虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

無役地裁判 萩尾伊予太郎

2009-08-14 | 宇和島藩
明治24年には市村敏麿の裁判闘争とともに、萩尾伊予太郎という青年が総代になって別に裁判闘争をしている。25歳の青年だ。負けてばかりいる市村敏麿の裁判闘争にあきたらなく、自分で闘おうとしたのだろう。伊予太郎という名もおもしろい。

東宇和郡渓筋村長谷の住人。
長谷村の農民15名を代表し、愛媛県知事 勝間田稔を被告にし、行政裁判所に訴える。

近代史文庫の「無役地事件」の史料集は、この萩尾伊予太郎の裁判史料が半分以上を占め、8回の審問調書などもあり、市村敏麿の裁判をよりもこちらの方が詳細。

無役地事件はいま一つよくわからないので、(農民の暮らしを知らないのだから当然だ)、いろいろ読んだら少しは理解も深まるかと思い、この萩尾青年の裁判史料も読んでみることにする。

ところで、原告の萩尾伊予太郎の住んでいる東宇和郡渓筋村長谷とはどこか?

現在の西予市野村町です。市村敏麿が大井憲太郎を代言人にした予子林村も今の野村町になります。あの野村騒動の舞台になったところです。訴訟はここだけでなく、海岸沿いの保内町など宇和郡の各地から起きたのですが、まあ、騒動の震源地といえるかもしれません。グーグルアースで見てもわかるけど、山、山、山。

まず、萩尾伊予太郎が愛媛県知事勝間田稔に出した「旧村吏役料地御処分の義につき伺書」を見てみます。

第一条

そもそも伊予国宇和の四郡は山間僻地で、古来住民少なく、全郡、山でなければ石です。そのため、人々はわずかの耕地をたがやして暮らすも、山の谷地に住んでいるで、水害にあうこともしばしばで、人間らしい生活を願うこともできず、まことに不幸な貧しい土地で生活しています。

寛文六年領内、大洪水があり、田畑反別およそ1万3079町強、村数275の全土の過半が流失、ちょうどそのころ、吉田藩が分封されたので、領高に不足もあって、同10年より検地をし、村浦全部の耕地を平均にし、百姓何人前と定め、すべてを皆、村有地に改正されました。その中から庄屋役料地として特に、十段の法則を設け、村高に応じ、全村の耕地の十分の一を土地を無役地にし(無税にし)、その土地を村民が耕し、作った米を庄屋の給料にしました。

このあと、庄屋無役地の変遷についての記述が続くが、第二条、第三条は省略、第4条から次回に。

ちなみに、この裁判で萩尾青年の相手となったのは、愛媛県知事より代理人として任命された愛媛県属の近藤義次氏。この人は宇和島の無役地事件を調べるために明治24年7月から約1カ月宇和島地方に滞在して調査している。

近藤義次氏は、愛媛県で出世しただろうか。萩尾青年はその後、どうなっただろうか。知りたいものです。