虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

松下竜一 疾風の人

2007-09-26 | 読書
先週の日曜日の朝日の「愛の旅人」は、松下竜一とその妻洋子だった。
松下竜一は、「狼煙を見よ」などを買ったことがあるが、いい読者ではなく、あまり読んでいない。ただ、こんな物書きは、ほんとに少なくなった。あれだけ本を書いて年収200万(?)とかの貧乏暮らしだったそうだが、反権力の姿勢、売れなくても、書きたいことだけ書く、という作家は、まだ、他にいるのだろうか?

松下竜一の「疾風の人、ある草莽伝」を読みたいと思っている。増田宗太郎のことだ。福沢を暗殺しようとした攘夷派(国学派)だったが、のち、民権論者となり、西南の役に参加して29歳で死ぬ。なぜ西郷軍に加わるのかと問われ、西郷に1日接すれば1日の愛が生まれ、3日接すれば離れられなくなるとかいった人物だ(言葉は、うろ覚え)。福沢の自伝にもちょっと出てくる。増田は、福沢の又従兄弟になるらしい。

昔、中津にいったとき、福沢諭吉の家には寄ったが、このそばに松下竜一の家があり、また、増田宗太郎の家もあったのは知らなかった。知ってたら寄ったのに。
松下竜一は、福沢諭吉についてどう思っていたのだろう。

新聞(愛の旅人)によると、「豆腐屋の四季」で松下を演じた緒方拳は松下によく似ていたそうで、緒方拳は、松下を他人には思えなかったらしく、「僕の中で松下竜一はまざまざと生きている」と語っている。この緒方が、松下の妻洋子さんのお母さんを見て、「松下さんは洋子さんのお母さんを好きだったのでは」と一目で見抜いたのはおもしろい。
画像は、三田市内のコスモス。

永澤寺

2007-09-24 | 日記
三田の栄澤寺にいった。ここは6月の花菖蒲が有名で、この季節に行っても何もないけど、近場の寺へ出向いてみたかった。秋だから。
寺の前の花菖蒲園は、シーズン中は900円くらいとられるが、今は無料で開放してある。といっても、花は咲いていないけど、ひろい庭はのんびりできる。中のソバ屋も営業していて、けっこうお客さんも来ていた。お寺も立派だ。でかい観音像も見る事ができる。無料。
帰り道、コスモス畑も通った。田んぼの黄緑と赤い彼岸花もよく似合う。秋を感じた。

音吉とシンガポール

2007-09-22 | 歴史
新約聖書の日本語訳に協力し、モリソン号で日本に向かうも砲撃された漂流民音吉は、いまや、ジョセフ彦よりも有名かもしれない。出身地美浜町では、顕彰会もあり、地元で応援する人も多い。三浦綾子の「海嶺」は音吉が主人公だ。映画にもなった。

この音吉、2年前の2005年2月にその遺灰がシンガポールから天保3年の漂流以来173年ぶりで帰国したそうだ。ネットで検索したら、美浜町のホームページに出ていた。

2004年に音吉の遺骨がシンガポールの国立墓地にあることがわかり、発掘、2005年に、音吉の遺骨は、シンガポール日本人墓地、音吉の子孫である山本家の墓、遭難した乗り組み員のために建てられた良参寺の墓に分骨されたそうだ。

山本家というのは、音吉の妹の嫁ぎ先のようだ。今、「音吉と縁のある」山本屋旅館というのを営業している。

シンガポールといえば、初めてわたしがいった外国だ(と、ここで、いつものごとく、自分の話になる 笑)。

淡路島のような小さな国で、安全な町ではある(小田実は警察国家だ、といっていたが)。センソーサ島とかタイガーバームガーデン、イスラム寺院、オーチャード通りの植物園とか見ると、あとは行くところもなく、わたしは、日本人墓地を訪ねた。そこはイギリス人の墓もあれば、中国人の墓もあるので、わたしは、墓の形で日本人墓地と見当をつけたのだと思う。なぜ日本人墓地を訪ねたか。からゆきさんか、移住者か、あるいは、日本軍の戦死者か、なんに関心があっていったのかはわからない。ただ、異国で死んだ人に興味があったのかもしれない。もちろん、このころは、音吉のことなど知らなかった。

ただ、チャイナタウンの2階建ての古い住居街(ちょっと遊郭街をも思わせる)を歩いていると、まるで日本の演歌のような叙情歌が流れていて、昔、日本からきた人はきっと望郷の念にかられただらうな、という感慨は持った。今は、シンガポールは近代的なビリが林立するモダン都市になっているのかもしれない。シンガポールのコーヒーは独特の臭みがしたのだけよく覚えている。
シンガポールでも、いまや音吉は日本人として有名になっているのかもしれない。


ジョセフ彦の仲間

2007-09-22 | 歴史
吉村昭の「アメリカ彦蔵」を読んだ。
吉村昭の小説は苦手で、今まで、通読したものがない。淡々と事実のみを叙述し、勝手な空想は極力抑えるという手法で、ほとんどノンフイクション小説といえる。もう少し色艶があったらなあ、と思うのだけど、それは読者の仕事なのかもしれない。他の人物だったら読むのをあきらめたかもしれないが、彦なので、最後まで読んだ。帰国してから、明治後のことはさらりと書くのみで詳しくはない。

やはり、彦といっしょに漂流した「栄力丸」の仲間の人生が印象的だ。
彦は炊の見習いとして栄力丸に乗ったのだが、その炊の先輩が仙八。この人は、サムパッチと呼ばれ、ペリーの黒船に乗って日本に帰ることになる。ほんとうは、栄力丸の他の船員も帰るはずだったのだが、仙八だけ残して、他のものは違うルートで帰国する方法をとり、ペリーの船から脱出してしまう。ペリーは日本との交渉に漂流民が必要だったらしい。幕府も仙八に帰国をすすめたのだが、しかし、仙八は上陸を拒否。モリソン号のときには、砲撃されているので、帰国したら罰せられると思ったのかもしれない。その後、宣教師と共に帰国し、宣教師の従者のような仕事をしながら、明治7年に死去している。

もう一人、岩吉。紀州の人。その後、伝吉と改名し、この人は、イギリス領事館の通訳としてオールコックと共に帰国する。安政七年イギリス公使館前で暗殺される。犯人は編み笠をかぶった攘夷派浪人のようだが、清河八郎か長州過激派かではないよね(笑)。桂小五郎などは、岩吉が暗殺されて、「「まことに、きみのよきこと」などと書いているらしい。

あと、「栄力丸」の乗り組み員ではなくて、彦が生まれたころに漂流した音吉がわすれがたい。上海で、彦たちの世話をするのだが、この人は、天保時代、「モリソン号」に乗って帰国するのだが、幕府から砲撃され追い返されてしまう。それ以来、自分は帰国をあきらめ、他の漂流民のための世話に情熱を燃やす。ついに日本に帰国することなく、シンガポールで死ぬ。

彦は、アメリカ公使館の通訳として帰国。彦も攘夷派浪人につけねらわれたらしく、胸にはいつもピストルを持っていたそうな。清河一派が暗殺したあのヒュースケンとも親しかったはずだ。

吉村昭の「アメリカ彦蔵」では、故郷の播磨町に帰ったときの彦のさびしい心境を描いている。故郷には、両親家族はなく、寺の過去張には、自分の戒名まで書かれてある。村の人もだれも自分に近づこうとはせず、故郷は自分とは無縁の土地になっていた。

彦は、アメリカではみんなから好かれ、親切にされた。人柄に愛すべきものがあったのだろう。日本に帰国できる船があっても、自分はあとまわしにして、他の漂流民を先に乗せてあげるなど、他人にも暖かい。いい奴だ。こんな人は、幕末みたいな物騒がしい世界では生き難かったかもしれない。

香港

2007-09-19 | 日記
中国にはいつか旅したいと思っている。
上海とか桂林とか中国に行った人からよかったあー、という話をよく聞く。ツアーだと、国内旅行と代わらない値段でいけそうだ。必ず、いくぞ。

わたしも、20年以上(もっと前になるか)、香港にはいったことがある。シンガポール、タイ、香港、台湾を格安航空券でアジアを回ったときだ。

香港は、怖いというイメージがあったので、滞在期間は短くしていたが、実際、最も楽しかったのが香港だった。
香港は、山の上にあるユースホステルに泊まった。新しくできたばかりのユースホステルで、日本人では、2番目だった。そこのマスターはヒゲをはやした青年でおもしろい人だった。「日本人は好きだ。日本人は料理をしても、いつもきれいにキッチンを掃除する」といっていた。あとで、気が付いたが、わたしは、夜遅くそのユースホステルについて、キッチンでインスタントラーメンを料理したが、残りの麺をばらばらに台所にほかしたままにしていたのではなかったか。あとから気が付いたのだが。
1階の広間のテーブルには男女のグループ(高校生)が話し合っている。興味深そうにわたしを見る。客は少なかったから。わたしは、1階に降りて、小田実流に、ニコリと笑いながら、そのテーブルに座る。すぐに親しくなる。

筆談で、荘子や老子などと書く。絵も書く。「あなたは、アーチストだ」といわれた」(笑)。ユースホステルの裏の丘からの夜景は今でも忘れられない。海に無数の船の光が浮かぶ。夜景を見ながら話した。英語がわからなくても通じる。
翌日は、知り合った若者たちに香港の町の飲茶に案内された。飲茶をついでもらったときは、人差し指でテーブルをコツコツとたたくのだと教わった。

インド人が、隣のベッドに来た。わたしに聞いてきた。「新宿にいきたい。安くとまれるところを知らないか」わたしは、「オールナイトの映画館か公園がある」と言うと、苦笑していた。しばらくすると、警官が数名やってきて、そのインド人を連行していった。

旅から帰って1年くらいすると、そのユースホステルで知り合った女の子から日本の大学に入りたい、安く下宿する方法はないだろうか、調べてほしい、と手紙が来た。わたしは、「日本は物価が高い。日本の大学にいくのはやめたほうがいい」とその案に反対しした。親心からいったのだが、今、思えば悪いことをした、と思っている。当時、香港は大学は少なく、どこかよその国の大学にいくしかなかったのだ。


渡辺崋山の旅

2007-09-17 | 歴史
書店に久しぶりで入ったら、ドナルド・キーンの「渡辺崋山」が出ていた。今年の3月には出版されていたらしい。定価がちょっと高いので、これは図書館で見つけたら読むことにしようと思った。
昔、江戸時代がわからなくて、天保時代なら、崋山がキーパーソン(幕末なら清河八郎だが)だろうと思い、崋山の交友関係に関心をもったことがある。旅のついでに、田原の崋山記念館や崋山のお墓にもいったことがあるけど、もう、すっかり記憶はゼロだ。記憶をとりもどすために、その中のいくつかを採録しておきます(パソ会議室から)。最近、こればっかりだ。画像は、能勢長谷付近。
以下、例によって、9年前のコピー。長いです。

崋山とつながる人「お銀さま」
98/11/20 22:47 05473へのコメント コメント数:1

少年のころに親しく接し、憧れた美貌の年上の女性。しかし、ある日、突然いな
くなる。25年、年月がたったあと、さて、あの人はどうしているのか、と
訪ねてみたくなったことはないですか?(^^)
崋山がそんな旅をしているのです。

それは、崋山がつかえている三宅友信という隠居の生母お銀さんなのです。
田原藩の11代藩主三宅備前守の側女お銀さまは、この三宅友信を生んだ翌年、
お屋敷を去り、そのまま田舎の実家に帰ってしまいます。
崋山は子供のころ、このお銀さんにかわいがられたことがあるのです。
また、少年のころ、このお銀さんが生んだ子供のお相手をつとめたり、青年期には、
この友信を藩主にしようと運動したり、友信とは切っても切れない関係にあります。
(でも、詳しい説明はこのさいカット)。

とにかく、あの25年前、殿様の側女になり、今、つかえている主君(藩主では
ない。若い)の生母であり、崋山自身も忘れられない人となっているお銀さんを
訪ねてみようということになったのです(もし、苦しい生活をしていたら、ひきとろ
うとまで考えていたようです)。実家のある土地で村人と結婚したという噂は得てい
るのです。

旅は天保2年の9月。崋山は39才。
主君友信は26才。殿様は顔も知らないので、崋山が弟子一人を連れて旅に出発。
場所は神奈川県厚木の付近。当時は相模国。そんなに遠くはないので、9月20日に
江戸を出、9月22日には着いています。近郊の小旅行です。なんと、この旅行記(ス
ケッチつき、雑記帖)が残っているのです。「遊相日記」といって短い(今なら15ペ
-ジ程度の)紀行文です。短いけど、こんな旅、実にドラマチックではありませんか。
まるで山田洋次の映画にも出てきそうな牧歌的な情景です。

崋山につながる人「お銀さま」2
( 8) 98/11/21 14:29 05485へのコメント コメント数:1

>実家のある土地で村人と結婚したという噂は得ているのです。
と書いたけど、どうも、 崋山はそんなことも知らなかったようです。
ただお銀さんは、相模国高座郡早川村の幾右衛門の長女という手がかり
だけです。

さて、早川村に近づいた崋山、人に早川村の幾右衛門を知らないか、と
問う。
「その人は酒に酔って川に落ちて死んだ」
「では、その家族は今でもいますか」
「知らん。小園というところに娘が行ったということを聞いた」
「なぜ?」
「小園の清蔵という百姓の妻になってる。そこは朝夕の煙細う立つ
だけの貧しい家だから、お殿様みたいな人のいくとこではないわ。
わしもよく知らないので、先へ行って聞いてみなせえ」

しばらく行くと、戸数わずか4つか5つくらいの鄙びたを歩く。
日陰にむしろをひいて、背中だけ日にあててうずくまっている爺さん
がいた。崋山がこの爺さんに聞くと、突然、声をかけられてびっくりした
のか、しばらく黙っていたのち、話しだす。

「早川村は、この細道をずっといけばいい。川がある。それが早川じゃ。
そのあたりで幾右衛門と聞けば、知られた酒好きの翁だから、みんな知っている。
もう80才にはなるだろうか。娘は4人いて、2人は江戸にいた。長女ははやくから
江戸に出て、宮仕えをし、花を飾り、錦を着て帰ったことがあったが、じきに
母親が亡くなったので、家に帰った。女ばかりの家だからということで、小園村
の清蔵の嫁になり、その清蔵の弟を父親の養子にし、次女と結婚させ、家を継がせ
た。幾右衛門も清蔵もたいそう貧しく暮らしているが、ふたりとも働き者だ。清蔵
は他村までかけて、人の世話をしているほどじゃから、自分の家計もままならぬそ
うじゃ」

早川村に行くと、子供たちが遊んでいる。
「幾右衛門の家はどこ?清蔵の家はどこ?」と村の童に聞く。
子供は、幾右衛門の家より清蔵の家のが近いよ、と言う。
じゃあ、教えてほしい、と崋山は子供に小銭をあげて、連れていってもらう。
途中、地蔵堂を過ぎたあたりで、いが栗頭の小さな子供が立っている。
崋山を案内した子供が「おじさん、この子が清蔵の子供だよ」と言う。
よく顔を見ると、たしかにお銀さまのおもかげがある。
「家はどこにある?」と崋山が聞くと、返事もしないで、その子は走り去って
しまう。
その子の後を追っていって、ついに目的の家に着く。大きな母屋で、両側に下屋や
木小屋もある。庭に粟がいっぱい干してあり、犬が鶏の守りをしていた。
崋山、縁側から声をかける。もうし!
すいません、長くなったので、今回はここまで(^^)
                             



崋山につながる人「お銀さま」3
( 8) 98/11/22 12:53 05495へのコメント コメント数:1

ごめんやして!
さて、崋山が(「ごめんやして!」とは言わないか(^^))、声をかけると、
「かしらに手拭をいただきて、老いさらほいたる女」が出てきて、
「いづれよりにや?とおそるおそる問う」

崋山、見て思う。「子供はお銀さまに似ていたけど、この人はそうではない。
しかし、20年以上も前のことだから、昔の顔のままのはずがない」となお、
じっくり顔を見つめていると、耳の下に大きないぼがあるのを発見。あ!
やっぱりあのお銀さまにまちがいない!

「わたしは、童のとき、あなたにとても憐れみをかけていただいた者です。
いささかなりとご恩報じにと訪ねてまいました。わたしは、だれだと思いますか?
お考えください」と崋山。

お銀さま「そんなことはわたしには身に覚えがありません。お殿様はどこからこられ
ましたか?もしや人まちがいではありませんか?」

崋山「まちがいではありません。あなたの名は何といいますか」
お銀「まち(町)」
崋山「昔の名は?」
お銀「まち」

崋山、あれ?やはりまちがいであったかと自信がなくなるが、耳の下のいぼがなに
よりの証拠だと思い、「昔、お銀と名のったことはありませんか?」と聞く。

お銀さん、急に驚いた顔をし、
「昔、江戸にいた時にはそう呼ばれていたこともあります。では、あなたさまは、
麹町(田原藩の江戸屋敷があった)から、おいでなされましたか?」と、言い、
「まずは奥へお入りなさい」と家に招じ入れてくれる。

部屋は畳はなく、板敷。そこで、改めて対面。頭の手拭をとった女性は、まぎれも
なくお銀さまその人でした。
「ただ涙にむせびて、互いに問い答えることもなく、時、移り」と崋山は書いてい
ます。

しばらくして、「わたしの名は何というか、おぼえておられますか」と崋山。
お銀「されば、上田ますみ様でらっしゃいますか?」(上田ますみは、25年前に今の
崋山と同じ年齢の侍だったらしい。お銀さまも25年という時間の経過を忘れて、当時
の同年配の武士の名をあげたのでしょう)

崋山がその者は15、6年前に亡くなりました、というと、
「では、あなたは渡辺登さまでいらっしゃいますね!どうしてまたお訪ねくだされた
のでしょう!なんと夢ではないのかしら!今日は夫は用事があってまだ帰ってないの
です。家の子を紹介します」とさっきから陰からようすを見ていた子供たちを呼んで
ひとりひとり紹介する。なんだかあわててとまどってるお銀さんの姿が目に浮かびます
ねぇ。
その場にいたのは、次男(19)、長女(11)、三男(8才、道で会ったいが栗頭の子
供)、末ッ子(3)。しばらくして、長男(22)も馬をひいて帰ってくる。「いと太く、
たくましい男にて、素朴いうばかりなし」と崋山は書いています。いい息子たちを持っ
てるとお銀さんの境遇に安堵したかもしれません。

お銀さんは、そばがき、酒、吸い物、とうふ、たまご、梅干し、栗餅などを出して、
馳走してくれるが、江戸の味になれた弟子などは、あまり食がすすまなかったらしい。
でも、崋山は、「その人喜びのあまり、何かと工夫してかくはもてなしなりける」
と、書いています。梅干しが一番うまかったそうだ。この場のようすもスケッチし
ています。

父親幾右衛門もやってきて、お銀さんとの昔語りに時を過ごす。
お銀さん「わが身の上を語りては泣き、都の空を思いては泣く。ただ今日という今日、
仏とやいわん、神とやいわん、かかる御人の草の庵におたずねくださって・・・」

しかし、はや、日が暮れかかる。
農業のさまたげになってはならぬと、崋山は辞去します。実にいい再会だった、と
崋山は幸福な時を過ごしたかもしれません。この日は、厚木に泊まるのですが、
いっぱい飲みたい気分だったのでしょう。「人を呼んでくれ、今日はおれがおごる」
と宴会をします。
なんと、その場に、あの時、会えなかったお銀さんの夫清蔵が訪ねてくるのです。
他村での仕事で遅く帰ってきた清蔵、妻から話を聞いて、大急ぎで走ってきたそう
です。走り通しだったので、あえぎあえぎ、崋山と対面します。角ばった赤黒い顔。
口は鰐のようで、厳然たる村丈夫。おみやげまでもってきている。いい夫だなぁ。
「清蔵と対話する。わが心様を話し、清蔵が心のほどを聞く。わが心、安し」
と崋山はこの紀行文をしめくくっています。

この紀行文の全原文は「日本庶民生活史料集成第3巻」(三一書房)に出ています。
また、この紀行文をわかりやすく解説したものに芳賀徹「渡辺崋山優しき旅人」(朝日
選書)があります。詳しく知りたい人はそれを見てね。清蔵、お銀さん夫婦の墓もある
そうだ。
(この芳賀徹という人は、新しい歴史教科書を作る会の人だけど)

渡辺崋山の旅2 厚木

2007-09-17 | 日記
1の続き。
崋山につながる人「厚木の医者」
( 8) 98/11/23 11:34 05504へのコメント

わたしは、崋山さんといっしょに厚木を旅してきました(^^)

さて、崋山につながる人、庶民編。
まず唐沢蘭斎というお医者さんから。この人とは宴会以来仲良くなり、翌日は
厚木をいっしょに案内してくれ、崋山が厚木を去る時には、遠くまで見送ってく
れる。一期一会の出会いで、このあと、この人がどうなったかは崋山も知らない。

日記には、蘭斎いわく、と、この無名の医者の話したことをずらっと書いている
のですから、崋山の取材意欲はたいしたものです。優秀な新聞記者にもなれるね。
崋山にこんなことを言ったそうです。
厚木は烏山藩3万石大久保佐渡守の領地。厚木は洪水の災害の多いところなんです
が、その災害は人災であるといい、藩政を強く批判しています。

「災害が起きると官は役人を派遣して堤の改築をする。役人がきて、市民(原文にも
市民と書いています)の財や食をむさぼり、民を使役して民を苦しめる。堤が完成
しても、ただ人を使って土石を運んで岡にしただけだから、頑丈ではない。川底をさ
らっていないので、役にたたない。大雨がふれば、かえって大災害になるだけだ。
堤が壊れてもその後、補修する話はいっこうに聞かない。
役人は土木工事は入札で業者を選ぶが、その費用もいいかげん。官金1千両使っても、
実際に工事に使う費用は300両にも満たない。また、工事を請け負った者は、官威を
かさにきて、村民を使い、その害、一国に及ぶ。堤がこわれたあと、結局、村人が力
を合わせ、新しい堤を築くが、官がつくるものよりも、民が自身で作ったものの方が、
その頑丈さはまさっている。もし、官金を村長に下して、工事をさせたら、大災害は、
決して起こらず、費用も半分ですむ」

なんだか、今のこの国の政治批判かと錯覚してしまいそうです。当時の田舎の
ふつうの人だって、市民政治の視点をしっかりもっているんだね。

またこんなことも言っています。
「厚木の土地、鳥山藩ではなく、天領になったら上々、旗本の知行地でもいい。
なぜなら、天領なら、願いごと達することも早く、何事も寛大公平。上にいるお代官
も、微禄なので、民に勢いがあり、代官も手なづけやすい。上も民の機嫌をうかがうか
ら、勝手の訴えもできる。ところが小さな藩はたちが悪い。威勢強く、詮索も行き届き、少しの隙があれば、刻政をおこない、ご用金を申し付け、ただ収奪ばかりをおこなう。
わたしは、医者だから、旗本の屋敷にも出入りするが、厚木の土地の富を旗本に説いて
奪ってもらおうかしら。これは簡単にできそうだ(^^)」
崋山の田原藩も、烏山藩以上にちっぽけな藩です。
「余、聞きて、愕然たり」と感想を述べています。
                             

崋山につながる人「厚木の侠客」
( 8) 98/11/23 11:36 05504へのコメント コメント数:2


絵をかくというおもしろい侍が宿に泊まっている噂を聞いて、その後も
いろんな人が崋山の宿にやってきます。絵師、趣味人、漁師、表具師、
名主、はては坊さんまで。そして、隣の酒井村(旗本領)の村長をしている
駿河屋彦八という人までやってくる。この人、実はこのへん一帯の侠客。

土地の人は皆、彦八に敬服しており、彦八が来ると、みんな首を下にし、彦八の
言うことは皆唯々諾々と従うという人。初めて会う人には必ず面罵するという
激しい気性の人。「初めて彦八に接し、面罵されなかったのはあなただけです」
と崋山は皆にいわれたそうだ。さすが崋山。

「彦八、性素朴、小児のごとし。不義を憎むにいたって己れ、死すとも止まず」。
彦八の酒井村は、もとは某家の領地だったが、主人に不正あり、彦八、許せぬ、
と大争い、ついに公裁に及んで、彦八に理ありとされて、某家はこの土地を移され、
酒井村は天領となる。で、彦八は村長もさせられている。
なるほど、前回、医者がしゃべっていた話(天領にかえてもらおう)は、彦八のこ
とが頭にあったんだね。

崋山はこの彦八に政治について問います。
  「なにか不足に思うことはあるかね」
彦八「何も思うことはありません。今日になれば、今日のことをなし、明日は明日
   のことでさあ。ましてや、人のことは知りませんや。
   ですが、もし、ここに2万両を10年無利息で貸してくれたら、土地に貧乏人は
   いなくなり、その繁栄もはかりしれない。これはだれでも知っていることで
   さあ。
   しかし、今の殿様では、慈仁の心、これっぽっちもなく、ただ民の隙をうか
   がい、収奪だけをしている。殿様を取り替えるのが一番いいと思ってます」

崋山、聞いて「愕然として驚き」、そなたの言うことは犬にも劣ることだ、と言い返す。 昔、ある百姓の犬が地頭をほえ、地頭がおこって百姓を責めた。百姓は「わたしの犬はわたしだけを主人と思って地頭さまを主人とは知らないのです」と言ってあやまったと
いう話をして、どうだ、厚木の民、この畜生に劣ると思わないか?と問う。しかし、ぜんぜん説得力がないね。現代人の目で見れば、崋山は封建社会の政治思想をぬけでていないけど(武士だから仕方ないのですが)、彦八は庶民の生活の視点から政治を見ているんだよ。

「彦八、黙然」とありますが、たぶん大坂人なら、アホぬかせ、やっぱりお侍に話しても無駄やった、という心境だったのでしょう。

林竹二は「田中正造の生涯」(講談社現代新書)の中にこの話を引き、「武士階級中の
ヒュ-マニスト崋山もこの種の士道へのとらわれをぬけることはできなかった」と、書い
ています。彦八という庶民像はすばらしいじゃないか!
そして、こんな一庶民の政治に対する考えを書き留めた記録もまた実に珍しいのではないでしょうか。崋山は彦八の顔もスケッチして残しています。
                                

崋山と松崎慊堂

2007-09-17 | 歴史
崋山につながる人「松崎慊堂(こうどう)」
( 8) 98/11/23 21:45 05510へのコメント コメント数:2

天保の大儒と称される老学者です。また、偉い人だ。しかも漢学者!固そう!
でも、崋山の学問の師であるだけでなく、命の恩人でもありますから、はずす
わけにはいきません。
で、そんなに固い人でもないんです。いい人です(^^)

明和8年(1771)肥後の農家に生まれる。貧しいので寺の小僧にやられる。
16の歳に江戸に出奔。江戸の寺の和尚にひろわれ、林家の昌平校に入る。
苦学して、後、佐藤一斎とともに林述斎門下の双壁といわれる。

苦学していたころ、こんな話があります。品川の娼家に泊まるのですが、
この書生は夜中に起き出して本を読んでいる。相方の女性が「なぜ、本を
読んでいるの?」と聞く。慊堂は「自分は苦学生で、昼間は本を読む暇が
ない。だから、夜を読書の時間にあてている」と答える。
「あなたが1カ月学問するにはどのくらいお金がかかるの」
「2分あれば、十分なんだが」
「2分くらいなら、わたしが倹約したらできるお金だから、わたしが学資を
送ってあげるわ」
それから毎月、この遊女は2分送ってくれ、おかげで、慊堂の学問も進み、
塾を開いて独立できるようになり、慊堂は、この遊女を落籍して妻にします。

慊堂が「蛮社の獄」で牢屋にいれられた時は、慊堂はすでに70才以上の高齢で、
しかも病気で苦しんでいました。しかし、崋山を助けるために憤然と行動を
おこします。対照的なのが、佐藤一斎。この人は崋山を助けるよう人に求められ
ても、「何もしないほうがいい」と断わるのです。(崋山は佐藤一斎も松崎慊堂
とも肖像画をかいています)

慊堂は林述斎に会い、鳥居耀蔵にも会い、水野忠邦にも崋山は無実であるという
建白書を出すのです。崋山は死刑にきまっていたようですが、この建白書が水野
を動かし、崋山の罪は軽減されます。

前、AKIさんが近藤重蔵の息子の世話を羽倉簡堂がした、と書いておられまし
たが、羽倉さんにたのんだのが、なんと、この松崎慊堂のようです。
この人も、めんどう見がいいねぇ。この時代、親分がいっぱいいるね(^^)

崋山が自殺したことを知った時、慊堂は「崋山は杞憂のために罰せられ、杞憂の
ために死んだ」と悲しんでいます。

慊堂は50才ころから70すぎで死ぬまで日記をつけていたようで、それは「慊堂日録」
として平凡社東洋文庫全6巻(文政6年から天保15年まで)として出版されています。
この中には、崋山の記事はもちろん、大塩の乱の記事なども出ているそうです。



蕃談(漂流民次郎吉)1

2007-09-16 | 歴史
漂流民話、もう一つありましたので、書いておきます。
これも、9年前、この時期、なんか集中的に漂流談を読んだのでしょう。その後は、すっかり忘れていますから、熱しやすく冷めやすい自分の性向がよくわかります。この漂流談は、あまり印象に残っていないので、たぶんおもしろくないのかもしれません。パソ通時代の漂流談は、これでおしまいです。
以下コピー。

漂流民次郎吉の話(蕃談)
( 8) 98/06/22 00:46 コメント数:2

天保9年に遭難して漂流した越中富山の長者丸(10人乗り)の漂流記をやってみます。
この漂流記は日本庶民生活史料集成にある「時規(とけい)物語」と「蕃談」が
ありますが、「時規物語」は長すぎるし(しかし、挿絵は素晴しい)、「蕃談」
は東洋文庫に現代語訳があるので、「蕃談」を読んでみることにします。

まだぜんぜん読んでいないので、おもしろいのかつまらないのかは、まったくわから
ない。つまらなかったら(あまりわたしの興味をひかなかったら)、連載もすぐ終わ
るつもりです。でも、井伏鱒二の「漂民宇三郎」はこの事件が史料になっているそう
やし、ちょっとは何かあるかもしれません。

「蕃談」。漂流民次郎吉に取材してこの本を書いた人は、古賀謹一郎。
幕末期には、蕃書調所という幕府の洋学研究所の頭取を勤めた人です。
話を取材した時は29才のころかな。
その序文には概略こんなことを書いています。

中国の晋の代に、ある漁師が桃源境を旅して帰って人々に語り、人々はその
話に驚いたという。この漂流民の話も、わたしたちにとっては桃源境を旅した
人の話のようだ。
しかし、わたし(古賀)はこうも思う。
晋に住んでいたという桃源境の人々は洞窟の中にこもり、500年間、外の世界を
知らなかった。桃源境の人々こそ、漁師から世間の話を聞き、びっくりしたので
はなかろうか。
いや、われわれも、この桃源境の人々と同じではないのか。
鎖国して、海外の事情は何も知らない。

蘭学や長崎だけの情報では満足できない、という鎖国時代の学者の焦り、海外への
探究心を感じます。
                              
RE:漂流民次郎吉の話(蕃談)
( 8) 98/06/22 21:26 03989へのコメント

としまるさん、まいど!海の男 ホ-ンブロワ-じゃなかった藤五郎です(^^)
>>「蕃談」を読んでみることにします。
>これって何て読むんだっけ?未だ学校で習っていないよ(笑)
「ばんだん」と思うけど、ちがうかなぁ。「ばん」とキ-ボ-ドを押すと、
その中に蕃という漢字もあったんだ。
「蕃」というのは、外国人、未開の異国人という意味があるのでしょうね。
当時の日本にとって、中国を除けば、蕃なのだろうか?

この漂流談を語った次郎吉は当時、26才のただの水夫(雑用係)。
でも、体格堂々として、力持ち。大男のロシア人と相撲をとってもだれもかなわず、
日本人、強し、と尊敬されたようだよ。
対面したインタビュア-古賀謹一郎は、「顔色浅黒く、堂々たる偉丈夫で、
すぐれた記憶力を持ち、弁舌もまたさわやかである」と書いています。
ただ水夫の常として文字はなかったそうですが(ほんとかなぁ?)。

文字はなくても、その知性はすごいよ。(文字を知って本を読めば読むほど、
知性教養人格はかえって曇る場合もありうるな)

たとえば、こんなこと言っている。
「そもそもわが国は、外国といえばすべて仇敵視し、異国の船を見れば善悪を
問わずただちに砲撃する。したがって諸外国はわが国をあたかも狂犬に対する
ごとく深く警戒し、本土に少しでも近づく際は厳重に武装を整える。-略-
諸外国の船がみな日本の近海で武備を厳にするというのは、これまったくわが国
がみずからまねいた結果ではないであろうか」(東洋文庫「蕃談-漂流の記録1」
平凡社)

漂流の記録1、と書いていて全3巻とあるけど、どうも、2、3は出ていないようです。
でも「蕃談」はこの1巻だけで全部です。もうひとつの史料「時規物語」も合わせて
使って補っているので、これで漂流の経過は十分知ることができそうです。
                          

蕃談(漂流民次郎吉)2

2007-09-16 | 歴史
漂流民次郎吉の話「蕃談」(2)
( 8) 98/06/22 23:09 03987へのコメント コメント数:1

船は富山の能登屋の持ち船 長者丸(650石積み)。
乗組員は船頭兵四郎以下合計10名。

  どんな構成かというと、
船頭1名、平四郎(50才くらい) 総取締役。
親司(おやじ)1名 舵取取り役。操縦士。
表(おもて)1名、船首にいて方角を指示する水先案内人。
岡使い1名 会計係 荷物の記帳をしたりする。

片表 1名 片表以下からは若衆ともいうそうな。錨のあげおろしなど
     船内作業。
追い廻し 3名 雑用一切。次郎吉はこの役。
炊(かしき)2名 炊事係。
もちろん男ばっかです。

海の男たち、漂流する前までどんな仕事をしていたのかも見ておきましょう。
当時の船はただの交通産業ではなく、海を股にかけた商売をしておった
ような。

天保9年(1838)4月、大坂への廻米500石を積み、出航。
5月下旬、大坂着。ここで、米を富山藩の蔵屋敷に届ける。
大坂で、綿、砂糖その他を買い込み、空船になった船に積み込み、
6月中頃、大坂出航、7月6日新潟着。新潟の問屋に荷物を届ける。つまり、
大坂で積み込んだ綿や砂糖を売ったということかな?
8月下旬、松前城下に入港。
当然、新潟でお米を買い込み、米の少ない松前で売ったのでは?空船のまま
航行するはずはない・・。
9月末か10月初め箱館に入港。ここでこんぶ5、600石積み込む(これはどこへ
届けるつもりだったのだろう?)

10月10日ころ、南部藩領田ノ浜に向けて出発。出航の時、多くの船が
混雑していたため、接触事故をおこし、船に載せてあった伝馬船が
こわれる。修理のために、10月14日ころから田の浜に2週間ほど滞在。

南部藩は米の値段が高いので、船に残っていた30俵の米のうち20俵を売って、
塩びきの鮪(しび)100本に換える。船頭は商才がないとつとまらないなぁ。

田の浜に停泊中、巫女がきて「来月の23、4日ころ、この船は気をつけたほうが
いいぞ」といったり、悪魔払いと称して獅子舞いのようなことをするものがいた
り、不吉を予感させるようなこともあったらしい。

11月はじめ、仙台領唐丹(とうに)の港に着き、22日まで滞在。
23日出航の明け方、宿のものから、2日前に港の弁天島でひとりでに火が燃え出したり、
この明け方、いつもは聞こえない鐘の音が聞こえた、縁起はよくないので、気をつけ
るように」といわれる。いやなこと言われたね。
23日の朝8時ごろ、出航。
晴れて順風だったが、10時ごろから、西風が強く吹きはじめ、だんだん沖へ・・・。
漂流談は次回に。
                 参考史料  東洋文庫「蕃談」(平凡社)
漂流民次郎吉の話「蕃談」(3)
( 8) 98/06/23 20:47 03991へのコメント コメント数:1

残念ながら、「蕃談」それ自体には漂流のさまを伝える記事はありません。救助
された時点からの記事で始まるんです。船乗りたちの船内での苦労よりも、やは
り異国情報が大切やったんやなぁ。
で、この東洋文庫版の「蕃談」では漂流中のことは、「時規(とけい)物語」か
ら引用しています。

「時規物語」は加賀藩主前田斉泰(なりやす)の命によって家臣が漂流民から
聞き取って記録したもので、「蕃談」の半年後、嘉永3年に完成しています。
すごく大部な本で(漂流記としては最大ではないのか?)、挿絵も多く、すば
らしい本なのですが、長く秘されてきたようで、一般の目にふれることができ
るようになったのは、日本庶民生活史料集成(三一書房)に載ってからでしょう。

なんで「時規(とけい)物語」だって?実は、漂流民は異国の人に「時計」を贈
られ、帰国後、加賀の殿様に献上したからなんです。

では、では、東洋文庫「蕃談」によって漂流のようすをちくっと見てみましょう。

天保9年11月23日、朝8時ごろ仙台領唐丹港を出航した「長者丸」、10時ごろから
吹きだした大風(西風)のため、沖へ流され、昼すぎには、つめこんでいた塩しび
と、こんぶ100石の荷物を海中に捨てます。
24日、さらにこんぶ200石も海に捨てる。船の安定を保つためかなぁ。
25日、帆柱を切り倒し、船首に錨をふたつ降ろす。帆柱を切り倒すのは、風にあたっ
て、船が沈没しないようにするため、錨を降ろすのは船が風に流されないようにする
ためかな?

この大風、23日から27日まで5日間も続き、波は高く、船は揺れに揺れ、沈没の危険
にさらされたようで、この間、船員たちは食事らしい食事をとる間もなかったよう
だ。この間は暴風によるパニック、そして暴風との必死の闘いの時で、まだゆっくり
事態を考える暇もなかっただろうな。

28日。やっと晴れ、波も静まる。助かった、と喜ぶが、しかし、どこを見ても陸は見
えず、方角もわからない。食料の米はわすが2俵しかない。で、粥にして食べることに
する。方角がわからないので、やはり神くじ(占い)をひいている。忍び寄る不安。

12月17日夜、またも大嵐。船内は水びたし、伝馬船も流失。和船には甲板がないので、
高波がくると、それがドバッ-と船の中にたまるんですね。いっぱいになると、水船に
なって沈んでしまう。で、せっせと水(アカというらしい)をくみださなくてはいけ
ない。積み込んでいたこんぶが水を吸い込み、かさがふくれ、船が重くなったので、
こんぶもすぐに捨てなくてはならなくる。でも、みんなもうクタクタ。身体が動かん。
この時、船長の平四郎がみんなに梅干を一人に二粒ずつ配って口にいれさせると、
少し元気が出て、動き始めたそうな。
しかし、この嵐の時から、とうとうみんな覚悟を決め、髪を切ったそうだ。
遭難すると、船乗りたちは髪を切り、神さんの助けを祈るという習わしがあるようで
すね。
さて、これからは飢えと渇きと絶望と闘う日々が続くのです。
                       

蕃談3

2007-09-16 | 歴史
漂流民次郎吉の話「蕃談」(4)
( 8) 98/06/23 22:26 03993へのコメント コメント数:1

風の吹くままに漂流を続ける長者丸。
食料も乏しくなり、1日に米2合を10人で食べることになる。
米にこんぶを刻んで粥にし、また積み込んでいた塩しびを海水で煮て食べたり
した。
しかし、米も残すところ、あと3升となる。
せっかく30俵もあったのに、田の浜なんかで売って、いりもしない塩しびなん
か買うからだ、と船長への不満の声もあがる(船長はもっと安い土地で米を
買い入れるつもりだったらしい)。
で、船長は残りの3升の米は10人に平等に分ける。一人3合。みんなは自分の
手元に貯えておいて、生米のまま少しずつ噛っていたそうだ。

天保10年の正月も過ぎ、1月の半ばを越えたころには水はまったくなくなって
しまう。前回の「船長日記」の重吉さんは、「らんびき」という海水から真水
をとる方法できりぬけたけども、今回の船長さんは、その方法をよく知らなか
ったらしく失敗している(船長平四郎さんは、売薬商人上がりで、船には詳し
くなかったのかもしれない)。
いくらのどが渇いていても海水は飲めない。
しかし、あまりにのどが渇いていたのか、炊(かしき)の五三郎(25才)が
味噌桶にたまった海水をかぶかぶ飲んでしまい、それ以来、急に衰弱し、
24日の夜、死んでしまう。遺体は海中に沈める。

1月26日、久しぶりの雨。桶などを持ちだし、水をためる。この水は1日に3度
(朝、昼、晩)茶碗に1ぱいずつみんなに分配し、あとは、封印し、勝手に飲む
ことを禁止にする。雨はこのあとも一月に1度くらいしか降らなかったようだ。

2月になる。でも、日本では4月のような陽気。
船には常に海水が侵入してくるようになる。船底の釘が抜けたところから海水が
しみこんでくるらしい。せっせと水の汲み捨て作業をする。
2がつの終わりごろには船板に貝がつくようになり、船底には藻もはえてくる。
船員たちは、たまに流れてくる海草や魚(あまりいなかった)、藻なども食べた
ようだ。途中、大亀やさめも近寄ってきている。時規物語には、大亀の絵も載っ
ている。

4月12日、片表役の善右衛門(40才くらい)が死ぬ。
4月13日ごろ。表(水先案内人)の金六(49才)、投身自殺。
                             藤五郎
漂流民次郎吉の話「蕃談」(5)
( 8) 98/06/24 21:18 03996へのコメント コメント数:1


>かわいそうな五三郎(^^;)砂漠の上なら仕方もないが、海に浮かんでるんだから
>目の前の海水を飲みたくなるのも解らん事もないな---。
海水は塩気が強くてのどを通らないけど、どうしても水分がほしくて海水をのもう
とするなら、こうすればいいって「蛮談」にはかいてあったよ。
「桶に海水をくみいれて、そのなかに顔をつっこみ、しばらく息をとめてみる。
 そうすると、苦しくなって首をあげるとたんに、一口ごくりと飲み込んでしまう
 ことができる」って。
 なんだ、これでは、おぼれそうになった時に口に入る海水と同じだね。
さて、前回の続き。
4月13、4日ごろ、表(水先案内人)の金六は海にとびこんでしまうが、その
わけは、こうです。

この金六は松前で新たに乗り込んできた人。この船の案内人である人が松前で船を降
りてしまったので、急きょ、東航路(太平洋側航路)に詳しいという金六を松前で雇
いいれたわけ。
船が漂流したことについては、ずっと責任を感じていただろうし、新入りだけに、み
んなから非難されていたのかもしれませんね。
この時には、病気になり、満足に身体も動かせなくなっている。

この日、船の中で最年少の炊(かしき)金蔵(18才?)をよんでこんなことを言う。

「今まで20年、船に乗っていて失敗したことは1度もなかった。今度の難船は、
 おれの運が尽きた証拠だ。こんなおれが生きていたのでは、ほかの者にまで迷惑が
 かかる。この上は、早く命を断って、みんなを助けたい。
 どうか、この世の飲みおさめに水を4日分だけ飲ませてくれ」

金蔵は、そんなことはできないと断わったが、翌日は、金六はこう言う。
「どうか、おれを矢倉の上までつれていってくれ」
金蔵が体をかかえてなんとか上に運ぶと、そこでも水を要求する。
ようすがへんなので、金蔵がみんなに話すと、そんなの大うそだ、ただ水がほしいだ
けだ、ほっとけ、と言われる。

金六はしきりに頼む。
「せめて3日分の水を飲ませてくれたら思い残すことなく死ねる・・・たのむ、最期の
願いだ」

金蔵は見るにしのびなくなり、みんなに、どうか金六に水を飲ませてやってくれ、
もし、うそだったら、自分のもらう分の水でうめあわせる、と懇願する。
それほど言うなら、とみんなも許し、金蔵は茶碗で9はい分の水をもっていってやる。
金六はさもうまそうに水を飲み干したあと、身をおどらせて海にとびこんでしまった
そうです。

もう、みんな限界にきていたのでしょうね。あと一月も漂流していたら、全員、絶望
だったでしょう。

しかし、金六が海にとびこんでから約2週間後、アメリカの捕鯨船ゼンロッパ号に救助
されるのです。4月の24日ころ。
この捕鯨船は、ナンタケット島の捕鯨船。ナンタケット島といえば、当時の捕鯨業の
基地。いや、メルビィルの「白鯨」の主人公たちも、この島から出航するし、あのエイ
ハブ船長もこの島の出身なのです。海の魅力にとりつかれたメルビィルは「白鯨」の
中でも、ナンタケット島の人こそが海の住人であると、絶賛している名前です。海の男にとっては胸をときめかす港だったのでしょう。
しかし、日本の漂流民、エイハブ船長の船にはのらなくてよかったね(^^)
       

蕃談4

2007-09-16 | 歴史
漂流民次郎吉の話「蕃談」(6)
( 8) 98/06/25 20:19 03997へのコメント コメント数:1

長者丸の海上漂流は約6カ月、うち3人が死亡し、アメリカの捕鯨船に
救助されたのは7人になります。船長はケフカル、船の名はゼンロッパ号。
ただし、外国の名前については、漂流民の耳に聞こえたままを記録している
ので、正確には、ちゃんとした言い方があると思います。たとえば、サンドイッチ
(諸島)のことを「サンイチ」とか、オアフ(島)のことを「ワホ-」と書いたり
していますから。

7人はケフカル船長の船に約1と月のったあと、他の捕鯨船からもひきとりたい
という申し出があったので、ケフカル船長の船には船頭平四郎、次郎吉、金蔵
がのこり、あとの4人は、他の3隻の捕鯨船に分乗することになる。

そして、これら4隻の捕鯨船は捕鯨をしながらと、サンドイッチ諸島(つまり、ハワイ)
まで行き、オアフで7人は再び合流することになる。ハワイに行けば、広東までゆく軍
艦があるということらしい。
救助されたのが4月、ハワイに着いたのが9月なので、約5カ月間、漂民たちは捕鯨船
にのっていたことになります。捕鯨の手伝いもしたらしいよ。
捕鯨船の中の記事で、目についた記事を適当にピックアップすると、

・「三本マスト」を見て、あ、外国船だ、と思ったそうですから、外国船は3本マスト
  と知っていたのですね。
・外国船に乗り移る時には、みんなとびっきりの着物に着替えている。やはり正装する
 んだね。日本人の代表になるんだものね。
・救助された時、お米の粥に砂糖をまぜたのを出されている。「船長日記」の時にも、
 お米に砂糖をかけたのが出ていたし、ジョン万も、粥に砂糖をかけたのが出たそうだ。 なんやろ?うまいのやろか。だれか試してください。
・外国船に乗ってからは西洋服を支給されている。船頭は綿入れの着物を船長に贈って
 いる。また、1両もした脇差も船長に贈ったようだ。
・救助されて3、4日、はじめて石鹸を使って行水をしている。
・船には黒人もふたり乗っていて、一人は身長7尺5寸の大男、鼻の穴に1文銭がかるが
 るに入ったらしい。力もちで、ふだんはおとなしいがケンカすると水夫5、6人が相手
 にしてもかなわなかったそう。
・船頭平四郎が小さい春画を1まい持っていたが、船のみんながちょうだいちょうだい!
 というのでやってしまったとか。春画は世界共通の文化だね。
・夜になると、水夫たちは船首の方でダンスをしていた。
・捕鯨船の乗組員は30人ほど。

まあ、こんなところでしょうか。次郎吉たちはメモをとっていたわけではなく、帰国し
てから、記憶にたよってしゃべっているんですから。
                              

漂流民次郎吉の話「蕃談」(7)
( 8) 98/06/25 22:16 04001へのコメント コメント数:1

次郎吉たちは、天保10年(1839)9月から翌年の7月まで約11カ月間、ハワイに滞在
することになる。

アメリカの捕鯨船の船長は広東商人やここの宣教師に漂流民の世話をたのんで別れる。
広東商人(華僑)は広東いきの船に詳しいし、牧師さんは島の文化人だから損得ぬき
で世話をしてくれるはずと考えたのですね。
ところが、どうも広東商人は、本気になって送り帰すことよりも、貴重な労働力が手に
入ったことを喜んだだようで、いつまでも島にいてほしかったような感じです。
次郎吉たちは、ここで甘ショから砂糖をしぼりとる手伝いをさせられます。といっても
拘束された労働者といった苛酷な立場ではありませんが。
あちこちに有力な広東商人がいたようですね。

アメリカの牧師さんにはほんとによく世話になっています。牧師さんは、学校をつくり、ハワイの伝道事業の真っ最中だったのでしょうね。ハワイがアメリカのものになった
のは牧師さんたちの力なんでしょうか?
ここで船頭の平四郎が病気で死にますが、牧師さんが会葬してくれ、墓碑もつくって
くれます。
カヌ-をあやつる土地の原住民(カナカ族)も出てきます。
遊廓みたいなところに案内されますが、顔は真っ黒で、歯が欠けている(前歯を抜く
という風習があったらしい)女性なので、遠慮させてもらったそうですが。

アメリカの軍艦がなかなか来ない。フランス船の船長に聞くと、中国では、アヘン戦争が起きているから、広東経由は危険といわれる。結局、ロシア経由の方が早く帰国できる
かもわからないということで、牧師さんたちの世話でイギリス船を紹介してもらい、
天保11年7月やっとホノルルを出航します。漂流民は今、6人です。

ハワイ編は手抜きして大急ぎで通り抜けることにしました。詳しくは東洋文庫「蕃談」
を参照あれ。

             

蕃談5

2007-09-16 | 歴史
漂流民次郎吉の話「蕃談」(8)
( 8) 98/06/26 21:08 04002へのコメント コメント数:1

駆け足でいきます。

天保11年(1840)、9月、イギリス船にのってホノルルを出航、9月上旬、カムチャ
ッカのペトロバブロフスクに着く。

イギリス船長は、若く、髭面の飲み助だが、豪放で勇敢な男だったよう。
「この国の人の常として、地位や俸給の高いものほど、下に使っている者の倍以上
 も心身を労している。このことは船長の行動を見てわかった」
なんて書いています。徳川日本の皮肉もこめているのだろうか。
ぺトロバブロフスクは、「船長日記」の重吉も、高田屋嘉兵衛も滞在した町です。
(いったい何番目の訪問者になるのだろう?他にもいると思う)

はじめは、兵営に住まわせられるが、なんたって食事がまずい、兵隊用の粗末なもの
なので、苦情を言い、のち、3人の裕福な民間人に分宿させてもらうことにする。
ということは、今まで、かなりごちそうを食べさせていてもらったわけだ。

民間人のところに分宿するが、薪割りや倉庫の番など仕事もさせられる。奉公人に
なる。しかし、待遇が悪いと思ったら、自由に奉公先を変えることができるようなので、まあ、ホ-ムスティのようなものか。イルク-ツクから、「漂流民は厚くもてなせ」と指
示がくると、扱いも一段と丁寧になる。お客さま待遇だな。

新任の長官が赴任してきて、次郎吉は、新しい長官の家で世話になることになる。
長官の家には美人の小間使いキンニャという乙女がいて、長官に「どうだ、キンニャ
といっしょになってベテルブルグにいっしょにいかないか」としきりに勧められた
らしい。今だったら、ハ-イ!と帰化する人も多いと思うのに、当時の日本人は国に
帰りたいという気持ちがよほど強かったのだね。

次郎吉がカムチャッカの海辺を散歩していたとき、米俵を倉庫に運んでいるのを見て、
手伝ってあげようと、米俵2俵を軽々とかついだところ、みんなびっくりしたそうだ。
また、相撲をしばしばとっだが、いつもロシア人から、日本人にはかなわない、と
称賛されたそう。格闘技においても、かつてはレベルが高かったのかもしれぬ。

ここに、約10カ月滞在しますが、いそいで、次にいきます。
カムチャッカよりもオホ-ツクの方が、首都との連絡に便利ということで、天保12年
6月、ここを出航、7月にはオホ-ツクに移動します。
オホ-ツクの役所の長官はゴロウニン(日本に幽囚の身となる)の甥ということで屋
敷で世話になり、親切にもてなしてくれる。
また、ここの次官は、高田屋嘉兵衛をロシアに連れてきたリコルドの部下だったそう
で、この次官の家でも親切にしてもらえる。
日本はゴロウニンを捕え、ほんとうなら、敵なのに、こんなに親切にしてもらって、
なんとロシアは寛大なのだ、と漂流民は感激している。高田屋嘉兵衛がロシア人に
与えた好印象が漂流民の待遇をよくしたのだろうか。
この町で11カ月滞在。しかし、まだ帰国できないのだ!

オホ-ツクには船が少ないということで都からの指示で今度はアラスカのシトカへ
いくようにいわれる。シトカとは「船長日記」の重吉さんが美女の誘惑にあった土地。
アラスカのシトカへ6月下旬、出航、8月上旬シトカ着。
ナバロフはいなかったが、何代目かの長官に厚遇され、漂流民に召使の者までつけて
くれる。しかし、ここにも7カ月以上滞在することになる。北の海はいつでも船が航行
できるわけではないのですね。
本国に帰る最後の日、長官夫妻が別れの宴を設けてくれる。そこの部屋に見慣れな
い珍しい時計がかけてあって、みんながほめていると、これをあげる、おまえたちの国
の長官に献上しなさい、といわれる。
いよいよ、3月中旬エトロフに向けて出航というわけです。

漂流記をアップしていると、ついこちらも早く日本に帰したくなって、途中のようすは、めんどうになり、大幅に、いや、ほとんどカットしてしまいました(^^)。
次で、やっと終りです。早く、日本の陸(おか)に上がりたいよう!
                                 

漂流民次郎吉の話「蕃談」(9)
( 8) 98/06/27 00:18 04004へのコメント

天保14年(1843)3月シトカ港をロシア船にのって出航。
三陸海岸沖で漂流したのは、天保9年11月だから、もう5年たっています。

5月23日にエトロフ島のフルベツの岸にいく。
岸へ1里ばかりのところでアイヌの1隻の小船が近づく。
ロシア船に乗せると、松前藩の足軽小林朝五郎ほか6名(武士は小林だけ)。

どうも、小林朝五郎は上司に報告し、指示を待たずに、自分の判断ですぐ
かけつけたらしい。古びた仕事着に、ももひき、羽織といういでたちで、漂流民に
とってはちょっと恥ずかしいような服装だったらしい。「蕃談」では好意を
もって書かれていない。しかし、軽率で行動的なところは憎めない人柄も感じるな。
まあ、漂流民としては、わざわざ送り届けてくれたのに、日本の代表として出てき
たのが、下っぱの軽率な奴だったということがちょっと残念だったのかも。

船長は、それでもこの小林を引き取り代表人として丁重に扱い、船長室で歓待します。
小林はんは、大喜びで飲み食いし、刀の下げ緒を交換してもらったりしますが、その
うち酒が回って日本刀を抜き、刀の切れ味を示し武威を誇ったりする。船長も刀をぬき、「われわれの刀は思いのままに曲がったり伸びたりして、切先だけで、人を殺せる」な
どと対応する。しかし、なにせ小林はんは、言葉がわからないので、
漂流民が適当にふたりの間をとりなしたのでしょう。

漂流民は、「この船は帰りに一月もかかり、水が不足するので、水を提供してあげて
くれないか」と頼みますが、「水などもってのほか、本来なら、砲火をあびせて
うち払うところだ。早々に帰るべし」と断わります。そして、ほんとかどうか「うち払
いもせず、おまえたちを無事に上陸させたのはこのおれの功績。江戸での取り調べの時
はおれのことよく言っておいてくれよな」なんて言います。

しかし、この時点(天保14年)には、文政の打ち払い令も緩和し、前年には、天保薪水
令が出て、外国船への食料、水の供給は許可されているのです。
小林はんは知らなかったのでしょうか。ロシア人は知っていたようです。

「蕃談」には「次郎吉たちは、心の中で、この男が外国人の心情を理解せず、ただ軽薄
にいばりちらして相手に無礼を加えたことを嘆き、遠路はるばる漂民を送還してくれた
厚意にも感謝せず、お礼の品を進呈するどころか、薪や水の補給の必要がないかと問う
だけの礼儀もわきまえなかったことをひたすら残念に思った」と書いています。

しかし、ロシア人の方はこの男にそんなに悪意は感じなかったようで(漂流民がいいよ
うに通訳してくれたためかもしれません)、2年後、この男を尋ねにエトロフに来たよう
です。でも、小林はんは、その時には、すでに幕府から処罰を受けてエトロフにはいなかったそう。

さて、5年間漂流してきた次郎吉たちですが、日本に着いても、故郷に帰るのはなおも
6年間待たなければならないのです。江戸での取り調べです。
故郷に帰るまでに、二人が病死しています。早く帰らせてあげたらいいのに!
異国での漂流よりも日本に帰りついてからの生活の方が長く苦しいものではなかったで
しょうか。
嘉永元年10月無事に故郷に帰ったのは、岡使いの太三郎(帰郷後半年で病死)、追い回しの六兵衛、次郎吉、炊(かしき)の金蔵の4人だけです。
金蔵はその後、塩の小売人になったそうですが、次郎吉、六兵衛は消息不明。
その後、どんな思いで過ごしたか、幕末のジョウイ騒ぎをどう思ったか、興味をそそら
れますね。
長文失礼しました。
          参考:室賀信夫、矢守一彦編訳「蕃談」東洋文庫(平凡社)
        

ジョセフ彦漂流記1

2007-09-15 | 歴史
 今回も、また、9年前に書いたパソ通の歴史談話室からのコピーでブログを埋めてしまいます。
ジョセフ彦。ジョン万次郎は故郷に記念館もできているけど、彦は、記念碑だけで何も記念館らしきものはない(播磨町よ、作るべし)。知名度もジョン万よりも劣るのではないか。
ジョセフ彦は、長崎で桂小五郎や伊藤博文と交際あり、桂は竜馬あての手紙で、「彦と話し合うように」という手紙も出しているそうだが、竜馬との接触の史料的な裏づけはまだないようだ。でも、竜馬が長崎にいた時代、グラバー亭に彦は住んでいたのだから、会っていたはず。竜馬の民主主義観は、彦の影響もあったとなると、おもしろい。ジョセフ彦は日本で初めて新聞を作った人としても知られる。吉村昭の「アメリカ彦蔵」、「アメリカ彦蔵自伝」は、その後、手に入れたが、まだ読んでいないままだ。知名度も依然として低い。

昨年だったか、アメリカのジョン万の住んでいた家を記念館にする計画が、資金が集まらないので頓挫してしまった、という記事があった。
どうも、漂流民(船乗り)というのは、ちょっと格下げて見ているのではなかろうか。かれが武士や政治家だったら、こんな不当な評価は受けまい。彦や万は、政治家にはない庶民としての謙虚さが多すぎたのだろうか。漂流談を読んで思うのは、江戸時代の船乗りたちの人間力のすばらしさだ。もう一つ、思うのは、ロシアやアメリカの人々の異国人へのやさしさだ。アメリカは「白鯨」の時代にあたる。このころの海の男はいいな。
ちなみに、鶴見俊輔は小田実のことをジョン万次郎に比していた。
彦については、日本に帰国してからの活動をこれから調べたいな、と思っています。
以下、昔のコピー。

                           
彦蔵漂流記
( 8) 98/07/01 22:15 コメント数:2

さて、次は浜田彦蔵(ジョセフ彦)の漂流記です。
これは短いので、すぐに終わりそうです。
出版されたのは、文久3年、秋。幕末動乱まっさい中の時です。
彦蔵は、まだ日本語で自由に文章表現することはできないので、これは
岸田吟香が代筆したようです(聞いたことある名だけど、思い出せないや)。

近世後期の日本人の外国人との交渉は、まずは、漂流民個人、次が外国奉行、
次が外国使節、そして、留学生たち、そして、そして、それからは、どっと外
国が日本に満ちあふれるわけですね。

この彦蔵の漂流記は、福沢諭吉の「西洋事情」(慶応2年)よりも早く、アメリカ
紹介では先駆的だったようです。坂本竜馬もひょっとして読んだのだろうか(?)。
しかし、こんなの読んで感心しているところを見つかったら、「天誅!」と浪人
に斬られるかな(^^)

彦蔵は、天保8、兵庫県播磨に生まれ、「栄力丸」に乗って遭難したのは、13才の
時です。かれの経歴は「アメリカ彦蔵自伝」があるのですが、図書館が、今、休み
なので、まだ見ていません。
で、ここでは、彦蔵自伝とは別の「漂流記」の記事からのみ、報告します。

ただ、この栄力丸に彦蔵といっしょに乗っていた人たちは、幕末の漂流だっただけに
それぞれ、数奇な運命をたどっています。
まず、仙太郎というのは、ペリ-艦隊に乗って帰国します。亀蔵という人は、 遣米使
節 新見豊前守一行と帰国。岩吉という人はオ-ルコックの召使となっていましたが、
ジョウイ浪士(?)に殺されます。
また、「海嶺」の主人公音吉の世話なったのも、この栄力丸の船のりたちでした(日米
和親条約が調印されたあとで帰国できる)。
というわけで、今回は前おきだけで、おわりになっちゃいました。
                              
彦蔵漂流記(2)
( 8) 98/07/02 23:04 04043へのコメント コメント数:1

嘉永3年(1850)、10月26日、浦賀港を出航した栄力丸(17人)は遠州灘
で暴風にあい、異国船に救助されたのが12月21日。
約50日間の漂流です。この50日間、彦蔵は(少年の時は彦太郎だったそうだが)、
メモをとっていたのか、「漂流記」には、この漂流期間中の天候や船のようす
をかんたんにですが、記録しています。
えらい感心な子供ですね。
このとき、少年彦は満でいえば13才、炊(かしき)役です。
12才の時まで寺子屋に通っていたというから、かんたんな読み書きはできた
のでしょう。
でも、この彦少年、家庭的には恵まれてなくて、実父は彦が1才の時に死亡、母親
は12才の時に死亡しているのです。たしか彦自身の墓もその後、無縁墓になって
いたのではないかな(このへん確認してませんが)。しかし、写真で見ると、
彦は、謙虚そうで、ハンサム、とてもスマ-トな男です。

50日間の記録をちょっと眺めると以下のようなものです(省略しています)
10月29日。この日から漂流記録は始まります。風雨が激しくなり、帆を下ろし、
     船は飛鳥のようになり、生きた心地もなかった、と書いています。
10月31日、船の安定のために、帆柱を切り捨てる。
11月1日、風波もおさまり、桁を帆柱の代用にする。
    日本の船を見る。みんなは、この船に乗り移ろうというが、
    船長は、あえて助けを求めない。船長は、今年の春に船を失っているので、
    今、また船を捨てるのはいやだったのだろう。(まだ、陸に戻れる、
    と思っていたのだね。船長の責任は思いね。)
    夜、また大風。帆をおろす。
11月2日、かすかに山が見える。みんな喜ぶ。島の海岸に着く。
11月3日、島に上陸しようと思ったが、どこの国の島かわからない、
    もし鬼の住む島であったなら、命を失う、などど評議しているうちに、
    上陸もせず、漂流。また、途中で、ひとつの島を発見し、八丈島だと言う
    者もいたが、風の具合が悪く、東へ漂流する。
    (このへんまでは助かるチャンスはあったのだのな)

11月13日、風、強く、船は転覆しかける。積み荷を捨てる。髪を切り、神仏に
     祈る。(いよいよ、みんな覚悟を決めたか)
11月18日、蒸留器を仮に設けて、塩水から真水をとる。
11月23日、船頭は23夜を信仰していて、粥をたき、ぼた餅を作り、月の前に供えて
     みんなでたべる。(漂流中なのに、なかなか風流だぞ)
11月24日、2匹の恐ろしい鰐鮫が向かってくる。
12月3日、夕刻になって雪がふりだす。
12月5日、大波のため、船内に大量の海水。深さは6尺。けんめいにアカ(海水)を
     くみだす。
12月20日、船釘がゆるんだため、ロ-プを船に巻つける。
12月21日、異国船に救出。米国船オ-クラント号。

          

ジョゼフ彦漂流記2

2007-09-15 | 歴史
彦蔵漂流記(3)
( 8) 98/07/03 22:49 04056へのコメント コメント数:2

嘉永3年(1850年)、12月21日に栄力丸を救出した異国船は、アメリカの
商船オ-クラント号。中国からカリフォルニアへ帰る途中の船でした。

約40日の航海を続けてカリフォルニアに着くのですが、なにしろ
異国人と会うのは初めてなので、みんな疑心暗鬼の心境だったようです。
船員が「フィジ-島の人は人を食う」という話をすると、われわれもその
うち食われるのか?と思ったり、生きた豚を1頭殺す場面を見て、やはり
異人は鬼と同じだ、と恐れたり。

嘉永4年(1851年)1月23日、カリフォルニアの港に着く。港の役人がきて
「ハウア ユ-」と言ったので、この言葉は「はいや」に似ているので、
うれしかったとか。カルフォルニアは元メキシコの領土だったが、戦争
をして、アメリカの領土となり、金鉱の発見のため、サンフランシスコ
は大都会となった、と書いています。

着いた翌日、彦は港の役人に上陸を許され、まず靴を買ってもらい、市中見
物をする。黒人が大声を出して馬を御し、荷物を運んでいたりするのに驚き、
彦はまだ13才なので、黒人を怖がり、船主の手をぎゅっと握って船主のそば
をはなれなかったそうな。かわいいね。お店でパイというお菓子を食べさせ
てもらう。

港には古くなった船で、ただ荷物を積んでおく倉庫船といわれる船があり、彦
の船は、この倉庫船の隣に停泊する。倉庫船の主は彦たちを珍しがり、夜、
踊りに案内してくれる。2階建ての建物で2階が舞台、1階が飲食。踊るものは
仮面をかぶって、男が女の姿をし、女が男のふりをするそうだ。踊りが始まる
前、彦たちは舞台にあげられて紹介される。大勢の見物人たちから、煙草や指
輪やお菓子など恵んでもらったそうだ。彦が一番たくさんもらったそうで、洋
銀16枚もあったよし。やはり子供というのは得だね。
アメリカ人はみんな親切だったけども、特に漂流したのが子供の場合、みんなの
同情をひきますからね。

でも、子供だからと思って反対にだます悪い奴も中にはいたらしい。
踊りを見物してから2、3日後、別の船員が、あの洋銀16枚もっておいで、洋服を
買ってあげよう、と彦をつれだしますが、遊女のいるちょっといかがわしそうな
料理屋で勝手にさんざん飲み食いし、支払は彦の洋銀を使われたそうな。子供の
金を使って酒飲むな!

しばらくして、彦たち17人は港を防御するための大軍艦に乗り移り、ここで1年間
生活することになる。船長は常に彦をそばにおいて用事に使ったらしい。また、
この船で日本人の世話をする担当になったのは、ト-マスという人。見かけは髭面の
たくましい大男たが、とてもやさしく親切な人だったようだ。
この船で1年間、生活したのだけど、そこでの生活については書いてくれてないので、
わかりません。
あ、ひとつだけ、船の人たちは、毎日、何度も鉄アレイ(片手で持つ奴)を使って
筋肉を鍛えておったそうな。

書き落としたけど、船に救助された時、彦たちは半熟のゆでたまごを出されて、
これは変だぞ、と苦情を言おうとしたらしい。ということは、江戸時代の人たちの
ゆでたまごは、半熟ではなかったのだね。わたしも半熟は嫌いだ。
                               
彦蔵漂流記(4)
( 8) 98/07/04 21:09 04063へのコメント コメント数:1

彦たちを送り返してくれる軍艦がやっと港にきた。
1年間、彦たちは港の船に抑留生活を送ったわけだが、食事、衣服、調度に
いたるまで何不自由なく世話をしてもらったようで、船主と別れる時は、父母に
別れる思いがしたそうです。

さて、新しい軍艦の名は、セント・メリ-号。
大砲は22挺あり、乗り組みの役人28人、兵卒水兵100人ほどで今までで一番大きな
軍艦だったらしい。
出航してから17日目にサンドイッチ島(ハワイ)に着く。着く直前に、栄力丸の船
頭、万蔵が病死。遺体は島に葬り、10日間、島に滞留。

サンドイッチを出航して40日目、香港に着き、ここに3日間、滞留。ここは阿片戦争
でイギリスに奪われ、異人の家は美しいが、中国の人の家はとても粗悪、と書いてあ
ります。香港からマカオの港に入る。

そして、サスケハナ号に乗り移るのだけど(どこで乗り移ったのかがよくわからぬ)、
このサスケハナ号に乗り移ってからの待遇はすごく悪かったようです。

米など一粒もくれず、食事は水夫用、怒って足蹴にされることもあったらしい。
この軍艦の日本人への取扱いが悪かったのは、この船は中国人を常に取扱いなれた船
だったので、中国人に対すると同様の扱いをするため、と書いてあったが。
サンフランシスコからここまでいっしょに付いてきてくれたトマスさんも、同情し、
心を痛めてくれたのだけど、トマスさんにもどうすることもできず、追っ付けペリ-
がくる、ペリ-がきたら日本に送り返す、その時までしばらくがまんしてほしい、と
言われたそうだ。

しかし、3か月待ってもまだペリ-は来ない。この船の待遇にはがまんできないと
思った仲間の中の8人は南京に行ってそこから日本に帰ろうと思い、ついにこの軍艦か
ら脱走。しかし、途中で強盗に襲われ、身ぐるみはぎとられたので、再び、やむなく、
この軍艦に戻る。脱走なんかしたので、ますます待遇は悪くなったそうです。

トマスさんもいよいよイギリス船に乗ってアメリカに帰国することになる。
彦に言う。
「カリフォルニアは繁盛しているし、仕事も多い。日本に帰ろうとしても、ペリ-は来
ないし、いつになるのかもわからない。船の待遇も最悪だ。どうだ。わたしといっしょ
に船に乗らないか。日本の近海を通って帰るし、日本に帰れるかもわからない。もし、
日本に帰れなくても、アメリカでは自分が世話をし、立身の道を見つけてあげる」

彦は一人では心配、日本人2、3人を同伴させてほしい、と頼むが、一人の賃金までは出
せるけど、それ以上は出せない、と言う。で、彦は一人で行こうと決心する。
でも、トマスさんはやっぱりやさしい人で、次作と亀蔵の二人も同伴してくれました。

こうして、彦たちは再び、アメリカへ。のこりの人たちは?
のこりの人たちはやはり、このサスケハナ号を出て、上海にいき、そこで音吉の世話に
なって、ペリ-に先立って帰国することになります。
いや、ペリ-のサスケハナ号に乗った人がひとりだけいました。岩吉。
としまるさんが、「女衒てやつだよ」と紹介してくれていましたが、うん、この男は
どことなく陰があります。みんながいやがっていたサスケハナ号に乗って帰るのだから、なにか異国人と裏の結びつきがありそう(妄想モ-ド(^^))
                              

RE:彦蔵漂流記(4)
( 8) 98/07/04 22:47 04070へのコメント コメント数:1

自己レスです。
勘違いしました。
>いや、ペリ-のサスケハナ号に乗った人がひとりだけいました。岩吉。
>としまるさんが、「女衒てやつだよ」と紹介してくれていましたが、
サスケハン号に乗って帰ったのは、仙太郎でした。
岩吉はやはりオ-ルコックとともに帰ります。すいません。
もうひとつ。
>のこりの人たちはやはり、このサスケハナ号を出て、上海にいき、そこで音吉の世話に>なって、ペリ-に先立って帰国することになります。
「ペリ-に先立って帰った」と「漂流記」には書いているけど、他の者は安政元年7月に中国の船で長崎に帰っています。う--ん、このへんは今ひとつはっきりしません。まちがってるかもしれません。