虎尾の会

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市村敏麿58 明治24年松山裁判所 被告の言い分

2009-08-12 | 宇和島藩
明治24年松山地方裁判所宇和島支部

(被告抗辯の要旨)

旧宇和島藩領内における庄屋たるや、元豪族にして土地を多数持ち、藩、その庄屋の土地に対し正租すなわち物成を除き、その他の諸役すなわち四色物成、九色物成と称する雑税および横成と唱える村費を免除してきた。よって、その土地を無役地もしくは庄屋無役地あるいは後世、庄屋家督と称した。

無役地は、諸税を負担する有役地に対する名称で、庄屋の役地ではなく、また、村民の供給地でもない。庄屋自己の所有地である。

寛文年度において原告がいうような洪水はなかったが、正保年間の検地についで、領内一般内さ検地し、各村々民所有地の肥痩を平等にするため、鬮(クジ)取り法を設け、本百姓、平百姓、四半百姓に分け、従来所有していた土地の多少に応じて土地の良否を組み合わせ、各自、そのクジに従い、土地を所有することになった。

このとき、庄屋はもともと所有地が多かったので多数の土地を得たが、その無役においては、以前と異なり、庄屋所有地すべてを無役とはしないで、各村々高の多少により、小村は本百姓3クジ分、すなわち3人前、大村は12人前を限り、無役とし、その他の庄屋所有地は村民と一般諸役を負担することになった。

文政天保等を経て弘化にいたり、無役、すなわち免除される諸税の高を石高に定められたため、無役高に過不足が生じ、その過石となった地所は有役地として庄屋所有のまま諸役を負担し、不足石となった村は石戻りと称して、その不足する石数のみを庄屋は受け取った。
同年度において、庄屋は世襲なので、その無役地を下げ札帳に庄屋家督と記し、その田畑を直き書にすることにした。しかし、その改称は一般の規定ではなく、無役地の性質に変更はなく、その売買においても庄屋の自由であった。

なお無役地は庄屋の私有地であり、村民の供給したものでないことは、正保から天保までの水帳その他の帳簿に、無役、あるいは庄屋、あるいは単に庄屋一私人の名前のみが記載され、他の百姓の私有地と記載の仕方になんの異なるところがなく、かつ、小下げ札を受領していることを見ても明らかである。

明治4年、旧宇和島県において無役地にどういう見解もっていたのか、この6分を引き上げられたため、その不法を訴え、ついに元のごとく返還された。のち、地券を下付されたときも、各村総代は庄屋その人の所有を認めた。

以上のように昔から今日まで、税を納める公的義務、私権利の処分、みなこれ庄屋のなすところで、いまだかつて村民共有たる現象を生じたことはない。この訴訟の目的の土地は、前述したように全く被告の所有地で、村民が口をはさむことがらではない。

原告の提供する「弌野載」および「不鳴条」はなにびとの手になったものかわからず、人民の権利に関する事実を公証するものではない。また、洪水のあった事実がないことは旧吉田藩領内に異変がなかったことからもわかる。

(途中、意味がよくわからないので、15行ほど省略)

組頭家督については、組頭は庄屋とちがって、世襲ではなく、また、組頭においてもまだその土地を所有する者も多い。権利を放棄した組頭がいるという理由のみで、無役地を村民の共有地とすることはできない。また、従来、庄屋役と庄屋その人に区別があるわけでなく、庄屋役を勤める者すべてを庄屋と呼ぶことは書類からも事実からも明らかである。

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