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東京2015-2(9) 村上隆の五百羅漢図展

2016年01月21日 01時21分00秒 | 道外で見た展覧会
(承前)

 日本で最も知名度の高い現代美術家、村上隆が、国内では2001年の「村上隆 召還するかドアを開けるか回復するか全滅するか」展以来、実に14年ぶりに開いた本格的な個展。

 館内は全点、撮影OKとあって、すでに多くのブログやSNSに画像がアップされ、メディアにも取り上げられている。

 この個展が、中東のドバイで開かれたときは、日本で見ることはできないのではないかと思っただけに、まずはこの開催を喜びたい。



 会場は大まかに言って、「五百羅漢」と直接関係ない絵画や立体が展示されている前半と、五百羅漢図の陳列されている後半に大別されている。

 全国の美術学生を動員して制作された五百羅漢図は、確かに圧倒的である。
 ただ、この作品(群)について、あるいは東日本大震災とのかかわりや、羅漢図の意味などについては、筆者が書かなくても誰かが書くだろうから、ここでは、前半について個人的に思うところを述べてみたい。

 筆者は先に、なぜ絵画は複製と実物では異なって見えるのかについて書いた。
 絵画、とりわけ油絵やアクリル画は、顔料の重なりと透過が、重要な意味を持っているのである。

 しかし、村上隆の絵画は、これまで画壇で描かれてきた絵画作品とは、制作技法の面でも、大きく二つの点で異なっている。

 一つは、グラデーションがないこと。
 大半の色面は、平滑かつ単純に塗り分けられ、色と色の範囲が截然と区別されている。その範囲の中では、明度や色調の移ろいは無い。
 ただし、これについては、モンドリアン以後の、いわゆる「冷たい抽象」「幾何学的抽象」には、割合多く作例が存在する。
 ここでは、セザンヌ以後に重要な意味を持つようになった筆触が、今度は完全に否定される。

 もう一つは、絵の具の重なり合いと透過による表現がないこと。

 この2点がないことで、画面は、俗にいうところの「ポップな」性質を帯びる。

 印刷物やモニター上の漫画と同様の性質は、描線やモティーフだけではなく、絵画の描法にも貫徹されているのだ。


 この二つの性質を併せ持ち、なおかつ、重層的な画肌を有する画面を制作するのは、色の配置などが相当に難しいことだと思う。
 成功したかどうかはともかく、この作者の試みは率直に言ってすごい。
 



 ポップで戦略的な画家だと思われがちのような村上隆が、時としてみせる意外な弱さのようなものを表現した3部作。

 中央の作品は真っ白かと思って、近づいてみると…。




 しゃれこうべが、エンボスで、浮き彫りのように、描かれている!

 「フラット(平面)」とは何か、ということについて、あらためて考えさせられる作品である。


 今回の個展会場に、いささか漫画的、記号的なしゃれこうべは数え切れないほどあふれている。

 そのおびただしさこそが、東日本大震災で失われた命の数なのかもしれない。

 思えば、かなり以前から、村上隆の作品に、そしてウォーホルらポップアートの作品に、「死」はひそかに流れるテーマであった。




 思いつきだが、ここらへんの作品は、田名網敬一と共通するものがあると感じる。




2015年10月31日(土)~2016年3月6日(日)
森美術館(東京都港区六本木6-10-1 六本木ヒルズ森タワー 53階)

・東京メトロ日比谷線、都営地下鉄大江戸線 「六本木」駅直結(といいつつ、かなり歩く)






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