虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

市村敏麿49 庄屋給地処分不服の訴状(明治10年)

2009-08-06 | 宇和島藩
明治10年、市村敏麿が大阪上等裁判所長に出した上申書があるので、それをまず、紹介する。
史料は、愛媛近代史料17無役地事件(近代史文庫)。

ただし、文章は読みにくく(読めない)、漢字も今は使わないような漢字もあったりで、適当に意訳した。学術ものを書いてるわけではないので、だいたい、こんなものだろう、という感じです。


「 右原告市村敏麿、申し上げます。
右に記載した土地は、寛文年間、宇和島伊達氏のご支配のとき、非常な大水害があり、田畑が流失、ほとんど荒野となりました。再び開墾を始めましたが、巨額の費用がかかり、領主にも力を請い、官民の力でようやく回復いたしました。しかし、土地のようす、地味の善悪はバラバラで均しくありませんでした。このままでは今後の農業にも大きな障害となるため、官民協議のうえ、新しく検地をおこなうことになりました。で、村中、耕地はクジの抽選で持つように改革し、それまでの習慣は取り消しになりました。

そのとき、村の石高の多寡を調査し、庄屋の給料等のきまりを設け、すなわち村民のクジ地から備えるよういにしました。以来二百有余年、長い年月を経ましたが、役地は厳重に取り扱われたたため、今にいたるまで連綿として存在しています。役地、私有地の区別は、天保度の検地帳に則り、弘化度の下札帳にも書いてあります。

しかるところ、戊辰革命により、皇国の新しい規定を遵守し、それまでの庄屋役を廃止し、大小区画を制定し、庄屋に代わって区長戸長を置いて、民間の庶務を担当させることになりました。そして、その区戸長の月給、諸費用はすべて人民の戸籍に賦課されることになりました。

(かつて庄屋の庶務の月給は無役地を与えていたので、人々は区戸長の給料を支払う以上、かつての無役地はどうなるのかと)人々は上からのご処分をを注視していました。

明治4年、旧宇和島藩において初めて無役地を4・6に分割し、その4を旧庄屋に与え、6は村役人の給料としました。しかし、すぐに廃藩置県の大変革。旧庄屋どもの請願により、無役地はことごとく旧庄屋の私有地になりました。これは人々の思いもよらぬ処分で、大きな疑問と不満を生じ、議論が沸騰、明治8年以来各村あげて県の処分の非を訴え、陸続、県庁へ請願いたしましたが、ことごとく拒否されてきました。

とりわけ、この村においては、かつての古文書なども援用し微細に上申しましたが、明治10年1月22日には「人民共有地の証拠とはみなしがたい」とのみの回答で、その理由は告示されませんでした。それだけでなく、旧藩庁の処置は可不可を問わず、既往のことは是非当否とも更生せず、というがごとき指令を下されました。村中で話し合いましたが、一同、承服できませんでした。

そもそも、この土地は、寛文以前はともかく、冒頭でも述べましたように、寛文度には洪水のため荒れ地になったのを、掘り返し、さらに検地し、それまでの面目を一変し、村浦、石高に応じて庄屋給十等則を設け、村中、クジ地の中から設置したことは「不鳴条」と表題する書に記録されています。その後、幾年月を経、弘化年度に、定免を改正するとき、この土地をの名前を庄屋家督とし、石を定め、その相当の石に足らないときは、村民から補わせ、相当の石を過ぎているときは、百姓並諸役係を課せられました。このほか、県庁に上申した中に旧庄屋が私有すべからずとした証拠は少なくありません。

庄屋、組頭の役地は本来、同じ性格(共有地)のものですが、組頭の役地のみ、明治7年5月27日、県参事江木康直より、一般村持ち(村の共有地)たるべき旨布達され、ひとり庄屋給地は旧庄屋へ与えられたのは、一物二様の処分で、人民にとっては意表に出た処分で、どういう理由なのか、理解に苦しみました。

くりかえします。この無役地は、前に述べましたように、官民が協議したうえで、庄屋の給地にしたもので、この土地の所得をもって庄屋の給料にあて、庄屋役担任中にこの権利を与えたものであることははっきりしています。しかるに、庄屋を廃止し、さらに区戸長を置き、区戸長に事務をさせながら、いぜん、給地を庄屋に与える義務はありません。まして、旧庄屋も村の事務を取り扱う仕事もなくなったのですから、この土地を持つ権利もありません。

区戸長の給料は村民個々から税として徴収し、古来、その費用(税)にあててきた土地は旧庄屋の私有にする。すこぶる失当の処分、無偏無光の御政体に齟齬したるものと愚考いたします。これにより、今後、村民が区費を負担する以上、この無役地を村民共有地とし、区費の補助にするべきことは当然のことと考えます。

なにとぞ、迅速に県官を召し出されて、曲直当否をご審理のうえ、公明の裁判をなしくだされますようお願いいたします。
なお、県庁指令、嘆願書、証拠物の写しをそえて申し送ります。

 明治10年6月廿日
                 原告 市村敏麿

大阪上等裁判所長
  四等判事  尾崎忠治殿      」

明治10年6月といえば、西南戦争真最中のころです。