3・11の大震災、原発事故直後しばらくは、震災・原発事故を注視し、テレビや新聞もよく見てきたつもりだが、あれから40日以上たち、だんだんとテレビも新聞の記事も追いかけなくなってきた。もう気持ちが移ってしまったのか?もう関心がうすれ、忘れてしまったのか?まったく、自分にあきれる思いだ。日常生活が忙しく、その中で、関心を持続させることはほんとにむつかしい。為政者は、きっと国民のそんな忘れやすさ、いいかげんさをひそかに期待しているのだろうな。
朝刊の文芸時評、斎藤美奈子の「原子力村と文学村」は小林信彦「極東セレナーデ」、伊坂幸太郎の「PK]、川村湊の「福島原発人災記」、津村節子の「紅梅」を紹介しつつ、原発事故で作家も課題を迫られている、と書いていた。
今回の原発事故で作家が言葉を発表することは少なく、「多くはモゴモゴとした「文学的な」内省を語るのみ。文学の人は文学だけを追究してりゃいいんだよ、という態度は「文学村」の内部の言語である点において「原子力村」と同質ではないか?」と書き、「文学村から放たれるシュートを待ちたい」と表現者への勇気を求めていた。さすがいいこと書く。
大江健三郎は原発事故のあと、アメリカの新聞に英語で寄稿したそうだが、何を書いたか知らないが、なぜ、日本の新聞に日本語で日本人に向けて発信できないのだ?と思った。日本には表現の自由はないのか。あるいは、日本の作家には勇気がないのか?
いまや、日本全体が原子力村になっているのかもしれない。
朝刊の文芸時評、斎藤美奈子の「原子力村と文学村」は小林信彦「極東セレナーデ」、伊坂幸太郎の「PK]、川村湊の「福島原発人災記」、津村節子の「紅梅」を紹介しつつ、原発事故で作家も課題を迫られている、と書いていた。
今回の原発事故で作家が言葉を発表することは少なく、「多くはモゴモゴとした「文学的な」内省を語るのみ。文学の人は文学だけを追究してりゃいいんだよ、という態度は「文学村」の内部の言語である点において「原子力村」と同質ではないか?」と書き、「文学村から放たれるシュートを待ちたい」と表現者への勇気を求めていた。さすがいいこと書く。
大江健三郎は原発事故のあと、アメリカの新聞に英語で寄稿したそうだが、何を書いたか知らないが、なぜ、日本の新聞に日本語で日本人に向けて発信できないのだ?と思った。日本には表現の自由はないのか。あるいは、日本の作家には勇気がないのか?
いまや、日本全体が原子力村になっているのかもしれない。