虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

摩利支天

2007-05-25 | 日記
大河「風林火山」、はじめのほうだけ少し見ていたが(大河はいつもそう、続けられない)、勘助が「摩利支天」像を持って、これはいくさの神だと信仰している場面があった。能勢妙見山の妙見菩薩、江戸時代の摂津名所図会には、一説、摩利支天である、と書いてあるらしい。能勢の妙見菩薩は、兜をかぶり甲冑に身を固め、右手に剣を左手はピースを、というか、2本指を立てている像だ。うん、いかにも、武士や剣客にも気に入られそうな神様だ。今日は、これだけ。

なぜ記事がない?

2007-05-22 | 新聞・テレビから
2年前、テレビでも報道された大阪市の新任教員免職事件。
新任の若い先生が荒れた5年生の担任を持たされ、指導力がない、ということで、3月に免職になった事件。

この先生は、不当解雇だと裁判に訴え、やっと昨日、判決が出た。判決がでた、といっても、どこも記事にしてないので、よくはわからない。ネットのニュースで探しても、ない。わたしは、朝日だが、朝日以外では記事にしてるのかな(たぶん、どこもしてないだろう)。あの2年前の報道は何だったのか。あのとき、報道した記者たちは、裁判もきちんと報道する責任があるのではないか。

やっと、ブログの記事で、判決は、訴えは棄却ということがわかった。つまり、訴えは認められず、免職して正しかった、ということなのだろう。詳しい理由はわからん。

教育基本法改正、教育再生改革、改革教育三法成立、と安部政権になってからの世の中や教育界の動きも、判決や報道にも影響を与えているような気がする。
なぜ報道しないのか。わからん!

義人生田萬の生涯と詩歌

2007-05-20 | 読書
相馬御風著「義人生田萬の生涯と詩歌」(昭和4年刊)を古本ネットで手に入れた。

大塩の乱から2ヵ月後、越後柏崎の陣屋を「大塩の残党なり」といいつつ、「天命を奉じ国賊を誅す」「忠臣を集め窮民を救う」という二つの旗をかかげ、たった5人で襲撃し、失敗した生田萬。あきらかに、大塩の行動に触発された乱だけど、この乱についての詳しいことはわからなかった。大塩の乱に比べ、その後の詳しい研究もほとんどないようだ。

生田萬は越後の人ではなく、上州館林藩の藩士で、藩主に藩政改革の提言書(「岩にむす苔」これは岩波書店「国学運動の思想」に収録)を出し、藩の逆鱗をかい、藩を追放される。この人も、武士でありながら、百姓をいじめるな、百姓を大切にしろ、と訴えている。はじめは、陽明学だったが、のち、国学者になり、江戸の平田篤胤の高弟(後継者と目されたらしい)となるも、平田からも敬遠されたのか、上州の太田で塾を開いていた。娘二人の家族4人。

越後に行ったのは、越後にいた平田門人の友人がしきりに遊びにおいで、とすすめるので、越後にいったところ、こっちで塾を開いてくれとしきりにすすめられて、天保七年に移住したばかり。
越後に移って1年もたたないうちに、乱をおこして死んだわけだ。

乱には、大塩の乱に見られるような計画性はない。ほんとに、そのときの思いつき、情の動きからという感じ。直接的には、町の飢饉のありさまと、大塩の乱だろう。そして、この土地でめぐりあった友人たち。まず鷲尾甚助。尾張の人で、神道無念流の達人。剣術の先生だ。また、水戸藩を追放になった浪人菊池秀助。この人も神道無念流の達人。こういう豪傑浪人たちが3人以上も仲間として集まったら、やはり危ないなあ。けしからん、やるか、よし、やろう!ということになったのかも。
この菊池は陣屋襲撃で斬り死にし、鷲尾は生田をはじめ仲間を介錯したあと、一人で江戸で自首する(鷲尾は反対したそうだが)。

この生田萬も狂ケンの人だ。

この本の40ページくらいが相馬御風の文。(相馬御風って、早稲田の校歌の詩を作った人だね)。あと半分くらいが、生田萬歌集として、生田萬の短歌、長歌、漢詩、漢文をおさめ、最後の100ページくらいが、明治36年に出された越後の地元の人甲子樓主人の「尊王救民生田の旗風」という講演本を収録してある。生田萬の正確詳細な文献はこれしかないらしい。話し口調で書いてある。

「生田の旗風」にはこんなことが書いてあった。平田篤胤は生田萬を娘の養子にしようとしたけど、生田の顔つきがなにせおそろしい豪傑顔なので、娘はいやがったらしい。で、美男子の平田鐡胤が養子になったそうだ。生田萬という名前、国学者(歌人)というイメージからわたしは美男子をイメージしていたけど、ちがうようだ。

生田萬の碑は明治30年代に柏崎に碑が立つが、この建碑についてこんな話を伝えている。柏崎の富豪にあるとき、から手紙と4円が届く。どうか、生田様の碑を建てるたしにしてほしいという趣旨だ。この手紙の主の父親は天保の飢饉のとき、生田から米の飯を施してもらったらしい。父親はその恩がわすれられず、死ぬ前に柏崎に行ったら必ず生田さまの墓に参ってくれ、と息子にたのんだそうだ。で、息子が柏崎の墓にいくと荒れ果てたまま。これを見て、だれかにたのまねば、と決心して手紙を出したと。富豪もその意気を感じて建碑運動に着手したそうです。生田萬。37歳の生涯です。



郷原と狂狷

2007-05-19 | 日記
大塩平八郎の自著「洗心洞剳記」にこんなことが書いてある。
孔子の高弟70人、弟子3000人。数は多いようだが、天下四海から見れば微々たる数。なぜだろう?なぜ少ないのか疑問だった。しかし、論語、孟子を熟読してわかった。孔子は、中庸の人(理想的な人物)が得られない場合、その次は狂狷(きょうけん)だ、といった。そうだ。狂狷は明けがたの星の数よりも少ないのだ。そして、孔子は「郷原(きょうげん)は徳の賊なり」と憎んだ。郷原は天下の人みなそうなのだ。だから、弟子が少なかったのだと。

大塩平八郎ももちろん、狂狷の人だろう。漱石の「野分」の主人公白井道也なんかも仲間だ。頑固で、人付き合いがよくなく、言葉は俗流を離れ、親しみやすくはない。

郷原と狂狷については、孟子尽心篇が詳しい。
郷原とは何か。孟子はいう。
「これを非(そし)らんとするも、とりあげるものなく、これを刺(そし)らんとするも、そしるものなし。流俗に同じくし、汚世に合わせ、居ること忠信に似、行うこと廉潔に似たり。衆はみな悦び、自らもよしとおもえるも、しかも堯舜の道には入るべからず」(金谷治「孟子」)
郷原とは、これといって非難のうちどころがなく、人々からも親しまれ、自分でも満足している偽君子ということか。

では、狂狷とはどんな人か。孟子は答える。
「狂とは、その志はほこらしげにして、「古えの人、古えの人」と昔の人のことを言うが、その行動を見ると、言葉と一致しないところがある。この次が狷。不義をいさぎよしとしない士」「狂なる者は進み取り、狷なるものは、なさざるところあり」ともいう。どうも、狂とは、大言を吐き、行動も積極的、狷は頑固偏屈で、消極的なようだ。どちらも、流俗からはみ出ていて、変わり者だ。

しかし、孔子は郷原の紳士よりも、こうした変わり者を愛した。世に道を志す以上、世の中と合わず、対立して変物になるのも当然だろう。

狂狷とは夜明けの星よりも少なく、なぜ天下の人がみな郷原になるのだろう。孔子も大塩もそこまでは書いていないが、わたしは、「あなた」と呼ぶ細君の声だと思うがどうだろう(笑)。

漱石の「野分」にある。「しかし、天下の士といえども、食わずには働けない。よし自分だけは、食わんですむとしても、妻は食わずに辛抱する気遣いはない。豊かに妻を養わぬ夫は、妻の眼から見れば大罪人である」

まずは、身近な家族を養わなくてはいけない。まず、食わなくてはいけない。この社会問題が古来、天下の士を悩ませた。うーむ。


教育三法成立と漱石

2007-05-19 | 新聞・テレビから
漱石の「坊ちゃん」は学校に赴任して校長から、教育の精神について話を聞かされて、「とうてい、あなたの言う通りにはできません。この辞令はお返しします」と答える場面がある。校長は「それはわかっているから心配しなくてもいい」と笑うが、今の国は、わらわずに本気で教師に上から命じたいらしい。

教師の人間を信用できない。個々の教師の信念にもとづいた教育を許さない。教師は管理し、指導されるべき存在である。そう思っている。学校に、管理職をふやし、給料の額も変えてやる気をださせ、10年ごとに、免許を更新させて、適格かどうかを審査するという。だれが、教師になるだろうか。上から指導される教師像などありえない。こんな侮辱にたえる教師とは何者だろうか。

同じく漱石の「野分」。主人公白井道也は中学校を3回追われる。
1回目は、越後の石油の名所。町は石油会社のおかげで維持されている。主人公は、会社の役員の品性を批判する。つまり、金の力と品性は別だといった。町の父兄から文句が出、生徒からも馬鹿教師といわれ、そこを去る。

2回目は、九州の工業地帯。この町でも実業家からいわれる。蒼い顔をして、世の中がどうの、社会がどうの、未来の国民がどうの、不生産的な議論をして、実業家をそしるのはけしからぬ。その金を作ってくれる実業家を軽んじるなら食わずに死んでみるがいい、といわれる。主人公は飄然と去る。

3回目は、中国地方田舎。あるとき、旧藩主(華族)が学校を参観にきた。この旧藩主は町のものからは神様のような存在である。この藩主が教室に入ってきたとき、白井道也は、別に意にとめず、そのまま授業を続けた。いくら旧藩主でも、授業を中断させる権利はない。「教場は神聖である。教師が教壇に立って業を教えるのは、侍が物の具に身を固めて戦場に臨むようなものである」という気持ちからだ。これが物議をよび、白井道也は頑愚と嘲罵され、三度飄然と去り、学校をやめる。

神聖な教室に、実業家や政治家が土足で入りこんできて教室を破壊し、教室から真の教育者を追放しているのが、今の教育改革だろう。

「野分」の白井道也はこう訴える。

「諸君は覚悟をせねばならぬ。勤皇の志士以上の覚悟をせねばならぬ。斃るる覚悟をせねばならぬ。太平の天地だと安心して、拱手して成功をこいねがう輩は、行くべき道に躓いて非業に死したる失敗の児よりも、人間の価値は遥かに乏しい。
諸君は道をおこなわんがために、道を遮るものを追わねばならん。彼らと戦うときに始めて、わが生涯の内生命に、勤皇の諸士が敢えてしたる以上の煩悶と辛酸とを見出しうるのである。」





大塩の檄文 雑感

2007-05-17 | 一揆
画像は大塩平八郎の檄文、これは大塩研究会(成正寺)で500円くらいで売っていたと思う。大塩の手蹟とされている檄文を和紙に印刷してある。たて約30cm、よこ170cm以上の実物大。字数にして、約2400字。400字詰原稿用紙で5枚半。絹袋(封筒)に折りたたんで入ってる。袋には、「天よりくだされ候村々小前の者にいたるまで」と書かれてある。
大塩が心血を注いだ遺書だ。

久しぶりに読んだ。長いけど、内容は大まかに4つの段落に分けられる。詳しい正確な内容はどこのサイトでも大塩の檄文は読むことができるので、ここでは要点だけ。

①番目は、当時の全国的な政治の風潮。250年間太平が続くうち、しだいに「上たる人」が堕落し、下民が苦しむ世相を書く。江戸の幕閣をはじめとして「上たる人」への批判。たとえば、「下を悩まし、金米を取り立てる手段ばかり」に熱中する支配層。人々は上を恨まない人はないほどなのに、下民の恨みはどこにも訴えるすべがなく、それが天に通じ、今の天災流行、飢饉となった、と説く。
 しかし、「湯王武王の勢位なく、孔子孟子の道徳もないので」、下民の難儀を悲しみこそすれ、堪忍して蟄居せざるをえなかった。

②番目は、大坂について目をうつす。万物一体の仁を忘れた大坂奉行諸役人の政治の得手勝手。江戸には廻米をするが、帝のいる京都には米の世話もせず、わずかの米を買いに来る貧民を召し取る役人。そして、大坂の金持ちの驕慢なふるまい。大名の家老格にとりたてられ、何不自由なくぜいたくに暮らしながら、餓えた貧民を救うこともしない。その金持ちだけを優遇する諸役人ども。
「湯王武王の勢、孔孟の徳なけれども」、「蟄居のわれら、もはや堪忍なりがたし」天下のために下民を悩ませ苦しめる諸役人、ならびに大坂の金持ち町人をこらしめる決意にいたった経緯。

③番目は、大坂近郊に住む難渋者は、大坂に騒動があればすぐに駆けつけよ、金持ちや蔵屋敷に貯蔵してある銭米を分配する、という参加のよびかけ。ただただ、願いは四海万民がいつまでも天恩を謝し、父母妻子を養い、生前の地獄を救う・・・と語る。

④番目は村々の者は、この檄文を番人に見つからないように触れて回れ、騒動には遅れるな、という注意。万一、番人に見つかり注進しそうな様子だったら、打ち殺してもよい。年貢などに関わる諸記録帳面は焼き捨てる。これは人民を困窮させないためだ。
最後は、これは平将門や明智光秀のような反乱ではない。欲心から起こしたものでもない、「もし疑わしく覚え候わば、我らの所業の終わるところをなんじら、眼を開けて看よ」のことばで結ぶ。

やはり、おもしろいのは前半の①②の部分。大塩の時代観、社会観がわかる。改めて思ったのは、大塩の庶民、貧しい者、弱い者へ向ける目だ。「下民」という言葉は4回、「人民」という言葉は2回、この檄文も「村々小前のもの」にむけて書かれてある。「年貢も軽くする」という言葉もある。下が苦しんでる様を強調している。
それに対して武士は、「上たる人」とし、「一人一家を肥やす工夫のみに智術をめぐらし」「言語道断」「禄盗と」「無道の者」と手厳しい。

大塩は、これほど「下民」のことを考えていたのか、そんな武士、見たことない、ありえない、が前からの思いだ。
古来、武士が貧しい者を救うために、貧民によびかけて、命をかけて決起したことなどあっただろうか。ない。前代未聞だ。武士の書いた文に庶民、小前百姓の難儀を嘆いた文があるのだろうか。
そういう意味で、この檄文は徳川期を通じて実に貴重な文書ということになる。

この檄文は幕府によってすぐ回収され、所持することも読むことも禁じられたが、庶民はひそかにその写しを回覧したそうな。しかし、この檄文は武士には広がらなかったのではないか。武士の世界では、大塩は賊であり、この檄文は危険文書として、目にふれなかったのかもしれない。「下民」に寄せる大塩の思いは武士には伝わらなかったと思う。その後、大塩を尊敬した武士というのは聞かない(浪人ではいるだろうけど)。

大塩の決起は、長い武家の歴史で、武士が「上たる人」のためではなく、「下民」のために生きようとした自己変革の結果かもしれない。あのとき、新しい武士が生まれたのかもしれない。天保時代、武士は何もしなかったけど、やくざの国定忠治は飢饉の中の農民を救うために、奔走した。「人を助ける」「人を救う」という行動は武士以外の階層から生まれたのではないか。任侠。義侠、「みんなのために」という思想は庶民が作り出した。一揆もそうだろう。大塩は、だから庶民には理解され、受け入れられた。

しかし、大塩の行動は、武士に受け継がれなかった。あいかわらず、「下民」を悩ませ苦しめても平気な武士たちが明治維新をおこした(もちろん、例外はいるけど)。だから、今も学校では大塩の檄文は危険文書かも。









参院選・連続世論調査(朝日)

2007-05-16 | 新聞・テレビから
さっそく参院選の世論調査をスタート。これから毎週、選挙直前までするらしい。
回答数は約1000人。何回も世論調査については書いてるけど、たったの1000人だぜ。

・安部内閣を支持しますか。
・いま、どの政党を支持しますか。
・仮に今投票するとしたらどの政党に投票しますか。
・今後も自民党を中心とした政権が続くのがよいですか、民主党を中心にした政権 に代わるのがいいと思いますか。
など。

まったく!ええかげんせえ!
こんなアホな世論調査をするまえに、なぜ各政党の政策、意見を国民に紹介、解説追求しないのか。安部首相を支持しますかと聞く前に、なぜ安部首相の方針、政策その意図を分析し、知らせない。社説に、安部首相にもっと聞きたい、とあったが、まさかほんとに何も知らない新聞社ではあるまい?(それなら新聞社失格)

特に、今度の選挙は憲法改憲が争点になるのだから、少なくとも、憲法についての各政党の考えを交代で毎日のように連載してもいいではないか。7月の参院選までは、詳しく報道する十分な時間があるはず。それがマスコミの責任。

NHKの政治討論番組すら、自民党、公明党、民主党、共産党、社民党、国民新党
からそれぞれ平等に議員を出席させて意見をいわせている。新聞の報道は、与党中心で、野党でも民主党以外は、いつも、ほんのコメント程度で偏っていないか。近頃多いテレビの政治娯楽番組では、いつも自民と民主が仲良く出演、共産や社民はたまに出ることがあっても、ツマミ、笑われ役、三枚目の役柄だが、似た扱いだ(笑われて平気でニコニコ仲良くしている政治家もまったくたよりなく、不甲斐ないが。もっと、いかれ、ケンカせえ!) まあ、それはおいといて
各政党の支持率を問うなら、まずは、各政党の考えを公平に紹介し、知らせなさい!

自民党の政権がいいですか、民主党の政権に代わるのがいいですか、と聞くのもおかしい。自民か民主以外は話にならぬ、と朝日は思っているのか?二大政党とかあおっておいて、もし、自民党と民主党が再編していっしょになったら、どう弁解するつもりだろう。茶番だろう。

わたしは、共産党の支持者でも、社民党の支持者でもない。政治家個人はチョボチョボだろう。ただ、今度の選挙では、憲法の考え方で選ぶ。政党で選ぶのではない。

世論調査をするなら、どの政党を支持しますか、ではなく、それぞれの国民の考え方を聞けよ。直接、国民に、支持政党ではなく、憲法についての考え方を聞け。その世論調査をせよ。そのためには、これからは、各政党の憲法論を詳しく連載するとともに、いろいろな国民の憲法論も紹介せよ。新戦略とやらで提言21本も意見を出すなら、まずは憲法について、安部政権の改憲のめざすところの分析をせよ。

今度の選挙は改憲が争点。改憲に反対の政党は、共産、社民で、今日の世論調査では、その両党の支持は合計しても3パーセント。改憲に反対は3パーセントということになるのか?そんなことはないだろう。

自民対民主の選挙ではなくて、改憲して国を変えようとする勢力と、それに反対する国民の選挙だ。

一昨年の夏の衆院選の記憶が強烈にある。郵政、刺客候補と、自民の動向のみを追い続け、共産や社民が少しいっていた憲法問題についてはまったく黙殺、自民圧勝はマスコミの協力が大だった。今度は、(改憲の是非ではなく)憲法の変え方の議論に争点を移すか、あるいはまた、以前と同じく、自民党と民主党の支持率を争点にするのだろうか。国民の意思は問わない。まるで大政翼賛会の時代だ。







無題

2007-05-11 | 歴史
大塩の乱の直後、江戸の剣客斉藤弥九郎は大塩情報を求めて大坂に来る。ところが、大坂では、江戸よりも大塩の情報が得にくいことがわかる。大坂の庶民に大塩の噂をしないようにお触れを出していたらしい。髪結い、風呂屋での大塩話も禁止。つまり、それほど、庶民の大塩への評判はよかったわけだ。自由に大塩の話をさせていたら、幕府の人気はますます落ちてしまう。

この時代の庶民の感覚というのは、今とは大違いなのがわかる。
わたしでも大塩については疑問があり、悪口をいいたいことはある。
たとえば、なんで、一月も生き延びたか。なぜさっさと切腹しなかったのか。
2度の打ち合いだけで、白兵戦もしないで、なぜすぐ解散して逃げたか。大坂のど真ん中で一党がそろって切腹してもよかったではないか。大砲まで用意して、ゆっくりゆっくりデモ行進しながら、火をつけて回ったわけだが、なぜまっすぐ奉行所につっこまなかったか、救民といいながら、庶民には米も銭にもわたっていないではないか、などなどいっぱいだ。
ましてや、当時、家を焼かれ、寒風の中に投げ出された庶民にはわけがわからないだろう。

大塩は、極悪犯罪人として幕府に追求された。武士という武士は、大塩を賊とした。
しかし、庶民、中でも過半数を占めるワーキングプア層は違う。
大塩の情報には懸賞金がつけられたけど、いくら懸賞金がついてもうったえるものか、大塩のような人がご政道をしたら、われらは安心だ、大塩様はわしらの気持ちを代弁してくれた、すっとした、などなど町人の8割は大塩を味方したらしい。大塩の悪口を書いた落書は見たことがない。大塩だけでなく、大塩一党の人々も、赤穂義士の一人一人のように尊敬を集めたらしい。指導者層と庶民層の考えの違い。この人気が幕府には恐ろしい。

この大塩の人気を落とすには、誹謗中傷しかない。で、幕府は、大塩への批判として、大塩は養子の嫁を自分の妾にした、と個人攻撃をする。

小田実の情報を探していて、たまたまいわゆる掲示板の落書きを見た。小田氏に対して、「死ね」「スパイ」とかの誹謗中傷。
憲法改正に反対という人は、それだけで共産主義者、スパイ、反抗分子にされる時代なのかもしれない。江戸時代の庶民は公権力には批判の声をあげたけど、公権力に反抗した一個人にこんな誹謗中傷はしなかった。国定忠治も鼠小僧も義賊であり、由比正雪も天草四郎もヒーローだった。

いや、自分と意見が違う人でも、相手を認める、という礼は明治までは残っていた。西郷隆盛が大久保利通の誹謗中傷をしたか、大右翼頭山満は中江兆民を知己としていたではないか。うん、なにをいいたいかわからなくなったぞ。で、無題とする。

画像は高代寺山から見た知明湖。

ジャズ喫茶コル閉店

2007-05-07 | 日記
茨木のジャズ喫茶コルがこの4月いっぱいで閉店したらしい。病気療養中のマスターは3月に亡くなられたそうな。昨年の夏、懐かしくて20何年ぶりかで訪ねたばかりだった。マスターはすでに入院中で、他の人が臨時に営業していた。また、いきたい、と思っていたのだが・・・・。
一緒に連れて行った友人は、ジャズとは無縁の人だったのだけど、店内の空間に「癒されるなあ」と言っていたっけ。わたしも音楽は何もわからないけど、あの部屋は好きだった。マスターは同年輩だったと思う。ご冥福をお祈りします。画像は、昨年行ったときの店内。

小田実

2007-05-06 | 日記
ネット(毎日新聞)で小田実が胃ガン、末期の病状と知って、驚いた。

小田実の病状がはじめてマスコミに出たのは、5月2日の東京新聞の瀬戸内寂聴さんの「あしたの夢」というコラムからのようだ。瀬戸内寂聴は旧友の仲。小田実は、トルコから帰ったあと、友人たちにファックスを送ったそうだ。
そのフアックスとは、「恒久民族民衆法廷」(PPT)によるフィッピンのimpunity(合法をよそおって、非合法の殺し、弾圧、拷問をする)の犯罪の判決文だ。そのコピにそえて、自分自身のことを手紙で書いている。

少し、引用すると、「体調不良をなんとかしのぎながら、強引にトルコにも旅して歩いて帰国したのですが、帰国後、病院で受けた検査で、体調不良は末期ーーまたはそれに近いガンによるものであることが判明しました。英語の言い方で、his days are numbered(余命は限られている)というのがありますが、私の状態はまさにそれで、あと、3ケ月、6ヶ月、9ヶ月、あわよくば1年ーというぐあいに考えています」とある。

瀬戸内寂聴さんは、すぐに電話を入れたらしい。「「もう手遅れと医者はいうんや、もっと生きたいよう、死にとうないわ。寂聴さん、元気になるお経あげてや」
声は明るく冗談めいていた。私は絶句して、泣いていた」と文を結んでいる。(小田実の手紙及び瀬戸内寂聴さんの文は「旧ベ平連資料」サイトで読むことができる)。もう小田実はデモにも集会にも出ることはできず、おそらく顔を見ることもできないのだ。

まいったなあ・・・・。

小田実に代わるべき人物はもうどこにもいない。

イタドリ

2007-05-05 | 日記
昨日、食べたイタドリがうまかったので、今日も、近場で、イタドリを取りに行った。山の斜面、道路沿いの崖などに、今、いっぱい生えている。
子どものときは、スカンポといって、そのままかじっていた。すっぱい味がする。
しかし、皮をむき、湯でゆがき、しばらく水でアクぬきしたあと、フライパンでいためる。調味料は、しょうゆと、砂糖と、ゴマ。これが珍味。ビールや酒のつまみに最高。うまいよー。

高代寺

2007-05-04 | 日記
近くに400mほどの高代寺山という山がある。この山頂に古い由緒あるお寺があるとは、ここに移り住んだときから聞いていたけど、まだ登ったことがなかった。1度、登った(もちろん、車で)けど、道がわからなくてあきらめていた。

今日、たまたま登った。車で行ける。しかし、対向車が来ると狭い山道なのでちょっと危険。でも、ここはハイキング客がたまに来る程度でめったに車は走っていない(でも、ゴルフ場もあるから来るのかな?)。わたしが行ったときは、車には出会わなかった。お寺にいけた。こんな山の中にあるのか、と思った。
清和源氏の元祖・六孫王の霊廟、とある。正式名称は、七宝山高代寺薬師院。

六孫王とは、清和天皇の六番目の子貞純親王の子源経基。源氏の初代。六孫王神社というのが京都にあるらしい。平将門の時代だろう。その子が源満仲。多田に多田院を建立し、元祖武士団を作った人。
江戸時代、大坂のカルタでは、「た」のカルタは、「ただのまんじゅう、武士のはじまり」という言葉だったそうな(どこかで聞いた)。満仲の子が、大江山の鬼退治をした頼光。その家来が金太郎ということになる。

多田神社は、毎年春、源氏祭りをしているが、ここが源氏の祖廟ということになっている。多田に館を持ったのは、やはりこのへん一帯が銅山だったためかもしれないそうだ。

この高代寺は満仲が父のために建立したものらしい。画像は、本堂。ここから参道の石段を降りたところに鐘がつりさげられているが、その鐘に元禄10年に由来を説明した銘が彫ってあるようだ。そのそばには、良寛の歌碑もある。「津の国の高津の奥の古寺に 杉のしずくを聞きあかしつつ」。ここ、本堂の下の家がお寺と思ったけど、ここは、ここの住職さんの家族が住んでいるのかもしれない。首輪はつけているが、ひもがない犬が拙者を見つけてほえる。知らない顔をしていると、そばまで近づく。「コラッ」と気合をかけると、相手はびびったが、こちらもすぐに退散。とちゅう、「イタドリ」をあちこちで見つけた。ここから知明湖(一庫ダム)も見えた。