虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

土地献上を願い出た元赤報隊士

2006-04-24 | 歴史
前回で、赤報隊にいた長谷川鉄之進は土地国有論を唱えた、と書いたけど、記憶ちがいだった。赤報隊に長谷川鉄之進という越後出身の志士はいたけど、土地国有をとなえたのは、依田鉄之助という信州佐久出身の人物だ。この依田も赤報隊にいてあやうく殺されそうになったけど、助かって村に帰る。

明治5年に、土地献上の願書を長野県に出すが、受理されない。依田としては、自分に続くものが現れて、土地国有という機運が生まれることを期待していたようだ。

明治7年には、あらためて「土地国有の建言書」を出す。国が土地を買い上げて、国民に平均に土地を分配してほしい、という意見だ。

幕末の世直し一揆から明治初期のご一新のころまでは、けっこう、庶民の中にこうした思想は出てきていたようだ。西洋の社会主義思想が伝わる前に。なにしろ、ご一新だ、当時の理想主義的な人にとっては、身分も土地も、なにもかも新しく変わると思ったかもしれない。特に、平田派国学者は、新しい世への理想が強かっただろう。それだけに裏切られた思いも強かったかもしれない。

藤村の「夜明け前」の第2部は、ご一新に裏切られた草莽の悲劇をえがくが、相楽総三の偽官軍事件から始まる。

そういえば、平田派国学者は、赤報隊周辺に多数集まっている。相楽総三も平田国学の徒だったそうだ。


幕末草莽のゆくえ 今村真幸

2006-04-23 | 宇和島藩
宇和島の市村敏麿は明治後、南予の農民に推されて代表として無役地事件の裁判闘争を戦い、すべての私財を失うが、どうも、これも庄屋という出自にも関係するだろう。庄屋は、農民の雇われ人であり、農民のために尽くす、という庄屋思想もあったと思う(隣村の土佐の天保庄屋同盟なども、有名だ)。

もうひとつ、庄屋層に受容された平田派国学の影響もあるかもしれない。当時の平田派国学がどのようなものであったかよくわからないのだけど、平田派国学者の中には、明治後、同じような軌跡をたどった草莽もすくなくないと思う(青山半蔵もまたその一人だ)。

上村希美雄「宮崎兄弟伝アジア篇中」(葦書房)という本をたまたま今日、ながめていたところ、今村真幸(まさき)という天保元年生まれの平田派国学者が出てきた。信州の人。兄の北原稲雄も平田派国学者として有名で、藤村の「夜明け前」にも出てくる。水戸天狗党が伊那を通過するとき、案内役を買ってでる。明治後、県の役人になるが、政治の目的とは、「最大細民に最大幸福を授ける」ことにある、とする思想に到達。

宮崎滔天の兄宮崎民蔵が土地復権運動の遊説に信州を訪ねたとき、この今村翁(77歳)に会っている。草創したばかりの日本社会党に最高齢で入党した人物。
他にもいると思う。赤報隊にいた長谷川鉄乃進も明治後、土地を国に返して土地国有論をとなえていなかったか(このへん、記憶あいまい)。

伊予の市村敏麿にも、土地の共有という思想があり、大井憲太郎ともつながりをもち、初期社会主義的な思想を持つ。

国学といえば、すぐ天皇崇拝の右翼という連想が浮かぶけど、庄屋、農民の学問ということで、土地、人の暮らしを思う学問でもあり、社会主義にもつながるのはおもしろい。

しかし、今、土地国有論なんて唱えたら、識者はどういううだろうか。私有財産の侵害、憲法違反、国賊というところかな。

伊予の草莽 市村敏麿

2006-04-23 | 宇和島藩
吉川弘文館の「明治維新人名辞典」にはこうあります(書いた人は三好昌文)。

「天保10年生まれ。土佐街道の要地に育った関係で、土佐藩士浪士西春松に師事し、同吉村寅太郎、那須信吾らと交友があった。文久3年庄屋役を売って脱藩し、長州三田尻の忠勇隊に通じた。慶応年間、伊達宗城の人材登用に応じ、機密係、時勢見聞方として、松山藩の動静を長州再征の動きのなかで探索した。のち、宇和島藩庁の役人となり、明治3年の野村農民騒動に当たっては、首謀者の説得を命じられた。また、明治10年以降、南予農民の無役地事件を闘った。年80で没」

唯一の伝記として、昭和30年に郷土史家徳田三十四氏が書いた「市村敏麿の面影」という100ページほどの本がある。これは希少本になり、ほとんどの人が読むことができなかったけど、最近、城川町希少本合冊集(城川町教育委員会)に再録されている。

その伝記から、上記の記事に少し付け加えよう。
脱藩したのは、もちろん、天誅組に参加するため。しかし、間に合わなかった。
脱藩したときは、中山登と名乗った。市村と改姓したのは、伊達の殿様から、古市村出身だから、古をとって、市村にしたとか。

伊達宗城は、村田蔵六や高野長英を持ちだすまでもなく、つり人のように人材登用をするのが好きだったようだ。写真は、藩船を購入するため長崎に出張したときのもの。30歳。

戊辰東北戦争のときは、仙台藩に恭順の説得役の使者となる。明治後は、伊達宗城が外務卿や民部卿になるので、ともに、外交係や民部省の役人になる。
市村敏麿と名乗ったのは、明治後で、武士にはなったけど、明治後すぐに士籍を返還して平民に戻っています。はじめは市村武と名乗っています。

明治3年の野村騒動という百姓一揆に直面して(親友が一揆の頭領というのも劇的だ)、藩の改革につとめることに。激動の世です。すぐに廃藩置県。中央から県知事がきて、宇和島藩の土地改革も無に。

無役地事件というのは、まだよくわからないところがあるけど、庄屋の無役地(税がかからない)は農民みんなの公益地だったのだが、地租改正がすすむ中で、旧庄屋の私有地になってしまった事件。この土地は、みんなのものだ、という裁判闘争です。

明治後の市村の行動は、天誅組に参加するために脱藩したとき以上の決意で、第二の自己変革だったでしょう。5人も子どもがいた奥さんには去られます(それはわかる気がする、いいかげん疲れる)が、何度も上京する旅の途中の淡路島で見つけた27歳も年下の若い奥さんと再婚し、4人の子どもを作っています。

無役地事件については、いずれまたの機会に。






新戦略を求めて(朝日)

2006-04-23 | 新聞・テレビから
朝日は、今日から新シリーズ「新戦略を求めて」を連載するそうな。
「ジャーナリスト宣言」をした新生朝日の目玉商品でもあるらしい。

論説主幹 若宮啓文という人が、1面でこれからの日本をどうするか、総合戦略を探りたい、という連載趣旨をのべているが、なんと、国民の暮らし、生活についてはついては、1行も書かれていない。みごとだ。問題点を網羅的にあげて主張のない文だが、ただ一つだけ主張していることがあって、米国との同盟は堅持すべきだと説く。「自由経済の中心であり、いざとなれば身を賭して民主主義を守る米国である」と書いてある。なんだ、朝日の戦略は決まっているではないか。

取り上げるテーマとして、エネルギー、アジアでの共生、自衛隊と安保、国際貢献、国際経済・環境、政策力、の7点をあげているが(だれが読むんだ、こんな記事)、まるで、政府白書を見るようだ。いや、政府白書にだって、国民の暮らしについては1章くらい設けているはずだ。

政府の旗振り役、あるいは、庶民の目くらまし役を自ら買って出るつもりかもしれぬ。

もうすぐ5月3日の憲法記念日がやってくる。
「憲法」こそ、国民の生活や日本の将来を形つくる戦略の基本だろう。
社説にまた「憲法」について書かなければならない朝日。またまた世論調査をネタにしてあいまいに言葉をにごすか、あるいは、1歩踏み出すか、朝日の「戦略」をはっきり明示すべきときだ。朝日の戦略を見てみよう。

庄内町役場の清河八郎のHP

2006-04-16 | 日記
知らなかった。
庄内町役場が清河八郎のホームページを立ち上げていた。
今年の2月に立ち上げたらしい。役場の人に、幕末ファンでパソコンに強い人がきっといるんだね。いいことだ。

それぞれの役場も郷土の人物、たとえば、それぞれの百姓一揆など、この八郎のページのようにわかりやすく、おもしろく発信したらいいと思う。

自分のブログに八郎の「虎尾の会」なんて名前を借用してるけど、ちょっとおこがましいな。いずれ、名前を変えなくちゃ。

画像は、播州清水寺の桜

教育を破壊する元凶

2006-04-15 | 新聞・テレビから
今日の朝刊に東京都の教育委員会が、職員会議での採決を禁止という通知を出したという記事が出ていた。教師による職員会議は無用、どんどん上からの命令で運営していけ、という通達だ。東京都の教育委員会の品性下劣さは、以前から全国的にも有名だが、ここまでやるか。

東京都の教師、そして、保護者が、これに対してどうするのか。黙っておけることではないだろう。こんな通知を出す委員会も恥知らずだが、これを黙って見過ごしたら市民も恥知らずになってしまう。抗議すべきだろう。

毎日の社説では、「大人げない」、朝日の社説では、「こっけい」と出ていたが、そんな寸評でおさめるニュースではないはずだ。





播州清水寺

2006-04-15 | 日記
画像は清水寺の仁王門。朱色の門てよくあるけど、けばけばしくて好きじゃない。でも、創建当時は、こんなのだったのかな。仏像だって、ピカピカの金色よりも、さびた色や、木像の方が好きだけど、仏像も本来は金色なのかもしれないな。

この土地は水がなくて困っていたところ、仙人が祈ってここに水が湧き出したので、清水寺と名がついたのだそうだ。その水が出た、「おかげの井戸」というのも残っていて、井戸の水をのぞいて自分の顔を見たら、寿命が3年のびる、と案内に書いてあった。たった3年かよ。

まあまあやな。建物は、ほとんどが戦後、昭和も後半になって再建されたもので、歴史を感じさせるものではない。
画像が白いのは霧です。





播州の寺 朝光寺と清水寺

2006-04-15 | 日記
小雨が降っていたけど、ドライブをした。
ドライブするといってもどこいけばいいんだろう。遊園地や公園という歳でもなく、最近はどうしても、お寺になってしまう(笑)。寺にはそんなに関心はないのだけど、自然の中の寺のたたずまいに慰安を感じるのかな。疲れてるんだなー。

兵庫県加東郡社町。東条湖ランドの近くだ。一般道路を通って、約1時間半。
途中、沿道で見かける桜もきれいだった。

朝光寺。本堂は国宝。ほかに多宝党、鐘楼もある。無料で、無人。いかにも古刹といった趣。そばにつくばねの滝という名の小さな滝がある。車で走っていても外からは見えなくて、森の中にひっそりと建っている寺だ。なんでも印度僧が創建したらしい。現在の建物は室町期のものだとか。本堂の戸は開けられていて、中に入ることができる。何もなんいんだけど。

近くに、播州清水寺(西国25番札所)があるので、寄ってみた。ここは、山の上にあり、車の入山料300円とられた。山の上なので、霧が出ていた。

ここは、観光バスもくるらしく、みやげもの屋もあり、お客さんもちらちらと来ていた。晴れていたら、眺めはいいと思う。けっこう広くて、大講堂や根本中堂、薬師堂など建物も多い。でも、どれも新しく再建されたものばかりだ。観光寺かな。今日は霧に包まれていたので、まあ、よかった。ここのブログは画像は1枚しかのせられないので、清水寺の画像は次回に。



また春や

2006-04-09 | 日記
虎尾の会ブログを始めてちょうど1年だ。1年前の今頃はちょうどロシアのナロードに興味を持っていたっけ。興味はちっとも長続きせず、フラフラしてばかり。

今日は、長谷の棚田を再び見にいった。今、田んぼの耕作が始まったばかりというところか。田植えの季節になったら、きっといい風景になると思う。棚田の土手で、つくしやふきのとうを見つけた。

能勢を車で走っていると、四国の山村を走っているような錯覚を持つこともある。

4月、あたたかくなったのはいいのだけど、いろいろ心配事もふえる月なので、あまり好きではないのだ。

画像が消えた

2006-04-05 | 日記
ブログに画像をのせた写真はもう不要だろうと、画像だけ削除したら、ブログの画像も消えていた。そうなのか。あれは削除したらあかんのか。
過去のログでは、画像が消えているのがあります。悪しからず。ようわからんわい。

デモさん、ストさんと冷笑する新聞

2006-04-02 | 新聞・テレビから
今日の朝日朝刊。パリの抗議行動の記事の横に、「水平線、地平線」のコラム。まるで、パリのデモやストの行動を冷笑するかのような文。記者は冨永 格。パリ支局長かなんかのえらいさんだろう。

見出しは、「楽しく危うい街頭政治」。高校生が線路でお尻を見せて気勢をあげていると書いて、「楽しく怒ることができる社会。それはいいが、重要政策が街角で揺らぐ風土も健全といえるのか」とむすび、「デモさん、ストさん」と、水戸黄門の助さん角さんになぞらえる。記者は、デモやストは独裁国家でやるべきで、民主主義の国では「デモさん、ストさん」は迷惑だといっていると思う。この人にとっては、重要政策は、国会でやり、おえらい人たちの審議会で決めるもので、下々は口を出すべきではないのだろう。

耐震偽装の問題も、国会で追及が止まると同時に記事にすることをやめ、民主党だのみの朝日。自ら取材し、国民の知る権利を行使して権力を追求する姿勢なんかとっくになくした新聞社。

デモやストは長年かかって認められた権利ではないか。デモやストを揶揄する国こそ健全ではない。記者だったら、街頭に出ろ!

しかし、この森永というような記者が新聞社では出世するのだろうな。
フランスの雇用法に対しての意見は保留し(これが新聞社の中庸なのだろう)、街頭政治を揶揄し、結果的には、市民の抗議行動に反対していることになる。だましのテクニック。

そういえば、百姓一揆のときは、百姓たちは、役人を「狸」とよび、「だまされるな、だまだれるな」と言ったけ(宇和島の野村騒動)。





一揆は山奥から 野村騒動

2006-04-01 | 一揆
一揆の始まりは山奥から。信州の一揆もそうだし、武左衛門一揆もそうだ。
たしか百姓一揆の数では信州が一番だったと思うが、宇和島藩もトップクラスに入るだろう。

宇和島藩最大の百姓一揆は、城川町の土居、古市、中津川村から始まる。1870年、今から136年前。明治3年3月の野村騒動だ。宇和島藩全領域をまきこみ、参加した農民1万5000人から3万ともいわれる。最高責任者は、中津川村の塩崎鶴太郎(38歳)と川津南村の大石和田治(32歳)。

山国では櫨(はぜ、うるし科)や楮(こうぞ)を栽培する。櫨はろうそくの原料、楮は和紙の原料だ。江戸時代は二つとも藩の特産品で専売制をしていた。

ここで、一揆の原因など詳しいことは書けないけど、きっかけは、櫨実の買い入れ価格を値上げしろ、と蝋座に要求。維新以来、物価は高騰し、宇和島藩は、税金(年貢)を銀(大豆銀納)で払うことになっているが、櫨実の価格を上げてもらわないととても銀ではらえない。もちろん、これだけではなく、税金(銀納)を免除しろ、昨年の未収分の税金も免除しろ、庄屋は不正な利益を得ているから、庄屋を是正しろ、貧しいものを助けろ、といろいろある。生活は限界にきていた。世直し一揆ともいわれる。

山奥から出た農民たちは、当時、藩の民生局がおかれていた野村(現野村町)に進み、そこの大庄屋緒方家を取り囲んで、要求書を投げ入れる。他の村からも続々と参加してくる。民生局の役人が来る。藩庁から幹部が来る。家老の桜田亀六が来る。4月はじめ、農民たちの要求の1部を受け入れてやっと帰村させることができる。

藩は小銃隊2隊、大砲2門をもちだし、殿様である藩知事自ら出馬しようとさえした。農民たちの威勢に恐れをなし、仮病を使って出馬しない重役たちも続出したり、乗馬の役人も落馬をくりかえしたりした。武士たちは、狸と罵倒され、一揆の恐ろしさを武士は目の当たりにする。

このとき、たまたま親の病気見舞いで故郷に帰っていた市村敏麿(当時新政府民部省の役人)も藩知事から説得を命じられ、古市村が最初に帰村することになる。

騒動の首謀者2人は処刑の判決がでるが、10年の遠島の刑に減刑される。これは、一揆の首謀者が市村敏麿の親友であったため、市村の努力による。野村騒動のあと、藩は藩政改革を余儀なくされる。

江戸時代の人と、「民主主義社会」の今の人とどちらが政治に真剣な目を向けているのだろうと思わざるをえない。江戸時代の人は、年貢率の引き上げから他のさまざまの施策など、藩の政治に敏感に対応している。自分たちの願い、要求を団体で訴える力があった。一揆を起こした日本人たちも、また忘れられた日本人なのかもしれない。



宮本常一「忘れられた日本人」と城川町

2006-04-01 | 宇和島藩
宮本常一の名著「わすれられた日本人」(岩波文庫)。
その中で最も忘れがたい印象を与えるのが、「土佐源氏」。たしかジャーナリストの佐野真一も、この「土佐源氏」には強いショックをうけたと書いてあったような気がする。
梼原村の橋の下に住む80過ぎの盲目の乞食老人の女遍歴談。最高級のポルノ談。

「あんたはどこかな?はぁ長州か、長州かな、そうかなァ、長州人はこのあたりへはえっときておった」と始まるばくろうの人生遍歴。この文庫の中にばくろうが歩いた村のひとつとして、東宇和郡惣川村の写真が出ているが、ここも今は城川町です。

どうも、この語り手は奥伊予、城川町の生まれのようだ。隣村が梼原村なので、古市、土居あたりかもしれない。「土佐源氏」の語りの中でも最も有名で、それが原因で目がみえなくなったという庄屋さんの奥さんとの恋話も、奥伊予での話だ。
題名は「土佐源氏」だけど、この人は「伊予源氏」だ。

実際は、もっときわどいことが書かれてあったそうだが、発売禁止になることをおそれて、あの程度にまとめたそうだ。

城川町の昔の村のようすもこの本で少しわかります。

城川町の風景を画像でアップしようと思ったけど、どうしても無理。景色はいろんな色素があるので、アップできないのだろうか。アップできるのとできないのがある。不思議。機械音痴です。この画像は城川町の桜。5分咲きといったところか。