虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

市村敏麿61 宇和島の政財官界を占めた庄屋群像

2009-08-24 | 宇和島藩
以前、無役地裁判の被告になった牧野純蔵は衆議院議員になった、と書いたけど、衆議院議員になったのは牧野だけではない。無役地事件の被告になった庄屋側は宇和島では有力者として地域住民の上に君臨する。

別に庄屋側が被告だから悪くて、原告側に正義があったというつもりはない。
被告側にも言い分はあるはずだ。ただ、被告、庄屋側は資産家であり、原告側はそうではない。大きな格差があった。今風にいえば金持ちと貧困層の対立。それは江戸時代から続く。庄屋階級は圧倒的な権力と富をもって農民に対してきた。その基盤となったのが無役地。

なにしろ何町という広い田畑を持ち、その耕作も農民にさせる。明治3年の野村騒動は、その庄屋への不満が爆発したもので、そのために藩庁は庄屋役を廃止し、庄屋の無役地を取り上げるという処置に出た。その無役地を再び庄屋に返還したことで、この裁判は始まった。

だからこそ、宇和島では、抹殺された歴史は無役地事件だけでなく、この野村騒動もタブーになったのだ、と思うのだが、どうだろうか。野村騒動を明らかにすれば庄屋の実態がわかる。

無役地事件の被告、被告の代理人、代言人になった人をあげてみよう。

別宮周三郎(明治16年大阪控訴院被告) 県会議員、衆議院議員
玉井安蔵(明治16年大阪控訴院被告) 衆議院議員
清水静十郎   庄屋同志の結社の集会をこんも清水宅で開く 衆議院議員
清水新三(明治24年大井憲太郎の大阪控訴院で訴訟代理人)県会議員
都築温太郎(最初の裁判被告) 県会議員 

当時、衆議院議員になる、ということは、相当の資産がなければ不可能だ。

被告になっているわけではないが、裁判に積極的に協力したと思われる人、これは多数だけど、

緒方睦郎(緒方惟貞の子供)  県会議員
都築 温  (旧宇和島藩士  宇和島三功臣の一人)   郡長
竹場好明  (旧宇和島藩士 )         郡長
末広鉄腸(都築 温の弟)衆議院議員 朝野新聞で原告側を非難。
緒方惟貞(野村の大庄屋。田畑山林260町余所持していたという)
児島惟謙はこの緒方惟貞の親戚になり、惟貞の世話になったようだ。名前の惟ももらったのだろうか。土居通夫もこの人に世話になる。今でも、地元には「緒方惟貞」という銘柄の酒も売っているそうだ。

土居 完(被告に名前あり 戸長)

まだまだ調べはぜんぜんついていないけど(調べたらたくさんいると思う)、戸長などは旧庄屋がなることが多いし、宇和地方のいわゆるボスは旧庄屋側といってよいでしょう。
それでなくても、宇和島の庄屋たちは江戸時代から、血縁での結び付きも網の目のようにはりめぐらされ、その結束はとても強かったはず。村の若衆宿にも庄屋の子供は入らなかったそうで、庄屋とふつうの農民とは判然と区別されていたそうだ。
旧庄屋たちは無役地の資産をもとに銀行や紡績業など産業ブルジョワジーになり、あるいは政界官界で大きな発言力をもっていく。

こういう地域の中で無役地裁判に訴えるということはまさに虎の尾を踏むような行動。裁判ののち、訴えた農民たちは馬鹿にされ、さげすまされ、また村にいられなくなった者もいたということだが、その志は壮とすべきで(今、だれがこんな勇気をもつか)、名前を書きとめておきたいくらいだ。

映画「20才の原点」

2009-08-24 | 映画・テレビ
ケーブルテレビで高野悦子の「二十才の原点」の映画をやっていた。わたしのテレビでは見られないので、人に録画してもらった。

今日、見たけど、つまらねえ!

脚本、監督が悪い。キャストも悪い。主役の角ゆり子はまあまあがんばってはいたが。(この人、もう女優をやめたらしい)

「二十歳の原点」という本はいわば心の中の秘密、もやもやを自分でもわからないまま書き綴った日記、だからこそ、恥ずかしい青春の日記なのだが、それを映画の中でおおっぴらに読みあげられるとは、彼女もきっといやだろうと思う。

彼女がタバコをすううとき、マッチをすっていた。そうだ。この時代にはまだ百円ライターはなかったのだ。彼女の本箱に小田実の「現代史」が並べてあった。このへんがちょっとなつかしいかな、という気がするくらい。

彼女は大学の授業料を払わない。(お金はあるのだけど払わない)。くだらない大学に授業料を払う必要を認めないのだ。これはよくわかる。大学をやめればよかったのだ。やめた人はたくさんいる。

でも、この時代、あれほど大学が荒廃し、だれもが大学の学問に期待を持たなかったとき、するすると大学院にいき、大学教授への道をすすんだ者たちがいる。そして、きっとアメリカ留学もしたにちがいない。それが近頃はやりの大学教授なのだ。ろくなもんであろうはずがないではないか(笑)。1968年からの問いかけは今日にまで続いているのは明らかだ。