虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

市村敏麿56 明治16年大阪控訴裁判所 判決

2009-08-09 | 宇和島藩
弁明(判決理由)

原告第1・2号証は内さ検地の起因およびその方法を見るべきもので、本訴の論地に対し証拠とすべきところなし。

原告第3号証は岩城丈平なる者の調製にして、クジ取り方法の意見書にすぎず、証拠とすべきところなし。

原告第4号証は庄屋田地の持ち分の定めとありて、庄屋地の制限を立てるもので、論地の性質を見るべきところなし。

原告第5号証・・・・

やめましょう。長くなるし、空しくなる・・(笑)

この調子で原告第13号証まで、ことごとく証拠とするところなし、と続くのです。

でも、原告の証拠証をひとつずつあげて否定するだけでもまだ良心的なのかもしれない。児島惟謙によって執拗に書き直せといわれた判事犬飼厳磨の苦渋の案文かもしれません。なぜなら、原告はどんな証拠をだして、どんな理由をのべ、裁判所はどんな理由で否定したか、後世に判断をゆだねることもできるからです。

原告第9号証などは、宇和島藩庁の役人(須藤頼尚、鈴木重雄)が書いた記録なのですが、庄屋の私産ではなく共有地に認められる記述なのですが、文中に、「官有」という言葉をとらえ、この裁判は官有か私有を問うものではなく、共有地かどうかを問うものだ、といったり、藩の記録であるにもかかわらず、「もとより公正のものにはあらず、あるいは自己の憶測に出た一家の私言やもわからぬ」などといって、証拠には採用しません。何を出してもダメです。


これに反して被告の証拠はほとんど採用。もっとも有効だとしたのは、地券。反別畝順帳には、百姓惣代、組頭、区戸長の奥書があり、原告は被告の所有を認めている証拠とします。

また、庄屋が売買した無役地の売券証の証拠を、もし、共有地なら、村民が黙視するはずがない。だから、庄屋の私有地だというのです。

宇和島藩の庄屋がどんなに権力があり、また、どんな不正をしてきたか、だれが文句をいえたか、あの野村騒動はがまんにがまんをしてきた庄屋征伐でもあったことなど、裁判官は知らなかったのでしょう。

最後の文だけ引用します。

「右、被告の数証をまとめると、第1、昔の地割名寄帳、検地帳などにおいて、庄屋の記載は他の人民と変わらないこと。第2、庄屋家督を売却するとき、当時、村民は異議をとなえなかったこと。第3、庄屋地より無役地の増加を請願したこと、第4、反別畝順帳に基づき被告が地券を受け取るも、村民、異を唱えなかったこと、そのほか、原告は、庄屋地制限のさい、過石の分は百姓並諸役あい構え、その庄屋が私有視していた、というが、なぜ1村の共有地なら当時、これを黙って見ていたか。
以上のように論地の性質は庄屋が私産であることは明らか、原告はこれに対して口をいれるべき権利はない。

   判決

前項の理由なるをもって、原告の訴えあい立たず。訴訟入費は原告の負担たるべし。
                      明治16年11月29日

以上です。
原告が異を唱えなかった、黙認していた、ということが被告の正当性を裏付ける理由にされるのです。やはり、黙っててはいけませんね。






市村敏麿55 明治16年大阪控訴裁判所 原告・被告の言い分

2009-08-09 | 宇和島藩
いつものように適当に意訳したところもありますが、ほぼ、こんな感じです。


(原告控訴の要領)

本訴論地(無役地)の起源は宇和島伊達家の寛文年度にある。
1村の耕地は1村人民共同で所有する精神で、各自、それまでの作目を廃棄し、検地をし、土地の肥え痩せを平等にし、各自、それぞれ従来の作目の多寡に応じ、クジ抽選をしてその所有を決め、これを本百姓、半百姓、四半百姓の三等に区分した。

また、別に十段の等則を設け、その村高に応じ、本百姓一人前の受けるべき土地を何人分とし、これを備設してその村吏の給料とした。当時、これを無役地と称した。この土地は役耕地なので、諸役雑税は免除された。

その後八〇年、寛保年度に再びその制度を改め、その所有する土地を各自の固定の所有とし、さらに、高持ちの制にして売買譲与など自由にできるようになった。しかし、無役地にかぎっては、旧に変わらず、売買をゆるさなかった。

弘化年度に、三回民間の規則を変え、定免変更のさい、役俸地と給田を合わせ村高千石につき幾石と定め、それまで無役地だった土地の分はこの改正の定石より多い場合は、一般の私有地とみなして諸役を負担させ(当時、定石より多い分は村民にかえすべきが当然なるに、旧庄屋の私有になったのは、その威権で占有せしものなり)、その定石に足らない場合は、石戻りととなえ、村民からこれを補足した。
そして、無役地の称を改め、庄屋家督と称した。

以上の経過の事実を証明するものとしては、特に「弌野載」(いちのきり)と題するものがあり、旧宇和島藩主伊達氏において民間施政の方法を詳述したこの記録に、論地(無役地)はもともと一村共有より成立したことが正確に記されている。

とりわけ、その第七号証にあるように、当時、甲村の庄屋が乙村に転任する時は、互いにその土地の所有からはなれ、その赴任村の役地を受け、これを所持し、かつ、原告第九号証の旧藩取り調べ書にもあるように、甲乙両村を合併し、一村とするときは、一村の庄屋はその該当の役地につき、その村民は当然所持すべき一人前の土地を受け、組頭となり、別に役地半人前の土地を受けた例証があります。

原告第12号証の名寄帳においても、無役地は役名を記し、私有地は名前だけを記してこれを区別しています。

原告第13号下札帳でも、私有地にあっては、売買譲与など移動の便利のため、貼り下に郡宰が捺印するだけですが、無役地は直書して移動してはならないことを示しています。

このように、無役地は、1村共有より成立し、役俸地なることは明らかです。しかるに、被告はこれを祖先よりの私有地なりとして、庄屋廃職の今日においてもこれを1村共有に復帰せしめじ、あまつさえ、原告が要求を抗拒せるにより、本訴を提起するゆえんなり。

(被告答弁の要領)

本訴論地、庄屋家督と称する土地は、元来、被告家が私有にして、他人がくちばしをいれるべきものではない。

その私有である事実については被告第14・15号証の通り、寛文年度、検地帳およびクジ取り帳において、一般人民と等しく反別畝数の下に記名捺印し、少しもその書式、異ならない。

明治4年宇和島藩において一般庄屋廃止のさい、その家督4歩は庄屋の私有とし、6歩を官有とせられた。このとき、旧庄屋一同、その処分を不当とし、くりかえし藩庁へ訴えた。廃藩置県となり、明治5年旧宇和島県においてこの無役地(庄屋家督)の原因を調査し、さらに、その6歩を返されたり。

被告第2号証の反別畝順帳の通り、原告村民も被告の所有を明らかに認めているし、被告第1号証にあるように地券を受領しており、被告の所有であることは確定している。また、被告第8・19号証の通り、庄屋がこの土地を他人に売却しても、当時、村民はこれに異議を唱えなかったのは、すなわち庄屋の私有地であることは明らかなり。

以上です。

長くなったので、判決文は次回に。

市村敏麿54 明治16年大阪控訴裁判所 

2009-08-09 | 宇和島藩
明治16年11月29日の判決文は同じ回答で、3者に出されているようだ。
問題とする土地によって、3つにわかれて控訴したのだろうか。
以下の通りだ。



伊予国東宇和郡予子林村平民浜口権太郎ほか129名惣代同県平民
原告 横山佐平次  中野平八

同県同郡同村平民大野常一郎代人同兼平民
被告 牧野純蔵


愛媛県伊予国北宇和郡清水村平民高田宇三郎ほか53名惣代
原告 末広寅吉 兵頭 弘 市村敏麿

同兼同郡同村平民玉井安蔵代人同県平民
被告 別宮周三郎


愛媛県伊予国北宇和郡保田村平民入江徳三郎ほか79名惣代同県平民
 
原告 京下官吾  谷岡 実  海保志郎

同村平民赤松忠治郎代人清水常紀代言人愛媛県平民
被告 曽根市真

判事は 此代正臣 犬飼厳磨 後藤広貞

この時の大阪控訴裁判所長は宇和島出身の児島惟謙。

以前に書いたけど、「役地事件一夜記」の記事によると、判事の犬飼厳磨氏は、原告側に同情を示したようだけど、児島惟謙からかなりの干渉を受けたそうだ。

また後藤広貞氏は、判事の長安道一氏が原告の要求に大いに理ありと認めて、裁判所の敗訴の判決に服さず、調印をこばんだので、児島惟謙に後藤氏にかえられた、という噂が伝わっている。