虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

市村敏麿60 メモ 横林村庄屋大野正盛について

2009-08-20 | 宇和島藩
以前、無役地事件の被告予子林村庄屋大野常一郎の父は大野正敬(市村に示談を申し込む人物)で、その父は大野正盛ではないか、と書いたけど、やはりそうだったので、ここにメモしておきます。

西園寺源透は、大野正盛の養子になった大野金十郎正武の子供になる。

ところで、孫の西園寺源透が「偉人だ」として小冊子に伝を書いた大野正盛だが、やはり、この人も庄屋時代、市村敏麿と関係あります。いやあ、宇和島藩も狭い。

谷本市郎が残した「市村敏麿伝」の庄屋時代のこととして、次の文章があります。

「横林村庄屋大野三郎右衛門に対し、百姓不帰腹にてしきりに故障あい続き候につき、代官川名謙蔵説得のため御出張につき、古市雄左衛門、矢野太兵衛、説諭方申しつけられ出張」

大野正盛は世襲の庄屋ではない。
もともとは貧しい境遇で、若党、つまり中間ともいわれる短期雇用派遣労働者みたいなもので、藩士の臨時下男役として江戸や大坂にもいったことがあるようだ。

ある時、梶田長門という宇和島藩士のお供で大坂に出たとき、主人の梶田が大病にかかり、日夜看病に尽くしたので、主人に感激され、主人から四書の素読を教わり、それから文字に明るくなったとか。

江戸にも4年ほど若党として勤め、15両をため、故郷に帰る。この金で母親といっしょに西国霊場など神社仏閣巡りの旅に出る。この旅の目的は追放刑になった兄を捜す旅でもあったようだが、兄は見つからず。

21歳のとき、大坂に出て袋物の仕立ての修業をし、27歳で宇和島に店を出す。店は繁盛したようで、金を貯め、31歳のときに、川内村庄屋家督を買取り、庄屋になる。33歳で養子を迎え、37歳で家督を養子に譲って引退。48歳のときには横林村の庄屋家督を買って庄屋になる。慶応4年66歳でなくなる。正敬が後を継ぐ。

以上は、正盛の孫の西園寺源透の「運魂鈍」による。
しかし、庄屋というのは、農業を知らなくてもできるのか、とちょっと驚き。この人は商売人だったはずだ。江戸や大坂で働き、おそらく計数に明るく、にかなり世慣れてはいたのだろう。当時の宇和島の庄屋は、農というより商売人、実業家が多かったそうだから、珍しくはないのかもしれない。でも、山奥の庄屋が勤まっただろうか。

横林村(今の野村町)は山国で、博徒や怠け者が多く、郡内屈指の難治の村、また貧窮の村などといっているが、村民からすれば文句をいいたいところがたくさんあった庄屋にちがいない。大野正盛庄屋に対してしきりに村民が抗議したようだ。


さて、西園寺源透という人は、愛媛の偉人、先覚者の一人だそうだ。
元治元年川内村の大野正武の長男に生まれ、明治4年に西園寺家の養子に。
村長、郡長などを勤め、明治25年には県会議員。おそらく無役地裁判では庄屋側として農民の運動に反対した人だろう。
明治41年には松山に移住し、大正9年、伊予史談会を設立。
昭和22年、84歳で亡くなる。

愛媛県立図書館も宇和島市立図書館も「無役地」とか「野村騒動」で検索しても何も見つからず、宇和4郡の無役地裁判闘争が今なお地元愛媛でも宇和島でも知られることがないのは、この人の力があったのだろうか。