虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

兵庫の百姓一揆史

2009-06-30 | 一揆
近くの図書館で「百姓一揆 幕末維新の民衆世界」(赤松啓介著 明石書店)を借りてきている。

今まで、何回も借り出したことはあるのだが、いつもろくに読まないままに返却してきた。おもしろい本ではないのだ。中身は、題名と違い、兵庫県の百姓一揆について書いてある。「兵庫県学術賞」をもらった本だけに、ちょっと学術的で、文章も硬い。しかも、書かれたのは1953年というから、50年以上前の著作。まだ終戦後だ。西部劇「シェーン」が作られた時だ(関係ないか)

幕藩的封建社会とかむつかしい言葉が続き、わたしなど読むことで肉体的な苦痛を感じてしまう。たとえば、山田屋大助の一揆についての文をひいてみよう。

「かくの如く北摂地方の一揆は、不遇な下級神官崩れや諸藩の浪人達が、封建的収奪と商業=高利貸資本の搾取に苦悩する農民と協同して、封建的社会体制を越えた新しい政治的経済的社会体制を希求しつつ、実力的抵抗を展開したところに従前の百姓一揆と異なる進歩性及び思想性があり、また幕府の精力的な反撃を受けた所以でもあっただろう」

どうです?こういう文章が1度ですんなり頭に入る人(頭がいいのだろう)と、受け付けない人がいると思う。わたしはダメ。だから、いつも読まずに返却した。

しかし、この時代は、こういう書き方がはやっていたのかもしれない。この難点を別にすれば、この本は良い本かもしれない、いや、今では貴重な本だと思う。

まず、兵庫県の百姓一揆史について書いた本はこれしかないのではなかろうか。徳川時代の百姓一揆について100件以上記し(内容は短いが)。そして、主要な百姓一揆については、史料をもとにして、かなり詳しく書いてくれている。

今回、借りだしたのも、ここに三田の一揆が書いてあったのを思い出したからだ。読んでみると、史料でわかることはちゃんと紹介してくれている。今も、これ以上のことはわかっていないと思う。

ちなみにこの本の第3章「主要な百姓一揆」に紹介されている一揆とページ数を書いておきます。

1、元文3年但馬・生野鉱山騒動(2ページ半)
2、元文3年但馬・生野代官領騒動(6ページ)
3、寛延元年播磨・姫路藩第一次大騒動(8ぺージ)
4、寛延2年播磨・姫路第二次大騒動(22ページ)
  これが滑甚兵衛の一揆です。夢前町に義民社がある。
5、天明2年淡路・広田騒動(5ページ)
  淡路縄騒動です。天明志士の碑が建っています。
6、天保4年播磨・加古川流域騒動(24ページ)
  大塩格之助も奉行所役人として派遣され、大塩平八郎も嘆息させた一揆です。
  「われらが命は万民の為」というスローガンを掲げました。
7、天保8年摂津・猪名川流域騒動(16ページ)
  山田屋大助の能勢一揆です。
8、嘉永2年播磨・竜野藩騒動(10ぺージ)
9、明治2年摂津・三田藩騒動(8ページ)
10、明治2年丹波・篠山騒動(17ページ)
11、明治4年播磨・姫路県騒動(9ページ)

以上です。

近頃の朝日の1面は・・・

2009-06-30 | 新聞・テレビから
大阪版だけなのかもしれないが、今年になってから朝日の1面のトップ記事に政治記事を持ってくることが少なくなったような気がする。

どの社でもトップにするような大きな政治ニュースがあるときは別だが、そうでないときは、政治記事はあまりトップにならない。

以前、1面トップのニュースに大阪中央図書館の本が、汚される、切り取られる、という借り手のマナーの悪さを記事にしていた。もちろん、こういう記事はのせてもよいし、広く訴えたかった気持ちはわかるが、社会面や他にページでもよいのでは?1面のトップニュースにすることか?と思ったことがある。

その後も、政治とは関係のない社会面的な記事がトップになることが多かったように思う。

今朝も、そうだ。マンション管理者の修繕積立金の横領をトップにしていた。日米の核密約はあった、とする元外務次官の記事は2番手。本来なら、これをトップニュースにすべきなのに、憶している、としか思えない。記者団は政府高官(だれだよ)に官房長官が密約を否定したことについて聞いたそうだが、「政府見解だからしょうがない。文書そのものがないことになっている。ないものは出せない」というふざけた答えをそのまま書いている。追及する姿勢はないのか。テレビでは報道するのだろうか。

西川善文社長の続投は3面。これはもうニュースではないのだろうか?

寿老人

2009-06-29 | 日記
最近、できるかどうかわからないが、毎日、一つは記事をアップすることにした。
日をおいてしまうと、こんなしょうもないこと書くのはやめようとか、かまえてしまう。もっと、気楽に、1日にひとつぐらいは何かあるだろう、というノリで書く。だから、小さなささいなことも書く。

「父の日」に寿老人をプレゼントされた。長生きしてくれるように、という願いがあるらしい。たまたまどっかの骨董屋さんにころがっていたらしい。寿老人がどんな人か知らないが、わたしは、これは老子だ、と思って、気に入っている。

三田一揆から篠山一揆へ

2009-06-28 | 一揆
明治2年の一揆数はすごい。この1年間だけで112件もある(青木虹二の調べによる)。気象状況が悪く、例年になく不作だったこともあるけど、やはり御一新への不安と期待もあったのだろう。三田一揆では「年貢半減」を訴え、それが成功するが、「年貢半減」のスローガンは相楽総三の赤報隊を連想する。「年貢半減」とは百姓にとってはまさに革命的なことだ。そういう空気が関西には流れていたのだろう。

三田のとなりは篠山だが、明治2年11月の三田一揆の10日後くらいに丹波篠山でも城下まで押しかけ、町家をうちこわす大一揆がおきた。これは篠山藩の百姓が三田の一揆の情報を耳にし、助力を頼みにきたこともあるらしく、三田一揆の影響はあきらかだ。

しかし、篠山藩の一揆も三田と同じく情報、文書類は抹殺したようで、これほどの大一揆にもかかわらず、史料は少ない。

一応、頭領は、立杭村の 庄五郎(牢死)、藤三郎(斬罪)、栄三郎(流刑)、千太郎(流刑)などだ。しかし、義民碑などはない。

立杭村とは、立杭焼(丹波焼)で有名で、今は陶の里として、窯があちこちにある。今田温泉というのもある(昨年、この湯にはいった)。この地域が一揆の震源地となった。

日本庶民生活史料集成(三一書房)によると、庄五郎の過去帳は和田寺にある、と書いているので、和田寺には何かあるだろうか。丹波の和田寺は立派そうだが、どうも何もない可能性が大きい。篠山も一揆を発掘してほしいものだ。

義民碑は、やはり徳川時代で、明治以降は少なくなるのではなかろうか。
農業が連帯責任でなくなり、個人の責任になったこと、お上の権力、武力が徳川時代とは比べられないほど強大になったこと、お上の思想が庶民をしばるようになったこと、いろいろあるだろうな。

なーんだ、サンケイのまねだったの?

2009-06-28 | 新聞・テレビから
今日、初めて知った。サンケイ新聞で「さらば革命的世代」という連載を昨年からやっていたらしい。たまたまネットで目にした。Ⅰ部10回ほどの連載で4部まで続いていたというからかなりの長期連載だ。秋田明大、最首悟、渡辺ひとみとか、今、朝日の「人・脈・記」で臼井記者が書いた人たちが出ていた。

朝日が、昔の学生運動を振り返る意図はなんだろう、と思っていたけど、これは単なる「後追い、まね」にしかすぎないのかもしれない、と思った。

サンケイの連載記事はネットで読むことができるようだ。しかし、サンケイがこんな連載をしているとはね。山本義隆は、朝日でも、サンケイでも取材拒否して沈黙したようだけど、それが正しい。

追加。
朝日の人・脈・記は、記者のコメントはできるだけ避けているようだ。サンケイのはやたら、記者の感想があり、ちょっと意図的。朝日は、そうでもない。まだ、続いているので、観察中だけど(^^)。


園部 八木ドライブ

2009-06-27 | 日記
今日は、朝市の安い野菜を買おうと思い、園部方面を走る。

朝市はやっていた。今日は、特に目的地はなかったので、そのまま道の駅新光悦村までいくことにした。途中、九品寺という標識があり、朱色の門が見えたので、車を止める。古いお寺で(白河天皇さんの勅願道場とか)、門だけが残っていて、これは重要文化財なんだそうだ。門には二体の二王像もある。門を過ぎると、とてもいい顔をした観音像が建っていた。これは新しいとは思うけど、こんなところで、いい顔した観音像を見ると得した気分になる。

道の駅新光悦村で手にした南丹市の観光マップを見ると、八木にジョアン内藤の碑があることがわかった。キリシタンで、高山右近と共にマニラに追放になった武将だ。地図を見ると八木駅近くの春日神社のそばなので、春日神社までいったが、ジョアン内藤の碑は見つけられなかった。まあ、碑だけ見てもしょうもないか、という気があった。こちらにあまり執念がなかったのだろう。しかし、八木も、古い家が残り、時間が止まったような、忘れられたような、それだけに懐かしいような、いい町だな、と感じた。

園部、八木、日吉、そして茅葺の里で有名な美山町、これらの町、ひっくるめて南丹市というそうだ。

三田百姓一揆

2009-06-25 | 一揆
昨日、こう書いたけど、ちがうかもしれない。

「授戒総股居士」の文字の墓がそうだ。すぐにわかった。わたしは、事前に調べていたからわかったけど、しかし、何の説明板もないので、一般の人は気付かないだろう。仲惣左衛門は、辰巳宗左衛門ともいうそうだ。法名の総股(ソウコウ)は佐倉宗吾にちなんだという」

戒名の「授戒」は読めたが、あとはしっかりとは確かめなかった。吉川弘文館の義民年表の解説に「総股」と書いてあったので、そのまま書いた。

でも、西村繁著「明治2年三田百姓一揆」(六甲出版)によると、「授戒総脱居士」となっといる。総股というより、全てを脱する、という意味の総脱の方が意味がわかるのでけど、どちらが正しいのかわからない。

この墓を建てたのは、大西善太郎という元衆議院議員で、安政生まれで、一揆の参加者の子供だそうだ。顕彰碑も計画していて、碑文もできていたそうだが、妨害にあい、実現されなかった、とこの本にある。西村善太郎については何もわからない。

この本は昭和60年、著者が80歳目前に発行されたようだ。史料はほとんど残っていず、149ページの本文でも、他の一揆や偉人を引き合いに出したりして、自分の思いを綴ることにもかなりのページをさいている。

著者はまえがきで、「夢前町のように教育委員会が、その墓を管理しているところもあります(滑甚兵衛んの一揆)。それに比べて、わが三田市はいかがでしょう。今日、なお「お上に叛いた悪者」として冷遇されているのです」と書いている。

三田の旧城下町(観光スポット)へいくと、九鬼家住宅資料館のほか、白洲退蔵出生地とか小寺泰次郎次出生地とかの案内板がある。白洲退蔵と小寺泰次郎は幕末三田の偉人なのだ。小寺公園という名の公園もある。三田学園は、小寺泰次郎の息子が建てた学校だ。

しかし、三田の百姓にとっては、この白洲退蔵と小寺泰次郎が悪政の張本人。一揆後、参加者を処刑し、一揆の歴史を抹殺したのもこの二人。二人は、廃藩置県になると、九鬼の殿様とさっさと三田の百姓を捨てて、神戸に出て事業を起こし、3人とも巨万の富を稼ぐ。小寺泰次郎などは、藩の金を作るため、寺や神社の大木を伐ったり、寺や神社の土地を没収したりしたそうだ。三田の百姓たちが顕彰するような人だったのか?

しかし、三田では、いまなお、この九鬼の殿様、白洲退蔵、小寺泰次郎に逆らうのはむずかしいのかもしれない。三田市よ。仲惣左衛門の義民碑を作るべし!

三田百姓一揆について最初に人の目にふれた文章は大正7年に朝日新聞に連載された「三田義民伝」らしい。その次が、昭和7年地元の森鼻平次郎氏の書いた「三田百姓一揆」の論文。これは正確で、三田市史の一揆の記事もこれを元にしているという。この本には、その森鼻氏の論文(14ページ)も付されている。

画像は下田中の神明寺の仲惣左衛門の墓。

三田 心月院 神明寺

2009-06-24 | 日記
三田で野菜を買ったあと、三田市立歴史史料収蔵センターへいく。しかし、開館は、7月1日で、今日は何も展示していないといわれる。

「三田ゆかりの50人」(200円)と「三田歴史スポット100選」(300円)という冊子をもらう。ここでもらった「わがまちさんだ 歴史の散歩道 」というパンフレットはとてもいい地図になっている。

明治2年の三田一揆についての資料は何もないらしい。「やっと最近になって、あの一揆の話ができるようになった。今まではずっと口を閉ざしていた状態。研究はこれから」とセンターの人。義民碑も、義民祭りなんかも当然ない。そうだろうと思う。明治2年の一揆は白洲退蔵の政策に抗議し、藩知事だった九鬼の殿様にも石を投げ、落馬させた。

三田といえば、歴史観光は九鬼の殿様、白洲退蔵ら旧三田藩武士階級がメインで(他にも、川本幸民という化学者などもいる)、三田藩政にたてついた一揆の指導者を語ることはタブーになっていたのかもしれない。

すぐ近くが旧九鬼家住宅資料館。車を走らせるが、車のナビは「近くなので、地図を見て自分で進め」と指示。グルグル回ったが、わからない。気が短いので、旧九鬼家住宅資料館はやめて、心月院へいくことにした。

心月院もすぐ近くだった。ここは、九鬼家の菩提寺、白洲家の菩提寺でもある。

本堂の中に入る。だれもいない。白洲退蔵や次郎のポスターや簡単な履歴なども掲示している。テーブルには、白洲次郎の伝記や白洲正子の本も並べてある。NHKドラマで白洲次郎役になった伊勢谷友介のサインがある色紙も置いてあった。白洲退蔵伝などの冊子もおいてあり、その冊子代金300円は貯金箱のような箱に入れるようになっている。「住職の説明を聞きたい人はブザーをおしてください、無料」と書いてあった。だれも出てこないのがいい。本堂を自由に開放しているのが気にいった。

お墓にいく。墓の入り口に今も使える井戸があったのにびっくり。この井戸でお墓のそうじをしたり花の水をやるにちがいない。

九鬼家代々の墓がある。九鬼家についてはよく知らない。戦国時代はもともと鳥羽あたりにいた水軍だったらしい。あの「いきの構造」を書いた九鬼周三も一族の子孫のようだ。

白洲家の墓は九鬼家の墓のそばの一画にある。白洲次郎・正子の墓はすぐにわかる。他の墓とまったく違う形。わたしもこんなお墓はじめて見た。墓には戒名はなく(戒名はいらないが、次郎の遺言らしい)、ただ梵字がある。次郎は不動明王、正子は十一面観音の文字らしい。石も新しいのではなく、古いのを使っているようだ。正子が作らせたようだ。

次に、明治二年の三田一揆の指導者仲惣左衛門の墓がある神明寺にいくことにした。心月院を訪れる人は最近の白洲ブームで多いようだが、神明寺へいく人はまずいないでしょう。車のナビで神明寺の電話番号、住所で目的地を出そうとするが、「該当の目的地が登録されていません」と出る(ナビが古いのかもしれないが)。で、とりあえず、下田中あたりを走ることにした。三田駅から離れたところで、川の流域ぞいで、まわりは田んぼ、そんな所に出た。「光明寺」というのは標識があったが、「神明寺」なんてどこにあるのかわからない。わからん、帰ろう、と思ったちょうどそのとき、神明寺の文字を見つけた。さすが一揆男だ(笑)

小さいお寺です。車一台がやっと通れるような細い道を通らなくてはいけない。まわりは田んぼ。寺に入ってすぐにお墓に回る。「授戒総股居士」の文字の墓がそうだ。すぐにわかった。わたしは、事前に調べていたからわかったけど、しかし、何の説明板もないので、一般の人は気付かないだろう。仲惣左衛門は、辰巳宗左衛門ともいうそうだ。法名の総股(ソウコウ)は佐倉宗吾にちなんだという。

「三田ゆかりの50人」という冊子には三田にゆかりのある人、有馬皇子から、米艦に突入した特攻隊員中西定雄までの50人が出ていて、仲惣左衛門は49番目に出ていた。その前の48番目は山田屋大助になっている。大助は能勢の人だが、三田が最期を遂げた土地だから出ているのだろう。

冊子によると、仲惣左衛門は、大阪にいるときに、大塩平八郎の乱にあい、影響をうけたという。仲惣左衛門についてはもう少し調べてまた書いてみたい。

画像は心月院。静かないいお寺です。


小林多喜二の祖父

2009-06-23 | 読書
三浦綾子の「母」、一気に読み終わった。いい本だった。多喜二への関心がわいた。

はじめて知ったこともあった。多喜二の祖父のことだ。
作品の中で、こういう一節がある。

「わだしの婿さんのお父っつぁんは、多吉郎という名前でね・・・ああ、そうだ、今言ったばかりだったかね・・・この人が、平田何とかいう偉い学者の、ま、弟子っていうわけでもないべけど、とにかくそのお陰を受けて、かなり学のあるお父っつぁんだったのね。若い頃は、あちこちの有名な学者を訪ねて勉強していたとかで、大変な物知りだったそうだ。」

この平田何とかいうのは、平田篤胤だと思う。秋田は、平田篤胤が晩年住んでいて、平田門下生が多い。とすると、小林多喜二のおじいさんも、夜明け前の青山半蔵のような草莽だったのかもしれない。幕末ファンとしては、興味深いが、研究者の間では、小林多喜二の祖父のことまでは調査は進んでいるのだろうか?平田学信奉者といえば、尊王の人だ。その孫が天皇の国家によって殺される。

三浦綾子、次は最後の小説となった「銃口」を読んでみようと思っている。

古本屋の工事はちょっと休憩だ(笑)。


小林多喜二の母

2009-06-22 | 読書
今日、古本市場で三浦綾子の「母」を買ってきた。昨日、NHKで見た小林多喜二のドキュメンタリーで一人語りで小林多喜二の母を演じている場面が出た。三浦綾子の「母」は小林多喜二の母だったのか。知らなかった。

少し読んだが、これはいい本だと思った。小林多喜二の母が語るように書いているので、まるでドキュメントのようだ。むつかしそうな小林多喜二の伝記を読むより、小林多喜二がよくわかる気がする。なによりも感動する。作者は多喜二の遺体を目にする母と、キリストの遺体を目にする母マリアをだぶらせていたが、こんな悲しみにはわたしには耐えられないだろう。

まだ半分も読んでいない。今、読もうとして積んでる本は、「モンテ・クリスト伯」、吉川英治の「新平家」(鞍馬寺へいってから読みたくなった 笑)、他にもある。今日のNHK「クローズアップ現代」では太宰治をとりあげていた。太宰もまた読んでみたくなった。すぐ、何かに影響されて、読書もあちこち浮気をしてしまう。でも、この「母」は短いのですぐに読んでしまえそうだ。

テレビ疲れ

2009-06-21 | 映画・テレビ
今日は雨だし、朝からテレビの前ででれーん。

まず、子供がレンタルしてきた「ゲバラ29歳の革命」「ゲバラ39歳の手紙」、あのゲバラ映画2本を見る。映画館では、Ⅰ部、2部、別々に上映していたので、なんで一度にⅠ部2部を見せてくれないのだろう、と思っていたた。Ⅰ部2部一挙上映だったら映画館まで足を運んだと思うけど、そういうわけでいかなかった。
ビデオを見て、Ⅰ部2部を続けて上映しなかったわけがわかった。続けて見たら眠ってしまうのだ。

はっきりいって退屈だった。Ⅰ部2部もほとんどジャングルでの苦しい行軍、ゲリラ活動を追う。この映画でゲバラの生涯やキューバ革命を知ろうと思っても無理だろう。まったく関心のない人にわかりやすくゲバラを紹介、宣伝しようとするサービスはなく、アメリカ映画を見なれた人にもおもしろく見てもらうような演出もない。ある意味では大衆映画ではなく、純文学的(反エンターテインメント的)映画。

それでも、ゲバラになった俳優に魅力があり(ちょっと原田芳雄に似ている)、
ゲバラそのものを見ている気がした。この映画を見た人は、なぜゲバラはこんな苦しい戦いをしたのだろう、キューバは南米はどんな国なんだろう、と思わざるをえず、この映画がゲバラを知る出発点になるのかもしれない。
でも、ゲバラファンの人にとっては、Ⅰ部2部の4時間も長くは感じなかったかもしれない。わたしでも、たとえば、坂本竜馬が画面に出て延々とその日常生活がドキュメンタリー的に映し出されても、少しも退屈には感じないだろうからだ。

昼からNHKでベストドキュメントの特集をやっていて、「小林多喜二」と「米兵が写した長崎」という作品を見た。「小林多喜二」では、奈良の志賀直哉旧居も出ていました。「長崎」では「死んだ弟を背負った少年の写真」がやはり衝撃的で忘れられない映像だった。

しかし、ツカレタ。見すぎだ。

三田藩に向かう旅の福沢諭吉

2009-06-20 | 読書
三田で思い出したのだけど、三田藩の殿様と福沢諭吉は懇意にしていて、明治の初め、福沢は大阪から三田まで旅をしています。大阪から三田まで15里とある。

その道中のことが「福翁自伝」に書いてあるのですが、これが傑作。わたしの好きな一節です。

諭吉は、道中、向こうから行きかう人ごとに、態度を変えて話しかけると、こちらの態度のちがいでむこうもまるでゴム人形のように態度を変える、と驚く。諭吉は、これは文明開化以前のそれまでの封建時代のなごりと思っていたようだが、なんのなんの文明開化した今でも、このしょうもない国民性はあるのではなかろうか。

福沢の実験精神、イタズラ精神が出ていておもしろいので、ここは福翁自伝を引用します。

「ころは旧暦の3,4月、まことによい時期で、私はパッチをはいて羽織かなにかを着てこうもりがさを持って、-略ー たったひとりで供もなければ連れもない、話相手がなくておもしろくないところから、なんでも人に会うて言葉を交えてみたいと思い、往来の向こうから来る百姓のような男に向かって道を聞いたら、そのときの私のそぶりが、なにか横風で昔の士族の正体が現れて言葉も荒かったとみえる。
するとその百姓がまことにていねいに道を教えてくれておじぎをしていく。こりゃおもしろいと思い、自分の身を見れば持っているのはこうもりがさ1本きりでなんにもない。
も1度やってみようと思うて、その次に来るやつにむかってどなりつけ、「コリャ待て、向こうに見える村はなんと申す村だ。シテ村の家数はおよそ何軒ある。あのかわら屋の大きな家は百姓か町人か、主人の名はなんと申す」などと、くだらぬことをたたみかけて士族丸出しの口調で尋ねると、そいつは道のはたに小さくなって、恐れながらお答え申し上げますというような様子だ。

こっちはますますおもしろくなって、今度はさかさまにやってみようと思いつき、またむこうから来るやつに向かって「モシモシはばかりながらちょいとものをお尋ね申します」というような口調にでかけて相変わらずくだらぬ問答を始め、私は大阪生まれでまた大阪にも久しく寄留していたから、そのときにはたいてい大阪のことばも知っていたから、すべてやつの調子に合わせてごてごて話をすると、やつは私を大阪の町人が掛けとりにでも行く者と思うたか、なかなか横風でろくに会釈もせずにさっさと別れていく。

そこで、今度はまたその次のヤツに横風をきめこみ、またその次にはていねいに出かけ、いっさい先の顔色に取捨なく、だれでもただ向こうから来る人間1匹ずつ1つおきときめてやってみたところが、およそ3里ばかり歩く間、思うとおりになったが、そこで私の心中ははなはだおもしろくない。

いかにもこれはしょうもないやつらだ。だれもかれも小さくなるなら小さくなり、横風ならば横風でもよし、こうどうも先の人を見て自分の身を伸び縮みするようなことではしょうがない。推して知るべし。地方小役人らのいばるのも無理はない。世間に圧制政府という説があるが、これは政府の圧制ではない。人民の方から圧制を招くのだ」

福沢諭吉といえば、1万円札の肖像が有名だけど、あれはよくない。われわれとは縁もゆかりもないおじさんに見える。それよりも若いころの顔がいい。
天保5年生まれで、清河八郎より5歳下、坂本竜馬よりも一つ上。幕末の志士ではないけど、あの乾いたサバサバした精神は幕末の英雄豪傑以上のものがあります。

三田 一揆 白洲 

2009-06-19 | 一揆
三田は、わたしにとって、池田と同じようにとなり町という感じだ。月に1回くらいは三田パスカル(だったか?)というところで野菜を買いにいく。 車でも3、40分か。

能勢一揆をおこしたあの山田屋大助が壮絶な自決をしたのも三田のお寺(興福寺)だった。

この三田藩も明治2年に百姓一揆があった。
仲惣左衛門という人がリーダーになり、要求は大部分実現させたが、一揆終了後、仲惣左衛門は処刑されたそうだ。この一揆の要求の第一番にあげられているのが、当時の家老だった白洲退蔵をやめさせることだった。白洲は殿さまには有能だったかもしれないが、農民にとっては過酷な弾圧者だったのだろう。(先般、厚労省の婦人局長が「有能」な「希望の星だった」と報道されたが、「障害者自立支援法」とかいう障害者にとっては評判の悪い法律作りに力を発揮したとか。だれにとって「有能」か、大事ですな)

この白洲退蔵の孫が白洲次郎。白洲正子の旦那です。
この春に、NHKでドラマスペシャルとかで、Ⅰ部2部が放送され、今度、8月に第三部を放送するらしい。なんで8月に、まるで選挙対策みたいと思った(笑)。
白洲次郎は、保守本流、財界が推薦する人で、今の麻生さんとも深い縁のある人だろう。麻生さんにとってはお兄さんみたいな人かもしれない。

中学生のときに外車を買ってもらった大金持ちで、召集令状が来ても上に頼んで免除されるような特権階級の人。われわれとは住む世界が違う人。正子もそうだが、なぜ、この人がもてはやされるのか、ちょっと待てよ、と考えたいのだけど、今は何もよく知らないので、黙っておこう(笑)。

白洲次郎と正子の墓も三田の城下町の寺にあるそうな。
三田一揆のこともまだよくわからないので(三田市よ、仲惣左衛門のこと、少しは調べ、顕彰しているのだろうか。九鬼の殿様のことばかり調べてもあかんぜよ)、
今度、時間をみつけて、三田探索をしてみます。






朝日の 人・脈・記

2009-06-19 | 新聞・テレビから
夕刊1面に連載している「人・脈・記」、ついこの前は、「大逆事件」をテーマにしていたが、今日からは、「反逆の時を生きて」という題で、昔の学生運動を追うらしい。

このコラムはかつては、企業、財界人らどちらかといえば、「上の」人たちを扱うことが多かったと思うのだが、「大逆事件」をあつかったときは、ちょっと驚いた。昔の、大昔の朝日新聞にもどったような気がした。といっても、その連載は、なぜ今大逆事件を追うのか、その問題意識がわからず、すっかり保守化した朝日の、単なるガス抜き、免罪符、ポーズのようなものか(笑)、とも感じた。

今日の記事には、あの「20歳の原点」の高野悦子の母親の写真が出ていた。あの時代の学生の本棚にはみんな、この本があったのではないか(中身を読む読まないは別にして。わたしは読まなかった)。

関川夏央は「1969年に二十歳であることー「二十歳の原点」」という評論を書いたそうだが、その関川から「高野さんのような、悩むのに不向きな人にまで悩むことを強要し、自分を責め続けさせたという意味では、時代の悪意があった」という言葉を引き出している。

労働運動、市民運動をめったにとりあげなくなった朝日が、今、学生運動を取り上げるのは、この関川夏央のような視点からなのだろうか?

どういう意図で、昔の学生運動をとりあげるのか。
これは注目してみようと思う。

記者は、同じ世代の臼井敏男という人。この人は社会部長や論説委員も務めた、まあ、現在の朝日の大幹部の一人。こんな大幹部がどんな記事にするのだろう、楽しみではある。

鞍馬寺

2009-06-15 | 日記
鞍馬寺へ行った。
鞍馬寺といえば、義経が修業した場所くらいの知識しかなかったのだけど、ちょっと変わったお寺なんだということがわかった。

昔から有名な京都の鞍馬寺だから、おそらく有名な仏教の宗派の一つだと思ったのだけど、どうも仏教寺院ではないらしい。「尊天」という宇宙エネルギーのようなものを信仰する。
ネットで少し調べると、戦後に新宗教みたいなものを立ち上げたらしい。それは神智学の影響も受けたもののようだ。本堂には「テロをなくそう」「戦争をなくそう」なんて言葉もあったように記憶している(なにせ、ぼさーと歩いているので)。

本堂の地下を歩いた。暗い所で、一瞬、お化け屋敷を歩いているような気持ちに。いわゆる霊気というやつ。ちょっとゾクゾクときた。

与謝野晶子の書斎や、義経の供養塔、義経に武術を教えた鬼一法眼の神社もあった。鞍馬は大天狗の住みかでもある。そのわりには、天狗の像や人形もなく、義経や天狗で寺を宣伝しようとする気はあまりないようだ。京都の寺は商売上手な寺が多いけど、さすがここは山の寺、信仰の寺だ。

ネットで見ると、鞍馬寺はパワースポットで、霊能力者はここに霊気をもらいにくる、と書いてあった。予備知識もなく来たので、そんなこと知らなかった。

帰り道、「義経記」あれを革命家の物語として読んでみたらおもしろいだろうな、などと思った。

鞍馬寺は、足に自信のない人はケーブル(牛若丸号だったか?)で登る(100円)。これは、寺が経営している。しかし、寺も「できるだけお歩きなさい」とすすめていた(看板で)。変わったお寺です。

さて、「尊天」のエネルギーは得ることができただろうか?(笑)