虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

三田百姓一揆

2009-06-25 | 一揆
昨日、こう書いたけど、ちがうかもしれない。

「授戒総股居士」の文字の墓がそうだ。すぐにわかった。わたしは、事前に調べていたからわかったけど、しかし、何の説明板もないので、一般の人は気付かないだろう。仲惣左衛門は、辰巳宗左衛門ともいうそうだ。法名の総股(ソウコウ)は佐倉宗吾にちなんだという」

戒名の「授戒」は読めたが、あとはしっかりとは確かめなかった。吉川弘文館の義民年表の解説に「総股」と書いてあったので、そのまま書いた。

でも、西村繁著「明治2年三田百姓一揆」(六甲出版)によると、「授戒総脱居士」となっといる。総股というより、全てを脱する、という意味の総脱の方が意味がわかるのでけど、どちらが正しいのかわからない。

この墓を建てたのは、大西善太郎という元衆議院議員で、安政生まれで、一揆の参加者の子供だそうだ。顕彰碑も計画していて、碑文もできていたそうだが、妨害にあい、実現されなかった、とこの本にある。西村善太郎については何もわからない。

この本は昭和60年、著者が80歳目前に発行されたようだ。史料はほとんど残っていず、149ページの本文でも、他の一揆や偉人を引き合いに出したりして、自分の思いを綴ることにもかなりのページをさいている。

著者はまえがきで、「夢前町のように教育委員会が、その墓を管理しているところもあります(滑甚兵衛んの一揆)。それに比べて、わが三田市はいかがでしょう。今日、なお「お上に叛いた悪者」として冷遇されているのです」と書いている。

三田の旧城下町(観光スポット)へいくと、九鬼家住宅資料館のほか、白洲退蔵出生地とか小寺泰次郎次出生地とかの案内板がある。白洲退蔵と小寺泰次郎は幕末三田の偉人なのだ。小寺公園という名の公園もある。三田学園は、小寺泰次郎の息子が建てた学校だ。

しかし、三田の百姓にとっては、この白洲退蔵と小寺泰次郎が悪政の張本人。一揆後、参加者を処刑し、一揆の歴史を抹殺したのもこの二人。二人は、廃藩置県になると、九鬼の殿様とさっさと三田の百姓を捨てて、神戸に出て事業を起こし、3人とも巨万の富を稼ぐ。小寺泰次郎などは、藩の金を作るため、寺や神社の大木を伐ったり、寺や神社の土地を没収したりしたそうだ。三田の百姓たちが顕彰するような人だったのか?

しかし、三田では、いまなお、この九鬼の殿様、白洲退蔵、小寺泰次郎に逆らうのはむずかしいのかもしれない。三田市よ。仲惣左衛門の義民碑を作るべし!

三田百姓一揆について最初に人の目にふれた文章は大正7年に朝日新聞に連載された「三田義民伝」らしい。その次が、昭和7年地元の森鼻平次郎氏の書いた「三田百姓一揆」の論文。これは正確で、三田市史の一揆の記事もこれを元にしているという。この本には、その森鼻氏の論文(14ページ)も付されている。

画像は下田中の神明寺の仲惣左衛門の墓。

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3 コメント

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Unknown (くれど)
2010-02-18 06:29:59
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50870920.html

退蔵の息子 文平について まとめた記事です これも 実像は 言われている話と ずいぶん違います
出発点で 歪んでいるから こうなるんですね 
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一揆 (大西則夫)
2015-12-13 08:35:30
善太郎のひ孫です。
三田市ももう少し農民の歴史も調べてほしいですね。
下田中の歴史を調べたいです。
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Unknown (荘太郎)
2015-12-14 21:07:08
コメントありがとうございます。

昔の記事を見つけてくださりありがとうございます。
善太郎さんのひ孫さんなのですね。
三田一揆の碑がほしいですね。
三田は、2ヶ月に一回くらいは訪ねています。
豊かな田が広がり、息抜きできる場所です。
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