虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

市村敏麿57 明治24年12月松山地方裁判所 原告の言い分

2009-08-11 | 宇和島藩
大阪控訴院の判決文は「市村敏麿の面影」に出ているが、この松山地方裁判所宇和島支部の判決はない。近代史文庫の「無役地事件」史料にもない。宇和島であれほどの歓迎をを受けた大井憲太郎が、第1審でどんな陳述をしたのか関心があっただけに史料がないのを残念に思っていた。

ところが、小野武夫「日本史村落史考」に明治24年12月松山地方裁判所宇和島支部判決というのがあった。これが大井憲太郎を代言人にした最初の裁判ではなかろうか、と思っている。

ただ、この「日本村落史考」の判決文には、原告、被告の名前も、裁判官の名前も出していない(なぜ、カットしたのだろうか?)。だから、確かかどうかはわからない。たぶん、これだろうと思う。



この判決文は、今までのよりもちょっとわかりやすいので(大井たちが関わっているからかどうかはわからにが)、以前に書いた判決文とかなり重複する部分はあるが、紹介する。

無役地とはなんなのか。なんとなくわかるような気もしてきた(なんとなくだけど)。


(原告事実)

「その昔、寛文6年旧宇和島藩の領地は未曽有の暴風洪水にあい、なかんずく、当事者の村落はその中心に位置したため、田畑宅地等流失、破壊され、人畜の死傷無数、すこぶる惨状をきわめた。藩下、数万の人民、活路を失い、飢えに泣き、寒に叫ぶの一大災厄に陥った。藩主、深くこれを憂い、人民に諭すに開墾をもってし、人民奮起勉励、歳月を経、ついにその大業を完成した。

その開墾、一に村民の共力に成るをもって、地所所有の権は1村の共有に帰したり。しかれども、永く1村の共有に放任しておけば、将来紛議の種になる恐れがあるので、寛文10年から同12年にかけて内さ検地をし、反別石高を定め、田畑を組み合わせ、鬮(クジ)取り法を設け、本百姓、半百姓、四半百姓の3等に分け、共有地を村民に分割所有させた。そして、村吏の給料はそれぞれの共有地より本百姓幾クジ分を取り出し、これを村民の私有ではなく、共有のままに残し、この用益権を村吏給料に提供することにした。

しかし、長年月がたつうち、その共有地の管理者である庄屋は自分の所有だと誤認し、しばしば処分権を行使する者があったため、藩はこれを問題にし、弘化3年午年より申年まで3カ年御定めの免下札帳において、この地所を庄屋家督と改称して庄屋役地としての性質を明らかにした。かつ、この帳簿のはじめには直き書として他の村民私有地を小下帳と区別し、売買禁止の意を表した。

鬮持の制である村吏給料を石定めの制に改めたので、その給料地に過不足を生じたため、過石となった村々はその過石にあたる役地を村民の所有とし、不足石となった村々は、村民一同より村費を石戻りと称して、その不足の石数を満たすまでの正石すなわち収益を補足するようにした。

伊方浦庄屋は代替わりをして以前四人前の給料地だったのが、四人半前の増加になったので、その増した分は同村11郡より取った。また、山田村は東西二か所
に分割されたので、役地も分割して、新庄屋を置いた。また、谷村を若山村に合併したときは、谷村の旧庄屋を組頭として一人前の給料を与え、残りを若山村の庄屋にした。庄屋の給料地の多寡にかかわらず、藩命によって転村させ、明治維新後、庄屋を改称し、村長とし、庄屋家督を村長家督とした。

庄屋家督と同じ性質である組頭家督はすでに村民の共有になったのに、村長家督は、村長廃止後も、いぜんとして庄屋だった一私人の所有となっている。

本訴訟の目的の土地は、前述のごとく村長家督(役地)であり、村民共有のものであるのに、旧庄屋である被告の私有になっているゆえに、その所有権の返還を要求するものである。

この土地は、被告がいうように庄屋の所有していた土地の中からその一部分を無役地としたものではない。弘化年度の下札帳に庄屋家督の名称を記入し、直き書の書式にしたのは、庄屋その人を保護する意味ではなく、まったく売買を禁じるためである。もし、そうではなく、保護の意味ならば、売買禁止を記す必要はなく、庄屋私有地中いくばくかの売買を禁じるとするはずである。また、弘化年度の帳簿に、無役もしくは庄屋と肩書してあるのは、庄屋の私有ではないことをあらわしたものである。また、役地の高を石定めしてからその無役高に不足石を生じた影平村のように、別に庄屋の私有地があるにかかわらず、その不足石に相当する田畑の収益を庄屋へ渡しているように、被告のいうように、村民より納税する四色小物成、九色小役中からその不足石の石数だけ庄屋が得たものではない。そればかりか、物成小役などは村費である横成と異なるのでその取り立て帳も異なるのは当然で、石戻りは横成の中から取り立て、そのことは取り立て帳に記載がある。これは村民が庄屋へ給料を与えた証拠であり、役地も村民の共有であることがわかる。

なお、鬮とりは、他村ではその鬮を得ることはできないので、役地が庄屋の私有であれば他村にもあってしかるべきなのに、付け村にはどれも1鬮の役地あり。かりに他村に私有する土地があったとしても、その付け村ごとに庄屋の私有地あるべきはずがない。

四人半前を増加した伊方浦は11から成立するため、鬮取りは反別ごとに多少があるので、もし庄屋が私有地を無役地にするには、どこかのの反別に符合しないわけにはいかない。しかし、一つも符合するがないのは、中地と唱える村落共有地をそのの中から取り出したためである。
被告は従来、役地に就き、正租を納めてきたが、これは庄屋の役を代表したにすぎない。

維新後、旧宇和島県庁が引き上げていた役地の6歩を庄屋へ還付したのは、ただ、返還したにすぎず、所有権を処分したのではない。その後、地券発行のとき、村民が庄屋の所有を認めた行為、また、庄屋が処分を黙過したのは、村民はその所有権が庄屋にあると認め、自ら権利を放棄したのではなく、村民に所有権があることを知らなかった為の錯誤である。以上、甲第1号からだ第23号の証拠をもって証明します。」

うーん、前半はわりと読みやすくわかりやすかいと思ったのだが、後半になると、むづかしく、なんのこっちゃねん!やっぱり頭がいたくなってきた。

なお、原文の言葉を適当にいいなおしたところもあるので、原文通りではなく、ひょっとしたらまちがって書き写しているところもあるかもしれませんが、悪しからず。

次回は、被告の言い分。

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