虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

暑い京都の百日紅

2010-07-31 | 日記
一応、草莽の志士ファンなのだから、一度くらいは草莽の志士がよく訪れた京都御所を見ておこうと、暑い京都へ。

京都御所、大宮御所、仙洞御所やかつての公家屋敷があった一画は今は、京都御苑という国民公園になっている。広い。京都御所などは、今は見学はできない(春、秋の2回、一般公開するそうだ)。暑いから、歩いている人も少ない。

禁門の変で薩摩と長州が衝突した蛤御門も見てきた。弾痕も見つけた。
この広い敷地には、幕末のころは、有栖川邸、西園寺邸、近衛邸、中山邸、鷹司邸などの公家屋敷があり、薩摩や長州、幕府、草莽の志士などいろんな人が出入りしたのだろう。

ここで見学できるところは、閑院宮邸跡と捨翠亭(九條家遺構)だが、この二つ、なかなかいい。まず、閑院宮邸は入場無料(広い)。捨翠亭は100円。国が管理しているから、京都の他の寺より、だんぜん、安い。安いのが一番。

特に、捨翠亭(しゅうすいてい)がいい(見学は金曜と土曜日のみ)。ここは九條家の別邸(茶室)として江戸後期に建てられたもので、建物と池、ちょうど夏の花、百日紅が咲いていて眺めがよく、まろもちょっと公家気分に(笑)。

見学者も少なく、ここは京都の知られざる穴場なのかもしれない。
明治維新後、天皇をはじめ、お公家たちは東京に移ってしまったので、ここはさびれてしまったので、京都御苑として整備管理することになったとか。

画像は捨翠亭。


千葉佐那は宇和島藩奥女中 宇和島観光パンフレット

2010-07-26 | 宇和島藩
うしおにの写真がほしくて、宇和島市観光協会から観光パンフレットを取り寄せた(宇和島市では、観光パンフレット一式を無料で送ってくれる)。
今いち、ほしいものがなかった。
旧吉田町のうしおにの写真がほしいのだが、今も吉田町ではうしおには出てくるのだろうか(もう出てないのかもしれない)。

中に龍馬と司馬遼太郎と宇和島に関連についての6ページほどのパンフレットがあるが、その中で、千葉佐那は、宇和島伊達家の麻布上屋敷と広尾中屋敷に出入りする奥女中で、通いの家庭教師として、伊達家のお姫様に小太刀・薙刀・馬術などを教えた、とあります。19歳の佐那は、当時、伊達家の若殿(宗徳)と試合をして、若殿を打ち負かしたことが、藍山公記(伊達宗城の記録)にあるそうな。また、宗城は佐那を、「両御殿中でも容色第一」と書いてるそうです。これは最近わかったそう。最近といえば、佐那は因幡藩の人と一時結婚していた、というニュースがありましたね。

あと、龍馬関係では、あいかわらず、児島惟謙と土居通夫が龍馬年表に記入されていました。市村敏麿の敵となった両人が宇和島では出世頭として宇和島の代表的人物とされています。宇和島市の歴史研究の世界では、まだ市村敏麿も無役地事件もタブーなのでしょう。

坂の上の雲関係では、秋山真之と交流のあった山下亀三郎のことがでていました。

暑さで、気力なし

2010-07-25 | 日記
猛暑で、やる気なし。
登録作業も、ブログの更新も、パソコンで文字をたたく、という気持ちもおきない。

画像が池田の北豊島にある「弁慶の泉」
義経主従が頼朝に追われて逃げるとき、ここ池田の泉で水を飲んだ伝説があるらしい。
池田に何十年も住んでいたが、見たのは、今回が初めて。
わざわざ、見るほどの史蹟ではないのだけど。

朝日の普天間報道

2010-07-22 | 新聞・テレビから
「あらたにす」という朝日、日経、読売の記事が比べられるサイトによると、読売は、19日に「米軍訓練徳之島移転、断念」の記事をトップニュースにのせた。しかし、朝日はその後も、このニュースはのせない。22日(木)の今日、またも読売は「普天間移設「工法8月決定」断念がトップ記事。しかし、朝日にはない。まさかガセネタではなかろうに、なぜ朝日は報道しない。

今月、選挙が終わったあとの、朝日の普天間記事としては、7月15日の「辺野古埋め立てへ回帰」の記事と7月20日のマイヤーズ元アメリカ統合参謀本部議長へのインタヴュー記事の2本だけ。
なんで、今頃、イラク戦争の指揮者に抑止論について質問するのか、と思うが、ひとつ、聞き捨てならない言葉があった。

「海兵隊は移動性が高く、日本国内のどんな紛争にも機敏に対処できる」

独立国だったら、こんな言葉を聞いてカチンと来ない人はいないだろう。他国、アメリカでもいい、その他国に紛争があったら、日本軍は機敏に対処します、なんていわれて平気な人がいるだろうか。米軍は、日本国内の治安部隊でもあろうとしているのか?

勝海舟、西郷隆盛などが、今の日本の現状を知ったら、きっと胃病になるにちがいない。

普天間報道については、やはり今後も朝日は何を報道するのか、これからチェックしておこうっと。

BSの楽しみな番組 バイク旅 忍びの者

2010-07-19 | 映画・テレビ
今週の土曜日(7月24日)に「気ままに寄り道バイク旅」の南九州編を放送するそうだ。
楽しみ。24日といえば、大阪では天神祭、宇和島では牛鬼祭りではなかったか?一番、暑い日だ。
あと、8月に映画「忍びの者」がある。これも録画だ。
暑くて仕事にならん。暑くて読書する人もあまりいないのだろう。仕事もひま。
暑くて、ブログも書く気がおこらぬ。

清河八郎の新史料発見

2010-07-18 | 歴史
コメントで清河八郎の新史料が発見されたことを教えていただいた。
東京新聞。

以下、ウエブの記事をコピー。(いいのだろうか?よくわからんが)

「「町人切り」見直す新資料 清河八郎


 幕末の尊王攘夷(じょうい)派の中心人物で、坂本竜馬や新選組隊士らともかかわりがあった清河八郎(一八三〇~六三年)に関する新資料が、東京都千代田区の区立四番町歴史民俗資料館の収集資料から見つかった。清河は小説や映画などで「酔って町人を切り幕府に追われる身となった」とダーティーなイメージで描かれることが多いが、新資料では人を切る前日に江戸町奉行所の同心らに捕縛命令が出ていたことが分かった。専門家は「切った相手は幕府の密偵だったとする“わな説”の方が真実かもしれない」との見方を示している。 (加賀大介)

 資料は北町奉行所の同心山本啓助の手帳。一八六一年七月、清河探索のため故郷の鶴岡(山形県)や新潟方面へ出張した際の状況が記録されている。各藩の役人と情報交換しながら逃亡先を絞り込んでいく過程や、清河の両親の取り調べの様子、清河の特徴を記した人相書きなどのほか宿泊先や経費なども細かく書かれている。

 通説では、同年五月二十日、清河は酒を飲んだ帰りに日本橋で「町人風の男」にからまれて無礼討ちにし、人を切ったことで手配人となったとされる。

 しかし、捕縛命令は、冒頭部分に「五月十九日に、南北奉行所で打ち合わせの上、召し捕るよう命令が出た」と記述があり、対象者として清河ら八人の名前があった。

 幕末史に詳しい早稲田大講師の西脇康さん(54)は「清河は幕府から危険分子とみられていた。二十日には大捕物があり、その際に役人が切られたのだろう。逃がしてしまった恥を隠すため、通説のような話が広まったのではないか」とみる。同資料館の文化財調査指導員滝口正哉さん(37)は「男は清河たちを挑発する役目だったのかもしれない」と話す。

 清河の研究はあまり進んでおらず、清河八郎記念館(山形県庄内町)の斎藤清館長は「無礼討ちの前に幕府が捕縛を命じていたという資料はこれまでなかった。研究が進むきっかけになれば」と期待する。

 資料館では、今年十月に開催予定の幕末をテーマにした展示の中で、手帳を公開する。

(東京新聞)」

以上コピーおわり。

無礼討ちにした町人風の男は、幕府の密偵であろうとは、これまでもほぼ推察され、小説などでもそのように描かれてきたけど、それに史料的証拠が出てきたわけだ。

当時、大江戸で幕府に最も危険視された人物が清河八郎。町人風の男は故意に八郎につきあたり、避けようとすると、杖でうちかかってきたらしい。八郎は最初は自殺を考えるが、仲間からとめられ、逃亡生活が始まる。

幕府が暗殺した男って、清河八郎と坂本龍馬のほかにだれかいるのだろうか(わたしは知らない)。
龍馬の場合は、一応、幕府暗殺説が定説だが、薩摩藩説など諸説あってはっきりしていないが、清河八郎の場合ははっきりしている。幕府老中の命令だ。しかも、1度ではなく、第一次暗殺隊、第二次暗殺隊とくりかえしている。幕府には、よほど許せない男だったのだろう。
近藤勇や土方歳三が最初に与えられた仕事が清河八郎暗殺だったが、失敗。
清河八郎の暗殺者が坂本龍馬の暗殺者と同じだった、というのも不思議だ(二人とも佐々木只三郎が関与)。



しかし、八郎は幕府に暗殺されず、もう少し長く生きたとしても、薩長維新政権でもきっと邪魔者になり、相楽総三のように殺されたかもしれない。

それにしても、早く史料公開してほしい。千代田区立四番町歴史民俗資料館なんて、その存在すら今まで知らなかった。




国家戦略局、断念

2010-07-16 | 新聞・テレビから
1面トップ記事が、「国家戦略局構想、断念」の記事。

重要政策の司令塔を担う、民主党政権で最重要な部局が、「知恵袋的な組織」に縮小することに決めたそうだ。口先だけ、机上の空論の政権の正体がまた1年も立たずに露呈。

だいたい、菅さんが国家戦略局の任についていたけど、なーんにも仕事はしていなかったではないか。こうなることは目に見えていた。

いったい、だれが「国家戦略局」なんてたいそうな名前をつけたのだろう。大新聞とか、企業のエリートプランナーはとかく「戦略」なんて言葉を使いたがるけど、太平洋戦争当時の秀才参謀たちの気分でいるのだろうか。あるいは、アメリカあたりの影響だろうか。
米国に依存し、米国の戦略の通りに動いているのに、独自の「国家戦略」ってあるのか?

「知恵袋」なんて無能な殿様には必要であっても、政府に、そんな部局がいるのか。それでなくても審議会とかたくさんあるのに。いったい、どんな知恵袋さんなんだろう?名前をはっきりあげてほしい。「知恵袋」はなによりも生活している国民のはずだ。

ついでに、「IMFが日本に消費税を提言」の記事もあった。なんてタイムリーなんだ。当然、IMFの日本人関係者が関わっていると思うけど、このIMF提言に関わった日本人て、どういう人なんだ?






国際面から記事二つ

2010-07-14 | 新聞・テレビから
今日は国際面におもしろい記事が二つあった。
一つは、「パリ発」で「サルコジ政権VSネット新聞」。フランスの全国紙の多くは(ル・モンドも含め)、大統領と個人的に親しい経営者の企業グループが買収し、テレビやラジオにも大統領側近が幹部として送り込まれていて、政府への真っ向からの批判ができない状況になっているそうだ。そんな中、2年前に設立したインターネット新聞社(メデイアパルト)が広告をいっさい載せず、政府や財界の不正疑惑を追及し、今、政府と全面対決の姿勢を強めているとか。

よその国の話ではない。全国紙が与党になってしまった日本には、こんな独立系の新聞社がないのがくやしい。

余談だけど、参議院選挙で民主大敗したけど、なぜかメデイアは菅首相に寛容なようすだ。かつての小沢・鳩山たたきを思えば、なんてやさしいのだ。菅首相の「消費税発言」はメデイアのドンあたりからそそのかされたのでは、と勘ぐりたくなった。

もうひとつ。ニューヨーク発の「嫌われる「社会主義」」というアメリカ事情の報告。アメリカでは「社会主義」というレッテルをはられることは致命的な打撃を受けるようだ。「オバマ大統領は社会主義者だ」。米国ではこんな言い回しの政権批判が続いているとか。

アメリカの「社会主義」嫌いは有名だ。少なくとも、エリート社会においては、「社会主義者」
は存在しない。日本でも、同じように「社会主義」を悪とし、相手をやっつけるときにレッテルとして使う有識者の人もいるようだが、たぶん、みんなアメリカ留学経験者にちがいない。

しかし、「社会主義」とはなんなのか。それは「民主主義」という言葉が人それぞれ多様な意味があると同じように、多様なもので、とてもひとくくりにできるものではない。お釈迦様やキリストや孟子にも「社会主義」の精神はあるし、フランス革命、いや、日本の百姓一揆、自由民権運動にもその精神はある。いやいや、右翼にだって、社会主義を模索した人はいるだろう。

記事では米国には「合衆国社会党」の本部がニューヨークの老朽ビルの一室にあるそうだ。委員長の「わが党は源流を1901年にまでさかのぼる」の言葉をあげているが、昔、幸徳秋水が渡米したころの社会主義団体のことだろう。それにしても、あのアメリカで「社会主義者」である人物ってどんな人だろう。きっと豪傑にちがいない。

2010-07-11 | 新聞・テレビから
宇和島地方の一揆で、蜂起した農民たちを鎮めにきた藩役人に対し、農民たちは、「だまされるな、だまされるな、あいては狸だ、狸だ」と口を揃えて言ったといわれる。宇和島だけに限らず、よその地方の一揆にも共通しているかもしれない。

テキは、うまいこといって、いつも、あちらのペースにのせる。
だます方法はいろいろ。まず、わけのわからない難しいことをいって、相手をけむにまき、論争をあきらめさせる。また、単純な言葉で、いかにも、もののわかった言い方をして、本質の問題をかくし、なっとくさせる。また、脅迫し、おどかす方法もある。

今日の朝日の社説、「きょう投票 苦い現実を直視しながら」。

「甘い夢のささやきを競うのではなく、苦い現実を正直に語り合う。それが政権交代を経た政治の新しい一面をあらわしているのだとすれば、歓迎すべき変化だろう」(自民、民主の二大政党が消費税増税を訴えたことをさしている)。

「今日はいったん不信を横に置き、主張にあらためて耳を傾けよう」(政治に対する厳しい目こそ、国民が政治を見つめるときに大切なのに)。

自民、民主が消費税の増税を訴えたことは当然だ、と書き、「いま手を打って負担増を受け入れ、破局をなんとか避けようと努めるか。時とともに危険が増すのを覚悟の上で、歳出削減や清張に賭けるか」(この二者択一しかないのか?おどかしではないか)。

そして、一転、こんなことをいう。

「税金は民主主義社会では本来、お互いのために「出しあう」ものなのに、なぜか「とられる」ものと感じがちである。ー途中略ー「とられる」から「出しあう」へ。私たちは今回、苦い現実を直視し発想を変える必要を学んだのではないか。その成果を一票に託したい」

税金が「とられる」ものではなく、お互いのために「だしあう」ものなら、国民は出すのを厭わない。しかし、まだ、そんなシステムにはなっていないし、出した税金はとても国民のために使われているとはいえず、その使われ方の情報公開もしてないのだ。「本来」などと夢をいわないでくれ。

まるで、藩の役人の代理人のようなこと言っている。狸だ!

日本現代史がほしい

2010-07-10 | 読書
日本現代史がほしい。特に高度成長時代が終わった1970年代から現代までの時代史。
1970年代から現在まですでに40年経過している。この40年間の歴史を検証する本がないのはどうしたわけだ。いや、専門的なものはあるのかもしれない。でも、一般の国民にもわかりやすく書かれた本はないのでは?(わたしは知らない)。

かつて、4,50年前は歴史ブームといわれ、中央公論社の「日本の歴史」を代表するさまざまの歴史全集が出された。でも、あのシリーズもせいぜい経済大国になるまで、1970年代までで終わっていて、その後の現代史にはふれていない。

1970年代は、つい30年前の太平洋戦争から、戦後の時代までかなり詳細に書かれた歴史本が出された。当時の学者は20年30年前のことを精力的に調べ、国民に知らせた。
今はどうか。20年前、30年前の日本を検証する現代史はあるのか?1980年代の日本、1990年代の日本を振り返る歴史の本がない。これは学者の怠慢ではないか。学生に単位を与え、有識者として政府の審議会委員になるだけに成り下がった大学教授なんて、税金の無駄。

明日は参議院選挙だ。
世論調査によると、消費税増税に反対する国民は半分くらいになるそうだ。消費税増税にはっきりと反対する政党は共産、社民の二党。普通に考えたら、この二党が支持を集めてもよいのだが、しかし、新聞社の調査によると、この二党の支持率はパーセントは一桁。不思議だ。消費税反対、普天間移設問題への国民の声が、選挙には反映しない。なにが原因なのだろう?

政党か?政治家か?選挙のシステムか?メデイアか?国民に問題あるのか?

過去の参議院選挙の結果を調べてみた。
1989年には社会党は第一党になっっている。しかし、その3年後、議席を半分に減らし第二党、その3年後、新進党ができ、第三党に、そしてその3年後1998年には、民主党ができ、社会党は分裂し、社民党は5議席に凋落。その後、自民、民主の時代が続き、現在、自民と民主は政策をほとんど同じくし、大連立の噂が当然の如くいわれる。
いったい、1990年代に何があったのか。どうしても現代史がほしいと思うのだ。

ガイド能勢 大阪のてっぺん

2010-07-09 | 読書
今年の春、能勢の観光ガイドブックが出た。「はじめての能勢観光ガイド 大阪のてっぺん」(105ページ 700円)。能勢町観光協会の発行だ。
能勢は地元なので、購入した。カラー写真が多く、文章は少なく、目で楽しむ観光ガイドブック。すてきなお店の紹介もしてある。能勢町の編集にしては、なかなかしゃれたものができたではないか、と思った。

本誌では、能勢を「大阪のてっぺん」と呼んでいるけど、わたしは、前から、能勢は「大阪の信州」と呼んでいた。能勢を走っていると、信州を走っているような錯覚を覚えるのだ(ただし、信州のような高い山々がないのが残念だが)。
きれいな湖あり、棚田あり、古刹あり、銀山あり、秘められた歴史あり、でなかなかのものだ。
ほんとに、ほっとする環境なのだ。テントを買って、初めてキャンプしたのも、この能勢だった。

このガイドは能勢だけに絞っているけど、その周辺には豊能町、猪名川町、宝塚、三田が接していて、このあたりまで広げると、分厚いガイドブックが必要になる。そして、それは実に豊かな内容のものになるはずだ。

「岐尼(きね)神社」も出ていたけど、ここが山田屋大助の乱の発起場所だということは書いていなかった。いや、山田屋大助については、観光協会ですらあまり知らないのです。大助に興味のある人は、この虎尾の会ブログに書いてあるので、参考にしてね(笑)。
まだまだ知られてないことがたくさんある、これからが楽しみな能勢です。

わたしも愛媛から始まって、大阪、広島、東京、札幌、埼玉、堺、吹田、池田といろいろなところに住んできたけど、この北摂能勢が最終の土地になりそうです。(先のことはわからないから、ひょっとしてまだ外国に住むという可能性もないわけではないか?)

9000万円の退職金

2010-07-04 | 新聞・テレビから
今日の新聞ではなくて、昨日の新聞だけど、こんなことあるのか、という驚きが消えないのでメモしておこう。

「斎藤次郎氏に9千万円」という見出し。
昨年、日本郵政の社長になった斎藤次郎氏に、それまで9年間社長として勤務していた東京金融取引所が約9千万円の退職金を支払うことに決めたそうだ。たった9年間の勤務で退職金が9千万円?東京金融取引所の社員はどう思っているのだろうか。しかも、この斎藤次郎氏、旧大蔵省の次官でその時の退職金は約8千万円だった、という。公務員として8千万円というべらぼうな退職金をもらって、そのあと、民間とはいえ半分公的な金融機関で10年も勤めずに、また9千万円。

給料は減り、ボーナスはなく、国民の暮らしがカツカツな時代に、退職金8千万円をもらったあとで、また9千万円をもらうのか?日本郵政をやめたら、また退職金をもらうつもりだろうか。

こういう感覚の人が日本郵政の経営ができるのだろうか。

BS映画「愛する時と死する時」

2010-07-03 | 映画・テレビ
先日、予備知識なく、この映画を見た。テレビのスイッチをつけたら始まって5分くらいたっていた。戦場で、ドイツの兵隊が捕虜の銃殺を命じられる場面からだった。そのドイツの兵隊は一時休暇がとれ、故郷に3週間ほど(だったか記憶あいまい)帰ることになる。故郷の町は空襲にあい、両親は行方不明。青年は、そこで幼馴染みの女性と出会い、恋をし、いそいで結婚する。そして、軍隊に復帰する。結末は、題名からも想像できるように悲劇に終わる。反戦映画だ。

場面がとても丁寧に作られていて、いつもなら、だいたいビデオの映画は半分も見終わらずに寝てしまうのだが、最後まで見せられた。いい映画だった。最後の字幕で、原作がレマルクだと知った。

空襲下での恋愛、ちょっとロマン・ロランのピエールとリュースを連想した。あとでわかったのだが、なんとレマルク自身もこの映画に出ていた。1958年の作品。ドイツの小説をアメリカが映画にした。

レマルク。この作家もいまや絶版。本屋でも発見することは至難だ。うしおに堂にも1冊、「凱旋門」があったが、売り切れ。「愛する時と死する時」なんて、きっと入手困難だろう。

偶然に、いい映画を見たので、もうけた気分になった(大阪人)。


蓮の花 八郎

2010-07-01 | 日記
数年前、猪名川町の森の中に尼崎高原ロッジという公営ロッジがあって、そこはバイキング800円でコーヒー等の飲み物も飲み放題で、人も少なく、これは安い、お得だ、と紹介したことがある。

先日、久しぶりに寄ってみたところ、公営から民営になっていた。バイキングもなくなっていて、入り口の食事のメニューを見ると、高そうなので、入るのはやめた。このロッジの前が蓮池になっていて、蓮の花だけ観賞することにした。

池をめぐっていると、どこからか泡を含んだ水が流れているようだ。民営になっったのを機会に露天風呂を作ったそうだが、まさかその露天風呂から流れてくるのではなかろうか。蓮の花って、汚くても育つのだろうか。この池にはメダカやカエルもたくさんいるのだが、大丈夫かちょっと心配。

さて、泥中からすっくと立つ蓮の花。

清河八郎のヨメさんは、お蓮という。
「西遊草」に書かれた母といっしょの長い旅を終えて、故郷に帰ったとき、鶴岡の遊里で、親友安積五郎と遊んだ。安積五郎は大酒に酔い、節分だ、豆まきだ、とお金を座敷にばらまいて騒いだらしい。座敷にいる遊女たちもきっとキャーキャー騒いだことだろうが、このとき、騒がず、凛としてその場に座っている清楚な女性を八郎は見る。この女性がお連さんだ。ほんとうは、代という名前だが、泥中の蓮、ということで、八郎が名付けた。(泥とされた他の女性がちょっと気の毒 笑)。

両親は大反対だったが、そんなことで気持ちを変える八郎ではない。「西遊草」のはじめの方に出てくる、鶴岡の伯母さん(八郎の母の姉)は、理解を示し、両親を説得してくれたそうだ。

この伯母について、「西遊草」はこうある。「伯母政氏は、婦人といえども万事に達し、平常の男子の及ぶところにあらず。ゆえに、夫に死に別れしより、4人の子供を養い、もっぱら家事を引き受け、男子の任をもって渡世いたし、いろいろの難苦にあい、終始、安心の時もなく、病に身をたしなめ、つねに憂を懐くのみ。朝暮鬱々として、光陰をいつ果べきもあらで、憐れのいたりなり」
で、八郎は、母との旅に、この伯母を誘う。でも、本家から帰ってこい、と使者がきて、泣く泣く引き返すことになる。それはさておき。

のち、お蓮さんは、八郎の起こした事件のために投獄され、そして獄死する。清河八郎は、討幕の士ではない、という説もあるようだが、いや、この一事だけでも、八郎の討幕の決意は固いはずだ。

たしか、故郷には清河八郎墓の隣に、お蓮さんの墓もいっしょにあるはずだが。