
茶廊法邑へ向かう足取りは重かった。
法邑が気に入らない場所だとか佐野妙子さんの絵を見たくないとか、そんなことではもちろんない。
さいきん、毎朝、やたらと体がだるいのだ。
雪道を踏みしめながら思う。
いったいじぶんという存在は、なんなのかと。
なにか、とりえがあるのだろうか。
美術について基本的な勉強を積んだわけでもないし、油絵が描けるわけでもない。
むろん、人並みはずれた美意識の持ち主でもない。
人の名前と顔を覚えるのが異様に苦手だし、礼儀を欠いているし、早口でなにを言っているかよくわからない。
すごい引っ込み思案なので、記者という商売には絶対に向いていないにちがいない。
こんな奴にあれこれブログで書かれるのが厭な人も大勢いるだろう。
暗い心を抱きながら、茶廊法邑のギャラリーに入る。
佐野さんの略歴が壁に貼ってあって、そこには、ポストカード展までふくめて22の展覧会歴が記されている。
数えてみると、じぶんは17か18は見ている。
いちばん最初の「うさぎのあな」展だけは、見たかどうかの記憶がはっきりしないが。
これがおそらくじぶんの唯一のとりえだろう。
札幌の展覧会をこれほど見ている人間は、たぶんほかにあまりいないと思う。
だからどうした、といわれれば、返す言葉はないけれど。
東豊線に乗って都心へ戻り、サッポロファクトリーのシネマコンプレックスで、アニメの「時をかける少女」を見る。
筆者はひねくれ者なので、みんなが「名作だ」と言うと、ちょっとうしろに下がったような視点から見る。
たしかに、よくできた青春映画だと思う。
でもなあ。
じぶんには、青春をおくったという意識が、決定的に欠けている。
高校時代はなにをやっていたのだろう。
すべてが中途半端で、不毛だった。
そういう身からすると、スクリーンの少年少女たちは、まぶしすぎて、妬ける。
じぶんとは縁のない、ちゃんと青春をおくっている人たちなのだ。
もっとも、こういうグチめいたことは、高校生の当時からこぼしていた。
いまは精神科医をしているI君はそれを聞いて
「ヤナイは、学力テストをサボって商業高校の学校祭に行っていたし、ずいぶんとたのしそうな日々をおくっていたではないか」
という意味のことを言ってくれた。
どういう青春をすごしたのかという事実認定の話ではなくて、たぶん、とらえかたの問題なのだ。
きっとじぶんは、悲観的な見方をする人間なのに違いない。
ところで、この映画は、大林素彦監督の実写版のリメークではなくて、まったく別の物語である。
実写版のおよそ20年後という設定らしい。
だから、大林版を見た人も見ていない人も同様に楽しめる。
舞台は尾道ではなく東京の下町のようである。
荒川とおぼしき河川敷が出てくる。
いつも渋滞気味の首都高速の高架も。
もっとも、下町で、踏切に向かってあれほどの傾斜がある街は、現実にはないだろうな。
舞台は夏で、雨は一度も降らない。
これは何度も書いていることだけれど、北海道にしか住んだことのない人間にとってはたぶん、あの本州以南の若者にとっての「夏の特権性」は、肌で理解しづらいことのひとつに違いない。
ほんとに、特別な季節なのだ。
あと、思ったのは、タカセくん、かわいそうだなということ。
こういうキャラクターの存在は、見る人に、
「学校とは、すべてのおとなにとって、なつかしい存在にはなりえない」
ということを気付かせてくれるだろうから、すごく意味があると思う。
筆者は、こういう人が、気になるのだ。
見ているときは気がつかなかったのだが、原田知世が演じていた芳山和子が、主人公の真琴のおば役として登場している。
見終わったあとも、このことが気になってしかたない。
つまり、実写版のラストで、和子は、薬学を勉強しているのだ。
それなのに、アニメでは、どうして東博で古い絵の修復をやっているのだろう。
東博で待っていても「彼」はぜったいに来ないではないか。
(来たとしても、和子の信念と裏腹に、「彼」に気付くはずはないのだけど)
あと、筆者としては、かつて実写版のときにあった「フィルムストーリー」(スチール写真をほぼ全シーン収載してその脇にシナリオを記した本)の出版を、角川文庫編集部に切に期待しておきたい。
映像は家で見るのがめんどうだが、フィルムストーリーだと、じぶんのペースで映画を回想できるから。
そんなわけで、心からの共感ができる人を、うらやましく思いつつ、仕事場へ足を向けた。
法邑が気に入らない場所だとか佐野妙子さんの絵を見たくないとか、そんなことではもちろんない。
さいきん、毎朝、やたらと体がだるいのだ。
雪道を踏みしめながら思う。
いったいじぶんという存在は、なんなのかと。
なにか、とりえがあるのだろうか。
美術について基本的な勉強を積んだわけでもないし、油絵が描けるわけでもない。
むろん、人並みはずれた美意識の持ち主でもない。
人の名前と顔を覚えるのが異様に苦手だし、礼儀を欠いているし、早口でなにを言っているかよくわからない。
すごい引っ込み思案なので、記者という商売には絶対に向いていないにちがいない。
こんな奴にあれこれブログで書かれるのが厭な人も大勢いるだろう。
暗い心を抱きながら、茶廊法邑のギャラリーに入る。
佐野さんの略歴が壁に貼ってあって、そこには、ポストカード展までふくめて22の展覧会歴が記されている。
数えてみると、じぶんは17か18は見ている。
いちばん最初の「うさぎのあな」展だけは、見たかどうかの記憶がはっきりしないが。
これがおそらくじぶんの唯一のとりえだろう。
札幌の展覧会をこれほど見ている人間は、たぶんほかにあまりいないと思う。
だからどうした、といわれれば、返す言葉はないけれど。
東豊線に乗って都心へ戻り、サッポロファクトリーのシネマコンプレックスで、アニメの「時をかける少女」を見る。
筆者はひねくれ者なので、みんなが「名作だ」と言うと、ちょっとうしろに下がったような視点から見る。
たしかに、よくできた青春映画だと思う。
でもなあ。
じぶんには、青春をおくったという意識が、決定的に欠けている。
高校時代はなにをやっていたのだろう。
すべてが中途半端で、不毛だった。
そういう身からすると、スクリーンの少年少女たちは、まぶしすぎて、妬ける。
じぶんとは縁のない、ちゃんと青春をおくっている人たちなのだ。
もっとも、こういうグチめいたことは、高校生の当時からこぼしていた。
いまは精神科医をしているI君はそれを聞いて
「ヤナイは、学力テストをサボって商業高校の学校祭に行っていたし、ずいぶんとたのしそうな日々をおくっていたではないか」
という意味のことを言ってくれた。
どういう青春をすごしたのかという事実認定の話ではなくて、たぶん、とらえかたの問題なのだ。
きっとじぶんは、悲観的な見方をする人間なのに違いない。
ところで、この映画は、大林素彦監督の実写版のリメークではなくて、まったく別の物語である。
実写版のおよそ20年後という設定らしい。
だから、大林版を見た人も見ていない人も同様に楽しめる。
舞台は尾道ではなく東京の下町のようである。
荒川とおぼしき河川敷が出てくる。
いつも渋滞気味の首都高速の高架も。
もっとも、下町で、踏切に向かってあれほどの傾斜がある街は、現実にはないだろうな。
舞台は夏で、雨は一度も降らない。
これは何度も書いていることだけれど、北海道にしか住んだことのない人間にとってはたぶん、あの本州以南の若者にとっての「夏の特権性」は、肌で理解しづらいことのひとつに違いない。
ほんとに、特別な季節なのだ。
あと、思ったのは、タカセくん、かわいそうだなということ。
こういうキャラクターの存在は、見る人に、
「学校とは、すべてのおとなにとって、なつかしい存在にはなりえない」
ということを気付かせてくれるだろうから、すごく意味があると思う。
筆者は、こういう人が、気になるのだ。
見ているときは気がつかなかったのだが、原田知世が演じていた芳山和子が、主人公の真琴のおば役として登場している。
見終わったあとも、このことが気になってしかたない。
つまり、実写版のラストで、和子は、薬学を勉強しているのだ。
それなのに、アニメでは、どうして東博で古い絵の修復をやっているのだろう。
東博で待っていても「彼」はぜったいに来ないではないか。
(来たとしても、和子の信念と裏腹に、「彼」に気付くはずはないのだけど)
あと、筆者としては、かつて実写版のときにあった「フィルムストーリー」(スチール写真をほぼ全シーン収載してその脇にシナリオを記した本)の出版を、角川文庫編集部に切に期待しておきたい。
映像は家で見るのがめんどうだが、フィルムストーリーだと、じぶんのペースで映画を回想できるから。
そんなわけで、心からの共感ができる人を、うらやましく思いつつ、仕事場へ足を向けた。
美術をやっているひとはほとんどこのパターンのような気がします。私もそのひとり。(笑)
今の職場で高校同期が3名再会しました。もうひとり転勤してきそうな可能性もあり。
基本的に高校生の雰囲気ってずーっと変わりませんね。たぶん青春期が人格形成の重要な地点なのでしょう。
僕は欲張りながら、両方ですね。写真部にすべてを懸けた楽しい思い出と、あんまり良くない記憶と、両方持ってるもので。
高瀬くんの存在に目をつけたところは、ヤナイさんなかなか鋭いですな。
僕はもう10回目近い鑑賞でしたが、純粋に笑って泣いて楽しみました。やはり最後の回想シーンとそこに流れる歌のメロディラインは反則です(笑)。
フィルムブックとはちょっと違いますが、スクリーンショットやインタビューで構成した本が出ています。
>> http://www.kadokawa.co.jp/comic/bk_detail.php?pcd=200604000271
しかも、監督自筆の絵コンテ集も。これはすごいです。
>> http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4870317427.html
余談。実は先日の個展の中野のグラウンド、真琴たち3人の"野球ごっこ"の舞台なんですよ。
長文で語ってしまいました、失礼……。
の時から、見てもらっているので、本当に感謝しています。
あのギャラリーの時はこうで、あの時はこうで、って説明しているのをみると、びっくりします。顔を名前が覚えられなくても、作品とギャラリーを聞いたら思い出すのではないですか?
いえいえ、川上さんはオトナで常識人ですから。
まったく大丈夫ではないですか。
高校生のころの同級生に会うと、スイッチが入って、昔の感じに戻ってしまうという面はあるかもしれません。
しかし、たぶん、じぶんは高校時代よりは暗くなってるんじゃないかと。
>soramiさん
個展、おつかれさまです。
もともとこのブログの各エントリが長文なので、コメントもどんどん長く書いてかまいませんよ。
>実は先日の個展の中野のグラウンド、真琴たち3人の"野球ごっこ"の舞台なんですよ。
わー。すごい。
わかる人にしかわからないけど、わざわざこういうところまで出かけるところが、ウリュウさんのこだわりですねえ。
ただ、エンディングロールだけは、原田知世バージョンの勝ちだと思います。最後まで見ちゃうもん、あれ。
>コバヤシさん
いつもどうもです。
そうなんですよね、わたし、顔を覚えるのはおそろしく苦手なんですが、作品のことは相当覚えてるみたいです。
でも、コバヤシさんは、this is Gallery(なつかしいなあ)よりも、旧TEMPORARY SPACEの花と裸婦のほうが先だと思ってました。
それは大変だ。
11月28日は、原田知世ちゃんの40歳の誕生日
CDも出すようです。
ボサノバ風にアレンジされた「時かけ」も収録されているということで、なかなか聴きモノです。
http://haradatomoyo.com/
そう言えば、精神科医のI君ともご無沙汰しているなぁ。
もう結婚してるわけだし。
でも、原田知世って、あまり変わりませんね。
ボサノバもいい路線ですね。
「時かけ」の主題歌のころは、ほんとうに歌が下手だったなあ。
「知世」
と書くと
「ちせ」
と読む人は、父子家庭にあこがれる人か。
原田知世は1986年「黒いドレスの女」舞台挨拶で角川シアター(後の松竹ピカデリー、今はもうない)へやって来たのをかぶりつきで見ました。清原、桑田、田中幸雄…引退やら何やらであまりぱっとしない1967年組において、数少ない有名人です。
ファザコンには母親の存在は、アウト・オブ眼中なんでしょ、きっと。
去年、東京・神田神保町の岩波ホールで、「紙屋悦子の青春」という映画を観て、原田知世ちゃんを再発見しました。
「花の命の長さ」というか、40歳になっても、結婚していても「ちゃん」と呼びたいほどに可憐でした。(映画では20歳くらいの娘役も演じていたし。)
「紙屋悦子の青春」
http://www.pal-ep.com/kamietsu/
歌の方は、昔に比べたら格段にイイです。
榛野なな恵は「卒業式」かな(笑)
「papa told me」はフィクションのストーリーとしては好きだけれど、確かにあんな小学生が身近にいたら不気味だろうなぁ。大人の方がヒネてしまいそうだ。子どもはバカなくらいの方がカワイイ。
(あっ、僕も大人になったなぁ・笑)
たしかにずいぶん若い役を演じてましたね。
いやー、抑えた演技がすばらしかったです。
戦中の女性、という感じがしました。