虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

野田首相誕生の日の記事

2011-08-30 | 新聞・テレビから
朝刊(朝日)、「野田首相、きょう誕生」が1面トップ。この関連記事は、2面、3面、4面、12面、13面、29面、34面、35面の9ページにもわたる。1面に掲載された朝日の政治エデイターとかいう文章も、社説も、1ページ全面を使った座談会(オピニオン)という欄も、これまた野田首相就任についてだ。

これだけ、ページを費やしているにもかかわらず、これからの日本についての問題で、欠落している、あるいは、完全に無視された言葉がある。「脱原発」という文字だ。「脱小沢」の文字はある。だが、つい直前まであった菅首相の「脱原発」の文字は消えた。目をこらして探してやっと「原発事故収束」や「原発・エネルギー政策」という文字が発見できるだけだ。

アンケートでも国民の半数は「脱原発依存」に賛成という世論だったが、新聞ではまるで忘れたように書かない。いや、民主代表選の記者会見の質問でも、「小沢」については質問するが、「原発をどうするか」全員に質問しただろうか?

新聞がこうだから、きっとテレビでも「脱原発」の話題は避けられるかもしれない。

ついでだが、1ページ全面を使った座談会「民主三人目の正直」、発言者は、北岡伸一、竹森俊平、大山礼子。どうして、こんな日の座談会に朝日は御用学者の意見をのせるのだろう(だから、購読者が減るのに)。

この中で、北岡伸一、大山礼子は、ちらりと憲法の欠陥をのべ、大連立では憲法改正をしてほしい、と発言している。ちらりとタネをまいておく、これが御用学者に与えられた役割なんだろう。

野田さんは、5人の候補者の中では人柄としては一番よさそうだ(海江田さんは人物として嫌いだ)。でも、一人の人柄や人物で政治がなされるのではない。政治と人物は別だ。

これから、ますます油断のできない日本になりそうだ。


なぜだ?民主党代表交代

2011-08-29 | 映画・テレビ
菅首相はまったくたよりないし、とても支持できる人ではないけど、その後継といわれる人たちの顔ぶれ。この人たちもとても菅さんより優れているとは思わない。野田さんが新しい代表に決まったけど、この人は菅内閣の一員だった人だ。菅さんが、女性問題かなんかでしくじったのならわかるけど、なぜ、この時期に交代するのだ?原発推進派、すなわち、大企業やアメリカの強い要請としか思えない。大震災、原発事故から半年でのこの政変、メデイアはなんと解説するつもりだろう。

知らなかった You tubeで音楽聴ける

2011-08-27 | 日記
パソコンはもう10年以上前から利用しているが、ひたすら、ブログ(文字書き)に利用するだけで、あまり他の機能は使いこなせていなかった。機械も頭も弱いので、あまり手を広げようとする気持ちがなかった。いや、下手にパソコンをさわったら、いつまた突然、パソコンが固まってしまうかわからない。

で、検索は、いつもヤフージャパンを利用していた。ユーチューブって、よく耳にするし、検索からたまたまユーチューブの動画ニュースを見ることはあったが、こちらからユーチューブの動画を見ることはなかった。

先日、ヤフーで「夜霧のしのび逢い」を検索したら、ユーチューブの「夜霧のしのび逢い」に導かれた。なんと、ここでは、検索に「曲名」を書き込んだら、その音楽が、動画入りで聴ける。こんなこと知らなかった。これは、おもしろい、と思って、「ブーベの恋人」「黒いオルフェ」「りんご追分」「二人の銀座」「クレオパトラの夢」「夏の日の思い出」「アイドルを探せ」・・と次々に検索してみた。ジャズからフォークから歌謡曲、映画音楽となんでも聴けるのだ。CDもテープも借りる必要はないんだ。これは知らんかったぞ。

昔、懐かしいカトリーヌ・スパークの歌と動画も見ることができた。テレビの「少年探偵団」や「少年ジェット」の歌も久しぶりに聴いた。少年ジェットに和泉雅子が少女役で出ていたとは知らなかった。自分の高校の名前も検索してみた。忘れていた校歌が流れてきた。小田実と検索すると、小田実の動画も流れる。「清河八郎」と検索したら、千代田区四番町歴史民俗資料館の人が八郎逮捕に関する同心の記録について話していた。すごいぞ、と思い、遠い昔に亡くなって、この世にはいない初恋の人の名前を書いてみた。もし、なにか出てきたらどうしよう、とちょっと不安になったが、名前に線が引かれて、何も出てこなかった。

疲れた時に、ちょっと音楽を聴きたいときに、利用できるな、と思った。
今頃、知ったのか、おそすぎ、といわれるな。

夜霧のしのび逢い

2011-08-25 | 日記
吹田市にある「蕎麦カフェ空庵」に久しぶりに寄った。
たまたま、音楽家の人がきていて、この日はただで生演奏を聴かせてもらった。
楽器は、チェロ、フルート、ハープ、ピアノ(音楽家の方は二人)。

聞く人はたった4人。もったいない気がした。
曲目は、年齢に合わせたのか、1970年代にはやったムードミュージックばかり。
「ジェルソミーナ」「オリーブの首飾り」「ある愛の詩」「エーデルワイズ」「ロシアより愛をこめて」「ゴッドファーザー」「エーゲ海の真珠」「コクリコ坂から」・・・他にもよく知っているのだけど、曲名を忘れた。10曲以上は演奏してもらった。

わたしは、「夜霧のしのび逢い」をリクエストした。ピアノとフルートだけの演奏だけど、素晴らしかった。

「夜霧のしのび逢い」、ご存じだろうか?娼婦を描いたギリシャ映画(白黒)だ。わたしが多感だった中学時代に流行した映画音楽。街角やラジオからよくこの曲が流れていたので、この曲を聴くと、札幌を思い出す。痛切な思い出だ。今でも、何度も繰り返し聞く曲だ。好きな曲のベスト5に入る。

だいたい、当時、わたしが中高校時代は、ビートルズもはやっていたけど、映画音楽の人気も高かった。いい映画音楽が街角に流れていた。「アラビアのロレンス」「ララのテーマ」「誘惑されて捨てられて」「ブーベの恋人」「男と女」・・・。挙げるときりがない。ラジオのFMでは、毎週土曜日に「映画音楽特集」もやっていた。いい映画音楽があったということは、いい映画があった時代なんだな。

それにしても、音楽家というのは凄い。自身、曲は聴いたことがなくても、譜を見れば、すぐに即興で演奏できる。ジャン・クリストフもこんな人だったのか、と思う(笑)。

久しぶりに音楽に感動する1日だった。


NHKBS 証言記録 日本人の戦争

2011-08-22 | 映画・テレビ


NHKBSの「証言記録 日本人の戦争」を見た。これは、やはりNHKでしか見られない。とてもいい番組だった。(テレビ、しかたなく地デジにしました)。

前編、後編合わせて、6時間。80歳以上になる戦争体験者の貴重な証言と映像だ。
前編は、日中戦争から、昭和19年7月まで、ガダルカナル戦やインパール戦、テニアン島玉砕など。後編は、昭和19年7月から敗戦までの1年間。レイテ戦やニューギニア戦、特攻、満蒙開拓義勇団や疎開、沖縄戦などなど。

わたしも戦後生まれだから「あの戦争」のことはあまり知らない。だいたい、学校で、太平洋戦争の経過など、教えてもらったことがない。ミッドウェイで、ガダルカナルで、インパールで、レイテで、どういう戦争が行われたのか、マニアは別にして、詳細は知らないにちがいない。わたしの子供の世代になると、「ガダルカナル」と聞いたって、それ何?という始末だ。あの歴史を知らない国民が大半を占める。しかし、日本人は、あの大戦争を、戦争の各局面各作戦の詳細まで知らなければならない、と思っている。

かつて、大戦争があって、300万を超える人々が死んだ、というだけの漠然とした認識だけですましてしまってはいけない。戦国や幕末維新などの歴史などとは比較にならないくらい痛切重大な歴史のはずなのだ。



証言するのは、ほとんど80歳以上の人々だが、その高齢にもかかわらず、その語る言葉は知的で、明晰であり、真剣。衝撃を受けた。ずっと戦争についての体験をひきづり、戦争について考えつづけててきた人々の言葉は、胸をつく。とても高齢者、老人とは思えない。戦後、日本人全体が戦争を反省し、検証し、責任を明確にしなければならなかったのだが、戦後の人々はいちはやく戦争を忘れたような日々を送ったが、かれら体験者、高齢者たちだけが、戦争という現実になお対峙させられてきた、という印象だ。また、人が語る言葉の重み、凄さを思った。日々、垂れ流されるテレビのキャスターやコメンテーター、芸能人たちのテレビからの言葉の空しさ、無意味さを感じた。

かれら戦争体験者は、わたしの親にあたる世代だ。本来なら、戦争は親の仇だ。わたしたちは、なぜ多くの親たちが、あのような惨めな死に方をしなければならなかったのか、このようなことは2度と起こしてはならない、ゆるさない、と発憤して真相を追求すべきことだったのだ。だが、そうしなかった。

見ていて、戦争の悲惨さもさることながら、怒りがわきおこってくる。この怒りは何に向けられるべきか、息子の世代が明らかにすべきだったのに。

あの戦争体験者は、あと10年もすれば、この国から完全にいなくなる(いや、証言をして数ヶ月で亡くなった、という人もおられたようだ)。
もうすぐ、戦争を知らない人たちばかりの国になる。
証言を記録しておく、というNHKのこの企画はよろしい!

再放送があるそうなので、見てない人は是非見てほしい。
8月25日 前編 8月26日 後編に再放送するそうです。


武蔵終焉の地 霊厳洞

2011-08-18 | 日記
草枕の里から熊本に向かう途中に「霊厳洞」の標識を見たので、寄ることにした。
霊厳洞に向かう道の丘に五百羅漢の座像がたくさん、道行く人を見ながら座っている。首のない像、顔が半分ないものなど、こわれたものが多い。剣術好きの子供が、ここを走り回りながら、羅漢さんを練習相手に木刀でたたきこわしたのだろうか、と思った。首のないこわれた羅漢さんは、無惨だし、ちょっと不気味だ。

説明板を読むと、これは、大地震と明治の廃仏毀釈によって破壊された、とある。仏さんを壊すなんて、維新の廃仏毀釈の異常さを感じた。この五百羅漢像は、江戸時代、武蔵の時代よりもあとに、商人が石工に作らせたそうだ。武蔵のころにはなかった。

霊厳洞は、中には入れない。入り口に格子があって、中に入れないようになっている。中には岩戸観音像がある(秘仏)。武蔵は、この中で五輪書を書き上げる。変わっているよな。近づけん人だよな。武蔵は自らを伝説化しようとしたのだろうか?

近くには、(たしか)お土産屋も、宮本武蔵を解説したような立て看板もなく、そっけない。
やはり、修業の場としての神聖さを守っているのかもしれない。

武蔵の二天一流は熊本で広まり、あの宮崎兄弟の父、宮崎長蔵も二天一流の武芸者として知られていた。熊本の武芸者にとっては、ここは聖地なのかもしれない。



お、なぜか、画像を複数、ブログにのせることができたぞ。はじめてだ。ちょっと大きすぎるけど。まあ、進歩だ。

前田家別邸(草枕の宿)

2011-08-18 | 日記
先日も書いたけど、小天町の草枕温泉の露天からの眺めはすばらしい。一望に有明海、雲仙が見える。これで500円は安い。小天町は、俳優の笠智衆の生誕地でもあるようで、温泉には、笠智衆の資料も展示してあった。

さて、草枕の舞台となった前田家別邸(那古井館)は、この温泉の下、車で5分も降りたところにある。無料で、だれもいなかった。

ここは前田案山子の別邸。前田案山子とは、細川藩の槍の指南役をしていた武芸の達人で、明治になってからは、農民のために尽くそうと名前を案山子と改名、自由民権運動家として活動、第一回衆議員議員になる。この別邸には、中江兆民やら岸田俊子やら全国から民権家が訪ねてきた。

前田案山子の次女が、「草枕」の「那美さん」のモデルになった卓(つな)さん。父の影響を受けたのか、武芸に優れ、剛胆、自由に自分の考えを表明する人だったそうだ。「草枕」の中では、村人からは「キ印」と噂され、「変な女」として見られていたように書いてある。妹、滔天のヨメの槌さんからの依頼で、宮崎家に住み、東京で「民報社」の仕事をし、中国革命の手伝いをすることになる。中国に渡ったときには、「わたしの体は、日本よりも中国があっている」と言ったそうだ。明治の新しい女性だ。

三女が、宮崎滔天のヨメさんになった槌(ツチ)さん。12歳のとき、岸田俊子が来訪したとき、「学問の勧め」という題目で演説した、という女の子だから、溌剌とした志ある女の子だったのだろう。滔天と結婚してからは、石炭販売業やら、下宿屋から、子供を養うためにさんざんの苦労を舐めるが、田中正造の谷中村闘争では、積極的に応援している。

末っ子が前田利鎌。卓さんが、養子にして東京で育てるが、この人も剣道の達人。中国哲学の理解が深く、彼の著作「臨済・荘子」は、岩波文庫になっている。戦後、「荘子」解釈では、福永光司が最高のものだが(最近、講談社の学術文庫にも入った)、福永は、「わたしの荘子理解は、前田利鎌に一番影響を受けた」といっている。利鎌はそういう天才なのだが、若くして病死した。

そういうわけで、この前田家の子供達は、みんな中国に関わりを持つようになる。これも滔天のせいかなあ。

ついでに、「草枕」。
「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」。

有名な書き出しだ。語り手は絵描きで、東洋的非人情の世界を求めて、山路を登る。俳句的小説といわれるが、いや、実によくしゃべる(心の中でだが)。花を見ても鳥を見ても、石ころを見てもつぶやきをやめない。実に気の多い人物だ。前半は、語り手の独白で、会話は少ないが、後半、宿で、卓さんをモデルにした那美さんが現れると、それまでの調子に変化がおきる。漱石はやはり「会話」がおもしろい。

絵描きは那美さんに話す。「こういう静かな所がかえって気楽でしょう」「気楽も気楽でないも、世の中は気の持ちよう一つでどうにでもなります。蚤の国がいやになったって、蚊の国へ引っ越しちゃ、何にもなりません」「蚤も蚊もいない国にいったらいいでしょう」「そんな国があるなら、ここへ出してごらんなさい。さあ、出して頂戴」
絵描きは、絵をさらさらと書いて示す。「さあ、この中へお入りなさい。蚤も蚊もいません」とつきつけると、「まあ、窮屈な世界だこと。横幅ばかりではございませんか。そんな窮屈な所がお好きなの。まるで蟹ね」と笑う。

また、宿に来る途中、二人の男に求められ、悩んだ末、池に飛び込んだ悲しい女性の伝説の話を聞いたのだが、那美さんにその話をすると、「つまらないこと」と答える。「あなたならどうしますか」と問うと、「どうするって、わけないじゃありませんか。ささだ男も、ささべ男も、男妾にするばかりですわ」「両方ともですか」「ええ」「えらいな」「えらかあない。当たり前ですわ」「なるほど、それじゃ、蚊の国へも、蚤の国へも飛び込まずにすむわけだ」「蟹のような思いをしなくっても、生きていられるでしょ」。

漱石は、この那美さん、前田卓さんに完全に参っていたのではなかろうか。


宮崎兄弟資料館

2011-08-17 | 日記
宮崎兄弟資料館は、万田坑から車で約30分くらい。資料館と隣接して宮崎兄弟生家の建物もある。近頃の資料館は、モダンな近代的建物に、貧弱な資料展示というパターンが多いけど、ここは木造で、明治の青年にふさわしい、充実した資料館だ。

宮崎兄弟とは、四人をさす。年の順からいうと。

まず、宮崎八郎。兆民訳のルソー「民約論」に感激し、九州のルソーといわれた自由民権の闘士、西南の役に参加し、27歳で戦死。司馬遼太郎の「翔ぶが如くに」も登場するが、八郎については、あまり詳しく追っていないのが、残念だった。

宮崎民蔵。土地は万民のものである、と土地復権運動に生涯を捧げるが、国内ではほとんど注目されない。幕末、百姓一揆の中では土地は万民のもの、土地は均一に分けよ、という声もあったはずなのだが、明治以後はすっかり消えてしまった(土地は天皇のものだから?)。壮大な夢にかけた人だ。また、中国革命にも支援をした。

宮崎弥蔵。日本革命の前には、まず中国革命の志士となるべきだ、と、自ら、弁髪姿になった弥蔵、惜しくも若くして病死するが、その遺志は末弟寅蔵に託される。

宮崎寅蔵。ご存じ、宮崎滔天。孫文を支援した日本人として知られる。兄弟の中では一番の有名人だ。

館長さんらしき人がついてきて、話しかけられる。「孫文の革命が成功したからよかったけど、もし、そうでなかったら、滔天もただの狂人、あるいは侠人ですな」と言う。
「滔天は女性に持てたんでしょう?」「花柳界の女性は、大きな志を持った男に惚れるのですな。そんな男を支援するのが、自分たちの誇りだったのです」「今の女性だったら?」「馬鹿扱いですよ。見向きもされません。笑」「滔天は右翼ですか、左翼ですか?」と馬鹿な質問をした。内田良平や頭山満など右翼浪人との交流も深いので、聞いてみた。「左翼です」ときっぱり。「左翼」とは、弱い人々の立場に立つという意味だ。

この宮崎兄弟の夢というのは、現代でいえば、世界の人々を幸せにするには、まずアメリカに渡って、アメリカに革命をおこさなければならない、というようなもので、聞く人はきっと狂人に思うだろう。就職口なし、金なし、結婚相手なしの貧しい青年だ。

しかし、明治は、この変な若者と結婚した娘がいた。前田槌子さん。荒尾の名士のお穣さんだ。この超美人の娘さんは、有明海岸を素裸で、はだか馬に乗って駈けるのが日課だったそうだが、滔天はその姿を目撃して恋に落ちる。そして、結婚。しかし、この若者(滔天)は結婚しても、夢は変わらない。働かず、家にいつかず、貧乏暮らし。滔天に「お金がない。なんとかして」と訴えると、「革命のための金は作るが、妻子を養うための金は作れない」との返事。やっぱり、こういう男とは結婚しないほうがよい(笑)

宮崎兄弟伝では、荒尾市出身の上村希美雄の「宮崎兄弟伝」全5巻という詳細膨大な大長編史伝がある。
この資料館設立も上村希美雄さんの尽力があったそうだ。館長さんらしき人は、「1,2巻の日本篇は、あれは文学ですね。3,4巻のアジア篇になると、考証ばかりで横道にどんどんそれていっている。最後の完結篇は時間がなくてさらりと書いたようです」という。思わず、「ここでは、あの本の評価は高くないのですか?」と聞いてしまったほどだ。すごい本です、というと思ったからだ。でも、ひょっとしたら、これが肥後もっこす?肥後人は自己主張が強く、組織に向かず、議論が多くまとまらない、と聞いたことがあるが、ただ絶賛するだけでなく、必ず自分の意見も言う気質なのかもしれない。オレと似てる(笑)

万田坑 三池炭鉱

2011-08-14 | 日記
荒尾市の万田坑。
あの異様な形をしたヤグラ。あれは何だろう、と前から思っていたのだが、あれは、一種のエレベーターで、ワイヤーロープで資材や人を地底に下ろす装置だ。横の建物には、その巻き上げる機械がある。
この万田坑では、ガイドの方が約1時間にわたって、周辺の施設の説明をしてくれる。建物の中もヘルメットをかぶって見学することができた。見学料400円。その価値、十分ありだ。

なぜ炭鉱に興味を持ったのだろう。
理由はいろいろある。
一つは、わたしが閉所恐怖症だからだ。病院のMRIでも恐怖を感じるのだから、あの地下200m以上の地底では1時間も滞在できないはずだ。
明治初期の人々もおそらく喜んで地底にもぐる人は少なく、当初は政治犯の囚人(自由民権の闘志など)、中国や朝鮮から強制連行された人々も多かったと聞く。

地の底で真っ黒になって働く人々や家族が、日本の近代を支えてきたという思いが強い。

子供のころ、テレビで三池闘争のニュースがよく流れたのも印象に残っている。戦後最大の労働運動だった。「月が出た出た」という歌がはやったのもこの頃だったかな。

上野英信や鎌田 慧のルポルタージュ、山本作兵衛の絵も忘れがたい。
ここの施設では、あくまでも三井などの財閥の近代化産業遺産として、遺跡を保存しているようで、坑夫、労働者の生活、悲惨さ、また、事故などはあまり強調していない。三池闘争にも深くはふれない。「原子力村」ならぬ、ここは一大「三池炭鉱むら」だったのだから。

風呂は三つあった。最初に真っ黒なままで入って泥を落とし、次、2番目の風呂、そして3番目の風呂と入って体を洗う。女性も働いていて、記念館などの模型人形では着物を着ているが、実際は、山本作兵衛の絵にあるように、腰巻き(ふんどし?)だけの裸で働いていた、という話もしてくれた。

といっても、ガイドさんも、三池闘争のころは、16歳くらいだった、というから、実際に地の底で働いた経験があるのかどうかはわからない。

中川雅子さんの「見知らぬわが町」ではないか、だれでも、ここで、きっととても悲しいことがあったにちがいない、という思いを抱いてしまう。失われ、消されていった人々の霊がどこかにいるような感じだ。




夏の旅 熊本

2011-08-14 | 日記
無事に帰ってきました。

1日目は一気に九州に入り、小倉で泊まる。今回の旅では、宿はすべてスーパーホテル。朝食はバイキング。夜は、近くの大衆食堂。スーパーホテルは家族旅行客、一人旅客、けっこう多い。安いのがいい。

2日目、高速道路は熊本の手前の南関で降り、まず、荒尾の万田坑(三池炭鉱の遺跡)、同じく荒尾の宮崎兄弟生家・資料館を訪ね、そのあと、草枕の里、草枕温泉というところで汗を流す。入湯料は500円。有明海を眺望できるいい温泉です。近くにある前田案山子別邸(漱石が滞在した部屋)も見学。熊本へいく途中、武蔵の終焉の地になった霊巌洞にも寄る。

3日目。阿蘇をめざす。阿蘇の火口付近まで車で登ることができる。火の国熊本のメッカ阿蘇、さすが観光客が多かった。ちなみに昨日、訪ねたところは閑散。
阿蘇から、宮崎の高千穂峡まで足を伸ばす。渓谷を散歩してから、熊本に帰る。

4日目、高速に入る前に田原坂を寄ることにした。田原坂公園として整備されていて、弾痕の家、資料館、慰霊塔などが建っている。朝、早かったので、資料館には入らなかった。田原坂を出発すると、また車のナビが狂いだした。墓地などを訪ねたとき、ろくに挨拶もしないで、礼儀を守らなかったときなど、よくナビが異常になるんだ(笑)。この日は倉敷まで一気に車を飛ばし、倉敷泊。

5日目。ゆっくり倉敷を見学。川船に乗ろうと思ったところ、お昼まで予約でいっぱいなのでやめにした。大橋家住宅というのがあって、中に入ったが、入場料500円とあったので、回れ右して出た(笑)。ここは、あの立石孫一郎の大橋家なのだろうか?(まだ未調査)。骨董屋みたいなお店で、三度笠を600円で売っていたので買う。旅人はこれをかぶって旅をし、喧嘩の時は、思い切り空に投げる笠だ。ほんとは、一揆の蓑笠がほしかったが、高かった。
どこも道はスイスイだった。ただ、帰り、西宮ー宝塚間で事故があり、1時間半の渋滞にはまった。熊本城を見るのを忘れていた。

以上、主な行程だけさらっと書きました。時間ができたら、また個別にも書いてみたい。
ここは、写真は1枚しかのせられないので、画像はうしおに堂日録の方にものせるかも。

漱石の「二百十日」を認めたくない人たち

2011-08-08 | 読書
わたしが読んだ「二百十日」は旺文社文庫の「二百十日・野分」だが、その解説として、野村伝四という人が「二百十日」前後として、執筆当時の漱石の心境を書いていた(これは、昭和4年の岩波版「漱石全集」の月報から転載とある)。野村伝四とは、おそらく漱石の周辺に寄り集まってきた弟子の一人なのだろう。

この人は、「これを読んだときは、前後を通じて始終ハラハラした気分が去らなかった。それは、この作の随所に華族と金持ちという句が出てきてこの両階級がひどくやっつけられていて、つまり、今の文壇でいえば、プロ的分子とか、赤色とかの色彩がすこぶる濃厚に作中に出ているからである」

その理由について、先生の心境を語ってみたい、と書き出す。
野村氏は、漱石から「三女栄子が赤痢にかかったので、行く予定の葬式に代理で出席してほしい」という手紙をもらっている。

栄子さんの病気は軽いものであったけど、しかし、その間、家内の大消毒やらお役人の出入りやら、きっと先生の神経は高ぶっていたと思うと書く。

「栄子さんの入院から防疫院の大消毒という誰でもいやがるような事件に逢着された先生は、あたかも神経の発作がひどかった時であってみれば、「二百十日」が左傾的であるということも大いにあり得ることかと思う」

なーにいってやがる!と漱石は思うはずだ。この文章(月報)は昭和4年のものだが、たしかにその時代は漱石の「二百十日」「野分」は危険思想の部類に入るのかもしれないが、ここまで、この作品を否定するとは、それでも弟子か?

この月報の中で、「世間では僕を気違いだと言っているが、君らが言いふらすのではないか」とこの野村氏に聞いたことも書いてあるが、漱石の直観は正しかったのだ。

漱石自身は、「僕、思うに圭さん(二百十日)は現代に必要な人間である。今の青年は皆、圭さんを見習うがよろしい。しからずんば、碌さんほどには悟るがよろしい。今の青年はドッチでもない」と書いてある。

この漱石のメッセージを素直に受け止められず、左傾的なのにハラハラドクドキし、きっと子供の病気などで多忙で、神経がふつうじゃなかったのだ、とへたな言い訳をする弟子。そして、それを参考にする研究者たち。こうして国民作家漱石は、人畜無害な文豪に祭り上げられる。

「二百十日」は短編だが、「二百十日」の続編ともいうべき「野分」には漱石のメッセージがより深くこめられています。

「坊っちゃん」「二百十日」「野分」、この三作品は漱石の革命三部作だ(笑)。

しばらく(一週間ほど)「虎尾の会」のブログお休みになります。みなさん、お元気で!


阿蘇と漱石「二百十日」

2011-08-06 | 読書
来週、阿蘇へいく。
昔、一度通り過ぎたことがあるのだけど、あの雄大な景色をもう一度見たいと思っている。

阿蘇といえば、漱石の「二百十日」だ。
圭さん碌さんの二人の青年が阿蘇を登りながら、国の改革をしなくてはならん、と気勢をあげる。全編、ほとんど会話で、かけあい漫才のようで、読みやすい。

阿蘇の雄大な景色を見ながら、二人は話す。

「「僕の精神はあれだよ(阿蘇)」と圭さんが云う。「革命か」「うん。文明の革命さ」「文明の革命とは」「血を流さないのさ」ー略ー「相手は誰だい」「金力や威力で、たよりのない同胞を苦しめる奴等さ」「うん」「社会の悪徳を公然商売にしている奴等さ」「うん」「商売なら、衣食の為という言い訳も立つ」「うん」「社会の悪徳を公然道楽にしている奴等は、どうしても叩きつけなければならん」「うん」「君もやれ」「うん、やる」。

明治39年の作品。100年以上も前だ。

原発事故をきっかけに、政府、東電、役所、メデイア、いわゆる支配層たちの、無責任、無道徳反国民性を国民は目にした。しかし、ことは原発問題だけではない。外交しかり。国民の知らないところで、国民のためではなく、米国の政策に従う外交・防衛もしかり。年金もしかり。税金もしかり。裁判制度もしかり。この国のほとんどのしくみが、金力や威力のあるものに独占され、国民はそのつけを負わされる。ため息が出るではないか。漱石なら、圭さん碌さんなら、このありさまをどう思うだろうか。

漱石の「二百十日」の終わりはこうだ。

「例えば、今日わるい事をするぜ。それが成功しない」「成功しないのは当たり前だ」「すると、同じ様なわるい事を明日やる。それでも成功しない。すると、明後日になって、また同じ事をやる。成功するまでは毎日毎日同じ事をやる。三百六十五日でも七百五十日でも、悪いことを同じように重ねていく。重ねてさえいけば、わるい事が、ひっくりかえって、いい事になると思ってる。言語道断だ」「言語道断だ」「そんなものを成功させたら、社会は滅茶苦茶だ。おい、そうだろう」「社会は滅茶苦茶だ」「われわれが世の中に生活している第一の目的は、こういう文明の怪獣を打ち殺して、金も力もない、平民に幾分でも安堵をあたえるのにあるだろう」「ある。うん。あるよ」「あると思うなら、僕といっしょにやれ」「うん、やる」「きっとやるだろうね。いいか」「きっとやる」

漱石といえば、政府が発行するお札にまでなっている文豪大家だ。で、教科書などには、こうした漱石の志士的な文脈は出さないし、文学評論家なども、漱石の過激な社会的発言などはあまり注目しない。しかし、漱石にはあの「坊っちゃん」的な、幕末の志士的なところがある。今、生きていたら、若ければ、きっとデモにも出たいと思う人なのだ。





ツバメ その後

2011-08-04 | 日記
今朝、ツバメ、4羽ほどが次々に玄関先、巣のあたりに旋回飛行してきた。わたしの目の前に飛んで来る。そして、ふと見ると、家の前の電線にはツバメ七羽ほどが止まっている。こんなにたくさんのツバメが並んでるのは珍しい。このブログではわたしは、1枚の画像しかのせられないので(2枚以上のせる方法がわからん)、その画像は、また後で。今回は、あの巣に近づいてきたツバメの画像を。
なにをしにきたのだろう。まさか、大家に旅立ちの挨拶にきたのか?

夢話で恐縮

2011-08-01 | 日記
日本は、今、悪夢を見ているのか?と思うほどの世の中だけど、いつか、この悪夢から覚める日が来るのだろうか・・・。と、書いて、今回もアホな夢ばなしで恐縮です。

夢の中で、「あ、これは、夢だ、おれは夢を見ている」と気がつく時がないだろうか?

わたしは、けっこう、よくある。そんな時は、いつもきまって、「よし、この機会に夢の世界を探索しよう」と、夢の世界をしっくり観察することにしている。

不思議なのは、こうした時の夢に出てくる人物たちは、なぜか下を向いたりし、薄暗かったりして、顔がはっきりしない。で、こちらは、積極的に相手をつかんで、顔をこちらに向けてやったりするが、よく見えない。空を飛んでいるが、これは夢だとわかっている。よし、どこまでも飛んでみて、この夢の世界を観察しようと、山や谷や町を観察することもある。しかし、だいたい、夢だと気がついてからの行動は長くは続かず、意識と肉体が分離したような感覚、一種のかなしばりの状態になる。かなしばりのような状態だけど、これもまだ夢の世界だ。早く、元に戻ろう、目を覚まさなくてはならない、と思う。これも、いつのものことなので、慣れている。まず、精神を落ち着かせ、集中して、体のどこか、手とか指先を動かすようなつもりで、「えい!」と気合いをかける。すると、目が覚める。目が覚めたと思ったら、まだ醒めてなかったことも、たまにはあるけど(笑)。

しかし、現実を生きていても、心のどこかで、これは夢を見ているのではないだろうか?という思いは消えない。目が醒めたら、巨大なカブトムシみたいな親から「おはよう、起きたの」なんて言われたりするのでは・・・。

今日から8月。まだクーラーは使っていません。クーラーなしでがんばれそうだ。