虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

一番小さい一揆本 佐倉義民傳

2011-11-10 | 一揆
ミニミニの一揆本を入手。
文庫本よりも一回り小さい。明治17年印刷発行。この本は大正9年5版とある。
昔はみんな着物だし、ポケットなんていわなかったから、袖珍文庫と称している。
着物の袖にこの本を入れていたのだろう。

「佐倉義民傳」。小さいけども、文字が小さいだけで、228ページあり、堂々たる本だ。
講談調で書かれてある。講談師が話すのを速記者が筆記したものだ。

講談だと馬鹿にしてはいけない。当時、明治、大正の講談は今のテレビよりも人々を感化する力があった。講談の隆盛は、自由民権運動の闘士たちが政府の言論弾圧に対抗して始まったそうで、講談師の中には元革命党(自由党)の闘士も少なくなく、政治講談に人々は喝采した。

今なら、原発やTPP、沖縄問題を講談のタネにして、大いに政治批判をするのだろうけど、そんな政治講談師、出よ、といいたいな。

さて、佐倉宗五郎。このころは、三歳の幼児でもその名前を知っていたが、今は、大人でも知る人は少ない。あの福澤諭吉も「学問のすすめ」の中で、世界に唯一輸出できる日本人は佐倉宗吾のみ、と語っていた。佐倉宗吾は、百姓一揆の代表者として名をあげただけで、むろん、他にもたくさんいたのだが、まだ名前は知られていなかった。

こんな小さな一揆本を袖に入れて歩く昔の日本人って、なかなかのものではないか。




これが全国義民サミットのサイトか?

2011-02-17 | 一揆
2,3年前、このブログで全国義民サミットの情報がネットに出ない、参加したくても、どこで開催するかもわからない。義民サミットの担当者は、情報を全国に発信する気持ちがあるのだろうか、と疑問を書いた。

今日、たまたま「全国義民サミット」を検索してみた。すると、「全国義民顕彰連絡協議会」という名のサイトがあった。2,3年前にはなかったものだ。代表の名を見ると、横山十四男とある。たしかに、義民サミットの代表者の名だ。いつのまに、できたのだろう。この数年内にできたにちがいない。

義民サミットという名は変わり、今は、義民顕彰集会となり、昨年は新潟で開催されたようだ。

義民サミットが衰退していったこの10年間の経緯を説明している記事があったので、ちょっと引用する。


「第7回の田野畑での開催ごろまでは、次々に候補地が名乗りをあげ、スムーズに連年開催が出来たのですが、第8回頃から市町村主催による開催がスムーズにゆかなくなり始め、第9回の野洲での開催のあとは、一旦立案しても遂行出来なくなるという状態が出るようになりました。
第10回サミットは急遽青木村が引受ける形で乗り切ったのでした。理由は明らかでした。数年来進められてきた市町村の大合併によって、義民顕彰の主体となってきた地方の村々が名称も消え、独自性も失われるようになったことが理由の第一でした。さらに経済格差の増大によって、地方農村の財政困難が急速に進み、義民サミットなど特別企画の立案が不可能になったという事情があり、加えて、IT革命の急激な進行によって、老も若きも機械技術の改良に忙殺され、歴史哲学に学んで地道な生活を送るムードが失われるようになったと言う情勢変化も挙げられましょう。」

この件は置いとくとして、あれーと思ったのは、このサイトのトップページを見た時だ。写真は松本城。そして松本の貞享義民館の写真が小さく。

トップページには、大きな文字でこうある。

「義民の心は人類共通の美徳、未来を担う子どもたちのためにも、愛する日本の将来のためにも、伝えたい「義民の心」、あるべき正しい姿を努力して守る強い信念。義民の心は武士道に通じる」

武士に不信感を持ち、武士に弾圧処刑された義民が聞いたらきっと怒るぜ。

義民について、基本として、「多数の人々のために命をかけて働く犠牲をいとわぬ献身の精神」と説明している。こんなことを子供たちのために説くって?

これでは、戦前、村でさかんに義民祭りをし、義民を利用して自己犠牲の精神を教えた戦争中の教育に逆戻りではないか。義民の精神を犠牲の心とすりかえてもらっては困る。

これ、ほんとに、長く一揆の研究をしてきた横山十四男さんのブログなのだろうか?
貞享義民館、あるいは松本を支配する教育界かどこかを代表する意見なのではないだろうか。よく見ると2009年にできて、その後は特に更新もしてなくて、どうも不活発なサイトに思える。

ぱっと見ただけでよくはわからないが、こんな義民の考えをもつ義民顕彰連絡協議会なら、義民顕彰会には参加したくない、と思った。

山形出身の作家とワッパ騒動

2011-02-17 | 一揆
山形県の「ワッパ騒動義民顕彰会」の人に教えてもらったのだが、芥川賞作家奥泉光氏と、同じく芥川賞作家でいまや文壇の大御所みたいな存在になっている丸谷才一も、ワッパ騒動の起きた土地の出身のようだ。
藤沢周平の場合は、よく知られているが、この二人は知らなかった。

奥泉 光(本名 康弘)は、「「我が輩は猫である」殺人事件」というミステリー作品が有名だ(わたしは、まだ1冊も読んでないけど)。

奥泉氏は、三川町横川の出身で、義民顕彰会では、「義民の子孫になるはず」という手紙を出したそうだ。この正月に帰省し、「大地動くよみがえる農魂」という昨年出版されたワッパ騒動の本を読み、庄内にこんな一揆があったことを初めて知り、大いに興味をおぼえた」という意味のメッセージがよせられたとのこと。

丸谷才一はの生家は、馬場町9番地で、ワッパ騒動を指導した本田氏の屋敷で、蜂起のきっかけになった地所。丸谷才一氏には、顕彰会は手紙を出していないようだが(どうも丸谷才一は一揆などには無縁の人のように思える)、あまり関心を持たないににちがいないと思ったのかもしれない(笑)。

さて、藤沢周平。歴史・時代小説の巨匠の中では百姓一揆をとりあげた珍しい作家(司馬遼太郎も海音寺潮五郎も吉川英治も子母沢寛も長谷川伸も一揆を描いていない)。

海坂藩ものの作品の中でも、背景にちらちらと百姓一揆が描かれ、百姓一揆を無視しない作家なのだが、この人がワッパ騒動については、ワの字も語っていないようなのだ。知らなかったわけではない。藤沢周平は、旧黄金村高坂の生まれで、高坂はワッパ騒動の激化地区のひとつだったそうだ。騒動で逮捕された仲間が釈放された時、村はずれの一本杉まで村中で迎えに出たのだが、藤沢周平氏の先祖はそのすぐ近くだから、先祖は「まちがいなく、迎えに出て、お祝いの赤飯を炊いたはず」と顕彰会の方はいっていた。

藤沢周平は、なぜワッパ騒動について語らなかったのか、藤沢周平も沈黙せざるをえなかった庄内・鶴岡の風土、空気とはなんなのか。それは、今後、ワッパ騒動義民顕彰会の方々が解明してくれると思うが、ひとつだけ、周平氏の高坂村の助役は、藤沢周平の生涯の恩師だったことをあげていた。

入手 「大地動くー蘇る農魂」 ワッパ騒動の本

2010-10-26 | 一揆
ワッパ騒動義民顕彰会編の「大地動くー蘇る農魂」(東北出版企画)が、ついに送られてきた。
大判で315ページ。すばらしい本が誕生した。

なによりも新刊で一揆・騒動の本が出ることがすごいことだ。一揆・農民騒動の本といえば、古本でしか入手できず、それも3,40年前のものばかりだけど、この2010年の今、新しく出版できたのだ。庄内はどうなってるのだ?と思うほどだ(笑)。

内容もいい。今まで、一揆の本というと、研究者・学者の読みにくい内容で、一般の読書人を対象に入れてないのではないかと思われるものが少なくなかったが、これはちがう。研究者、学者のわかりやすい解説ももちろんあるが、それだけでなく、ワッパ騒動顕彰会の会のニュース、新聞等で報道された記事、講演会の内容、小学生の自由研究、地元の人の思いなど、ここには「ワッパ騒動」のすべてが集められている。ワッパ騒動への地元の人たちの熱い息吹が伝わってくる。多くの人たちによって作られた本だ。

15ページほどのカラー口絵は顕彰碑建立のようすや、ワッパ騒動の史料・史蹟などの写真もある。騒動のリーダーだった森藤右衛問が元老院に建白する時、大塩平八郎の晒し首の絵を床の間に飾って水盃をかわしたそうだが、その晒し首の絵も出ていた。

わたしが、ワッパ騒動に関心をもったのは、明治の初期のころの農民騒動であること(まだ西郷もいたころだ)、判決に関わったのが宇和島の児島惟謙だったことだ。

本では、ワッパ騒動は「日本で一番長い農民運動です」(日塔哲之)と書かれてあるが、ほんとうは一番長い農民運動は、このブログでも書いてきたけど、南予の「無役地闘争」だ。
しかし、「無役地裁判」はワッパ騒動を裁いた児島惟謙によって抑えつけられることになる。

庄内では長く「ワッパ騒動」について語ることはタブーになっていたようだ。騒動のリーダーは一部の不平分子が扇動したもので、無知な農民が付和雷同したものだ、とか、義民のことを大泥棒と決めつけられていたそうだが、それは、無役地闘争、いや、他の多くの一揆・騒動でも同じかもしれない。

その長い長い間の偏見を打破し、庄内の義民は今、やっと立ち上がることができた。記念すべき本の出版だ。関心のある方は「ワッパ騒動義民顕彰会」まで。

土佐膏取り一揆 山中陣馬

2010-08-28 | 一揆
一揆本、新しいものを手に入れた。
「山中陣馬伝 土佐膏(あぶら)取り一揆」(昭和52年大川村教育委員会編 非売品)。

高知の大川村はどのへんにあるのだろうと地図を見ると、四国のちょうど真ん中に位置する。愛媛と高知の境、四国山地の中だ。

この本は、大川村が、昭和52年に山中陣馬の記念碑を建てたのを記念して発刊したもの。
記念碑や墓碑の写真があり、記念碑を建てるまでの経緯、平尾道雄の論考、一揆実録などがおさめられた100頁ほどの冊子。一揆の本としては貴重な史料だ。

山中陣馬は、明治4年末、土佐の本川、大川、吾川という山間部で起きたいわゆる徴兵令反対、血税一揆の首魁として切腹。しかし、役人側は死体の首を切り晒し首にする。山中陣馬は元土佐藩の郷士だ。

この記念碑を建てた経緯がおもしろい。一揆の指導者としてではなく、一揆を未然に防ごうとした人物として顕彰している。あれ?

本の序にはこうある

「山中陣馬は、この首謀者が友人なるが故に中止を説得するも、聞き入れないので、自ら一揆に加わり、大衆を善導改化せんとするも成らず、自分を犠牲として徒党の罪科を未然に防いだのである」(大川村長)

ちょっと、おかしいな、と思った。そんなことありうるか?

昭和52年に大川村長がこのように書いたのは、それまでの経緯がある。大正15年に山中陣馬の墓碑が建てられたのだが、その墓碑を建てる趣旨書にも陣馬が切腹したから、一揆は沈静した、と書き、一揆の首謀者ではなく、むしろ一揆を鎮めた功績がある、として願い出ているのだ。

戦前の天皇制国家の時代、明治天朝政府に反対した一揆の首魁の墓碑なんかとても建てるわけにはいかない。一揆を止めるために身を犠牲にした、とでもいわなければとても許可されなかったにちがいない。

村人はどうしても山中陣馬の墓碑を建てたかったのだろう。陣馬を慰霊するためにも、陣馬の子孫、親戚、一揆の関係者の子孫のためにも必要だったのかもしれない。

しかし、真相は薮の中だ。この一揆の首謀者たちは一切の申し開きも何もなく、その場で切り捨てられたのだから、首謀者の言葉は何も残っていない。このように、後世の者が、陣馬は一揆を中止しようとした、と判断していいものだろうか、と思う。

徴兵令反対の血税一揆については、「無知な農民たちが、血税の文字をほんとうに血をぬかれるとか、異人に子供の膏(あぶら)を売られると誤解したもので、流言にまどわされて起きた無知蒙昧なる一揆」とかたづけられているが(現在まで、この官の解釈が通用しているが)、はたしてそうか、と思う。史料はほとんど抹殺されている。

山中陣馬はじめ首謀者たちは、みな学識あり、政治に関心ある者ばかりだ。一揆に加わった者の中には流言飛語に」まどわされた人たちもいたかもしれないが、首謀者はちがうだろう。

日本最初の徴兵令反対一揆(徴兵令は明治6年であり、この一揆は先駆的だ)であり、庶民として反対するのは当然であり、反対の声第一号として名誉でさえあるのだが、その主張は抹殺され、無知なるための誤解の一揆とすりかえられたのではないか。

だいたい政府(武士)は農民を無知蒙昧なる輩と見るのが当時の風潮だった。

徴兵令、たしかに、血税だ。その通りではないか。異人に膏を取られる。たしかに、今でも、われわれの税金を異人にわたしているじゃないか。

明治初期の血税一揆、再度、見直さなければならないと思うのだが、ほかの一揆ならともかく、この徴兵令にだけは一切、反対は許されなかった。問答無用だったようだ。

ほんとに血をぬかれる、膏をとられる、当時の農民がほんとにそれを信じて一揆を起こしたなんて解釈、ばかばかしいのではないか。政府と同じ視点に立っているのではないか。庶民を馬鹿にしすぎている。

以上、感想、思いつきで、なんの確証もありません。




古本 百姓一揆

2010-08-22 | 一揆
うしおに堂の一つの売りが、「一揆もの」だけど、当初は100点近くあったのだが、現在は70点だいにへってしまった。「一揆」の本ばかりは、ブックオフでも古本市でも見つからない。
売れてしまうと、同額かそれ以上の値段でまた古本屋さんから仕入れるしかない。だから、つい高めに価格設定をすることになる。入手が困難なのだ。だいたい、当初から発行部数はわずかで、しかも地方の小出版社が多く、もちろん、求める人もなく、古くなると、ゴミといっっしょにこの世から消えてしまうことも多いのかもしれない。絶滅寸前の本だ。

最近、この入手困難な一揆本をあたらしく手に入れた。

大正15年出版の「戯曲 百姓一揆」 作者は高橋季暉。出版社は昭文堂。1円60銭。
大正15年といえば、公務員の初任給が75円。うな重50銭、ビール42銭。

内容は、文政時代に起きた丹後の大一揆だ。この一揆は、実に波乱に満ちた大ドラマで、丹後史では無視することのできない事件だ。といっても、丹後の人たちのどれだけがこの物語を知っているかわからない。天橋立に向かう途中に大きな義民碑が立っているけど。

戯曲だが、頭取になった水呑百姓新次郎、武芸の達人で一揆に加勢する豪傑神官のほか、家老栗原理右衛門、その息子百助、藩士関川権兵衛など一揆に同情的な武士も登場し、史実、史料をもとに書いている(詳しくは、「徳川百姓一揆叢談」に書かれてある)。

作者はどんな人だろうとネットを使って調べたが、「生年不詳、没年不詳」とあるのみ。さっぱりわからない。ただ、本の扉に「此の一篇を房総半島の一寒村に水呑百姓として一生を終わった亡父正司の霊にささぐ」と書いてあった。

この本には他に短い戯曲ふたつあり、ひとつは(「移住民」)、北海道十勝の開墾場に移住した農民、もうひとつは(「坑夫の歌」)、関東の鉱山で坑内で働く人を主題にしている。

高橋季暉がどんな人でどのように生きた人なのか、なんとなく想像できるようだ。
こうした名もなき人が書き残した一揆の本、ゴミにしてしまってはいけないですね。
一揆の本、なにかあったら、連絡ください。こちら、一揆探索事務所でした(笑)


松木神社 再び

2010-06-08 | 一揆
藤樹書院を訪ねたとき、ついでに、熊川宿の松木神社を訪ねた。高島市から若狭の熊川宿まで車で30分程度だ。

5年前にも訪ねたので、2回目だ。今回、行ってみると、神社の鳥居をくぐったところに、松木庄左衛門が年貢の嘆願をしている像が建っていた。これは上中町住民センターに建っていたものを、ここに移し替えたのだろう。5年前にはなかった。ここに建てていたほうが、熊川宿を歩く人には、この神社が一揆にゆかりのある神社だとわかっていい。

宿場館というところで、5年前、「若狭の義民」という本を手に入れたので、補充用としてもう1冊ほしいと思って、探してもらったが、これがない。隠しているわけではなく、見本用しかないのだ。義民の本をほしい、という人はめったにいないのか、「松木さんですか?」と聞かれた。子孫だと思われたのかも(笑)。

あれは希少本なのだ。家に帰ってから、値上げしてしまった。まず買う人はいないだろう、という値をつけてしまった。申し訳なし!

松木庄左衛門の必死の像。日米軍事同盟を是とする政府に対し、なお沖縄基地撤廃を訴える人々の志とも共通するものがなかろうか。

白馬の半左衛門

2010-03-30 | 一揆
久しぶりに一揆旅。

篠山市福住の禅昌寺というお寺の境内に白馬の半左衛門の供養塔がある。

お寺の門前にある説明版によると、こうだ。

「江戸時代の中頃、福住に白井半左衛門という庄屋さんがおりました。頭もよく、気が強く正直な人でした。そのため、自分がよいと思ったことはだれにも相談せず、すぐ実行する人でした。
 そのころ、天候が悪く米ができず、農民は何度も強訴を起こすほどでした。半左衛門は、柼木川の上流から溝を掘って、福住の家々の前を流す工事を始めました。もしも、火事のときには、消火の役にも立つし、いろいろ便利だと考えたからです。
 ところが、それを知った大庄屋は上役にも相談せず、勝手な事をしたというので、篠山藩に訴えました。藩では、大庄屋をないがしろにすることは、つまり、藩を恐れぬものだということになり、奉行所の判定で半左衛門に死罪を申し渡しました。
 刑場に立った半左衛門は、「村人たちのために、喜んでもらえると思ってしたことが、こうなればしかたがない。しかし、わが一念は今に見ておれ、災害のあったときに思い知るであろう」と言って、享保16年(1731年)12月25日に打ち首の刑に処せられました。
 半左衛門が言った通り、それから17年後、寛延元(1748)年に大火が起こり、福住の町52軒が次々に焼けていきました。その猛火の中に白馬にまたがった半左衛門を見たという人が何人もあり、大騒ぎになりました。そこで、町の人たちが相談して、半左衛門の供養塔を建て、その霊をなぐさめることにしました。しかし、それから五十一年目に9軒が焼け、さらに10年後(文化6年)には83軒、町中が全焼するという災害が起こり、明治14(1981)年にもまた大火がありました。町の人々は禅昌寺の境内にある供養塔に四季の花を供え、今もいましめあって火の用心につとめています」

火事の中、白馬にまたがった半左衛門を見た、という話はおもしろく、この話は、結局、火事をいましめる話にされてしまっているが、これは当然、一揆の話だと思う。一揆の話だけど、一揆のことは故意に隠されてしまったのではないか。

説明版に一行だけ「そのころ、天候が悪く米ができず、農民は何度も強訴を起こすほどでした」とあるが、おそらく、半左衛門は当時の篠山藩への強訴に関わりを持っていた人物に違いない。篠山藩は過酷な藩政で知られる。強訴を計画中に、大庄屋に密告され、打ち首。半左衛門は無念だったろうし、村人たちも罪の意識をもっていただろう。で、火事の中の半左衛門ということで、供養塔を建立。実際は、一揆の半左衛門の供養塔ではなかろうか。

説明版には半左衛門と一揆についてはいっさいふれない。火事のいましめとしての半左衛門になってしまう。しかし、この説明版を見た人はだれが読んでも、これはおかしいな、一揆の供養塔ではないのか?と思うのでないのだろうか。篠山の福住に住む人に調べてほしいな。






サスケの最終巻

2010-01-23 | 一揆
白土三平の「サスケ」の最終巻。背中に手裏剣が突き刺さったまま終わったことだけは覚えていたが、他は忘れていたので、今日、確かめてみた(笑)。

やはり、最終巻は「一揆」だった。一揆への報復のため、サスケが育てていた弟、小猿は行方不明(おそらく殺された)で、「小猿・・・」とつぶやきながらさまようところで終わり。最終巻に、由比正雪が出てきて「仲間に入らないか」としきりに誘うのもおもしろい。
この「サスケ」をかくなかで、白土三平は、あらためて江戸時代を本格的に描こうとして、「カムイ伝」に取りかかったにちがいない。「カムイ伝」は「サスケ」の続きともいえる。

よろめきながら歩くサスケの後ろ姿をじっと見つめる柳生十兵衛。これが最後の場面だ。

このへんまでテレビのアニメは放送したのだろうか?アニメのサスケは声が変だったので、見てなかった。たぶん、やってないよね。

情報発信力のない義民サミット

2009-10-28 | 一揆
今年の全国義民サミットは長野の貞享義民記念館でやるらしい。

「第12回全国義民顕彰会in安曇野」。11月1日。
貞享義民館でやるのは2回目ではないだろうか。長野での開催は4回目になる。
サミットという言い方はやめて顕彰集会になったのだろうか?

全国と銘打っているのだから、全国にその情報を発信してもいいはずなのに、この義民サミットの情報は少ない。ネットで検索しても昔のサミットの情報はあるが、最新の情報はない。どんな団体が主催しているのか知らないが、中心になる幹事がいないのだろうか。もっとネットで全国にどんどん発信したらいいと思うのに、そんな活動はなされていないようだ。長野で4回もやるということは、おそらく他の開催地がないにちがいない。兵庫の夢前でもかつて開催しようとする動きがあったそうだが、賛同者が少なく流れてしまった、と聞いたことがある。

一揆や義民の情報発信はほんとに少ない。その情報を得るのは、星のように無数にある古本屋から古本うしおに堂を発見するのと同じくらい困難だ(笑)。


大江健三郎と百姓一揆

2009-10-27 | 一揆
大江健三郎は読んだことがない。いや、読みかけても最後まで読み通したことはない。

若者になりたてのころは高橋和巳などと共に若者に流行していたので、初期の短編はいくつか読んだことはあるものの、どうも縁がない。

書いていること、話していることが晦渋でこちらの頭が悪くなる気がする。評論でも小田実のように颯爽としてないし、ズバリと直裁にものを言わないのがせっかちな私の体質に合わない。やはり、読むなら司馬遼太郎、海音寺潮五郎だ(笑)。わたしには、純文学はわからないのだろう。

大江をよく知らないのに加え、本多勝一の大江健三郎批判などを読んで、大江も中途半端な知識人なんだなあ、などと偏見をもち、ますます近づかなかった。

でも、現代の文学者で百姓一揆に関心があるのは大江健三郎だろう。

今日、ブックオフでたまたま買った本「二百年の子供」は子供たちが百姓一揆の頭領と出会うというファンタジーのようだ。メイスケとあるから、三閉伊一揆の三浦命助のことかと思ったら、ちがった。

そういえば、「万延元年のフットボール」も愛媛の百姓一揆と現代を重ねて描いた小説で、以前、挑戦したのだが、数ページでやめてしまった。他にもまだあるのかもしれない。

大江は文学者だから、百姓一揆を歴史としてではなく、自分の文学の一つの要素として取り入れているのだろうが、どんな一揆があって、大江はその一揆にたいしてどう思っているのか、直接には語りかけていないのではなかろうか。読んでいないのでわからないけど、文学者としてでなくていいから、一揆について直接、書いてほしいと思う。大瀬騒動の事実すらも明らかではないのだから。

大江は愛媛県内子町の出身。江戸時代は大洲藩の大瀬という所だ。ここで慶応二年大瀬騒動という一揆があり、大江の祖先もその闘いに参加し、大江は祖母からその話を聞いたとかいう話もどこかで読んだ。

伊予の大瀬騒動。しかし、これについて書かれた本は見たことがない。わずかに西園寺源透の「伊予国百姓一揆」に次のような文がある。

「慶応二年 大瀬村の大久保の福五郎、役人と口論、にわかに檄をとばして村民を集め、大瀬村の商人の家を打ちこわして気勢をあげ、さらに内の子に出て酒屋をはじめ商人の家をこわす。参集した農民約3000人。福五郎はのち検挙され、長く大洲の牢につながれてのち毒殺される。奥福騒動ともいう)」

大江も自分の本のどこかでは一揆について何か書いているのかもしれない。ちょっと探してみようと思う。しかし、本屋にいっても大江健三郎の本は今、あまり置いていませんね。読まれない作家になっているにちがいない。
「万延元年のフットボール」を探してみるつもり。でも、やっぱり、つまらないかも。

白土三平

2009-09-22 | 一揆
「カムイ外伝」が映画になったそうだ。
映画館に見に行く気はないが、ビデオになったら借りよう。

白土三平、懐かしいよな。
大昔の雑誌「少年」には、鉄人28号、鉄腕アトムが連載されていたが、わたしがまっさきに読んでいたのが、白土三平の「サスケ」。マンガは三平のまねをしてかいていた。

「サスケ」も「カムイ外伝」もその後、テレビでアニメになっていた。

「忍者武芸帳」、「カムイ伝」も全巻持っていたのだがが、今はない。大島渚の白黒の紙芝居みたいな映画「忍者武芸帳」も映画館に見に行った(がっかりしたが)。

カムイ伝第二部は、絵柄がそれまでと違ったので、読んでいない。

今、なぜ一揆なんかに興味があるのだろう、と考えてみると、どうも、この白土三平の影響かもしれない。きっと、そうだ。忍者武芸帳のあの影丸。かれは一揆の大将ではなかったか。白土三平、おそるべし。

わたしの古本屋、マンガはないけど、白土三平のマンガは置いておきたいな。もう1度、読んでみたい。

南山御蔵入騒動

2009-09-08 | 一揆
久しぶりに一揆ネタ。

「南山御蔵入騒動」(南御蔵入騒動記録研究会発行)という37ページの小冊子を手に入れた。

南山御蔵入領とはどこなんだ?と調べると、福島県南部、南会津郡。
山に囲まれた土地で、スキー場やあちこちに温泉地があるようだ。観光地ではないので、秘湯なのかもしれない。山に囲まれ、あまり米はできそうにない土地だ。

このあたりは、石高5万5千石の幕府直轄地(天領)で、代官陣屋は今の会津田島にあったそうだ。

会津田島駅の近くに、「旧南会津郡役所」という建物が公開されていて、そこに「南山御蔵入騒動資料展示室」も設けられているようだ。

平成3年、南山御蔵入騒動記録研究会が発足、義民の碑の案内板を作り、「六義民史跡絵図」も完成。この史跡をさらにわかりやすく案内しようと御蔵入騒動の35の場面を日本画家に依頼して描いてもらい、その35枚の絵と解説をこの「旧南会津郡役所」に展示しているようだ(平成7年からとある)。

この小冊子は、その35枚の絵と解説文を冊子にしたもの。「南山御蔵入騒動 六義民史跡絵図」も付いている。

一揆の史跡、碑も大切にされているようで、こんな絵入りのわかりやすい一揆の本を出すなんて、南会津郡の人々もがんばっているんだ。会津藩士だけが会津ではないもんな。


一揆は、享保5年、南御蔵入の農民が江戸廻米の廃止、米納強制の廃止、減税などを訴えて田島陣屋に押しかえることから始まる。田島陣屋では、正式な手続きをふんでないと受理を拒否。で、正式の手続きをふんで訴状をさしだすと、今度は、これは代官所の権限を超えている、幕府勘定所の決定である、といわれる。

享保6年、農民代表15名が江戸直訴、直訴は取り上げられるが、審議の結果(いろいろあったが)、享保7年6月判決が出る。
一揆を扇動し、年貢不納を指示したという理由で、5名が打ち首獄門。また、国元で逮捕されていた小栗山の喜四郎も7月打ち首獄門。
結局、獄門6名、処罰者300余名を出して終わる。しかし、江戸廻米は廃止、米納強制も廃止、税も軽減されるようになり、農民の要求もほぼ認められるようになり、無駄死にではなかった。

会津田島町の公園に「南山義民碑」「喜四郎」の碑がたっているが、ほかの五人の碑もそれぞれの土地に建っているようだ。

支配者が一番恐れるのが、連帯、団結。で、今も昔も分断工作が一揆への最上の対抗手段になる。

この一揆では、幕府側は、訴人の百姓代表に対し、ほんとうに村の百姓に委任されたのか全戸を取り調べるという策に出る。会津藩兵によって警固された陣屋で一人一人尋問される村人たち。村人は恐怖を感じ、態度を豹変させる。「強制されて資金を出した」「村八分を恐れて加わった」などと申したて、そのため、訴人の「百姓代表」という大義名分がなくなってしまう。


ワッパ騒動 義民顕彰碑

2009-07-28 | 一揆
9月11日(金)にワッパ騒動 義民碑除幕式・祝賀会があるそうです。
義民顕彰会から栞が送られてきたので、一揆ニュースとしてお知らせします。

今年、顕彰碑の設立の募金をよびかけ、9月には除幕式とは早いものです。
寄付金は736名、4団体の計740件からで、約312万円。
寄付金の大半はやはり騒動に関係ある県内の地区からで、県外からは約80名
(多いのか少ないのか、わからないが)。

顕彰碑は、巾2、5メートル、高さ1,7メートル、奥行き1,1メートルの自然石(?)に「ワッパ騒動 義民之碑」と刻まれるそうだ。碑のあるところは、鶴岡市大字水沢の大松庵。
水沢といえば高野長英の出たところでなかったか?

ワッパ騒動は、県に対する裁判闘争であり、裁判には宇和島の児島惟謙も関わっているので、興味がある(でも、まだ、中身はよく知らない)。

県内の寄付者の名簿を見ると、本間、斎藤、成沢、佐藤とかの名前が多いが、庄内には多い名前なのだろう。「本間さまにはおよびもせぬがせめてなりたや殿さまに」(だったか?)てな言葉もあったよな。
清河八郎も本当の名前はたしか斎藤だったよな。

闘争には1万数千人が参加し、裁判闘争には勝利したのだが、現在、名前のわかっている参加者は767人という。闘争に勝利したにもかかわらず、その後、語ることをタブー視されてきたのだろう。

あれから135年たって、その義民の碑を建立する。庄内には義民の魂を伝え残そうとする人たちがいるのだ。すばらしい。

青木虹二のこと

2009-07-20 | 一揆
青木虹二のことをもう1度確かめたくて、佐野眞一の「遠い「山びこ」」を図書館で借りてきた。

なんと、昭和54年6月55歳の若さで亡くなっている。

大正13年、新潟市生まれ、昭和16年に東京商科大学(現一橋大学)予科に入学、早生まれだったため学徒出陣は免れたそうだが、「きけわだつみ」の世代。

戦後は、一橋新聞の復刊に力を尽くし、全学連結成の陰の立役者でもあったそうな。若き学生ジャーナリストだったようだ。「学生のための学生による学生の本屋」をスローガンにする学生書房の嘱託社員となり、この学生書房が無着成恭の「山びこ学校」の文集の企画を立て、青木は山形県の山元小中学校をジャーナリストとして最初に訪ねている。昭和25年、横浜市役所に就職。

「遠い「山びこ」」の中で佐野は青木についてこう書く。

「その死亡記事に「百姓一揆の年次的研究」の業績は紹介されたが、それを執筆する一つの動機となった」山元村への最初の訪問や、「きかんしゃ」(無着成恭の生徒の作文集)を最初に発掘した業績については、1行も報じられなかった」

「研究職でもない一介の事務職員が膨大な資料を蒐集してまとめあげた五百ページを超す大著、「百姓一揆の年次的研究」(新生社)は、歴史学界を驚嘆させた。その後につづく全20巻の「編年百姓一揆史料集成」(三一書房)などの仕事は、青木年表とも、百姓一揆研究のバイブルとも呼ばれる業績となった。これらの仕事の根底には、敗戦4年目の冬枯れの山元村の山村風景が原風景としてきざまれていた」

佐野眞一はジャーナリシトとしてたくさんの本を出しているが、わたしは、この「遠い山びこ」(無着成恭と教え子たちの四十年)が一番の傑作だと思っている。佐野はこの本のあとも、いろいろたくさんの本を出し、賞ももらい、最近ではジャーナリズムの大御所になった感がするが、この作品はまだメジャーになる前の作品で、賞こそもらってはいないが、この本が一番、フリーのジャーナリストの情熱と良心を感じる。しかし、もう10年近く前の作品で本屋からは姿を消しているのかもしれない。

無着成恭の教育とその後を追うことで、敗戦直後の教育とその後の今日までにいたる荒廃した教育環境を検証する。

「山びこ学校」といえば、大昔、鼻たれの小僧だったころ、木村功主演の映画を見させられたことがある(学校から見たのだろうか)。その後、工場でアルバイトしていたころ、ラジオから子ども電話相談室の無着の声をよく聞いたものだ。

地元の山形を追放され、東京で教師になるも学校教育に絶望せざるをえず、千葉の荒寺の住職になった、と聞いたが、今は大分のけっこう立派な寺(福泉寺)の住職になっているそうだ。無着はわたしの父と同じ昭和2年生まれ。もう、今年で82歳になるはずだ。教育界の小田実みたいな存在で、立派な人だと思っている。

「山びこ学校の」の舞台となった山元村の山元中学校は今年の春、廃校になっている。

無着は、山形師範学校卒だが、あの藤沢周平の1年先輩になる。藤沢周平とも親しかったはずだ。

あの清河八郎も無着先生みたいな話しかただったのだろうか?(笑)