虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

今年の夏は・・・

2009-08-12 | 日記
開店工事中の古本屋、ずっと工事中止のままだ。この調子では秋開店もむずかしいかも。原因は店主にある。熱しやすく冷めやすい、というか、はじめ、すごい勢いで本を登録したけど、その反動か、ああ、つかれたー、と今、投げたままにしている。パソコンの嫌いな操作をして店つくりをするよりも、無役地事件を調べるのがおもしろくなった。仕事がきらいな男だなあ。申し訳なく思っています。まあ、ボチボチやります。

髭を生やしていたけど、ちょっとあきてきたかもしれない。髭のない顔どんなだったけ?ともう1度、元にもどってみようかな、とも考えている。ただ、髭を生やしていると、髭をそらなくていいのがいい。髭をそるときには1度チャップリンかヒトラーみたいな髭にもしてみるつもりだ(笑)

夏は、毎年、旅行していたのだが、今年はいけないかもしれない。まだ予定もたっていない。暑い夏にいかなくても、秋のがいいかな。

今は、8・30の国政の大転換の日を楽しみにしている。

市村敏麿58 明治24年松山裁判所 被告の言い分

2009-08-12 | 宇和島藩
明治24年松山地方裁判所宇和島支部

(被告抗辯の要旨)

旧宇和島藩領内における庄屋たるや、元豪族にして土地を多数持ち、藩、その庄屋の土地に対し正租すなわち物成を除き、その他の諸役すなわち四色物成、九色物成と称する雑税および横成と唱える村費を免除してきた。よって、その土地を無役地もしくは庄屋無役地あるいは後世、庄屋家督と称した。

無役地は、諸税を負担する有役地に対する名称で、庄屋の役地ではなく、また、村民の供給地でもない。庄屋自己の所有地である。

寛文年度において原告がいうような洪水はなかったが、正保年間の検地についで、領内一般内さ検地し、各村々民所有地の肥痩を平等にするため、鬮(クジ)取り法を設け、本百姓、平百姓、四半百姓に分け、従来所有していた土地の多少に応じて土地の良否を組み合わせ、各自、そのクジに従い、土地を所有することになった。

このとき、庄屋はもともと所有地が多かったので多数の土地を得たが、その無役においては、以前と異なり、庄屋所有地すべてを無役とはしないで、各村々高の多少により、小村は本百姓3クジ分、すなわち3人前、大村は12人前を限り、無役とし、その他の庄屋所有地は村民と一般諸役を負担することになった。

文政天保等を経て弘化にいたり、無役、すなわち免除される諸税の高を石高に定められたため、無役高に過不足が生じ、その過石となった地所は有役地として庄屋所有のまま諸役を負担し、不足石となった村は石戻りと称して、その不足する石数のみを庄屋は受け取った。
同年度において、庄屋は世襲なので、その無役地を下げ札帳に庄屋家督と記し、その田畑を直き書にすることにした。しかし、その改称は一般の規定ではなく、無役地の性質に変更はなく、その売買においても庄屋の自由であった。

なお無役地は庄屋の私有地であり、村民の供給したものでないことは、正保から天保までの水帳その他の帳簿に、無役、あるいは庄屋、あるいは単に庄屋一私人の名前のみが記載され、他の百姓の私有地と記載の仕方になんの異なるところがなく、かつ、小下げ札を受領していることを見ても明らかである。

明治4年、旧宇和島県において無役地にどういう見解もっていたのか、この6分を引き上げられたため、その不法を訴え、ついに元のごとく返還された。のち、地券を下付されたときも、各村総代は庄屋その人の所有を認めた。

以上のように昔から今日まで、税を納める公的義務、私権利の処分、みなこれ庄屋のなすところで、いまだかつて村民共有たる現象を生じたことはない。この訴訟の目的の土地は、前述したように全く被告の所有地で、村民が口をはさむことがらではない。

原告の提供する「弌野載」および「不鳴条」はなにびとの手になったものかわからず、人民の権利に関する事実を公証するものではない。また、洪水のあった事実がないことは旧吉田藩領内に異変がなかったことからもわかる。

(途中、意味がよくわからないので、15行ほど省略)

組頭家督については、組頭は庄屋とちがって、世襲ではなく、また、組頭においてもまだその土地を所有する者も多い。権利を放棄した組頭がいるという理由のみで、無役地を村民の共有地とすることはできない。また、従来、庄屋役と庄屋その人に区別があるわけでなく、庄屋役を勤める者すべてを庄屋と呼ぶことは書類からも事実からも明らかである。

市村敏麿57 明治24年12月松山地方裁判所 原告の言い分

2009-08-11 | 宇和島藩
大阪控訴院の判決文は「市村敏麿の面影」に出ているが、この松山地方裁判所宇和島支部の判決はない。近代史文庫の「無役地事件」史料にもない。宇和島であれほどの歓迎をを受けた大井憲太郎が、第1審でどんな陳述をしたのか関心があっただけに史料がないのを残念に思っていた。

ところが、小野武夫「日本史村落史考」に明治24年12月松山地方裁判所宇和島支部判決というのがあった。これが大井憲太郎を代言人にした最初の裁判ではなかろうか、と思っている。

ただ、この「日本村落史考」の判決文には、原告、被告の名前も、裁判官の名前も出していない(なぜ、カットしたのだろうか?)。だから、確かかどうかはわからない。たぶん、これだろうと思う。



この判決文は、今までのよりもちょっとわかりやすいので(大井たちが関わっているからかどうかはわからにが)、以前に書いた判決文とかなり重複する部分はあるが、紹介する。

無役地とはなんなのか。なんとなくわかるような気もしてきた(なんとなくだけど)。


(原告事実)

「その昔、寛文6年旧宇和島藩の領地は未曽有の暴風洪水にあい、なかんずく、当事者の村落はその中心に位置したため、田畑宅地等流失、破壊され、人畜の死傷無数、すこぶる惨状をきわめた。藩下、数万の人民、活路を失い、飢えに泣き、寒に叫ぶの一大災厄に陥った。藩主、深くこれを憂い、人民に諭すに開墾をもってし、人民奮起勉励、歳月を経、ついにその大業を完成した。

その開墾、一に村民の共力に成るをもって、地所所有の権は1村の共有に帰したり。しかれども、永く1村の共有に放任しておけば、将来紛議の種になる恐れがあるので、寛文10年から同12年にかけて内さ検地をし、反別石高を定め、田畑を組み合わせ、鬮(クジ)取り法を設け、本百姓、半百姓、四半百姓の3等に分け、共有地を村民に分割所有させた。そして、村吏の給料はそれぞれの共有地より本百姓幾クジ分を取り出し、これを村民の私有ではなく、共有のままに残し、この用益権を村吏給料に提供することにした。

しかし、長年月がたつうち、その共有地の管理者である庄屋は自分の所有だと誤認し、しばしば処分権を行使する者があったため、藩はこれを問題にし、弘化3年午年より申年まで3カ年御定めの免下札帳において、この地所を庄屋家督と改称して庄屋役地としての性質を明らかにした。かつ、この帳簿のはじめには直き書として他の村民私有地を小下帳と区別し、売買禁止の意を表した。

鬮持の制である村吏給料を石定めの制に改めたので、その給料地に過不足を生じたため、過石となった村々はその過石にあたる役地を村民の所有とし、不足石となった村々は、村民一同より村費を石戻りと称して、その不足の石数を満たすまでの正石すなわち収益を補足するようにした。

伊方浦庄屋は代替わりをして以前四人前の給料地だったのが、四人半前の増加になったので、その増した分は同村11郡より取った。また、山田村は東西二か所
に分割されたので、役地も分割して、新庄屋を置いた。また、谷村を若山村に合併したときは、谷村の旧庄屋を組頭として一人前の給料を与え、残りを若山村の庄屋にした。庄屋の給料地の多寡にかかわらず、藩命によって転村させ、明治維新後、庄屋を改称し、村長とし、庄屋家督を村長家督とした。

庄屋家督と同じ性質である組頭家督はすでに村民の共有になったのに、村長家督は、村長廃止後も、いぜんとして庄屋だった一私人の所有となっている。

本訴訟の目的の土地は、前述のごとく村長家督(役地)であり、村民共有のものであるのに、旧庄屋である被告の私有になっているゆえに、その所有権の返還を要求するものである。

この土地は、被告がいうように庄屋の所有していた土地の中からその一部分を無役地としたものではない。弘化年度の下札帳に庄屋家督の名称を記入し、直き書の書式にしたのは、庄屋その人を保護する意味ではなく、まったく売買を禁じるためである。もし、そうではなく、保護の意味ならば、売買禁止を記す必要はなく、庄屋私有地中いくばくかの売買を禁じるとするはずである。また、弘化年度の帳簿に、無役もしくは庄屋と肩書してあるのは、庄屋の私有ではないことをあらわしたものである。また、役地の高を石定めしてからその無役高に不足石を生じた影平村のように、別に庄屋の私有地があるにかかわらず、その不足石に相当する田畑の収益を庄屋へ渡しているように、被告のいうように、村民より納税する四色小物成、九色小役中からその不足石の石数だけ庄屋が得たものではない。そればかりか、物成小役などは村費である横成と異なるのでその取り立て帳も異なるのは当然で、石戻りは横成の中から取り立て、そのことは取り立て帳に記載がある。これは村民が庄屋へ給料を与えた証拠であり、役地も村民の共有であることがわかる。

なお、鬮とりは、他村ではその鬮を得ることはできないので、役地が庄屋の私有であれば他村にもあってしかるべきなのに、付け村にはどれも1鬮の役地あり。かりに他村に私有する土地があったとしても、その付け村ごとに庄屋の私有地あるべきはずがない。

四人半前を増加した伊方浦は11から成立するため、鬮取りは反別ごとに多少があるので、もし庄屋が私有地を無役地にするには、どこかのの反別に符合しないわけにはいかない。しかし、一つも符合するがないのは、中地と唱える村落共有地をそのの中から取り出したためである。
被告は従来、役地に就き、正租を納めてきたが、これは庄屋の役を代表したにすぎない。

維新後、旧宇和島県庁が引き上げていた役地の6歩を庄屋へ還付したのは、ただ、返還したにすぎず、所有権を処分したのではない。その後、地券発行のとき、村民が庄屋の所有を認めた行為、また、庄屋が処分を黙過したのは、村民はその所有権が庄屋にあると認め、自ら権利を放棄したのではなく、村民に所有権があることを知らなかった為の錯誤である。以上、甲第1号からだ第23号の証拠をもって証明します。」

うーん、前半はわりと読みやすくわかりやすかいと思ったのだが、後半になると、むづかしく、なんのこっちゃねん!やっぱり頭がいたくなってきた。

なお、原文の言葉を適当にいいなおしたところもあるので、原文通りではなく、ひょっとしたらまちがって書き写しているところもあるかもしれませんが、悪しからず。

次回は、被告の言い分。

市村敏麿56 明治16年大阪控訴裁判所 判決

2009-08-09 | 宇和島藩
弁明(判決理由)

原告第1・2号証は内さ検地の起因およびその方法を見るべきもので、本訴の論地に対し証拠とすべきところなし。

原告第3号証は岩城丈平なる者の調製にして、クジ取り方法の意見書にすぎず、証拠とすべきところなし。

原告第4号証は庄屋田地の持ち分の定めとありて、庄屋地の制限を立てるもので、論地の性質を見るべきところなし。

原告第5号証・・・・

やめましょう。長くなるし、空しくなる・・(笑)

この調子で原告第13号証まで、ことごとく証拠とするところなし、と続くのです。

でも、原告の証拠証をひとつずつあげて否定するだけでもまだ良心的なのかもしれない。児島惟謙によって執拗に書き直せといわれた判事犬飼厳磨の苦渋の案文かもしれません。なぜなら、原告はどんな証拠をだして、どんな理由をのべ、裁判所はどんな理由で否定したか、後世に判断をゆだねることもできるからです。

原告第9号証などは、宇和島藩庁の役人(須藤頼尚、鈴木重雄)が書いた記録なのですが、庄屋の私産ではなく共有地に認められる記述なのですが、文中に、「官有」という言葉をとらえ、この裁判は官有か私有を問うものではなく、共有地かどうかを問うものだ、といったり、藩の記録であるにもかかわらず、「もとより公正のものにはあらず、あるいは自己の憶測に出た一家の私言やもわからぬ」などといって、証拠には採用しません。何を出してもダメです。


これに反して被告の証拠はほとんど採用。もっとも有効だとしたのは、地券。反別畝順帳には、百姓惣代、組頭、区戸長の奥書があり、原告は被告の所有を認めている証拠とします。

また、庄屋が売買した無役地の売券証の証拠を、もし、共有地なら、村民が黙視するはずがない。だから、庄屋の私有地だというのです。

宇和島藩の庄屋がどんなに権力があり、また、どんな不正をしてきたか、だれが文句をいえたか、あの野村騒動はがまんにがまんをしてきた庄屋征伐でもあったことなど、裁判官は知らなかったのでしょう。

最後の文だけ引用します。

「右、被告の数証をまとめると、第1、昔の地割名寄帳、検地帳などにおいて、庄屋の記載は他の人民と変わらないこと。第2、庄屋家督を売却するとき、当時、村民は異議をとなえなかったこと。第3、庄屋地より無役地の増加を請願したこと、第4、反別畝順帳に基づき被告が地券を受け取るも、村民、異を唱えなかったこと、そのほか、原告は、庄屋地制限のさい、過石の分は百姓並諸役あい構え、その庄屋が私有視していた、というが、なぜ1村の共有地なら当時、これを黙って見ていたか。
以上のように論地の性質は庄屋が私産であることは明らか、原告はこれに対して口をいれるべき権利はない。

   判決

前項の理由なるをもって、原告の訴えあい立たず。訴訟入費は原告の負担たるべし。
                      明治16年11月29日

以上です。
原告が異を唱えなかった、黙認していた、ということが被告の正当性を裏付ける理由にされるのです。やはり、黙っててはいけませんね。






市村敏麿55 明治16年大阪控訴裁判所 原告・被告の言い分

2009-08-09 | 宇和島藩
いつものように適当に意訳したところもありますが、ほぼ、こんな感じです。


(原告控訴の要領)

本訴論地(無役地)の起源は宇和島伊達家の寛文年度にある。
1村の耕地は1村人民共同で所有する精神で、各自、それまでの作目を廃棄し、検地をし、土地の肥え痩せを平等にし、各自、それぞれ従来の作目の多寡に応じ、クジ抽選をしてその所有を決め、これを本百姓、半百姓、四半百姓の三等に区分した。

また、別に十段の等則を設け、その村高に応じ、本百姓一人前の受けるべき土地を何人分とし、これを備設してその村吏の給料とした。当時、これを無役地と称した。この土地は役耕地なので、諸役雑税は免除された。

その後八〇年、寛保年度に再びその制度を改め、その所有する土地を各自の固定の所有とし、さらに、高持ちの制にして売買譲与など自由にできるようになった。しかし、無役地にかぎっては、旧に変わらず、売買をゆるさなかった。

弘化年度に、三回民間の規則を変え、定免変更のさい、役俸地と給田を合わせ村高千石につき幾石と定め、それまで無役地だった土地の分はこの改正の定石より多い場合は、一般の私有地とみなして諸役を負担させ(当時、定石より多い分は村民にかえすべきが当然なるに、旧庄屋の私有になったのは、その威権で占有せしものなり)、その定石に足らない場合は、石戻りととなえ、村民からこれを補足した。
そして、無役地の称を改め、庄屋家督と称した。

以上の経過の事実を証明するものとしては、特に「弌野載」(いちのきり)と題するものがあり、旧宇和島藩主伊達氏において民間施政の方法を詳述したこの記録に、論地(無役地)はもともと一村共有より成立したことが正確に記されている。

とりわけ、その第七号証にあるように、当時、甲村の庄屋が乙村に転任する時は、互いにその土地の所有からはなれ、その赴任村の役地を受け、これを所持し、かつ、原告第九号証の旧藩取り調べ書にもあるように、甲乙両村を合併し、一村とするときは、一村の庄屋はその該当の役地につき、その村民は当然所持すべき一人前の土地を受け、組頭となり、別に役地半人前の土地を受けた例証があります。

原告第12号証の名寄帳においても、無役地は役名を記し、私有地は名前だけを記してこれを区別しています。

原告第13号下札帳でも、私有地にあっては、売買譲与など移動の便利のため、貼り下に郡宰が捺印するだけですが、無役地は直書して移動してはならないことを示しています。

このように、無役地は、1村共有より成立し、役俸地なることは明らかです。しかるに、被告はこれを祖先よりの私有地なりとして、庄屋廃職の今日においてもこれを1村共有に復帰せしめじ、あまつさえ、原告が要求を抗拒せるにより、本訴を提起するゆえんなり。

(被告答弁の要領)

本訴論地、庄屋家督と称する土地は、元来、被告家が私有にして、他人がくちばしをいれるべきものではない。

その私有である事実については被告第14・15号証の通り、寛文年度、検地帳およびクジ取り帳において、一般人民と等しく反別畝数の下に記名捺印し、少しもその書式、異ならない。

明治4年宇和島藩において一般庄屋廃止のさい、その家督4歩は庄屋の私有とし、6歩を官有とせられた。このとき、旧庄屋一同、その処分を不当とし、くりかえし藩庁へ訴えた。廃藩置県となり、明治5年旧宇和島県においてこの無役地(庄屋家督)の原因を調査し、さらに、その6歩を返されたり。

被告第2号証の反別畝順帳の通り、原告村民も被告の所有を明らかに認めているし、被告第1号証にあるように地券を受領しており、被告の所有であることは確定している。また、被告第8・19号証の通り、庄屋がこの土地を他人に売却しても、当時、村民はこれに異議を唱えなかったのは、すなわち庄屋の私有地であることは明らかなり。

以上です。

長くなったので、判決文は次回に。

市村敏麿54 明治16年大阪控訴裁判所 

2009-08-09 | 宇和島藩
明治16年11月29日の判決文は同じ回答で、3者に出されているようだ。
問題とする土地によって、3つにわかれて控訴したのだろうか。
以下の通りだ。



伊予国東宇和郡予子林村平民浜口権太郎ほか129名惣代同県平民
原告 横山佐平次  中野平八

同県同郡同村平民大野常一郎代人同兼平民
被告 牧野純蔵


愛媛県伊予国北宇和郡清水村平民高田宇三郎ほか53名惣代
原告 末広寅吉 兵頭 弘 市村敏麿

同兼同郡同村平民玉井安蔵代人同県平民
被告 別宮周三郎


愛媛県伊予国北宇和郡保田村平民入江徳三郎ほか79名惣代同県平民
 
原告 京下官吾  谷岡 実  海保志郎

同村平民赤松忠治郎代人清水常紀代言人愛媛県平民
被告 曽根市真

判事は 此代正臣 犬飼厳磨 後藤広貞

この時の大阪控訴裁判所長は宇和島出身の児島惟謙。

以前に書いたけど、「役地事件一夜記」の記事によると、判事の犬飼厳磨氏は、原告側に同情を示したようだけど、児島惟謙からかなりの干渉を受けたそうだ。

また後藤広貞氏は、判事の長安道一氏が原告の要求に大いに理ありと認めて、裁判所の敗訴の判決に服さず、調印をこばんだので、児島惟謙に後藤氏にかえられた、という噂が伝わっている。


市村敏麿53 明治15年宇和島始審裁判所 判決

2009-08-08 | 宇和島藩
判決文

判決文の半分までは原告の訴えを書いているので省略、後半から書く。
「・・・数通の証書をもって被告に共有権回復を求める申し立てをするといえども、旧藩処分の当否は当裁判所において裁判すべきものではないが、問題の土地はすでに宇和島藩において引き上げ、さらに同藩および旧宇和島県においてみなことごとく被告に与えたもので、被告の私産となったことは原告は認めたのでなかったか。被告が、その土地を現有しているのは、旧宇和島藩宇和島県より純然たる官地を給与せられたことに原因するので、被告はその土地を真正、所有する権利があると認定する。よって、原告は甲号数通の証書により被告に共有権回復を訴訟する権利なきものとす。
右、理由なるをもって、原告訴訟はあい立たざるものなり。
ただし、訴訟入費は成規の通り、曲者たる原告より弁償すべし

明治15年12月25日  宇和島始審裁判所」

今回は、証拠の証書についてはいっさいふれず、まったくの門前払いの判決。

この日のようすは以前、書いていたようで、もう1度、コピーしておきます。
なんか、ようすがよくわかると思うので。

「原告団は、裁判言い渡しの当日、殺気を帯び、傍聴には1300人が集まり、裁判所内は人の立つ隙間もなかったほど。警官は数十名が裁判所の内外を固め、予期せぬ暴動に備えていた。原告敗訴の申し渡しを聞くと、窓を破る者もいて、みんな、声をあげ、憤怒をあらわにしたという。

「原告方の激昂ひとかたならず、往々暴徒ありて、やにわに裁判所を破壊せんとするの気色ありければ、原告者の総帥市村氏および幹事海保志郎氏らはやくもこれを察して、六七百名の惣代を市村邸に集めて、3日2夜の間、その鎮撫に従事し、かろうじてこれが静謐をなさしめ、すぐに上阪、控訴す」と東京自由新聞の記事。」

ああ、裁判ていやだなあ。まったく、いやになる。被告を裁く裁判員ではなく、裁判官を裁く裁判員ならなってもいいぞ!

市村敏麿52 明治15年宇和島始審裁判所 原告被告

2009-08-08 | 宇和島藩
前回の裁判はその後、大審院、内務省、司法省、太政官まで出願、三条実美にまで嘆願書を出す。

中央への運動には脱藩浪人や民部省時代の敏麿の顔もふるに利用したのかもしれない。運動は大きな盛り上がりを見せ、一時、期待もさせたのだが、それどころか、愛媛県の弾圧があり、何人も原告のリーダーたちが逮捕、監禁され、そのために指導者の一人であった二宮新吉は自殺(この件は以前に書いた)。

運動は一時頓挫したが、またすぐ立ち上がる。前回は県令を被告とした行政裁判だったが、今度は、各庄屋を訴える民事裁判に切り替えた。

今回は原告、被告の名前に注目してみたい。

原告
愛媛県伊予国東宇和郡予子林村平民惣代  浜口権太郎
                    横山佐平治
                    向 初治
                    市川喜藤太

北宇和郡岩淵村              中野平太
北宇和郡袋町寄留千葉県平民        海保志郎
北宇和郡保田村平民梶田善六ほか85名惣代 京下宮吾
                     入江徳三郎
元結掛平民                谷岡 ○(うかんむりに契)

須賀通り士族              上村晴雄
藤江浦平民               岡田武三郎
清水村平民高田宇佐治ほか60名惣代   末広寅吉
同村平民                清水定治
元結掛士族               兵頭 弘
須賀通り寄留大阪組合代言人京都府士族  岡見東九郎

被告

東宇和郡予子林村平民大野常一郎代人 岩木村平民  牧野 純蔵

北宇和郡保田村平民赤松忠次郎代人寄松村平民    都築秀二
北宇和郡保田村清水村平民             玉井安蔵



「馬城大井憲太郎伝」にある歓迎次第書には、この中の京下官吾、末広寅吉、向 初治、岡田善四郎、岡田弐三郎、入江徳三郎の名が出てくる。ということは、これらの人々はこのあと10年後も市村敏麿とともに運動を続けたのだ。なにせ20年以上にわたる訴訟だ。途中で脱落する人も当然いたにちがいない。

入江徳三郎は、入江徳郎(昔、朝日の天声人語の筆者で、テレビキャスターでもあった)の先祖ではないか、と思って、調べたら、徳郎は福岡の出身だった。しかし、いつまでも宇和島に住んでいるとはかぎらず、その後引っ越したかもわからないな。この件はわからず。 

谷岡 ○。この人は、あの「全国的にアサー」の谷岡ヤスジの先祖では?ヤスジは宇和島出身だから可能性はあるな。

あと、わたしの親戚のような名前もあった(笑)

被告では、牧野純蔵、この人は前回、書いたけど、この人が代理をした大野常一郎。これ、重要人物だ。この父親の大野正敬は示談を申し込んで、あとで、警察に自首してうそだった、とかの謀略を使い、原告の分裂工作をした人物だ。

ところで、同じ予子林村の庄屋をしていた人で大野正盛という人がいる。幕末に亡くなっているのだが、大野正敬の父親ではないのだろうか。
大野正盛については「運魂鈍」という小冊子が出ている。立派な庄屋だったらしい。孫の西園寺源透という人が正盛の遺著を発行している(昭和18年)。

西園寺さんによると、大野正盛は児島惟謙と親戚の関係のようだ。

この西園寺さん、松山に住んでいたが、伊予の史学界の大先達で、伊予史料などを編集した人らしい。あの小野武夫も松山では西園寺翁に会い、いろいろ教えてもらった、と「日本村落史考」にある。あの裁判史料もひょっとしてこの西園寺翁から渡されたのかも。

伊予史の大先達がこの西園寺さんだとしたら、伊予史から無役地事件が消えたのもわかる気がする。父親の大野正敬は無役地事件の被告だし、怪しい行動をしているからな。

といっても、大野正盛ー大野正敬ー西園寺源透の関係がどうなのかはほんとうのところはわかりません。こんな想像もできなくはないな、と思って書いただけ。知っている人は教えてください。

うーん、ますますせまーいせまーい話題になってきたぞ(笑)


市村敏麿51 明治12年1月大阪上等裁判所判決

2009-08-08 | 宇和島藩
小野武夫「日本村落史考」にある判決文を紹介。

ただし、小野武夫も「蝋を咬むような味のない判決文」「乾燥無趣味たる判決文」と書いているように、まったく面白くないし、よくわからないこともあります。100年以上前の判決文ですから、とてもそのまま書く気はありません。
で、原告の事実や被告の答弁(これも裁判所が書いた)は要約のみ、判決文も適当に意訳。(わからないところはカット!)

原告の事実

・原告は、無役地が村の共有地であるなら、その証拠を出せ、と前の裁判でいわれているので、さまざまな証拠品をあげています。
村役場の下げ札帳、切り下げ札、「不鳴条」、貢租納入の差紙、紙切手、大役割帳、その他、共有地であることを示す諸帳簿を出しています。

・また、庄屋無役地、共有地においての義務は村人共同の義務であり、その義務を果たしてきたことを述べています。

・明治4年に庄屋役が廃止され、無役地の4を庄屋にわたし、6は共有地(戸長など村政のための費用)になったが、明治5年に全部、庄屋の私有になったことはおかしい。

被告答弁

・元来、藩制中は、人民において土地所有権はない。その地主はただ殿さまだけである。百姓は永久の小作人。土地の処分は殿さまだけの権利だ。

無役地において村民が共同して働いたのは、村民の庄屋への義務である。

・明治4年宇和島藩は、無役地の6をひきあげ、4を庄屋の私有とした。そのとき、庄屋たちは大いに異論をとなえ、その6も返還されたいと願い出たが、村人は何の申し立てもしていない。これはどういうわけか。

判決

第一条

証拠となす「不鳴条」および「弌野載」のごときは、元来、民間の諸件を公証するために、官民間で備えた公文書ではない。また、この書やそのほかの諸帳簿にも、無役地が共有地であるという証拠はない。

第二条

村民は、無役地は村民の共有地だから、その無役地に対する義務は村民一同で負担してきたと主張するが、それは、配下たる村民が庄屋への義務として働いたもので、土地にたいしての義務ではない。

また、明治4年宇和島藩において4分6分に分割したとき、4が庄屋の私有になったとき、まず、このことについて不服をのべ、その改正を要求すべきなのに、黙っていたことを見れば、これが共有地ではなかった、ということになる。

右により、旧宇和島藩宇和島県において適宜の処分をなしたるものなれば、今日にいたり、被告の処分不当なりとの原告の申し立てはあい立たない。

以上です。

判決は(後の判決も含め)、被告側の論理をそのまま採用していることが多い気がします。明治4年、無役地を4・6にわけたとき、庄屋は文句をいったが、村民は黙っていた、なんて論理はおかしい。おそらく、村民にはその情報は十分知らされてもいなかったのではないか。それにあの廃藩置県の大変革のとき、なにもかも変わっていく時代だ。
とまれ、黙っててはいけない、それは認めることになる、というのはわれわれの戒めだなあ。

また、証拠が信用できない、というのは、明治25年の判決でもまず最初にいわれたが、このとき、証拠として出されている「弌野載」とか「不鳴条」という史料(二つとも宇和島藩士が編集)は現代では宇和島藩の第一級史料として活字本になっている。最も、信用すべき史料なのだ。

市村敏麿50 小野武夫「日本村落史考」

2009-08-07 | 宇和島藩
古本ネットで小野武夫「日本村落史考」(穂高書房、1949年再版)を手に入れた。裸本でヤケがきつくて、古本の状態としては、「下」というやつだが、しかし、手に入れてよかった。

以前から、ここに無役地事件について何か書いてあることは知っていたが、まだ見たことがなかった。開けてびっくり。「宇和島庄屋と無役地問題」という章で71ページにわたって無役地事件について書いている。しかも、裁判の判決文をのせている(ほとんど、こればかり)。出ているのは以下の判決文。

明治12年1月大阪上等裁判所判決
明治16年11月大阪控訴裁判所判決
明治19年6月松山始審裁判所宇和島支庁判決
明治19年12月大阪控訴院判決
明治24年12月松山地方裁判所宇和島支部判決
明治30年3月松山地方裁判所宇和島支部判決
明治30年6月広島控訴院判決
明治35年松山地方裁判所判決
明治36年4月広島控訴院判決

無役地事件の判決文については、「市村敏麿の面影」に」出ているのは、明治25年の大井憲太郎が関わった判決書だけで(これはブログに紹介)他に近代史文庫の「無役地事件史料」にも少し出ているが、この本はそれを新たに補ってくれる。ただし、ここに出ている裁決文は原告・被告の名も裁判官の名もなく、月はあっても日付はなく、史料としては不完全なものなのだが。

小野武夫は「徳川時代百姓一揆叢譚」という各地の百姓一揆集を編纂した学者だが(この本は貴重だ)、無役地事件には関心はなかったようだ。ただ、その判決文に江戸時代の農村の慣行が出てくるので、農村研究家としての参考史料として興味を示しただけのよう。要するに、宇和島を旅して、旧庄屋層の人から判決文の史料の提供を受け、そのとき、その史料提供者から無役地事件への悪口を聞き、その話をそのまま受け取って帰ったのだろう。

解説にこうある。
「必ずしも村民自身が主導者として提起したのではない。当時、各地方いたるところに代言人なるものあり、少しの行きがかりを見つけてこれに端緒を求めて無知の農民を扇動し、その間に事を起こさしめて利を占めようとする徒輩が多かった。されば、この宇和島地方の人たちもひっきょうこれら代言者流の弄したる扇動に乗ったにちがいない」

要するに、その原因を姦知にたけた悪い代言人と無知なる農民のせいにしている。これは、旧庄屋層が無役地事件について投げた口吻とそっくりではないか。小野武夫は市村敏麿のことも二宮新吉のことも、またこの裁判にかかわった農民たちについて何も知らされなかったのだろう。

さらに書く。

「かれらのある者は為に産を失って路頭に迷い、甚だしきは居村にもおられなくなるという結末に終わったので、今日でもこの事件はその地方の人たちの記憶に残った一種の俚諺を生み、無益のことに金銭を費やすことを「三本地をやる」(三本地とは無役地のこと)とか、また、「三本地と天理教は入れ佛事」などいいて、世人をいましむ材料となされている」

これも旧庄屋層の人から聞いたのだろう。大正末年、無役地事件にかかわった
人々がこの地方でどういう境遇にいたかよく伝える言葉だろう。闘争に参加した人々は馬鹿にされ、笑われ、貧窮の中で片隅に生きることを余議なくされた。

この本は大正15年に出版され、昭和2年には再版が出ている。無役地事件の被告側の旧庄屋層が結束して多数購入したことも容易に想像できるではないか。

こうして無役地事件は闇に消された。

「百姓一揆叢譚」を編集した小野武夫ってこんなのだったのか、と少しがっかり。この本の当時のまえがきを見てみたが、日本を尊ぶ精神、日本主義の学問研究などの言葉が出ていた。そういう学者だったんかい?


市村敏麿49 庄屋給地処分不服の訴状(明治10年)

2009-08-06 | 宇和島藩
明治10年、市村敏麿が大阪上等裁判所長に出した上申書があるので、それをまず、紹介する。
史料は、愛媛近代史料17無役地事件(近代史文庫)。

ただし、文章は読みにくく(読めない)、漢字も今は使わないような漢字もあったりで、適当に意訳した。学術ものを書いてるわけではないので、だいたい、こんなものだろう、という感じです。


「 右原告市村敏麿、申し上げます。
右に記載した土地は、寛文年間、宇和島伊達氏のご支配のとき、非常な大水害があり、田畑が流失、ほとんど荒野となりました。再び開墾を始めましたが、巨額の費用がかかり、領主にも力を請い、官民の力でようやく回復いたしました。しかし、土地のようす、地味の善悪はバラバラで均しくありませんでした。このままでは今後の農業にも大きな障害となるため、官民協議のうえ、新しく検地をおこなうことになりました。で、村中、耕地はクジの抽選で持つように改革し、それまでの習慣は取り消しになりました。

そのとき、村の石高の多寡を調査し、庄屋の給料等のきまりを設け、すなわち村民のクジ地から備えるよういにしました。以来二百有余年、長い年月を経ましたが、役地は厳重に取り扱われたたため、今にいたるまで連綿として存在しています。役地、私有地の区別は、天保度の検地帳に則り、弘化度の下札帳にも書いてあります。

しかるところ、戊辰革命により、皇国の新しい規定を遵守し、それまでの庄屋役を廃止し、大小区画を制定し、庄屋に代わって区長戸長を置いて、民間の庶務を担当させることになりました。そして、その区戸長の月給、諸費用はすべて人民の戸籍に賦課されることになりました。

(かつて庄屋の庶務の月給は無役地を与えていたので、人々は区戸長の給料を支払う以上、かつての無役地はどうなるのかと)人々は上からのご処分をを注視していました。

明治4年、旧宇和島藩において初めて無役地を4・6に分割し、その4を旧庄屋に与え、6は村役人の給料としました。しかし、すぐに廃藩置県の大変革。旧庄屋どもの請願により、無役地はことごとく旧庄屋の私有地になりました。これは人々の思いもよらぬ処分で、大きな疑問と不満を生じ、議論が沸騰、明治8年以来各村あげて県の処分の非を訴え、陸続、県庁へ請願いたしましたが、ことごとく拒否されてきました。

とりわけ、この村においては、かつての古文書なども援用し微細に上申しましたが、明治10年1月22日には「人民共有地の証拠とはみなしがたい」とのみの回答で、その理由は告示されませんでした。それだけでなく、旧藩庁の処置は可不可を問わず、既往のことは是非当否とも更生せず、というがごとき指令を下されました。村中で話し合いましたが、一同、承服できませんでした。

そもそも、この土地は、寛文以前はともかく、冒頭でも述べましたように、寛文度には洪水のため荒れ地になったのを、掘り返し、さらに検地し、それまでの面目を一変し、村浦、石高に応じて庄屋給十等則を設け、村中、クジ地の中から設置したことは「不鳴条」と表題する書に記録されています。その後、幾年月を経、弘化年度に、定免を改正するとき、この土地をの名前を庄屋家督とし、石を定め、その相当の石に足らないときは、村民から補わせ、相当の石を過ぎているときは、百姓並諸役係を課せられました。このほか、県庁に上申した中に旧庄屋が私有すべからずとした証拠は少なくありません。

庄屋、組頭の役地は本来、同じ性格(共有地)のものですが、組頭の役地のみ、明治7年5月27日、県参事江木康直より、一般村持ち(村の共有地)たるべき旨布達され、ひとり庄屋給地は旧庄屋へ与えられたのは、一物二様の処分で、人民にとっては意表に出た処分で、どういう理由なのか、理解に苦しみました。

くりかえします。この無役地は、前に述べましたように、官民が協議したうえで、庄屋の給地にしたもので、この土地の所得をもって庄屋の給料にあて、庄屋役担任中にこの権利を与えたものであることははっきりしています。しかるに、庄屋を廃止し、さらに区戸長を置き、区戸長に事務をさせながら、いぜん、給地を庄屋に与える義務はありません。まして、旧庄屋も村の事務を取り扱う仕事もなくなったのですから、この土地を持つ権利もありません。

区戸長の給料は村民個々から税として徴収し、古来、その費用(税)にあててきた土地は旧庄屋の私有にする。すこぶる失当の処分、無偏無光の御政体に齟齬したるものと愚考いたします。これにより、今後、村民が区費を負担する以上、この無役地を村民共有地とし、区費の補助にするべきことは当然のことと考えます。

なにとぞ、迅速に県官を召し出されて、曲直当否をご審理のうえ、公明の裁判をなしくだされますようお願いいたします。
なお、県庁指令、嘆願書、証拠物の写しをそえて申し送ります。

 明治10年6月廿日
                 原告 市村敏麿

大阪上等裁判所長
  四等判事  尾崎忠治殿      」

明治10年6月といえば、西南戦争真最中のころです。

市村敏麿48 無役地の額、面積 闘争費用

2009-08-05 | 宇和島藩
庄屋・組頭の特権地だった無役地。これは村民共有地だから返還せよと求めたのだけど、返還されたあと、各農民の私有地にしようとしたのではない(それなら、庄屋との土地の取りあいだ)。区費、地方税として学校建設費など、村民のための公共費として使ってほしい、と訴えた。

ところで、その無役地とは宇和郡全体でどのくらいあったのか?

それを示す史料が青地春水の「無役地事件覚書」の中にある(谷本一郎所蔵文書)。

明治13年、裁判闘争をする農民団は、東京で闘争のための資金計画を相談したのだが、そのとき、決まった史料がある。これは内務省に出願する運動のときの史料だ。
以下の通りだ(数字は算用数字にした)。

「宇和四郡庄屋組頭役地地所取り戻しの件、内務省へ願書、奉呈するに先立ち、四郡惣代等、東京京橋区  町四丁目山田楼に集会協議のうえ、確定する件、左に。

一、該地処惣高およそ7500町

  其一部

 750町 この価およそ52万5000円

  此

 300町 この価およそ21万円  経費
 117町5反歩 この価およそ8万2250円 東京池田組報謝物
 332町5反歩 この価およそ23万2750円 二宮・市村 報謝物 折半のこと

 但し、臨時に加勢の者へもここより相互分配すべきこと

 右の定めにてその入費、宮内村担当いたしおり候ところ、筆持にては結果を要しがたき見込みなるをもって、さらに四惣代協議をとげ、左の方法にて自今以後、該費額を折半し、其の一を宮内村において担当し、その一を前各村浦において担当し、不都合なきを要す。その方法、左に。

一、金900円 明治13年8月より明治14年5月までの該費額の予算

  内訳
350円 野村滝太郎 月報および諸費用
360円 二宮新吉 市村敏麿 月報および旅費
130円 得能彦三郎 藤岡米吉  往復旅費

右の方法をもって契約いたし候うえは、今後違変なきをもって廉々照明することかくのごとし
明治13年7月29日

二宮新吉 (印)
尾崎幸治郎(印)
末広勝吉 (印)
得能彦三郎(印)
市村敏麿 (印)
藤岡米吉 (印)
平林佐和治(印)
篠藤茂吉 (印)
谷岡 実(印)    」

以上です。

まず驚きは7500町という土地面積。1町は3000坪だから、その7500倍。東京ドームが何個分だろう。数字は弱いから見当がつかない。

宇和島藩は領内を10組に分け、村の数は219あったそうで、村の庄屋組頭の数だけ無役地はあったのだろうから、全部合わせると、これくらいになるのだろうか?

その1割にあたる750町を金額にして約52万にしているのだから、7500町なら単純に計算しても520万円になる。場所によって価値はちがうだろうけども、しかし、これは巨額の財源だ。

かつて矢野貞興が、二宮新吉にむかって、庄屋に半分は共有地として返還させ、あと半分は大銀行をつくる財源にしたらどうかと持ちかけたそうだが(以前にふれたが)、そういう巨財だ。

闘争団は、共有地の財産の1割を闘争資金として計画しているが、結局、共有地にはならなかったのだから、この約52万円もすべて農民たちが捻出する。裁判はことごとく負け、裁判費用は被告側の分も原告が支払うことになっているので、無役地裁判を通して支払った金額もきっと何百万となったにちがいない。

この年、代表にわたす1年間の資金だけでも900円だ。この時代、庶民の年収はいくらだっただろう。

結局、宇和郡の庄屋たちはこれらの土地を自分のものとして、有産階級として貧しい農民の上に君臨することになる。

次回から裁判の中身について書いてみる。







  

市村敏麿47 原告側の団結

2009-08-03 | 宇和島藩
今度は農民側の団結について。
10年以上20年近くにわたって原告側の組織と団結が維持されてきたことは実に希有のことではなかろうか。

庄屋側はおそらくさまざまの妨害に出たことが想像できる。個別の切り崩し、示談や買収、あるいは威嚇、脅迫、裏切りのすすめ、誹謗中傷。庄屋側は官と結んでいるので、なんでもできる。郡長、戸長、警察など地域の権力を使える。市村への郵便物はほとんど相手側に知られ、香川の琴平で受け取らなくてならなかったそうだ。

裁判に負けたとはいえ、立派な戦いぶりだったと思う。
農民の団結を示す史料として青野春水の「無役地事件覚書」(愛媛近代史研究16)を紹介する。この史料は「谷本一郎所蔵文書」からだそうだ。。谷本一郎とは、「市村敏麿の面影」にも史料を提供した人だ。どこに所蔵されているのだろう。

字句は、適当に意訳したりしてますので、そのままではありません。

一、今般、宇和郡各村浦旧庄屋および組頭家督地所の儀、出訴につき、私ども惣代として裁判所へ出頭いたしますが、元来、不肖の自分にて条理貫徹せざる儀もこれあるべき、また、取り調べ等行き届きかね候につき、諸事、お指図あい守り進退つかまつりたく、この段、諸君へ委任いたしおき候、今、改めて約定し、右事件しかるべくあい運び候よう頼みあげ奉り候

一、右、委任した事件、利運にいたり候えは、訴訟費、裁判の地所の取高の内、平等1割、首にお渡し申すべく、その際にいたり、私どもは勿論、村浦小前一同よりも、いささかも違変は申し出ません。

一、惣代私ども、諸雑費の儀、たとえ、長い歳月が経るといえども自費をもってあい償い、歎きがましきご相談等はけっしていたしません。

一、出訴中、御役所のご理解により原告被告両方示談になろうとも、諸先生のご尽力で交渉しているので、約束の通り、訴訟費は償います。こちらで勝手に示談することは決していたしません。

右の条、堅くあい守り、いささかも定約に違背いたしません。後の証拠として、惣代私どもにて連印いたします。
明治9年7月19日

このあと、各村の19人の惣代の名前と印があります。

住所と名前は省略したけど、ひょっとしてこの住所にこの名前の子孫の方が住んでおられないだろうか、と思う。現地にいたら、調べてみたいものだ。

この惣代たちの誓いは市村敏麿と二宮新吉に対してなされたものだが、市村たち二人が惣代たちに示した決意も史料に残っている。

「我ら本年3月18日をもって3カ年累積の葛藤を解き、一己の私をはらい、公平至当を要し、さらに誓盟締約をなせし。たとえ、同日に生せずといえども同日同枕に死せんの意志を含蓄し異体同心の間柄たるうえは申すまでもこれなく候。今や大事成らんとするにむかわんとし、各村惣代中、相互に親睦なるや敵視するやを顧慮し、今後はとりわけて謹慎、戒めを欲し、一封の忠告を飛ばすはいわゆる用心の縄、転ばぬ前の杖なるものにこれあり。大至急、惣代中へ心得向き、お申し聞かせ上、懇和を結ばしたまうべし・・・・」

明治11年3月18日 
各村浦惣代御中
                 二宮新吉
                 市村敏麿

この2年後、二宮新吉は早々と自殺してしまうのが解せないなあ。それはないぜ、と敏麿は思ったにちがいない。





市村敏麿46 牧野純蔵 庄屋層の団結

2009-08-03 | 宇和島藩
自分で質問しておいて自分で答えるのもなんだけど、やはり第一回衆議院議員になった牧野純蔵は、無役地事件にかかわった人と同じだった。自分で調べました。
「愛媛の政治家」(高須賀康生著 愛媛文化双書)に出ていました。

「牧野は、天保7年1月宇和郡岩本村(現東宇和郡宇和町)で生まれた。幕末・維新期に庄屋・里正、戸長、副区長などを務め人望があった。大同派ー自由党に属したが、明治10年代宇和郡をゆるがした無役地事件では地主側を代表して農民と対決するなど、保守的な人柄で政治運動にはあまり関与しなかった」
記述はこれだけです。

無役地事件の史料にはかなり早くから牧野純蔵の名は出て、庄屋層のために中心になって動いている。牧野は庄屋層の代表だ。いわば、敏麿のライバル。しかし、無役地事件の被告が自由党とはおそれいった。名ばかりだろう。だから、自由党の末広鉄腸も朝野新聞で無役地事件を非難したのだろう。牧野が衆議院議員になったのも無役地事件のためだったかもしれないな。


あんなこんなで、また、無役地事件に興味が出てきた(笑)。以前、裁判についてはわかりにくいので、内容には立ちいらなかったけど、今回は、無役地事件の史料(愛媛近代史史料 無役地事件 近代史文庫)をがんばってかじってみることにした。たぶん、途中で、いやになると思うのでいつまで続くかはわからない。気まぐれで書きます。

無役地事件とは、旧庄屋の無役地(庄屋の特権地)は人民の共有地だからという理由で返還を求める訴訟で、いわば、旧庄屋層と庄屋階級以外の農民との闘いだ。

この闘いで、旧庄屋層の連帯は一般の農民層よりもすばやく、明治初年、無役地が庄屋の私有になったのも、庄屋層の運動によるところが大きい。裁判が始まると、その結束はますます強くなる。明治10年の庄屋間で交わされた手紙の史料があるが、市村敏麿や裁判のようす、たびたび開かれる集会、金策など常時連絡しあっているのがわかる。

いくつか紹介する。といっても、原文通りではない。適当に意訳してる。

「極々内密の話では、上登官員土居何某(土居通夫か?)より、お頼みこれあり、千円から千五百円まで当分御用立てしてくれるように示談があるそう。牧野純蔵が帰国したら詳しいことはわかります」(明治10年10月)

「代言人市村なる者も到底勝利なきは知り及びても、人民に対し、あるだけの手を尽くさざるを得ざるの場合に押し移りおり候ゆえ、今一応、上告までやりて見てと須藤へ内証せし由なり。

 本日、市村も帰県した趣、ご注意。なおこのうえ彼らの姦計に陥らざるよう精々尽力ありたし」(明治10年11月)

「強きは弱きを助け、弱きは強きに諾し結社創立のご相談をいたしたく、来る9月12日第二日曜日午前7時清水別荘へお集まり・・・」

「過ぐる9日集会のところ、左の人名集まり結社創立の上、社員中は、親子兄弟と同じく、助け合うことになったので、諸規則を立てるため、清水別荘にお集まり願いたい。今回は、一家の主人が出席されますよう。もし、不参加の場合は、以後、社外になりますのでご承知を」


「左の金額をご持参、お集まりください。山田組 金180円、多田組 210円野村組 190円、山奥組145円、川原渕組200円。

父子たるもの、必ず父子共に集会、むろん、不参する者は罰金ある筈」

こうした手紙のやりとりの中心になっているのも牧野純蔵だ。

旧庄屋層、多くが明治後、区長など地域の役人になり、地域を支配してきたが、この庄屋たちのの結社、結束こそが、おそらくは宇和島から無役地事件が抹殺された大きな原因にちがいない。




愛媛 牧野純蔵とは。

2009-08-02 | 宇和島藩
無役地事件ではしばしば牧野純蔵という名前が被告として出てくる。
市村の敵側だが、なかなか手強い男のようだ。
愛媛の最初の衆議院議員に牧野純蔵という人がいるようだが、同一人物だろうか。
宇和島の牧野純蔵についてご存じの人おられたら、教えてください。