虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

市村敏麿55 明治16年大阪控訴裁判所 原告・被告の言い分

2009-08-09 | 宇和島藩
いつものように適当に意訳したところもありますが、ほぼ、こんな感じです。


(原告控訴の要領)

本訴論地(無役地)の起源は宇和島伊達家の寛文年度にある。
1村の耕地は1村人民共同で所有する精神で、各自、それまでの作目を廃棄し、検地をし、土地の肥え痩せを平等にし、各自、それぞれ従来の作目の多寡に応じ、クジ抽選をしてその所有を決め、これを本百姓、半百姓、四半百姓の三等に区分した。

また、別に十段の等則を設け、その村高に応じ、本百姓一人前の受けるべき土地を何人分とし、これを備設してその村吏の給料とした。当時、これを無役地と称した。この土地は役耕地なので、諸役雑税は免除された。

その後八〇年、寛保年度に再びその制度を改め、その所有する土地を各自の固定の所有とし、さらに、高持ちの制にして売買譲与など自由にできるようになった。しかし、無役地にかぎっては、旧に変わらず、売買をゆるさなかった。

弘化年度に、三回民間の規則を変え、定免変更のさい、役俸地と給田を合わせ村高千石につき幾石と定め、それまで無役地だった土地の分はこの改正の定石より多い場合は、一般の私有地とみなして諸役を負担させ(当時、定石より多い分は村民にかえすべきが当然なるに、旧庄屋の私有になったのは、その威権で占有せしものなり)、その定石に足らない場合は、石戻りととなえ、村民からこれを補足した。
そして、無役地の称を改め、庄屋家督と称した。

以上の経過の事実を証明するものとしては、特に「弌野載」(いちのきり)と題するものがあり、旧宇和島藩主伊達氏において民間施政の方法を詳述したこの記録に、論地(無役地)はもともと一村共有より成立したことが正確に記されている。

とりわけ、その第七号証にあるように、当時、甲村の庄屋が乙村に転任する時は、互いにその土地の所有からはなれ、その赴任村の役地を受け、これを所持し、かつ、原告第九号証の旧藩取り調べ書にもあるように、甲乙両村を合併し、一村とするときは、一村の庄屋はその該当の役地につき、その村民は当然所持すべき一人前の土地を受け、組頭となり、別に役地半人前の土地を受けた例証があります。

原告第12号証の名寄帳においても、無役地は役名を記し、私有地は名前だけを記してこれを区別しています。

原告第13号下札帳でも、私有地にあっては、売買譲与など移動の便利のため、貼り下に郡宰が捺印するだけですが、無役地は直書して移動してはならないことを示しています。

このように、無役地は、1村共有より成立し、役俸地なることは明らかです。しかるに、被告はこれを祖先よりの私有地なりとして、庄屋廃職の今日においてもこれを1村共有に復帰せしめじ、あまつさえ、原告が要求を抗拒せるにより、本訴を提起するゆえんなり。

(被告答弁の要領)

本訴論地、庄屋家督と称する土地は、元来、被告家が私有にして、他人がくちばしをいれるべきものではない。

その私有である事実については被告第14・15号証の通り、寛文年度、検地帳およびクジ取り帳において、一般人民と等しく反別畝数の下に記名捺印し、少しもその書式、異ならない。

明治4年宇和島藩において一般庄屋廃止のさい、その家督4歩は庄屋の私有とし、6歩を官有とせられた。このとき、旧庄屋一同、その処分を不当とし、くりかえし藩庁へ訴えた。廃藩置県となり、明治5年旧宇和島県においてこの無役地(庄屋家督)の原因を調査し、さらに、その6歩を返されたり。

被告第2号証の反別畝順帳の通り、原告村民も被告の所有を明らかに認めているし、被告第1号証にあるように地券を受領しており、被告の所有であることは確定している。また、被告第8・19号証の通り、庄屋がこの土地を他人に売却しても、当時、村民はこれに異議を唱えなかったのは、すなわち庄屋の私有地であることは明らかなり。

以上です。

長くなったので、判決文は次回に。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。