虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

大原寂光院

2005-10-30 | 日記
安徳天皇の母、建礼門院が住んでいた寂光院。京都の郊外、大原の里にあります。
でも、この寂光院、5年前に全焼したんですよね。今は、再建されて、建物も新しく、本堂の大きな仏像も白くていかにもつくったばかり、仏像の横にある建礼門院と阿波内侍の像も新しい。やっぱり、あかん。世をしのぶ寂光院のイメージがない。狭い庭は変わってないということだったけど。
でも、ここで、一応、背中についてきた安徳天皇の霊はここにおいてきました(笑)。

建礼門院は、出家するとき、今はのきわまで着ていた安徳天皇の着物をお布施に出したということだけど、これは、安徳天皇が能勢で亡くなったあと、その着物が届けられたのでないか、という人もいます。建礼門院も安徳天皇が能勢に生きているということは知っていたという説。うーん、平家物語を読んでみようかな。

ついでに三千院にも寄ってきました。三千院も初めて。ここはよかった。観光寺院という感じで、門前までの道に売店が続き、人も多い。境内の中も広く、けっこう見どころがある。一人600円。1日に何千人と来るだろうから、へたな遊園地よりも儲かる。
往生極楽院の中で説明してくれた坊さんもベテラン観光ガイドといった感じで、お客さんを1分ごとに笑わせていた。
さすが三千院。来る価値はあると思った。
ただ、まだ紅葉していません。紅葉は11月の終わりから12月になるでしょうか。しかし、そのころは、もっといっぱいだろうな。

岩崎八幡社

2005-10-30 | 日記
安徳天皇のお墓を見たあと、岩崎八幡社にもう1度訪ねてみました。
石段を登った丘の上にあります。細長い10mくらいの土地で、両端に二つ祠があります。なんでふたつあるのか?ひとつの方が画像で、両側に人形がある。祠の上には写真がかかげられていて、これは、明治にこの社殿の下から出土した遺品(安徳天皇の遺品?)の写真(現物は国立博物館にあるとか)。

江戸時代にも、この社殿の下から剣などが出てきたが、そのまま埋めた、という記録もあるようです。

この社殿をおりるとき、「ねえ、母上のところに連れてって」という声が聞こえたので(笑)、OK!案内してあげよう、と大原の寂光院にいくことにしました。
それは、次回に。

続続・安徳天皇の墓

2005-10-30 | 日記
藤原経房の墓からなお5分ほど登った来見山の頂上にある。

二つあって、手前が安徳天皇御陵墓と書いてある。けっこう新しいのではないか。うしろは、石でまるいサークルを作った中に小さな円柱型の石塔。ここにも安徳天皇と書かれていた。どうして、この場所なのか、よく知りません。後人が、作ったのだろうか。

迷信深いわけではないけど、人のお墓を訪ねるので、今日は、線香をもってきて、1本さしておきました。安らかにお眠りください。

続・安徳天皇の墓

2005-10-30 | 日記
この画像は安徳天皇の墓ではなくて、安徳天皇を能勢の地にまで連れてきて、その後、遺書を書き残した藤原経房の墓とされる。

安徳天皇を祭った岩崎八幡社のとなりの来見山の中腹にある。岩崎八幡社から歩いて7.8分。しかし、山道を登らないといけない。ほとんどだれも登らないのでちょっとこわいかも。女性の一人歩きは危険。

江戸時代に発見されているらしい。そのときは、だれの墓か文字がなかったそうですが、これが遺書の書き手藤原経房の墓だろうとされて、現在は石に「藤原経房の墓」と印字されている。それにしても、山の中に一人ぼっちで寂しい墓だ。でも、この上をまだ登った頂上に安徳天皇の墓があるらしい。探検にいくことにした。

夏だったらここまで来れない気がします。ヘビがでそう。くもの巣を木ではらいながら登りました。続く。

「荘子」と肥後の美女

2005-10-29 | 日記
福永光司の「荘子」(朝日文庫)は、いろいろある荘子注釈本の中でも一番好きな本だ。福永光司は、学者として中国哲学や道教の権威者なのだけど、この荘子は、学者としてよりも、個人として荘子が一番好きな書物だという気持ちが強く出ている。その福永光司氏が、荘子理解で最も影響を受けた先人の書が、前田利鎌の「荘子」といっている。

岩波文庫「臨済・荘子」(前田利鎌)にある。
この文庫の年譜を見ると、おもしろい。著者の父親は肥後熊本の前田案山子。自由民権期に活躍し、第一回衆議員議員にもなった肥後の名士。武道の達人でもあったらしい。利鎌は、この父親71歳のときの子どもだけど、利鎌も剣の達人だったようだ(腸チフスのため、34歳で早死にするのだけど)。

話は利鎌の姉です。長女は前田卓子(利鎌より30も年上)で、前田家の家運が傾いたあと、上京し、養育院で働きながら、幼い利鎌を育てます(後、利鎌を養子にする)。
この卓子さんは、知る人ぞ知るあの漱石の「草枕」に出てくるヒロイン那美さんのモデルになった人。「草枕」の那美さんは、2回離婚して前田家の別荘だった温泉場にいるのですが、ちょっと変わった(新しい?)人で、村人からは「キ印」などとも陰口もいわれる。しかし、漱石からは非常に注目されます。前田卓子さんも、那美さん同様、絶世の美人だけど、2回の離婚を経験しています。

非人情を求める「草枕」の世界と「荘子」の世界、まんざら無関係でもないと思うのだけど、ここでいいたいのは(話が長い!)次女の方。前田槌子さん。

画像に出ている方です(右だよ)。明治の初め、肥後の前田家のお穣さんといえば、今のセレブのお嬢さんもかなわない、豪家のお嬢さんなのですが、この槌子さん、二十歳まえでしょうか、毎朝早朝、肥後の山里を白馬に鞍もつけずに素っ裸でまたがり、だれもいない里を駆け回っていたそうです。まだ暗い未明、白馬で疾駆する全裸の女性。夢幻の世界ですな。それを目撃してびっくりしたフーテン青年が写真ではうしろにぼそっと立っている男。宮崎滔天です。2人は恋におち、周囲の反対にもめげず結婚。宮崎滔天という男は生涯、かたぎの仕事をせず、ただ革命のために一生を棒にふったような男で、貧乏暮らしが続きます。

長くなりました。日本の歴史で美女はたくさんいるけど、これはほんとに美人だなあ、と感心したのがこの槌子さんです。で、画像にアップした次第。
前田家の子どもたち、卓子さん、槌子さん、そして、「荘子」が好きだった利鎌青年。興味深いです。



安徳天皇御霊跡地

2005-10-23 | 日記
安徳天皇が潜んでいたところは、野間の大けやきから車で2,3分のところにあります。家から車でいけば15分だ。さっそく行ってきました。

能勢町野間出野の岩崎八幡社の入り口に安徳天皇御霊跡地の史碑が立っている。画像は教育委員会が立てた掲示板。要領よくまとめているので、ここにそのまま掲載します。

            安徳天皇御霊跡地

寿永4年〈1185)3月24日壇の浦の敗戦に、平氏に擁護された安徳天皇は、二位の尼のはからいにより御潜幸になった。供奉する従者源典侍、左少弁藤原経房、大輔判官種長、郡司景家は、石見、伯耆、但馬の国を経て、その年の6月15日、ここ摂津国能勢の野間郷に来られた。主上は長い苦難の旅路をこの地において快気され、漸く安穏の月日を送られたのである。家二つ三つ見える山深い谷間。
紅葉の秋に、二位の尼恋しさのあまり
  冬ちかき木々のこの葉も色よきに
           恋しききみのいかできません
と詠まれ、経房は涙せきあえず
  色ふかくそむる紅葉のなかにもぞ
           まつは時雨のかひなかりけり
ご潜幸の年も明けた文治2年(1186)5月17日朝まだき、供奉者らの手厚いご介護もむなしく、この地で崩御されたのである。嘆き悲しみのうちにご遺体は、主上が日ごろ御幸のあった来見山に、御衣、ご調度は岩崎社にあわせ鎮めて「若宮八幡宮」とよび、経房、里人らによって長らく奉斎されてきたのである。
 また主上の詠まれた来見山の歌
    初雪をめでつつここにくる見れば
          峯にきのふににずもありけり
を御霊代として種長、景家らは野間大原の里に「来見権現」を勧請したという。
 以上は文化14年(1817)3月中旬、この村の辻勘兵衛の屋根葺き替えのとき、棟木に吊るした竹筒から発見された建保5年(1217)の「経房遺書」によってこの事実が明らかになり、以来全国的にも知られて陸墓の話題に上った。
明治後年には岩崎社殿下から、養和元年(1181)在銘の経筒、鏡、合子など経塚遺品が出土し、能勢の位置、歴史と共に今やご霊跡地としての存在が確認されつつある。
 里人たちは主上の「ケシ髪」のお姿に遠慮して、子どもには「おけし」にしないことや崩御された日が神田の田植えの日で、漸く夜間に田植えしたことが明治の代まで慣例となっていた。なお付近にはこれにちなんだ地名 位の高、ご殿ケ芝、玉垣内などもみられる。
 今を去る800有余念、幾星霜を越えてきたにもかかわらず、付近の地名、習俗などにも昔日の名残を留め、岩崎の社殿に佇めば古木にわたる風の音に昔の影を浮かべることができるのである。
 平成元年3月吉日   能勢町教育委員会

屋根裏から見つかった古文書(安徳天皇は生きていた)

2005-10-23 | 日記
江戸末期、文化14年、能勢(野間町出野)の農家(当主辻家)の屋根裏から竹筒に入った遺書が発見される。

遺書の日付は600年前の建保5年(1217)。書き手は、藤原経房という貴族で、息子にあてたもの。清盛の妻(大河では松阪慶子か)の命により、壇ノ浦から安徳天皇を守って、能勢まで逃れてきたこと、安徳天皇は1年後にこの地でなくなるが、その墓を守ってきたという驚くべき内容。この古文書は江戸の能勢領主にまで届けられ、松平定信も見たそうだ。

江戸や京大阪でも話題になり、贋物だとか大いに議論があったそうだけど、数年でブームは去り、その後、忘れさられる。そりゃそうだよね。江戸の庶民にとっては、それがどしたん、という感じかもしれない。わたしも、平家物語は読んでないし、安徳天皇といってもぴんとこないや。
滝沢馬琴や国学者判信友などはニセモノだと断じたが、大阪の文人木村蒹葭堂などは擁護したそうだ。

この古文書の現物は明治になって行方不明になるが、江戸時代、能勢の隣の池田の国学者山川正宣という人が熱心に写本を作っていたので、現在でも読むことができる。

明治35年、安徳天皇を祭っている岩崎八幡社の下から平家時代の壷や鏡、刀などが発掘されており(国立博物館に所蔵)、安徳天皇の墓と伝わるものは全国で13ヶ所あるそうだけど、ここが一番信頼度が高いそうだ。

画像の本は図書館で見つけた能勢初枝「ある遺書ー北摂能勢に残るもうひとつの平家物語」〈発行クレイ2001年)。
これは、発見された遺書の現代語訳と原文をのせ、筆者の推理も加えたもの。読みやすい。

安徳天皇陵跡地、車で15分で行けるところです。また、追って報告します。


伝説 名月姫

2005-10-23 | 日記
能勢は、峠が多い。名月峠もその一つ。この峠の途中に、名月姫の墓所があります。名月グランドを目指せばすぐ。
この能勢には伝承があって、嫁入りの行列は、この名月峠を通ると、不縁になるので、他の峠を越すことになっていたそうです。

平安時代の話です。摂津国の現尼崎市あたりの荘園の領主三松刑部国春に念願の子供が生まれました。8月15日の満月の日に生まれたので、名月姫と名づけられ、成長するにつれ、絶世の美女に。14歳のときに、能勢の住人、能勢家包の妻となり、能勢の山間で静かな生活を送っていました。ところが、時の権力者平清盛に見初められ、側室として求められます。清盛からの迎えの駕籠がきて峠を越えるとき、自害したそうです。それ以後、この峠を名月峠とよぶようになったとか。
画像の真ん中が名月姫、隣は夫と実父の供養塔。背後から写しています。


この名月姫の伝説には諸説あって、夫ではなく、許婚者だったとか、実父は、清盛に人柱にさせられたとかいろいろあるらしい。尼崎市にも名月姫の墓はあるようだ。

名月峠のお墓(供養塔)は、峠の道の方を向いているので、嫁入り行列を見送る形になるので、昔の人は前を通るのを遠慮したのでしょうか。


松本清張の時代

2005-10-22 | 日記
清張はそんなに読んでないのだけど(なにせ100冊以上はあるのでしょう)、たまにブックオフで買って読む。清張の推理小説には、ケータイもインターネットも出てこないけど、昭和30年代の時代が活写されているので、それがおもしろい。「点と線」は昭和32年の出版。それから続々と出版し、清張の傑作推理小説はこの30年代に集中しているでしょう。

わたしの親父は非文学的な人間で、本などあまり読まない外回りの営業マンだったけど、清張の本だけは買ってきて読んでいた。題名と本の表紙がいつも斬新なのを子供心にも感じていた。昭和30年代の大人はみんな読んでいたのかもしれない。

最近、読んだ清張の推理小説では、例えば、高級ホテルの宿泊代が3000円だった。タバコを吸うときには、マッチ。大きなテープレコーダーや、ソノシート(レコード)、謄写板まで出てくる。カラオケはないけど、トリスバーがある。活躍するタクシー。新婚旅行は、グアム、ハワイではなく、熱海や伊豆。旅行も車ではなく、列車。電話も長距離は接続にとても時間がかかり、住宅も風呂はなく、銭湯に通うのが一般。映画館が繁盛し、まだテレビは普及してない。都心から離れると、夜は暗闇で、静かな町並み。一昔前の日本の姿が出てきます。

清張の推理小説で好きなのは、出だしだ。ちょとした不可解な事柄に出会って、個人がいろいろ調べ始めるところがいい(物語がだいぶ進行して解決篇あたりになると、ちょっとしんどくなるけど)。

清張自身もそうだったのだろうけど、一個人として、社会の不正や悪を探っていくという調べる精神が強い。おそらく、昭和30年代は、新聞や週刊誌の記者もいまほど堕落してなく、ジャーナリスト魂は盛んだったのだろう。いや、ふつうの市民でもそれが強かったと思う。なにせ安保闘争で盛り上がった時代だもの。

今は、ケータイがあり、インターネットがあるが、調べる精神、追求する姿勢は死んでしまったのではなかろうか。



水上勉「城」

2005-10-15 | 日記
松木庄左衛門の一揆を描いた作品が水上勉にあることを知り、読んでみました。

題名は、「城」。
城を築くために領民たちがどんなに悲惨な生活を送ったかを随時史料に語らせる歴史小説。ただ、ここで度々紹介される「拾椎実記」という江戸時代の史料は、どうも作者の創作らしい。文章に重みとリアリティを出すために、文献という形を利用したようだ。ないものねだりだけど、そこが残念。どうも松木庄左衛門に関する江戸時代の文献はないようだ。口碑としては伝えられていたようだけど。

同じ本におさめられていた「佐渡の埋れ火」も百姓一揆に関係がある話。なんと天保時代の佐渡一国一揆のリーダーの嫁さんが、夫が獄死したあと、盲目になり、「ごぜ」(漢字が出ない、ごめん)さんになるという話。佐渡の奉行だった川路聖獏(字はちがってる、ごめん)の日記などを利用しつつ、物語は、「佐渡実記」という史料におさめられている「ごぜ口伝」を中心に物語りは語られる。

百姓一揆のリーダーのよめさんで、そのご「ごぜ」さんになった人の口伝がある?こりゃおもしろそうな史料だと思ったけど、これも、前記「城」と同様、作者の創作のようなので、今、少しがっかりして、読むのを中断してしまった。まるでほんとの史料のように語られる。
そんな史料あるわけないよね。

それにしても、水上勉が百姓一揆に強い関心を持っていたとは知らなかった。
水上勉も若狭の人なんですね。

はじめての手術

2005-10-14 | 日記
2週間前に骨折した右人差し指の骨が少しずれている、ということで手術をすることになった。指1本だ、座ったままで、お医者さんに手を差し伸べたら、指をひっぱって治してくれるのだろうと、思ってたら大違い。

血液検査、胸のレントゲンをとったあと、手術着に着替えさせられ(頭の帽子もかぶる)、手術室に。おいおい、たかが指1本だぜ!
音楽は何にしますか?といわれたので、ソフトなミュージックを注文(若い女歌手の歌声がかかってきたので、洋楽に変えてもらった)。右腕は、固くしばられ、麻酔注射。左腕は点滴、足首には血圧計、胸は心電図計。頭には、布がかぶされる。局部麻酔なので、お医者さんの話し声が聞こえる。「あ、失敗した」なんて聞こえたらどうしようと思った。

子供のころからじっとしているのが苦手で、散髪屋さんでは、いつも頭が動かして、困らせていた。体が動けないとなると、顔のあたりがかゆく感じ、かきたくてたまらず、それをがまんするのが苦役だ。約1時間もかかった。しばられた右腕がすごく痛かった。手術が終わると、車椅子に乗せられてまたレントゲン室へ。人が見たらよほどの重症患者に見えたかも。30分もすると、麻酔が切れて右腕も動くようになり、車を運転して帰った。しかし、近頃は、指1本でも、こんなおおがかりな手術をするんだ。なんかレントゲンを見ながら治療していたようだ。中には、しんどくなり、1泊入院する人もいるらしい。はじめての手術の経験。こりごり。

とにかく、じっーとさせられるのが苦しい。わたしは、ごうもんにはすぐ音をあげます。じっと固定されるのが一番いや。自由を奪われたら発狂する(笑)
画像と本文とは関係ありません。

若狭の寺 明通寺

2005-10-10 | 日記
画像と記事は関係ありません。
ほんとは、ここに明通寺の三重塔の画像をアップしたかったのですが・・・。

土曜日、雨が降っていましたが、久しぶりの親孝行サービスとして、親を熊川宿とそこから車で20分の若狭の明通寺まで案内しました。
寺へ行ってもそんなには感動することはないのですが、今回の山の寺、明通寺はほんとにすばらしいと思った。鎌倉時代に建てられたという古色蒼然とした本堂と三重塔は国宝になっているのですが、山里にひっそりとたたずむ姿はとても気に入りました。浄瑠璃寺よりもいい。

本堂には、重要文化財の大きな仏像が3体安置してあるのですが、撮影禁止というやぼな張り紙もなく、住職さんが、本堂に正座して拝観者にお寺や仏像について解説までしてくれる。仏像は、長く秘仏として公開されなかったそうですが、前住職の決断で、いつでも公開するようになったそうだ。わたしが行ったときは、拝観者は6人くらいしかいなかったけど、拝観者が本堂に来ると、こうして住職さんは説明してくれるらしい。この本堂の目の前に三重塔があり、本堂でカメラを取り出して写そうとしたのですが、なんと電池切れ。売店もなく、残念無念。

この住職さんは、小浜市では、知る人ぞ知る、反原発運動の中心人物の一人で、小浜市が原発銀座の若狭の中で唯一の原発施設のない市であるのも、この住職さんたちの活動が大きい。中蔦哲演という方で、小浜市だけでなく、原発を考える宗教者の会の世話人になったり、その活動は、作家小田実なども文章にして称賛している。小田は、小浜市を古代アテナイにたとえていた。

静かで、温雅で、ちょっと哲学的な風貌をしていて、60代半ばに見えたけど、調べると、どうもまだ50代らしい。市民運動家には見えない。いや、仏教者として、人の命を大切にする思いから、この活動を始めたのだろう。おしゃかさんだって、戦争はいやだし、改憲にも反対だろう。若狭の義民松木庄左衛門の気風を継いでるのかも。

拝観者への説明では、原発関係の話は一切なく、ただ寺のお話だけだったけど、最後に、「署名用紙をおいています。趣旨に賛同していただければ署名をお願いします」とだけ言いました。なんだろう?と思って用紙を見ると、(六ヶ所村の?)原発施設反対の署名用紙だった。署名しました。

九重の塔

2005-10-03 | 日記
以前、アッピした清普寺からの帰る道、田んぼの中の森にある。この森はかつて丸山城という能勢氏の城跡。城跡は、森になってしまうんだ。その森の入り口にあった。こりゃ、なんだ?ついでにと思って写真にとっておきました。これは鎌倉時代の作で、摂津源氏の祖源満仲の碑ではないかといわれています。

剣尾山月峰寺

2005-10-03 | 日記
能勢町大里というところ。大里に浄瑠璃センターがあったので、そこで「月峰寺はどこ?」と聞く。案内や、標識が出ているわけではない。あった。石段を登る。

境内に、等身大の阿弥陀の石仏像が6基。能勢、豊能は石造物が多いのでも有名です。この石仏は、室町時代の作とか。この月峰寺は、江戸時代に再興されたものだけど、古い月峰寺は、ここの山の上に。なんと推古朝の時代に創建されたらしい。
しかし、室町期の兵火に荒廃し、その後、三好長慶や片桐且元などが再興につとめるが、江戸になってから、山の麓の現在の場所に移されたらしい。

豊能郡にあるお寺や神社は、なーんにも宣伝なんかしないけど、どこのお寺も神社も足を踏み入れてみると、古い歴史を残しています。

能勢といえば、テントを買って初めて家族でキャンプをしたところ。大阪から手軽に行けるキャンプ場というイメージくらししかなかったけど、住んでみて、奥深い歴史を秘めていることがわかります。

月峰寺、この阿弥陀像のほかに寺の境内にはあちこちに小さな石仏があります。



樹齢1000年の野間の大けやき

2005-10-01 | 日記
最近、わがブログもすっかり地元観光ガイドになってしまったけど、そのうちいやになってくるはずだから(わたしはあきっぽいので)、しばらくおつきあいを。

家から車で15分走ったところにあります。
野間(能勢町)の大けやき。けやきとしては、大阪府下で最大、全国でも4番目の巨木だそうな。樹齢千年以上。幹回り14.1m、高さ30m。

昔は、ここに蟻無神社があって、その境内にあって、ご神木として大切にされてきたらしい。この境内の砂を野菜や建物にふりかけると蟻がつかないという伝承もあるそうだ。また、古来、春になると、この木の発芽状態を見てその年の豊凶を占ったとか。

道路に特に標識や案内があるわけではないけど、カーナビの地図には出てきた。車を止めて見学する人のための駐車スペースもあり、大きな木の下にはベンチがおいてあって、樹齢1000年の巨木としばし対話することもできそう。