虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

宿場 城川町 土居

2006-03-31 | 宇和島藩
宝泉坊温泉があるあたり、土居、古市とかいわれる村は江戸時代は、土佐と伊予を結ぶ街道筋にあたり、宿場でもあったようだ。

「土佐梼原勤皇列伝士伝」には、吉村虎太郎や那須俊平、中平龍三郎たちが、伊予土居矢野方に止宿した、という記事があるそうだが、坂本竜馬もこの地の矢野家にに泊まったという話も有名で多くの古老の語り草になっているようだ。

矢野家とは、矢野杏仙という長崎で学んだ蘭医者(文化8年)(矢野家は明治のころの写真は残っているが、現在は屋敷はない)。この矢野杏仙は志士たちのシンパ、パトロンとして、この宿場を通る志士たちの援助をしたようだ。市村敏麿もこの矢野杏仙と土佐浪士西春松という人に文武を学び、尊皇にめざめたといわれる。
土佐との県境にあり、土佐浪士との交流が刺激になったようだ。

竜馬が脱藩した道は、別ルートがあるので、竜馬がここにきたのは、武市の使命を帯びて長州探索をしにいった時かもしれない。

大岡昇平の「天誅組」にも吉村虎太郎が脱藩するとき、この矢野家に泊まったと書かれてある。

画像は、宝泉坊から車で10分ほどのとこりにある天蚕センターから見た村の風景。なかにぽつんと茅葺の家があるので、あれは何の史跡?と聞くと、人が住んでる家との返事。見えるかなあ。


白方勝「武左衛門一揆考」

2006-03-31 | 宇和島藩
吉田藩。宇和島藩とちがって、この藩が歴史の上で話題になることはまずない。
唯一の話題が、この武左衛門一揆。といっても、昔は、吉田町では、安藤様がえらくて、武左衛門は悪人だったかもしれないけど。」

白方勝「武左衛門一揆考」〈1999年)を吉田町の国安の郷で手に入れた。これは、1997年に出た「武左衛門一揆講釈」(私家版)の改稿版。

武左衛門一揆については、平成になって新史料がふたつ出版された。

ひとつは、平成7年に出た「庫外禁止録」(日吉村教育委員会発行)。
これは吉田藩の中見役で一揆の経過に詳しい鈴木作之進がひそかに書き綴ったもの。藩役人がひそかに一揆について書き残すのは珍しいのではないか。この侍は、農民に理解のある武士で、武左衛門一揆の陰の黒幕ではないか、という説もとび出すほど。

もう一つが、平成9年に出た「屏風秘録」。宇和島の清家という人の家に伝わる屏風の下張りに藩の古文書が使われていて、一揆についての藩の記録が出てきた。この屏風の記録から武左衛門の名は架空で、本名は、嘉兵衛とわかる。

白方勝の「武左衛門一揆考」は、「庫外禁止録」を中心にして、「屏風秘録」や他の実録もの、ちょんがりなどの史料を紹介しながら、発端から終焉まで、いろいろと推測しながら語る。
著者は、歴史家でも郷土史家でもないので(元愛媛大学の文学の先生?)、こういう本にありがちの固さ、難解さはなく、鈴木作之進への共感を示すなどあえて個人的な思いもこめて語る。しかし、内容は武左衛門一揆についての調べはこれ以上ないほど、詳細。

自費出版なので、在庫は少ないようで、日吉村の武左衛門一揆記念館へ電話して聞いてみたときには、在庫はありませんといわれた。

この本を画像で紹介しようと思って何度もアップしたのだけど、だめ。画像というのは、ものによってアップできないのもあるのでしょうか?しかたなく、吉田・国安の郷の漁家の画像を。これは1発で成功した。よう、わからん。

奥伊予 城川 竜馬もきた

2006-03-30 | 宇和島藩
愛媛県の城川町。伊予の最も山奥だから、奥伊予ともいわれる。

昔から城川といったのではなく、土居村、魚成村、それとなんとか川村(?)の、土と成と川を合体して城川町になったらしい。昨年だったか、宇和町、明浜町とかいくつかの町と合体して西予市となった。
昔から、伊予は東予、中予、南予の3つに分けられていたけど、西予という言葉にはまだなじめない。

武左衛門一揆の日吉村もいつのまにか鬼北町になっていて、土地のおじいさんは、「町長の父親は日吉村の出身だけど、町長はこの土地の出身ではないから」と町名の変更には抵抗を示していた。町村大合併、全国ですすんでいるけど、古くから自分の土地に親しんできた人や、歴史好きの人にとっても、役所の経済的都合で地名をかんたんに変えるのはどうかと思うな。

さて、この古市、ほとんど平野がなく、山に囲まれた傾斜した土地なんだけど、江戸時代は土佐と伊予、あるいは長州を結ぶ街道筋にあたり、宿場町にもなっていたようだ。いま、道の駅はあるけど、コンビニはない、パチンコ屋はない、食堂もない。宝泉坊温泉だけが人を集める場所になっているかも。

幕末時は、ここに、たくさんの土佐浪士が往来し、なかでも坂本竜馬がここで泊まったという古老の語り伝えが残っています。それは次回に。


画像は市村敏麿の墓 宇和島市内の龍光院に埋葬されていたものを故郷に移し変えたものです。先祖の芝一族とともに眠っています。村が管理していて、車でそばまでいけるように整備されています。


市村敏麿の碑文

2006-03-30 | 宇和島藩
「市村敏麿生誕の地」の碑の裏面の碑文を紹介する。
文を書いたのは、城川町史談会。おそらく10年くらい前でしょう。
読みやすくするため、句読点のみ、こちらで勝手につけています。あとは、碑文の通り。

「翁 天保十年二月此の地に生る。 十六才にして第八代古市村庄屋職を継ぎ芝雄左衛門と称す。その政治的手腕才覚に村民心服す。 二十五才の春尊皇の念止み難く庄屋職を高田氏にゆずり大和天誅組参加の為古市を出奔、京市に向うも途中病を得、志果せず野に潜伏す。 時に宇和島藩主伊達宗城、在野の賢を求め市村敏麿(雄左衛門改名)を見出し藩の要職に登用す。 維新動乱時、勅使として仙台表に七度にわたり使いする等大功あり。 後、新政府に招かれ民部省大蔵省監督権正として在任中、宇和島藩最大の規模となった野村騒動(頭首は故郷古市村中津川の旧友鶴太郎)の沈静に力をかす。後、郡衛の長となり、新政府より関東某県令への就任の内示を受ける。上京準備中、南宇和四郡の庄屋無役地返還運動はげしくなり、敏麿その総代に推され上京断念す。爾後二十余年間、十二萬農民の権利回復の為、裁判闘争の先頭に立ち、全力を尽すも時流に勝てず報われる事なく不遇の裡に宇和島須賀川の陋屋に大正七年五月七十八才清貧の生涯を閉ず。」

吉田 国安の郷

2006-03-29 | 宇和島藩
吉田町にこんな施設ができていたのだ。
武家屋敷、豪商の屋敷、農家、漁師の家など江戸時代の建物を復元している。
着物を着た人がいれば江戸時代にタイムスリップという感じだが、残念ながらお客さんはあまり来ないようだ。おみやげやさんもあったそうだけど、人が来ないので退散したとか。それにしても、吉田町、おもいきっった施設を作ったものだ。この建設は賛成だ。

ここで、白方勝著「武左衛門一揆考」という本を手に入れた。

安藤神社

2006-03-29 | 一揆
宇和島から車で15分くらいのところ、吉田町。
昭和30年代の面影がそのまま残る小さな田舎町です。

安藤神社は、吉田藩の武左衛門一揆を鎮めるために、切腹した家老安藤さんの霊を祭る神社。神社の前には、「安藤さまは、わたしたちの手本です」と石にかかれてあった。どんな手本なのか?

吉田は、親の育ったところで、わたしも小さい時に3ヶ月ほど過ごした町。
昔の町並みが残る町などの宣伝文句もなく、保存措置もなにもしてないけど、かなり古い家があちこちに残り、昔の田舎がなお実感できる希少な町かもしれない。

和霊神社

2006-03-29 | 宇和島藩
城川からの帰り道は、吉田、宇和を過ぎて、大洲から高速に入る。帰り道のスナップ。
宇和島はここに立ち止まっただけ。宇和島のシンボル。
和霊さん、夏の和霊祭りは有名。
たしか宇和島藩のお家騒動で、殺された家老を祭っている神社。

四国カルスト

2006-03-29 | 宇和島藩
梼原から四国カルストへ。
1度は見ておこうと車を走らせる。
季節ではないのか、だれも車を走らせていなかった。牛もいない。
山のところどころは、まだ雪渓が残っていた。
カルストって、山口の秋吉台みたいなもの。ただ、ここは、山の上にあるのが雄大。

維新の門

2006-03-29 | 日記
梼原町

何かの建物の敷地に作られているので、外からはわからない。
梼原町にゆかりのある志士像。
中平龍之助(禁門の変で自決)
那須信吾(天誅組で戦死)
那須俊平(禁門の変で戦死)
掛橋和泉(同志を援助し、自決)
前田繁男(天誅組で戦死)
吉村虎太郎(天誅組で戦死)
坂本竜馬(暗殺)
沢村惣之丞(長崎で自決)
の8人の像です。

ちょっと写真のうつりが悪かった。画像はもちろん、吉村虎太郎。

千枚田 梼原

2006-03-29 | 日記
司馬遼太郎は、梼原の千枚田を見て、「万里の長城も世界遺産だが、梼原の千枚田も人類に世界遺産だ」といったそうな。山の上まで耕した田。それほど、たいしたものでもないなあ、と思ったけど・・・。茶堂の向こうに見える千枚田、見えるかな?

市村敏麿生誕の地

2006-03-29 | 宇和島藩
市村敏村といっても、知っている人はいない。
山川出版の「愛媛県の歴史」(新版)には、若き日の写真ものっているのですが、生誕地の城川町でも知っている人は、まずいない。

宝泉坊温泉から車で5分のところの古市公民館前に建っています。
ここは、市村敏麿の屋敷跡で、市村はこのあたりの村の庄屋をしていました。
市村敏麿についてはまた、稿を改めて。
南予の旅、先を急ぎます。

茶堂 南予の旅

2006-03-29 | 宇和島藩
城川町には、江戸時代に作られた茶堂が52箇所も残っているそうです。旧街道を走ると、時々見かけます。藁葺きの四角なお堂(梼原町でもみかけた)。旅人を接待する休憩所であり、村人の社交の場でもあったようです。お遍路さんの接待なども、ここでしたのでしょうね。山里にはとてもよく似合うすてきなお堂です。

城川町 奥伊予

2006-03-29 | 宇和島藩
磯崎から城川町へ。高知県の梼原町の隣。山奥です。
ここの宝泉坊ロッジというところで泊まりました。1泊3000円から3500円の格安の宿。清潔だし、宝泉坊温泉とつながっていて、温泉にも入り放題。深山幽谷の四国を知りたいと思う向きには穴場、おすすめです。上等の宿です。
吉村虎太郎の梼原村にも、武左衛門一揆の日吉村(今は鬼北村)にも車で30分でいける。近くを走ると、茅葺の古い民家もあり、史跡でもなんでもなく、まだ人が住んでる家もありました。