
アートとほとんど関係のない、やや感傷的な長文になることが予想されるが、ご容赦されたい。
1990年春。
北見支社に赴任するため、石北峠を越えて初めてオホーツク地方に入った。
入社3年目。着任当時は下っ端だったのに、人事異動のたびにベテランが抜けて新人がやって来て、気がついたら現場で上から2番目になっていた。
そのため、ちょっとややこしそうな、やりがいのある仕事の多くがまかされるということになった。
出張は多かった。管内の町長選や連載企画、大型イベントの取材手伝いなどで、26市町村(当時)は全部行ったと思う。北見のまちおこしグループが「花と香りのまちづくり」の先進地視察のためオランダやフランスに赴くというので、同行取材もした。ソーラーカーレース先進地取材で石川県にも出張し、北見北斗ラグビー部とともに花園にも行った。組合支部の役員もやったので、札幌にもたびたび行っていた。オイシイところは全部もらっていたような気がしないでもない。
その後、断水やガス事故、竜巻などが続発した北見地方だが、じぶんが働いていたころは事件・事故の少ない実に平和なところだった。
だから、高校野球、コンビニの管内初進出(時代を感じる)、女満別空港の現状、街ダネといった、もっぱら平和な記事を地方版に量産していた。いま読み返すと、掘り下げの浅い記事ばかりだが、たくさん書かないと地方版の紙面が埋まらないのだ。そうそう、どこそこの高校の制服が変わる-という記事を3年連続で書いたという珍記録もある。
仕事以外も一生懸命だった。
ドライブルートには事欠かない地域だけに、春先に流氷を見に行ったり、9月のサンゴソウ(正式名称はアッケシソウ)、サロマ湖の原生花園など、いろいろなところに愛車を走らせた。
まだ若かったのだ。山下町界わいの飲み屋でバーボンのオンザロックを12杯飲んでも翌朝は平気で仕事していた。
合コンも何度かやった。あげくの果てに、夕刊オホーツク面「ヤングジャーナル」欄(現存しない)に合コン必勝法の記事を書いた。高校生ロックバンドの記事も書いた。焼き鳥店で地元文学者と文化を論じた。同業他社の記者と草野球チームをつくって大敗した。北見天文同好会に入って、同会の会員や北見工大の学生たちと星を見に行った。市教委主催の「親子星を見る会」でいきなり星座教室の講師をやらされたこともある。
今となっては楽しいことしかおぼえていない。
「デスク、ストレスって何ですか」
と聞いたことがある。デスクは
「ヤナイ、お前はほんとにおめでたいヤツだな」
と苦笑していた。
ただし、美術に興味を持つ以前のことだったので、「北の文化会議」などを取材したことはあっても、内容はほとんど覚えていない。たしか阿部典英さん、米谷雄平さん、渡会純价さんのトリオは北見に来ていたはずなのだが。道展や全道展の移動展にも足を運んだ記憶はない。
さて、1993年に札幌赴任のために離れて以来、17年ぶりのオホーツク地方。どうなることやら。
1990年春。
北見支社に赴任するため、石北峠を越えて初めてオホーツク地方に入った。
入社3年目。着任当時は下っ端だったのに、人事異動のたびにベテランが抜けて新人がやって来て、気がついたら現場で上から2番目になっていた。
そのため、ちょっとややこしそうな、やりがいのある仕事の多くがまかされるということになった。
出張は多かった。管内の町長選や連載企画、大型イベントの取材手伝いなどで、26市町村(当時)は全部行ったと思う。北見のまちおこしグループが「花と香りのまちづくり」の先進地視察のためオランダやフランスに赴くというので、同行取材もした。ソーラーカーレース先進地取材で石川県にも出張し、北見北斗ラグビー部とともに花園にも行った。組合支部の役員もやったので、札幌にもたびたび行っていた。オイシイところは全部もらっていたような気がしないでもない。
その後、断水やガス事故、竜巻などが続発した北見地方だが、じぶんが働いていたころは事件・事故の少ない実に平和なところだった。
だから、高校野球、コンビニの管内初進出(時代を感じる)、女満別空港の現状、街ダネといった、もっぱら平和な記事を地方版に量産していた。いま読み返すと、掘り下げの浅い記事ばかりだが、たくさん書かないと地方版の紙面が埋まらないのだ。そうそう、どこそこの高校の制服が変わる-という記事を3年連続で書いたという珍記録もある。
仕事以外も一生懸命だった。
ドライブルートには事欠かない地域だけに、春先に流氷を見に行ったり、9月のサンゴソウ(正式名称はアッケシソウ)、サロマ湖の原生花園など、いろいろなところに愛車を走らせた。
まだ若かったのだ。山下町界わいの飲み屋でバーボンのオンザロックを12杯飲んでも翌朝は平気で仕事していた。
合コンも何度かやった。あげくの果てに、夕刊オホーツク面「ヤングジャーナル」欄(現存しない)に合コン必勝法の記事を書いた。高校生ロックバンドの記事も書いた。焼き鳥店で地元文学者と文化を論じた。同業他社の記者と草野球チームをつくって大敗した。北見天文同好会に入って、同会の会員や北見工大の学生たちと星を見に行った。市教委主催の「親子星を見る会」でいきなり星座教室の講師をやらされたこともある。
今となっては楽しいことしかおぼえていない。
「デスク、ストレスって何ですか」
と聞いたことがある。デスクは
「ヤナイ、お前はほんとにおめでたいヤツだな」
と苦笑していた。
ただし、美術に興味を持つ以前のことだったので、「北の文化会議」などを取材したことはあっても、内容はほとんど覚えていない。たしか阿部典英さん、米谷雄平さん、渡会純价さんのトリオは北見に来ていたはずなのだが。道展や全道展の移動展にも足を運んだ記憶はない。
さて、1993年に札幌赴任のために離れて以来、17年ぶりのオホーツク地方。どうなることやら。
美術に本格的に取り組みだしたのは、北見を離れてからさらに2年9カ月後の1996年6月、文化部に異動したのを機に、です。
なんでこんなやつに美術を担当させるのか、おそろしい会社ですね。
ただ、それと「生活する場所」とは、別問題だとも感じます。
まあ、住み始めたばかりなので、今のところ何とも言えませんが。
>ところでオホーツク圏や北見のアート系はどうなんでしょうか?
ごめんなさい、これも、住み始めたばかりなので、まったくわかりません。