようだけど、戦時中は、当局寄りの戦意高揚の扇動をし、戦後はまた平和主義者となったとか。時流に従って変節しやすいのは、に新聞記者、二に学者といわれるからなあ。よくわからない人だ。それはともあれ。

この「歓迎順序次第」を見て思うことは、明治24年当時、無役地事件裁判闘争団は、かなり大きな組織を持っていたということだ。

係は、通船係、車係、旅館係、音頭係、繰出係、旗係、花火係、荷物係に分け、それぞれに規定を作り、やること、きまりをつくっていて、時間も決め、実に細心周到。

この日、宇和島に迎えたのは、大井憲太郎、辻村共之、小久保喜七、菅 龍貫の4名と随行の壮士15人。大井たち、4名は馬、人力車50輛以上が前後を囲む。
小旗はもちろん、幟もかかげられ、こんな言葉が。

「百敗不撓千挫不屈」「誠心動天義胆震地」。
「人中之龍文中之虎」「抜山之力蓋世之気」
「自由泰斗驚木鐸」「経天緯地済世救民」
この幟は大井憲太郎の前後に。当時の自由民権の気分がわかるではないか。

この歓迎行事ににおそらく100名の宇和島人は働いていると思う。
一行はもと宇和島藩家老の家だった旅館に投宿。夜は盛大な花火もあげられた。

こんな行列を見たのは宇和島では前代未聞ではなかったろうか。沿道の人々はびっくりこいただろう。

だが、宇和島では大井憲太郎が宇和島に来て、人々はこんなに歓迎した、という事実はいっさい、語られず、今も、知る人はない。

市村敏麿43 新発見!!「馬城大井憲太郎伝」に宇和島での大井一行歓迎記録あり 

2009-07-25 | 宇和島藩
びっくり。これは新発見だ。

今日、「馬城大井憲太郎伝」(平野義太郎著 昭和13年刊)を見てみた。
自由党大阪事件の大赦の項で平野はこう書く。

「大阪事件関係者が大赦されるや、大阪の大衆が歓呼して大井氏等を迎え歓迎の大行列を行った。左の歓迎順序次第書は、馬城大井先生を中間に、堂々たるその行列が如何に大規模にして民衆の如何に大井先生はじめ事件関係者の出獄を歓喜したかが想見せられるではないか」

このあと、11ページにわたり、歓迎次第書をのせているのだが、なんと、これは出獄したときの歓迎行事ではなく、大井が無役地事件で宇和島に来たときの歓迎次第書なのだ(平野義太郎は、出獄の歓迎行事と思っていたが)。

なぜ、そう思ったか。
宇和島の無役地事件の関係者の名前ばかり出てくる。
入江徳三郎、赤松浅太郎、末広寅吉、清家、三好、二宮、萩森などなだお、宇和島人ならピンとくる名前ばかり。90人近く世話人の名前が出ている。

なんと、中山富士太郎も車乗の役で出てくる。この名は敏麿の弟だ。

こんな言葉もある。
「無役一統同志者は午前七時に椛崎(樺先か?)へ出揃」
無役一統です。

「樺崎へ通船を揃え」という言葉もある。樺崎とは宇和島の樺崎砲台で有名な場所だ。
「役員は桜町に」とか「住吉海水場」とかの言葉も。桜町も住吉も宇和島の浜の名ではないの?。

そして、はい、市村の名前もあります。
「本件総裁 市村君」と。

これは決定的だ。宇和島に大井たちがきたときの歓迎行事の役割分担表なのだ。
まちがいない。

平野氏は宇和島のことは無役地事件も何も知らないらしく、北宇和郡のことを北宇味郡とか書いている。

最後はこうある。
「総歓迎人は館に到るまで飲酒を禁ず。
 歓迎人は到館後、総裁の指揮を受く」

平野義太郎氏は、これがまさか宇和島の歓迎行事次第とは夢にも気がつかなかったのだろう。いやー、こんなところに、史料があろうとは。


図書カード6年2組

2009-07-23 | 読書


古本ぺんぎん堂さんのブログでは、図書カード6年1組として、図書館から借りてきた本の紹介をときどきしています。今回は、ちょっとそのまねをしてしまった(笑)

今日、借りたのは、「小説スパルタクス」(ダスカロヴァ。ダノフ共著)。スパルタクスの小説はこれしかない。マルクスは娘から歴史上もっとも好きな英雄は、と聞かれ、ケプラーとスパルタクスと答えたそうだ。

2冊目は、「重い雨」(三木一郎著) 伊予吉田藩一揆始末が副題だ。武左衛門一揆。書簡のやりとりだけで一揆の経過を表現した歴史小説。短編集だ。

3冊目は、芹沢光治良の「教祖様」(角川書店)。昭和34年の発行。
天理教の中山みきの伝記。2段組みで480ページもある。長い。長いけど、芹沢光治良は文は読みやすい。これは天理教から頼まれて書いたそうだ。

あとがきで、芹沢は、「わたしは天理教の信者ではない。ずっと天理教を批判してきた」と書き、これを出版するのは、「将来、私は天理教について考えることはないことがはっきりしたからだ。のこり少ない生涯を、できるだけ無駄なくすごしたいと思うからだが、また、神や信仰というような問題に興味をなくしたから、整理上1本にまとめたにすぎない」というようなことを書いているが、まさか90歳になってから、中山みきや神の言葉を語ろうとはね。

4冊目、ドキュメント日本人1「巨人伝説」。ちなみにその巨人とは、中江兆民(岩崎徂堂)、田中正造(木下尚江)、頭山満(夢野久作)、中山みき(倉田百三)、南方熊楠(自伝)、出口王仁三郎(城山三郎)、秋山定輔(村松梢風)、賀川豊彦(野本忠之ほか)、中里介山(自伝)、野口英世(井出孫六)、折口信夫(村岡空)。書く人も書かれる人もなんと錚々たる顔ぶれではないか。

以上の4冊はみんな地下の書庫からひっぱってきてもらった。どれも地下でずっと眠っている本なのです。

5冊目は館内に置いてある新しいもので、「出星前夜」。島原の乱をあつかった歴史小説で、今年、大仏次郎賞を受けた。

古本ぺんぎん堂さんは借りた本をしっかり読んでいるけど、わたしの場合は、本をさわって、目次を見て、まえがき、あとがきを見て、本の匂いを嗅いでそれで終わり、そのまま返すことがほとんど(笑)。たった2週間しかないし、とても読めない。縁があったら、1冊くらいは読みとおせるかどうか、というところ。

「出星前夜」なんて、借りだすのは、これで5回目くらい。はじめの方がちょっと読みにくそうなので、物語の世界に入るまでにやめてしまう。何回、借りても読めないかもな。でも、島原の乱は興味大なのだ。この人も(飯島和一)一揆を書いていて(水戸の生瀬一揆)、これはアマゾンで古本を注文しました。

新刊屋さんで、買いたいな、と思った本。山崎豊子の「運命の人」。沖縄密約がテーマらしい。現代的だ。図書館に入るのを待とう。




皆既日食

2009-07-22 | 日記
車を運転していると、空を見上げている人を何人も見た。
そうか、今日は皆既日食だった。大阪から見えるのだろうか(曇りだったが)。

皆既日食というと、子供のころ読んだマーク・トウェインの「アーサー王宮廷のヤンキー」という本を思い出す。子供向きに書かれた本だったが、はじめて読んだSFかもしれない。現代のヤンキーがふとしたはずみにアーアサー王時代に入ってしまって冒険するタイム・トラベルみたいな話でおもしろかった。

その中で、ヤンキーはマッチだか何かわすれたが、自分の時代の道具を見せて魔法使いのように思わせたり、皆既日食を予言してみんなを驚かせたりして、その知識で当時の人から重宝される(記憶で書いているので、もし、まちがいだったら、ごめんなさい)。

もし、自分が大昔の時代に行ったら、当時の人を驚かせることができるだろうか。
ライターもガスがなくなったら終わりだし、ラジオも携帯も電池がなくなったら、おしまい(笑)。今、科学の成果の恩恵を受けてはいるが、科学知識なんてゼロだし、電気器具がなくなったら、当時の人と何も変わらない。いや、知恵という点では大いに劣る。きっとすぐ迷信を信じる(笑)。

その点、当時の、たとえば、江戸時代の人が現代にタイムスリップしても、十分やっていけると思う。自然や世の中を見る目は確かなものがあるはずだ。政治においてもそうだよなあ(なんだ、こういう結びかい 笑)

新潮文庫「遠い「山びこ」のあとがき・解説

2009-07-22 | 読書
ブック・オフで今でも「遠い山びこ」は売っているだろうか、とのぞいてみると、あった、あった。でも、わたしが以前に読んだのは文春文庫だったと思うが、今は、新潮文庫になっていた。

著者の「新潮文庫へのあとがき」と、出久根達郎の解説を読む。二つともいい話が書いてあったので、そのままレジに持っていった。わたしにとって、この話だけでも買う価値はある。

著者の新潮文庫へのあとがきは、「遠い山びこ」の単行本を出したあと、突然、宅配便で米俵が送られてきて、その手紙には小学生のような字で「ほん、ありがと。かんじがおおくてよくわかんねえけど、なんねんかかんかわかんねえけど、よむ。おらのたんぼのいっしょうけんめいつくった米だ。くってけんろ」と書かれていた。
この人は、山びこ学校を代表する作文を書いた江口江一師氏(31歳で亡くなる)の1年先輩の人だった。著者は、すぐに米を炊いてもらい、涙を見せないようにしてご飯をいただいた、とある。

解説の出久根達郎は、中学を卒業したあと、集団就職で古本屋で働くことになるが、就職して1年後、就職を世話した職業安定所の人が、追跡調査ということで、職場を訪ねてきた話を書いている。

「暑い盛りで、私は主人に呼ばれた。主人は安定所の所員と談笑していた。お茶うけに水蜜桃が出された。遠慮するな、と勧められて、私は汁をしたたらせながら、かぶりついた。
 二十分ほどの会談であった。所員の人は、他にまわるからと立ち上がった。これいただきます、と自分の前の水蜜桃を無造作につかんだ。私は店先まで送った。
 その人は隣りの店のかげから、私を手招きした。近寄ると、まわりを見まわしたあと、さあこれを食え、とさきほどの水蜜桃を差し出した。そして、わたしを人目から隠すように、私に背を向けて扇子を使った。
 先生から手紙が来るか、と聞く。こない、と私は答えた。ご飯はいっぱい食べられるか、と聞いた。食べられる、と私は答えた。給料は上がったか、と聞く。上がった、と私は答えた。全く、東京は息が詰まる、その人は軽く咳きこんだ。」

長くなるので、引用はここまでにするけどこのあと、食べた桃の種をどうしようかととまどっている少年からその人は種を受け取り、ポケットから茶封筒を取り出してその中に押し込んだ、とある。その人とはそれっきりで、名前も知らないらしい。

名前の知らないその安定所の職員にわたしはジーンときてしまった。これから、水蜜桃を食べる時、この話を思い出しそうだ。

この時代(昭和30年代)の大人は、みんなこの人のような「やさしさ」を持っていたなあ。当時では、あたりまえのことで、ふつうのことなんだろうけど、こういう心をわたしはなくしている。短いけど、とても印象的な解説文だった。

この文庫はおすすめだ。

やっと解散

2009-07-21 | 日記
テレビで衆議院解散のニュースを見た。
国会議員はバンザイをしていたが、こちらの方こそバンザイしたい気分だ。
やっと解散できる。4年前の夏の衆議院選挙から、4年もたった。長かった。その間、悪法がどんどん決まってしまった。

自分のブログで2005年の夏の記事を見てみた。刺客騒動ばかりで、憲法の記事がない、とブツブツ書いていた。今年もまたブツブツ言うかもしれない。

今度は、政権選択選挙ということで、また自民と民主ばかり追いかけ、憲法は語られることはないにちがいない。

最近、国会議員の動きはタレントなみに視聴率になるようだ。自民党内の騒動、こちらは興味もないのに、テレビや新聞で連日、見せられる。

麻生おろし、とかあまりにも麻生さんばかり報道するので、いじめられる者、弱い者が好きなわたしは、麻生さんが気の毒になってしまうほどだ。漢字読み間違えたっていいじゃないか、わたしみたいな天の邪鬼もけっこういるから、落ち目の麻生自民党も同情票をもらってかえって持ち直すかもしれないぞ。

政権交代はしてほしいけど、なにせまだ40日あとだから油断はできない。

とにかく、今度の選挙では、護憲政党に復活してもらいたい。
民主党が勝つだろうが、当然、共産や社民も議席がふえる。そうならなくてはいけない、と思っている。

青木虹二のこと

2009-07-20 | 一揆
青木虹二のことをもう1度確かめたくて、佐野眞一の「遠い「山びこ」」を図書館で借りてきた。

なんと、昭和54年6月55歳の若さで亡くなっている。

大正13年、新潟市生まれ、昭和16年に東京商科大学(現一橋大学)予科に入学、早生まれだったため学徒出陣は免れたそうだが、「きけわだつみ」の世代。

戦後は、一橋新聞の復刊に力を尽くし、全学連結成の陰の立役者でもあったそうな。若き学生ジャーナリストだったようだ。「学生のための学生による学生の本屋」をスローガンにする学生書房の嘱託社員となり、この学生書房が無着成恭の「山びこ学校」の文集の企画を立て、青木は山形県の山元小中学校をジャーナリストとして最初に訪ねている。昭和25年、横浜市役所に就職。

「遠い「山びこ」」の中で佐野は青木についてこう書く。

「その死亡記事に「百姓一揆の年次的研究」の業績は紹介されたが、それを執筆する一つの動機となった」山元村への最初の訪問や、「きかんしゃ」(無着成恭の生徒の作文集)を最初に発掘した業績については、1行も報じられなかった」

「研究職でもない一介の事務職員が膨大な資料を蒐集してまとめあげた五百ページを超す大著、「百姓一揆の年次的研究」(新生社)は、歴史学界を驚嘆させた。その後につづく全20巻の「編年百姓一揆史料集成」(三一書房)などの仕事は、青木年表とも、百姓一揆研究のバイブルとも呼ばれる業績となった。これらの仕事の根底には、敗戦4年目の冬枯れの山元村の山村風景が原風景としてきざまれていた」

佐野眞一はジャーナリシトとしてたくさんの本を出しているが、わたしは、この「遠い山びこ」(無着成恭と教え子たちの四十年)が一番の傑作だと思っている。佐野はこの本のあとも、いろいろたくさんの本を出し、賞ももらい、最近ではジャーナリズムの大御所になった感がするが、この作品はまだメジャーになる前の作品で、賞こそもらってはいないが、この本が一番、フリーのジャーナリストの情熱と良心を感じる。しかし、もう10年近く前の作品で本屋からは姿を消しているのかもしれない。

無着成恭の教育とその後を追うことで、敗戦直後の教育とその後の今日までにいたる荒廃した教育環境を検証する。

「山びこ学校」といえば、大昔、鼻たれの小僧だったころ、木村功主演の映画を見させられたことがある(学校から見たのだろうか)。その後、工場でアルバイトしていたころ、ラジオから子ども電話相談室の無着の声をよく聞いたものだ。

地元の山形を追放され、東京で教師になるも学校教育に絶望せざるをえず、千葉の荒寺の住職になった、と聞いたが、今は大分のけっこう立派な寺(福泉寺)の住職になっているそうだ。無着はわたしの父と同じ昭和2年生まれ。もう、今年で82歳になるはずだ。教育界の小田実みたいな存在で、立派な人だと思っている。

「山びこ学校の」の舞台となった山元村の山元中学校は今年の春、廃校になっている。

無着は、山形師範学校卒だが、あの藤沢周平の1年先輩になる。藤沢周平とも親しかったはずだ。

あの清河八郎も無着先生みたいな話しかただったのだろうか?(笑)



中山みき

2009-07-19 | 日記
今まで、芹沢光治良なんて名はわたしにとって縁のない人だったので、古本屋にいっても、その名前は目にも止まらなかったけど、気にし始めると、不思議にその名前が目に飛び込んでくる。今日も、古本屋で芹沢の「神の微笑」の文庫本を見つけた。これも、今では珍本になっているのではないだろうか。

まだ、よくはわからないのだけど、芹沢には、たぶん、権力と闘うというような社会的視点はないのではなかろうか、という気がする。孤児のような環境で育ったので、ちょっとプロレタリア的なところがあってもよいと思うけど、東大を出て、農林省に入って、フランス留学というエリート階層にいたためかなあ。といっても、晩年のもの(神シリーズ)しか読んでいないので、何もいえない。

中山みきにはちょっと関心がある(なんにでもちょっとだけ)。彼女は 大塩平八郎たちと同じ天保人(大塩より5歳くらい年下かな?)。大塩平八郎の乱は耳にしただろうし、あの時代の人たちに共通する重い課題は感じていただろう。男たちは、反乱ののろしをあげ、そして討幕という革命運動に参加するが、ミキは宗教で世直し運動に乗り出す。といっても、これまた中山みきについては何も知らない。知ってるのは、天理大は柔道が強い、ということくらい(笑)。

いったい、どんな女性だったのだろう。天理教の本殿には、今もミキは生きていて毎日、食事をささげているそうな。今度、天理まで探索にいってこようか(笑)。


函入り単行本

2009-07-18 | 読書
ブックオフで久しぶりに収穫があった。
近頃は、文庫よりも100円の単行本コーナーにいいのが隠れている。
ブックオフへ行くタイミングもあるのかもしれない。店員さんが新しい本を出した直後に訪ねるといいけど、いいのはだれかにすぐ持っていかれるからな。

今日は、海音寺潮五郎の「海と風と虹と」函入りの初版本上下2冊だ。全集本と文庫本では持っているが、海音寺のこんな本は初めて見た。

そういえば、最近は函入りの本は少ないのではないだろうか。昔は、本も函入りが多かった。あと、昔は本のページにはさむ紐みたいなやつ(言葉を忘れた 笑)がついていたけど、最近のはついてないのが多くないか?

函入りは古本屋をするとわかるが、中身の本体のヤケが少なくなり、長期保存するにはいい。いまは函入りは全集か事典くらいなものではないのか。本の紐もないし。なんか本作りに手間をかけてないのかもしれないぞ。


やっぱり、とんでも本?芹沢光治良

2009-07-18 | 日記
芹沢光治良が90歳を過ぎて書いたという神の本シリーズをいくつか読んでみたけど、やっぱりおかしいよ。とんでも本だ、と思う。神の声を聞く、というだけならいいのだけど、その神の言葉が品のない新興宗教の教祖のようでやりきれない。

ベルリンの壁が崩れたのも神の業、神は世界平和のために働いている、とか、1990年ころから(何年だったかはっきり覚えてないが)世界はいよいよ良くなる、といっているが、阪神大震災もイラク戦争も、労働者の窮乏化も予言できなかった。また、ソ連とアメリカの大統領をなんとかすれば世界はよくなる、と神様は考えているようなところがあるが、だれも神様に地上をよくしてもらいたいなどとは思わないだろうに。

本の中では伊藤青年というのが出てきて、この青年に中山ミキはのりうつって、神の言葉を述べるのだけど、この伊藤青年のモデルは大徳寺昭輝という人らしい。ネットで調べると、歌もうたい、書もかき、ラジオ放送もしているらしい。知らない世界だった。

文中、奇跡の話もよく出てくる。病気が治った、とかいう類だ。
フランスのルルドの泉の話も出てくる。芹沢はこのルルドの泉で病気が治ったらしい。命が延びることはそんなにスゴイことなのか。

自分の人生観からいっても、神の言葉はどうも納得できない。神にたよることができないのが、人生、人間ではないか。

神がしゃべりかけてきたなら、素直にその言葉に服するのではなく、「なにあほゆうてまんねん」と逆らえなかったのだろうか。芹沢の語る神は、かなり人間的で話しかけやすいように思えるので、それくらい言ってもいいと思う。その反応が知りたいのに(笑)。

90歳を過ぎて書いた芹沢光治良の本は、それまでの芹沢光治良の信用をなくすことにならないか。文学の専門家は、このことをどう思っているのだろう。出版社の新潮社はどういうつもりで、出版したのだろうか。だから、長編小説なのか?

まだ即断はできないけど、やはり90歳という年齢を考えてしまう。

髭人口

2009-07-17 | 日記
今日はセミの声が聞こえた。いよいよ夏もスタート。
暑いのはいやだけど、夏は好きだ。
久しぶりに山を下りて、下界の街で一杯。

最近感じるのは、髭の人が増えてきたのではないか。
若い人もイチローをはじめ、けっこういるけど、ベビーブームの世代(古い言い方。でも、団塊の世代なんて言葉もちょっとなあ)、還暦かそろそろ還暦になるような人が多い。かれらは、若い時は長髪、晩年は髭を流行らせるのだろうか。

自分が髭を生やすと、髭を生やしている人をよく観察するようになったから多くなったように感じるのかもしれない。

サングラスをかけてみたらどうなるだろうか、などと考えている(笑)。



神の微笑

2009-07-16 | 読書
図書館で芹沢光治良の「神の微笑」を借りてきた。
この「神の微笑」は芹沢の晩年の神の書シリーズの第一作だ。
自分の過去のこと、少年時代のことや留学時代のことなども書かれていて、興味深い(ロマン・ロラン記念館のロマン・ロラン未亡人に会ったことも書いてある)。

奥付けを見ると、昭和61年7月20日発行とあり、昭和61年9月25日4刷となっている。2ヶ月で、4刷とはかなり売れたのだろう。話題になったのだろうか。当時の私は、こんな本が出ていることなんてまったく知らなかった。

はじめ、木々が話しかける場面がある。わからないでもない。荘子もこれぐらいのことは言ってもおかしくないし、木々の声に耳を傾けるという態度はちょっといい。

芹沢はこの本を書くのに躊躇したのだろう。はじめの章でこう書いている。
「神について書いたら、それこそ老いぼれたかと、読者に蔑まされるかもしれない。しかし、それでも、書くことにした」と。

このシリーズの本の巻末にある出版社の広告に、この本について、「書き下ろし長編小説」と書いてある。しかし、内容は、小説というより、著者の回想記であり、体験記のようなスタイルだ。事実をそのまま書いているように見える。内容が内容だけにあえて「長編小説」ということにしたのだろうか。

芹沢光治良の家は大きな網元で裕福な暮らしをしていたそうだが、父親が天理教の信仰のために全財産を神に捧げ、貧しい布教師として故郷も光治良も捨て、光治良は祖父のもとで貧しい暮らしをすることになったそうだ。

その芹沢に、晩年、突然、天理教の中山ミキが姿を現す。まったく、ミステリアスではないか。

芹沢の前には、中山ミキだけでなく、釈迦、イエス・キリストも現れる。老子や荘子も出してほしかった(笑)。

芹沢光治良をちょっと読んでみようと思っている。