虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

市村敏麿51 明治12年1月大阪上等裁判所判決

2009-08-08 | 宇和島藩
小野武夫「日本村落史考」にある判決文を紹介。

ただし、小野武夫も「蝋を咬むような味のない判決文」「乾燥無趣味たる判決文」と書いているように、まったく面白くないし、よくわからないこともあります。100年以上前の判決文ですから、とてもそのまま書く気はありません。
で、原告の事実や被告の答弁(これも裁判所が書いた)は要約のみ、判決文も適当に意訳。(わからないところはカット!)

原告の事実

・原告は、無役地が村の共有地であるなら、その証拠を出せ、と前の裁判でいわれているので、さまざまな証拠品をあげています。
村役場の下げ札帳、切り下げ札、「不鳴条」、貢租納入の差紙、紙切手、大役割帳、その他、共有地であることを示す諸帳簿を出しています。

・また、庄屋無役地、共有地においての義務は村人共同の義務であり、その義務を果たしてきたことを述べています。

・明治4年に庄屋役が廃止され、無役地の4を庄屋にわたし、6は共有地(戸長など村政のための費用)になったが、明治5年に全部、庄屋の私有になったことはおかしい。

被告答弁

・元来、藩制中は、人民において土地所有権はない。その地主はただ殿さまだけである。百姓は永久の小作人。土地の処分は殿さまだけの権利だ。

無役地において村民が共同して働いたのは、村民の庄屋への義務である。

・明治4年宇和島藩は、無役地の6をひきあげ、4を庄屋の私有とした。そのとき、庄屋たちは大いに異論をとなえ、その6も返還されたいと願い出たが、村人は何の申し立てもしていない。これはどういうわけか。

判決

第一条

証拠となす「不鳴条」および「弌野載」のごときは、元来、民間の諸件を公証するために、官民間で備えた公文書ではない。また、この書やそのほかの諸帳簿にも、無役地が共有地であるという証拠はない。

第二条

村民は、無役地は村民の共有地だから、その無役地に対する義務は村民一同で負担してきたと主張するが、それは、配下たる村民が庄屋への義務として働いたもので、土地にたいしての義務ではない。

また、明治4年宇和島藩において4分6分に分割したとき、4が庄屋の私有になったとき、まず、このことについて不服をのべ、その改正を要求すべきなのに、黙っていたことを見れば、これが共有地ではなかった、ということになる。

右により、旧宇和島藩宇和島県において適宜の処分をなしたるものなれば、今日にいたり、被告の処分不当なりとの原告の申し立てはあい立たない。

以上です。

判決は(後の判決も含め)、被告側の論理をそのまま採用していることが多い気がします。明治4年、無役地を4・6にわけたとき、庄屋は文句をいったが、村民は黙っていた、なんて論理はおかしい。おそらく、村民にはその情報は十分知らされてもいなかったのではないか。それにあの廃藩置県の大変革のとき、なにもかも変わっていく時代だ。
とまれ、黙っててはいけない、それは認めることになる、というのはわれわれの戒めだなあ。

また、証拠が信用できない、というのは、明治25年の判決でもまず最初にいわれたが、このとき、証拠として出されている「弌野載」とか「不鳴条」という史料(二つとも宇和島藩士が編集)は現代では宇和島藩の第一級史料として活字本になっている。最も、信用すべき史料なのだ。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。