虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

吉田の太刀魚巻

2011-03-09 | 宇和島藩
宇和島から車で15分も走ると吉田町。
ここは両親が育った町。
母方の先祖のお墓もあるので、立ち寄った。
ぼくも、ここで3ヶ月だけ小学校に通った。

母が吉田町の太刀魚巻(太刀巻)を食べたい、といっていたので、河井商店によってみる。太刀魚をさばき、たれをつけ、炭火で焼いて、竹串に巻き付けたものだ。1本、400円。いかにも漁師町らしい豪快な食べ物だ。

太刀魚がとれる時期にしか販売できない。全国でも、この吉田町の河井商店でしか売っていないらしい。グルメ番組からの取材も受けたそうだが、お店は、吉田町の古い町並みに溶け込むように、昔ながらの小さなお店だ。

母は、子供の時に食べたそうだから、かなり昔から吉田では食べられてきたのだろう。
ぼくは初めて食べた。うまい。ビールにあう。画像はお皿に置いてあるが、むろん、串を手でもって歩きながらかぶりつくのがいい。

太刀巻、食べに、吉田に、きなはいや。





和霊神社のうしおに

2011-03-08 | 宇和島藩
納骨式のあとは、参列者の会食会が通例のようで、磯津のお墓で納骨式が終わったあとは、宇和島で会食をすることになった。
この日はオリエンタルホテルに泊まった。オリエンタルホテルの前が和霊神社なので、会食まで時間があったので、一人で和霊神社まで散策した。立派な神社だ。宇和島では、この和霊神社と宇和島城の天守閣が二大名所だ。

和霊神社には、坂本龍馬の祈念碑も建っていた。竜馬は土佐を脱藩する時に、坂本家の屋敷神である和霊神社の分社(土佐にある)に祈願してから出発したらしい。竜馬は宇和島にも来たことがるから、当然、この和霊神社も参詣したにちがいない。

神社の横に、うしおにの顔面が飾ってあったので、カメラにおさめた。
ちなみに、この和霊神社は、主君に上意討ちされた家老山家清兵衛の霊を祭る神社です。

会食会には20人ほど参加した。みな親戚なのだが、めったに顔を合わせたことがく、初めて顔を見た人もいたのだが、やはり親戚なのか、親密な雰囲気に包まれるのは不思議だ。「宇和島は自分のことを「じぶん」というのですか?」と前から気になっていたこを聞いた。「いや、いわないよ」とのことだった。そうか、やはり、ぼくの勝手な思い込みだったのだ。宇和島の方言で有名なのは、なんといっても「がいや」「おっとろしや」だな。

宇和島には、「うしおに」という名の日本酒もあった。

ひたすら飲んでいたのだけど、会食会の最後、突然、「いとこ頭だから締めの挨拶を」と指名される。聞いてないぞ。

祖母の話は一言も述べず、みなさん、ぼくのために今夜は集まってくれてありがとう、いろんな人に会えて楽しかったぞ、なんて挨拶をした。自己中心いう性格は死ぬまで治らぬものらしい。アーメン。


保内町磯津のお墓

2011-03-07 | 宇和島藩
納骨式というのか、祖母の骨をお墓に納める式に参加した。
場所は宇和島市保内町磯津。

明石大橋を渡って、淡路島を通り、高松自動車道、松山自動車道を走り、伊予灘あたりから国道、夕焼けラインといって、海沿いの眺めのよい道路を走る。大阪から約6時間。

画像でもわかるように、きれいな海辺の小さな村です。おそらく、釣り人にとっては、最高の場所だ。晩年は、こんな土地で日がな一日釣りをして暮らす、というのも男の夢ではなかろうか。

墓地の上に通玄寺という小さなお寺もあるのだが、かなり前から無住の寺(なんでも坊さんはバクチで逐電したとかの噂もある。だれかここの坊さんになってくれないか? 笑)。

この磯津でぼくの先祖はたぶん漁師をやり、父親も三歳までここで育った。父は、死ぬ前、磯津に埋めてくれといっていたので、ここにも骨を分骨している。

さて、親不孝なぼくは、自分の先祖の墓よりも、他の人のお墓をここで探索することにした。


実は、ここに市村敏麿(この宇和島藩のカテゴリーでずっと追いかけてきた人だけど)の長男である田中 操さんの墓があるのだ。

敏麿さんの子供の中では、この田中操さんが、一番、敏麿を知り、深い理解を持つ人で、「市村敏麿の面影」という本も、田中さんが大切に保管してきた史料をもとに書かれた。操さんは、磯津の田中家の養子になる(養子になる代わりに、おそらく東京で医学を学ぶ学費を出してもらったのではないだろうか)。操さんは、この僻村で医者をし、貧しい患者さんからはお金をとらず、赤ひげ先生とよばれていたそうだ。父親の墓を宇和島から父親の故郷城川町古市に移し、古市村の人たちに四国電力の株券を譲渡して、お墓の管理を頼んだのも、この操さんだ(今なお、敏麿のお墓は村人たちが共同で管理している)。

田中 操さんのお墓を見つけた。昭和44年78才で亡くなる、と記されていた。
その息子さんも医者になり、青森の方で、医者として働いていたそうだが、「だいぶ人を死なせたので、今度は坊主になって、死者を弔いたい」と晩年はこの磯津に帰ったとそうだが、坊主になったかどうかは知らない。この人も変わった人だが、お墓になっていた。その息子さんとなると、だれに聞いても、もう杳としてわからない。

お墓の近くには二宮敬作公園(だったか?)もあった。
司馬遼太郎「花神」に出てくる酒飲みの医者二宮敬作だ。かれも磯津の人。
狭い村だ。このお墓にいる昔の人は、ぼくの先祖も含め、それぞれ知り合いで、なんらかのつながりがあったのだろうな、と思うと楽しい。

近代史文庫 

2010-09-07 | 宇和島藩
「近代史文庫」とは、愛媛の松山市を拠点にする地域歴史研究団体だ。
わたしは、この名前を「無役地事件」をきっかけに知った。
この近代史文庫が発行する明治初期農民運動史料に「無役地事件」の史料が揃っているからだ。しかし、この会が活発な活動をしていたのは、40年ほど前で、もう今は休止状態ではないのだろうか、とながく思っていた。ところがなんのなんのまだりっぱに活動しているようだ。

昨年9月に「えひめ近代史研究」65号が出ている。1990年に58号が出ているので、19年間に8冊、平均すると2年に1冊のペースか。

無役地事件の史料もまだ在庫があるようで、ここに申し込むと手にすることができる。


最新刊の「えひめ近代史研究」65号には「無役地事件再考」と題して、広島修道大学の矢野達雄氏が研究論文を発表している。無役地事件、40年ほど前は宇和島の三好昌文氏が積極的に書いていたが、最近は、法制史学者の矢野氏が取り組んでいる。

南予の無役地は、東予、中予では「庄屋抜地」と呼ぶらしい。東予、中予の「庄屋抜け地」裁判闘争は勝訴になったところもあるようで、南予と東予中予の比較もおしろい。
裁判史料は戦災で焼失したものが多いそうだが、新しく史料を発掘してあるようなので、今度の新刊が楽しみ。

65号には、「大逆事件百年と坂本清馬資料」という文章があった。
2003年、愛媛県南宇和郡一本松町から大逆事件の被告になった坂本清馬の資料が発見されるが、その経緯について書いてある。

なぜ、坂本清馬の資料が南予から出てきたのか。それは晩年の清馬をささえた妻(旧制安岡みちえさん)が、一本松町の出身だったそうだ(みちえさんは戸籍上では養女になっているそうだが)。

愛媛の地名はぜんぜん知らない。一本松ってどこだ?と思って地図を見たら、ほとんど高知より、宿毛の近くだ。隣には城辺という町がある。おお、城辺は3歳くらいのとき、わたしも住んでいた町ではないか(まったく記憶はない)。

どうも、いつも自分の話で終わってしまうブログであるよなあ(笑)。

「庄屋抜地事件と無役地事件」(矢野達雄著 創風社出版)

2010-09-06 | 宇和島藩
このブログでも「市村敏麿と無役地事件」については書いてきたけど、先月、創風社出版という松山の地方出版社が、「庄屋抜地事件と無役地事件」(矢野達雄著)を出したそうだ。

「明治年間、愛媛県で起こった、土地をめぐる一連の訴訟事件「庄屋抜地事件・無役地事件」を取り上げ検討。地域法曹史と訴訟事件史を結合させるという新たな試みにより、近世から近代への土地制度の変化の具体的全貌に迫る。「史料集」として、庄屋抜地事件および無役地事件の今日、知りうる全ての判決を翻刻して収録」とある。

高いのだけど(4200円)、これはなんとか工面して手にいれなければなるまい。

裕次郎のルーツは南予

2010-09-02 | 宇和島藩
佐野眞一の「誰も書けなかった石原慎太郎」(講談社文庫)を読んでいると、石原慎太郎の親父について詳しく、それによると、石原本家の菩提寺は愛媛県保内町にあるという。

うー、保内町といえば、わたしの先祖の墓があるところだ。石原慎太郎とルーツが同じなのはうれしくないのだが、まあ、弟の裕次郎、裕ちゃんと同じと思えばいいか。

石原裕次郎のほんとうの人や思想など知らないが、映画の大スターだった裕ちゃんは少年にとっては、「喧嘩の強い兄ちゃん」であり、龍馬のような憧れの的だったものだ。

NHKで司馬の「竜馬がゆく」がドラマ化されるとき、竜馬役は、石原裕次郎かもしれない、という噂を聞き、「北大路より、裕次郎がだんぜんいいな」と思った。むろん、顔は丸くて細身の竜馬とはちがうけど、あの存在感、ちっとも男前ではないのに、あの輝く不思議な魅力は快男児竜馬に合うと思った。

さて、裕次郎の親父、石原潔は、旧制宇和島中学を一年で中退して、吉田町出身の海運王山下亀三郎の山下汽船に入り、たたきあげで、重役になる。

わたしの母は吉田の山下女学校(山下亀三郎が作った)の卒業生だが、その時の先生で、井上なんとかいう女の先生がいて、この人が石原裕次郎の親父の兄弟と結婚したらしい(すぐに未亡人になったらしい)、その子供が裕次郎にそっくりだった、という話を聞いた。

吉田町にもけっこう裕次郎に関連する話はあるようだ。

裕次郎は親父に似て、慎太郎は母親似だそうだ。

裕次郎の祖父、石原信直は、文久二年生まれ。保内町といえば、無役地事件の二宮新吉のいた土地であり、最も早く無役地事件に立ち上がった土地だが、石原信直はどうしていたのだろう。その後、警察官になったということだから、あるいは、取り締まる側だったのか?



千葉佐那は宇和島藩奥女中 宇和島観光パンフレット

2010-07-26 | 宇和島藩
うしおにの写真がほしくて、宇和島市観光協会から観光パンフレットを取り寄せた(宇和島市では、観光パンフレット一式を無料で送ってくれる)。
今いち、ほしいものがなかった。
旧吉田町のうしおにの写真がほしいのだが、今も吉田町ではうしおには出てくるのだろうか(もう出てないのかもしれない)。

中に龍馬と司馬遼太郎と宇和島に関連についての6ページほどのパンフレットがあるが、その中で、千葉佐那は、宇和島伊達家の麻布上屋敷と広尾中屋敷に出入りする奥女中で、通いの家庭教師として、伊達家のお姫様に小太刀・薙刀・馬術などを教えた、とあります。19歳の佐那は、当時、伊達家の若殿(宗徳)と試合をして、若殿を打ち負かしたことが、藍山公記(伊達宗城の記録)にあるそうな。また、宗城は佐那を、「両御殿中でも容色第一」と書いてるそうです。これは最近わかったそう。最近といえば、佐那は因幡藩の人と一時結婚していた、というニュースがありましたね。

あと、龍馬関係では、あいかわらず、児島惟謙と土居通夫が龍馬年表に記入されていました。市村敏麿の敵となった両人が宇和島では出世頭として宇和島の代表的人物とされています。宇和島市の歴史研究の世界では、まだ市村敏麿も無役地事件もタブーなのでしょう。

坂の上の雲関係では、秋山真之と交流のあった山下亀三郎のことがでていました。

市村62 政治を考えるとは  無役地裁判原告の人々

2009-08-25 | 宇和島藩
最近は、大昔(明治)の一地方のマイナーな話題(無役地裁判)ばかり書いているけど、でも、ほんとの気持ちは、これは一地方の特殊な事件だとは思ってなくて、「人々が政治を考える]、とは、こういうことではないのか、という思いで書いている。

生活者である人々が政治を考えるとしたら、それは国会議員やどこかの大臣のように、天下国家を手玉にとったように、国際情勢などを論じることではない、と思っている。民主党ではないけど、政治とは生活だ。自分の生活の中から自分に向かってくる具体的な問題に対処することが、政治を考えることだろう。

となると、たとえば、宇和島藩時代の村民にとって、直接、自分に支配(政治)として見えてくる相手は庄屋の支配であり、年貢だろう。村民が勤皇の志士よろしく、攘夷か開国かなどと論じるのは村民にとっての政治ではない。

しかし、なかなかそうはできない。自分の身の回りのことから政治を考えるのは厄介だ。たとえば、わたしたちが政治を考える、ということは、まず、税金であるべきだろう、何に使われているのか?
会社員ならなぜもっと賃金が得られないのだ?会社とはなんだ?なぜ働き口がないのか?学生ならなぜ授業料が高いのか、なぜテストをするのか?(笑、よい例が思い浮かばん)などなど個別具体的な問題はたくさんあるのだけど、それを追求するのはしんどい。

それになによりも、そういうことを考えることは、政治を考えることではなく、そういう方向に思考がむかうのは、それは謀叛人、お上にさからうおかしなヤツという風に思わせられてきた。

ちょっと無駄口が過ぎたな(笑)。
明治初期の宇和島人民の無役地裁判は、お上の決めた処置に対しておかしい、と異議を唱えたもので、これこそ、人々が政治を考えるほんらいの姿ではないか、と思う。

宇和島にかつてこのような人々の闘いがあった。そしてそのような人々の存在は忘れられてしまった。

その人々は決して小野武夫が書いていたような無知な農民ではなく、人権が認められた明治日本において、人民がその権利を主張した最初の闘いであり、むしろ宇和島人の名誉になるものだろう。名前を再度、書いておきたいと思う。たくさんいたはずだが、ここでは、明治15年宇和島裁判所に訴え、明治24年、大井憲太郎を迎えるまで10年以上も闘争に参加した人々の名前。一部だけ。

東宇和郡横林村(今の野村町)
  向 初治、中野平八、
北宇和郡保田村(今の宇和島市)
  京下官吾、入江徳三郎、岡田武三郎
北宇和郡清水村(今の広見町)
  末広寅吉

士族で、旧藩庁にいた人で市村を支援していた人もいる。

鈴木重雄(この人は旧藩庁で民政局の仕事をし、この人の出した書類を裁判の証拠書類にもしている)。
市原匡勉(この人は敏麿の長女を妻にしている)。

長谷村では萩尾家(萩尾忠七、伊予太郎、倉茂、基吉とかこの性が多いようだ)。
きりがないから、他にもいるけど、やめとこう。

この人たちの子孫は今も宇和島にいるのだろうか?そして先祖のたたかいについてどう思っているのだろうか?
でも、まず、宇和島にはもう住んでいないのかもしれませんね。

庄屋だった人の方は土地があるだけにまだ現地に家が続いているかもしれません。








市村敏麿61 宇和島の政財官界を占めた庄屋群像

2009-08-24 | 宇和島藩
以前、無役地裁判の被告になった牧野純蔵は衆議院議員になった、と書いたけど、衆議院議員になったのは牧野だけではない。無役地事件の被告になった庄屋側は宇和島では有力者として地域住民の上に君臨する。

別に庄屋側が被告だから悪くて、原告側に正義があったというつもりはない。
被告側にも言い分はあるはずだ。ただ、被告、庄屋側は資産家であり、原告側はそうではない。大きな格差があった。今風にいえば金持ちと貧困層の対立。それは江戸時代から続く。庄屋階級は圧倒的な権力と富をもって農民に対してきた。その基盤となったのが無役地。

なにしろ何町という広い田畑を持ち、その耕作も農民にさせる。明治3年の野村騒動は、その庄屋への不満が爆発したもので、そのために藩庁は庄屋役を廃止し、庄屋の無役地を取り上げるという処置に出た。その無役地を再び庄屋に返還したことで、この裁判は始まった。

だからこそ、宇和島では、抹殺された歴史は無役地事件だけでなく、この野村騒動もタブーになったのだ、と思うのだが、どうだろうか。野村騒動を明らかにすれば庄屋の実態がわかる。

無役地事件の被告、被告の代理人、代言人になった人をあげてみよう。

別宮周三郎(明治16年大阪控訴院被告) 県会議員、衆議院議員
玉井安蔵(明治16年大阪控訴院被告) 衆議院議員
清水静十郎   庄屋同志の結社の集会をこんも清水宅で開く 衆議院議員
清水新三(明治24年大井憲太郎の大阪控訴院で訴訟代理人)県会議員
都築温太郎(最初の裁判被告) 県会議員 

当時、衆議院議員になる、ということは、相当の資産がなければ不可能だ。

被告になっているわけではないが、裁判に積極的に協力したと思われる人、これは多数だけど、

緒方睦郎(緒方惟貞の子供)  県会議員
都築 温  (旧宇和島藩士  宇和島三功臣の一人)   郡長
竹場好明  (旧宇和島藩士 )         郡長
末広鉄腸(都築 温の弟)衆議院議員 朝野新聞で原告側を非難。
緒方惟貞(野村の大庄屋。田畑山林260町余所持していたという)
児島惟謙はこの緒方惟貞の親戚になり、惟貞の世話になったようだ。名前の惟ももらったのだろうか。土居通夫もこの人に世話になる。今でも、地元には「緒方惟貞」という銘柄の酒も売っているそうだ。

土居 完(被告に名前あり 戸長)

まだまだ調べはぜんぜんついていないけど(調べたらたくさんいると思う)、戸長などは旧庄屋がなることが多いし、宇和地方のいわゆるボスは旧庄屋側といってよいでしょう。
それでなくても、宇和島の庄屋たちは江戸時代から、血縁での結び付きも網の目のようにはりめぐらされ、その結束はとても強かったはず。村の若衆宿にも庄屋の子供は入らなかったそうで、庄屋とふつうの農民とは判然と区別されていたそうだ。
旧庄屋たちは無役地の資産をもとに銀行や紡績業など産業ブルジョワジーになり、あるいは政界官界で大きな発言力をもっていく。

こういう地域の中で無役地裁判に訴えるということはまさに虎の尾を踏むような行動。裁判ののち、訴えた農民たちは馬鹿にされ、さげすまされ、また村にいられなくなった者もいたということだが、その志は壮とすべきで(今、だれがこんな勇気をもつか)、名前を書きとめておきたいくらいだ。

伊予宇和島独案内

2009-08-23 | 宇和島藩
図書館に「宇和島」の本が少なかったので、国立国会図書館のHPを見てみた。
さすが、近代史文庫などの史料がずらっと並んでいる。でも、所蔵は東京で、関西館にはないらしい(関西館も行ったことがないけど)。

近代デジタルライブラリーを見てみる。ここは、史料を画面で見ることができる。
ここにもいいのが見つかった。「北宇和郡誌」。
大正6年に愛媛教育協会が出したそうだが、井関や告森、林などの旧藩士が書いたもののようだ。これは宇和島藩についての1級の史料だろう。人物編もあって、宇和島藩士についてもかなり詳しそうだ。いつか読んでみよう。

もうひとつ、「伊予宇和島独案内」、明治24年9月発行。筆者は藤井南陽。
この中に短いけど、無役地裁判の記述を見つけた。

「明治24年6月、大井憲太郎、小久保喜七、旧庄屋無役地事件にて宇和裁判所に訴訟を起こせり。蓋し、維新前、旧里正と人民の間の田地納税の事件、数年解けず、これを訴えるも利あらず、今また、再燃す。市村秀麻呂を首としこれを主張しよってこの訴訟あり」という文字が読める。

新聞をのぞけば、無役地事件を報じた最初の本ではないだろうか。
しかし、ネットでこんな史料が読めるなんて、便利になったなあ。

宇和島の歴史はどうなってる?

2009-08-23 | 宇和島藩
リクエストしていた宇和島市誌(上下)、取り寄せた、という連絡を受けたので図書館にいく。大阪府立から取り寄せたもので、館外貸し出しはできない。館内で閲覧し、必要なところはコピーしようとはりきって出かけたのだが、がっかりだ。

分厚い上下2冊を机に運んで、本を開けるが、ペラペラとページをめくり約2分で、返却。「もういいんですか」「はい、ありがとうございました」。

コピーをするところもなかった。市誌ということで、明治以降から現代までで、藩政時代のことが書かれていないのはしかたがないが、それにしても内容がまるで市制案内みたいなのもので、つまらない。だれが書いたのだ?と編集委員を見ると、助役さんとか市役所関係のえらいさんの名前がずらり。

これでは、宇和島の歴史は勉強できないよ。もう1冊リクエストしていた「宇和郡の民俗」は貸し出しができるので、持って帰ったが、こちらの方がまだまし。しかし、これも昭和36年に出版されたもので、学者の調査報告書みたいなものでおもしろいものではない。

大阪府立図書館のHPで「宇和島」で本を検索してみると、35件しかでない。その中から選んだものが、今回の本なのだ。

宇和島市立図書館のHPで「宇和島藩」で検索してみた。さすが126件でた。だが、ほとんど、伊予史談とか研究史料で貸し出しは不可で、一般向きの宇和島の歴史を書いた概説書はない。宇和島市立図書館に出かけたとしてもあまり役には立たないようだ。

これでいいのだろうか。意外な気がする。宇和島は、四国の端のあまり広くない土地(それも山国)だとはいえ、藤原純友をはじめ、伊達宗城、山家騒動、武左衛門一揆、高野長英、村田蔵六などなど、豊かで奥深い歴史を秘めた土地だ。宇和島を旅すると、宇和島人はぜったい歴史が好きだろうな、と感じていたのに。それなのに、宇和島の歴史を書いた市史すらもないのだろうか。(あるのだったら、教えてほしい)


市村敏麿60 メモ 横林村庄屋大野正盛について

2009-08-20 | 宇和島藩
以前、無役地事件の被告予子林村庄屋大野常一郎の父は大野正敬(市村に示談を申し込む人物)で、その父は大野正盛ではないか、と書いたけど、やはりそうだったので、ここにメモしておきます。

西園寺源透は、大野正盛の養子になった大野金十郎正武の子供になる。

ところで、孫の西園寺源透が「偉人だ」として小冊子に伝を書いた大野正盛だが、やはり、この人も庄屋時代、市村敏麿と関係あります。いやあ、宇和島藩も狭い。

谷本市郎が残した「市村敏麿伝」の庄屋時代のこととして、次の文章があります。

「横林村庄屋大野三郎右衛門に対し、百姓不帰腹にてしきりに故障あい続き候につき、代官川名謙蔵説得のため御出張につき、古市雄左衛門、矢野太兵衛、説諭方申しつけられ出張」

大野正盛は世襲の庄屋ではない。
もともとは貧しい境遇で、若党、つまり中間ともいわれる短期雇用派遣労働者みたいなもので、藩士の臨時下男役として江戸や大坂にもいったことがあるようだ。

ある時、梶田長門という宇和島藩士のお供で大坂に出たとき、主人の梶田が大病にかかり、日夜看病に尽くしたので、主人に感激され、主人から四書の素読を教わり、それから文字に明るくなったとか。

江戸にも4年ほど若党として勤め、15両をため、故郷に帰る。この金で母親といっしょに西国霊場など神社仏閣巡りの旅に出る。この旅の目的は追放刑になった兄を捜す旅でもあったようだが、兄は見つからず。

21歳のとき、大坂に出て袋物の仕立ての修業をし、27歳で宇和島に店を出す。店は繁盛したようで、金を貯め、31歳のときに、川内村庄屋家督を買取り、庄屋になる。33歳で養子を迎え、37歳で家督を養子に譲って引退。48歳のときには横林村の庄屋家督を買って庄屋になる。慶応4年66歳でなくなる。正敬が後を継ぐ。

以上は、正盛の孫の西園寺源透の「運魂鈍」による。
しかし、庄屋というのは、農業を知らなくてもできるのか、とちょっと驚き。この人は商売人だったはずだ。江戸や大坂で働き、おそらく計数に明るく、にかなり世慣れてはいたのだろう。当時の宇和島の庄屋は、農というより商売人、実業家が多かったそうだから、珍しくはないのかもしれない。でも、山奥の庄屋が勤まっただろうか。

横林村(今の野村町)は山国で、博徒や怠け者が多く、郡内屈指の難治の村、また貧窮の村などといっているが、村民からすれば文句をいいたいところがたくさんあった庄屋にちがいない。大野正盛庄屋に対してしきりに村民が抗議したようだ。


さて、西園寺源透という人は、愛媛の偉人、先覚者の一人だそうだ。
元治元年川内村の大野正武の長男に生まれ、明治4年に西園寺家の養子に。
村長、郡長などを勤め、明治25年には県会議員。おそらく無役地裁判では庄屋側として農民の運動に反対した人だろう。
明治41年には松山に移住し、大正9年、伊予史談会を設立。
昭和22年、84歳で亡くなる。

愛媛県立図書館も宇和島市立図書館も「無役地」とか「野村騒動」で検索しても何も見つからず、宇和4郡の無役地裁判闘争が今なお地元愛媛でも宇和島でも知られることがないのは、この人の力があったのだろうか。


明治24年行政裁判所

2009-08-15 | 宇和島藩
さて、行政裁判所の第1回審問は明治24年6月13日。
出廷者 原告 萩尾伊代太郎、前野勝三郎、熊谷栄蔵。
    被告 愛媛県属近藤義次、山田喜代次
裁判長 槙村正直
評定官 本田親雄ほか4名
書記  石田轍郎

行政裁判所長官槙村正直について。

近代史文庫の「無役地事件」史料には行政裁判所長官として植村正直、と書いていますが、これは槙村(まきむら)正直の書き間違いでしょう。

槙村正直、長州藩士です。天保5年生まれ。桂小五郎の子分格?京都府知事になり、「小野組転籍問題」(?)とかで江藤新平から厳しく追及されたとか(くわしいことは知りません)。明治29年63歳で没。明治24年は58歳。

被告の愛媛県知事勝間田稔。天保13年生まれ。この人も長州藩士。戊辰戦争にも従軍した経験あり。伊藤博文の下で内務省に勤務し、明治18年には愛知県知事。さすが長州閥、このころはあちこちのえらいさんになっています。

元長州藩士が裁判長で、被告も同じ長州藩士、この勝負、最初から決まっていたかもしれません。

なお、行政裁判所は、東京にひとつしかなかったそうな。


(裁判長)今から審問を始める。原告はまず申し立てをしなさい。
(原告代人前野) 被告愛媛県知事のなした旧村吏役料地の処分取り消しを請求するものです。

(萩尾)  庄屋家督の由来をのべ、旧藩は無役地を4分6分に分け、6分をひきあげるが、県になって、無役地のすべてを庄屋の私有にしたことは違法だと訴えるが、長いので省略。
(裁判長)  被告は原告の申し立てに対して陳述すべきことがあればいいなさい。
(近藤) 明治5年に土地所有権は確定しています。それ以前は領主が地主であり、人民は小作人に過ぎません。所有権はありません。しかも無役地は庄屋の私有地であります。その理由は庄屋は世襲で、庄屋の相続人が幼少のときは、他村の庄屋が後見をし、無役地から得られる所得は幼者の所得とします。県庁の処分は不当ではありません。原告の請求を棄却されるように願います。
(裁判長)原告は被告の答弁に申し立てすることがあればいいなさい。
(萩尾)被告の答弁書はすべて嘘です(被告は審問の前に答弁書を出している)。
人民は、県庁の処分になんの不服も申し立てなかった、とありますが、決してそのようなことはありません。人民が苦情を申し立てこと数え切れず、県庁は人民が苦情を起こすごとにこれを捕縛し、これを殺したこともいく人もいます。しかし、人民は命を投げ出して不服をとなえたのです。今の県知事はこの事実を知らないからそんなことをいうのです。また、庄屋は世襲ではありません。幼者の場合、隣村の庄屋が後見人がつとめますが、それは名目のみ、実際は横目が事務をします。
・・・・・

と、まだずっと審問は続けど、吾輩もさすがあきてきた(笑)。「もういい」。無役地事件はちょっと休憩にします。気分転換をしなくちゃ。





近藤義次 県役人の調査報告

2009-08-15 | 宇和島藩
愛媛県の役人近藤義次は無役地事件調査のため宇和島に出張ています。
明治24年4月から行政裁判所で被告愛媛県知事の代理人として出廷していますから、近藤義次にとっても詳細な調査が必要です。

勝間田知事は各宇和郡の郡長に通達を出し、部下近藤義次の便宜をはかるように伝えています。

この近藤義次はできる男だったのでしょう。出張がおわってから長い復命書を出していて、短い間によく調べているのがわかります。また行政裁判所では9回ほどの審問があるのですが、そのたびごとに知事に様子を報告しています。かなり出世をしたのでは。でも知事は転任してしまったら、それまでか?

以下、調査旅行の概要。

7月25日松山を立ち、翌26日宇和島に着。まだこのころは松山ー宇和島間の鉄道はなかったはずだから、足は船でしょうか。松山から宇和島まで1日かかっています。

宇和島には7月30日まで滞在、その間、伊達市所蔵の「弌野載」や「宇和郡旧記」等の藩の史料を借覧。

7月31日、宇和島から卯之町にいき、中川村の旧庄屋の梶原景栄とそこの農民に面会して話を聞く。東宇和郡長山下興作から「藤蔓延年譜」を借りる。

8月1日、卯之町から笠置村の旧庄屋牧野純蔵に会う。ここで「事実をたずね、大いに納得」と書いています。市村敏麿が関係した大阪控訴院の判決状やそのときの証拠物の写しを借りる。その日のうちに八幡浜へ。

八幡浜には8月5日まで滞在。ここでは旧庄屋浅井記博、双岩村旧庄屋清水常記などから持っている古記録を点検。また、宮内村旧庄屋都築温太郎の家にいき、その家に所蔵している古記録を閲覧。組頭からは帳簿類を借りる。宮内村の都築温太郎は無役地事件で最初に訴えられる人です。宇和島では有名な人ではないか?


8月6日八幡浜を出発し、再び宇和島にいたり、8月廿日まで滞在、とある。廿は20日のはずですが、ちょっと長い(10日かな?)。

宇和島では、旧庄屋清家信篤、桜町の玉井安蔵、北宇和郡長竹場好明に会って、話を聞いたり、証拠物を見せてもらったりしている。

玉井安蔵は市村敏麿が控訴した裁判の被告。牧野純蔵につづいて、この人も衆議院議員になり、また土居通夫とともに、宇和島鉄道かなんかの社長となった人です。

宇和郡の旧庄屋さんは無役地の大きな財産を手にしたためか、銀行とか鉄道とか事業に投資した人が多いのだろうか?

8月廿一日、宇和島を発し、廿二日帰庁せり。

この人が書いた報告書では、「不鳴条」という史料(判決では信用しがたい、といわれた史料)について、「これまで排斥されたといえども、これは旧宇和島藩で中見役と称する税吏松江某が編集したもので、記するところは信頼できるに足る」と書いています。

また、判決では昔、洪水があったかどうかわからない、いや、洪水はなかった、とか宣告されたのですが、旧庄屋の都築温太郎たちも、必ずしも洪水がなかったとはいえない、と語ったと、書き、洪水は歴史上の事実ではないか、と報告しています。

さて、次はいよいよ萩尾伊代太郎と近藤義次の対決。行政裁判所です。



萩尾伊代太郎② 無役地

2009-08-15 | 宇和島藩
史料は、物理や化学の教科書を読んでいるような感じ。いや、英文を読む感じか。日本語のはずなのに、よく意味のわからないところがあり、ところどころだけわかるいうような状態。
めんどうなので、各章の一部分だけ適当に紹介。無役地とは何なのかなんとなくわかるかも。

第4条

庄屋の役地を耕作する方法は、村民の中より順番に田植え役、農役など村方の話し合いにより各人の分担を決め、役地を割りつけ、その主要な業務は少しも庄屋の預かるところでなく、みな純然たる村民の負担です。だから、無役地は、一村共有地を代表する1個の法人です。

第5条

当時、徴税法は年貢といわず、御物成と呼びました。半額以上の税率で、負担が重いので、農民は当時、本百姓になるのをいやがりました。

第7条

廃藩置県のあと、突然、庄屋は役料地という理由でこれをひきあげ、後役の給料にあてたのは、すなわち村有地たる確証を示すものです。

第8条

明治5年に庄屋役地は村民に告知せずに保管を命じ、その収益を後役の給料にあてながら、庄屋の住宅に限り、役宅としてこれだけ村に返還したのはどういうわけでしょう。役宅と役地は同じ村有地なのだから、役地も役宅と同様の処置にすべきではないでしょうか。組頭家督は、庄屋役地と同じもので、これは明治7年に村有になっています。

第9条

当宇和4郡に限り、今日まで村民が貧しく、学校も皆無で、教育も低いのは、ひっきょう、祖先において均田の際、各耕地を村内に差し出したからで、庄屋役地も村内から割り出したものです。

第11章

旧庄屋という役義は1カ村の一名主で、村民と同格であり、村内で働く者に代わり、古来、被治者の義務役で、相当の報酬を与えられた一個のやとわれ人で、公民間の用達、周旋役です。だから、位階の点では村民と同じで、平民です。しかし、宇和島藩は、庄屋の給料は村民共有地から作られた米を村民から与えさせ、藩主もまた人民への義務として、村役料にあてる土地は無役地で、雑税を免除しました。庄屋は、当時の村吏であり、庄屋給料も村費である雑税ですから、雑税を産出するこの土地が村有地であることは明白です。

第12章

農民は、知識がなく、働くことの本分に安んじて、社会の交通に暗いため、つい文字のある者を知識人として尊敬する弊風が生まれ、庄屋役ごとき、文筆で生活を依存する村用人に村民は権利を奪われました。庄屋は村役を私物のように世襲とし、領主もまた年貢に害がないので黙認しました。給料も世襲のようになりました。しかし、いったん、事故があって、村役人の資格を失ったときは、同時に世襲であった給料地も村に返還したことは、大名や士族と同じです。庄屋世襲の役料地は村有であることは明らかです。

第13条

明治4年に旧藩主が庄屋役を廃止し、庄屋家督田畑をひきあげた処置は至当であり、6月に4分6分にわけてその4分を庄屋に与えたのは恩恵の情からでたものだと思います。しかし、残りの6分もいつしか庄屋の私物のようになっているのはどうしたわけでしょう。

第14条

庄屋の給料を生んだ無役地は、華士族の知行地にあたる土地と同じですから、庄屋廃止と同時に村内に返還すべきです。

第18章

隣りの藩、松山藩、今治藩でも、その庄屋役地は宇和島藩と同じですが、みな村内に返還し、村有地となっています。当宇和4郡にかぎり理由なく共有地を旧庄屋に渡しているのはどういうわけでしょう。

以上は、明治24年1月に伊代太郎が愛媛県知事勝間田稔に出した伺書。
このあと、伊代太郎は東京の行政裁判所に県知事を被告に訴えます。

当時、庄屋は富裕階級。村人は貧民でした。伊代太郎は100年前の「貧困」村を代表する活動家青年だったのかもしれません。