
露口啓二さんがいかに独自のすごい仕事をしているかについて、筆者はこれまで書くのをサボってきた。
何度かチャンスはあったはずなのに、弘前での展覧会に際して図録を出版したときも、札幌芸術の森美術館での「アクア・ライン」展でぬきんでた作品を出したときも、筆者はなぜかテキストを書かなかった。
深く反省している。
じつは、チ・カ・ホでの作品も、タイミングがあわず、まだ見ることができていない。
本来であれば、それらをまとめて、露口さんの全体像を論じるべきなのであるが、ハードルを上げれば上げるほどテキストはいつまでたっても完結しないという傾向にあるため、取り急ぎ、7月30日夜に個展会場のCAIで開かれた「クロストーク」がいかにおもしろかったかという話から書いてみたい。
まず起点となるパスを出したのは、四方幸子さん(札幌国際芸術祭アソシエイトキュレーター)。「表象し得ないものの問題もあります」
それを受けて、倉石信乃さん(横浜美術館学芸員)が、東京の国立近代美術館が開いた「地震のあとで―東北を思うⅢ」展を引き合いに出し、藤井光の作品をめぐって(カオスラウンジの理論的支柱ともいえる若手評論家)黒瀬良平がSNSで論争したいきさつを持ち出した。見事なセンタリングである。
黒瀬氏は、イメージの持つ力をアーティストはきちっと逃げずに俎上に上げるべきだと批判したのに対し、藤井氏は、基本的にイメージを信じていないと、決定的なイメージへの不信感を吐露していたという。
(キッカケについては、togetterにあり。また黒瀬氏の発言については、こちらを参照のこと。長文です)
倉石さんにいわせると、これは「表象不可能かどうかという立場の差」であり、「ショアー」のランズマンとディディユベルマンの論争の反復であるという。
恥を忍んで白状すれば、筆者はこれについて知らなかった。
帰宅後、積読のままだったディディ=ユベルマン「時間の前で」を引っ張り出し、訳者のあとがきを読む。ふむふむ。平凡社の「イメージ、それでもなお」という本は、ランズマン監督を後ろ盾としたジェラール・ヴァイクマンとの論争であったのか。
会場に話を戻す。
露口さんの会場で映像作品「福島の光景」を発表していた若手、岩崎孝正さんもトークに参加しており
「美しい、と通り過ぎるんじゃなくて、そこに汚染水が流れていると、想像力をめぐらせてほしい、そう思って撮っている。奥に分け入って本質を見る目を養ってほしい。押し付けがましいと思われるかもしれませんが」
と話していた。
それに対して倉石さんは、藤井光作品について説明したあとで、
たとえば東松照明がある時期まで撮っていたのには自分にとって否定すべき対象なんですね。米軍基地とか、唾棄すべき存在なわけです。しかし偉大な写真家が映像化すれば、それはスタイリッシュになってしまう。フクシマもヒロシマもそう。美的に昇華してしまうギャップがつきまとう。その落差によって「この美しい場所が実は汚染されている」という言説が成立している。自分はそれに対して抵抗感がある。美のデモーニッシュなあり方を全面的に評価することはできない
―という意味の言葉を継いだ。
露口さん
表象不可能なものに対するランズマンの方法はすぐれているが、ドグマにしてしまったきらいがある。ディディユベルマンは、アウシュヴィッツのイメージに対して不純で不完全なものだけれどそこに希望を見出したいんだと、主張するわけですよね。写真家にあのイメージを作り出すことは不可能であり、写真家の限界を、あの論争は教えてくれていると思います。方法一つを特権化しちゃいけないし、特権化することはありえない。写真は誰でも撮れるのがいいところであって、特権者はいないし、皆がやればいい。とはいえ、美術館にある種の特権化された作者の特権化された作品が並ぶことも事実ではあるが、そのことに対して疑問を持たないこと自体が、イメージにたいして不遜なんだと思います。まあ、そんなことをいっても、自分でも写真を撮ってセレクトして、さあ見てくださいってやってるわけですが。
倉石さん
すぐれた映像作家であればあるほどデモーニッシュに見せる力があるし、またそのことを自覚する力もある。東松照明もそれで写真を撮ることをやめようとして、沖縄の島々を撮る選択をする。その選択によって得たものと失ったものとがあると思うんですね。ぼくは単にデモーニッシュを否定しているのではない。ある対象に真摯に向き合えば、美的なものにならざるを得ない。ふざけてるんじゃないんだから、それはひとりでにそうなっていくと思う。そこを汲み取りたいなと思う。絵なら陳腐になってしまうような美しい風景が通用してしまう、それが写真だと思う。だから画家(をやっていくこと)は難しい。陳腐になりがちだから。ゴダールは「映画は絵画に出自をもつ」と言ったが、陳腐にならずに表現できる可能性が写真や映像にはかろうじてある。もうひとつは、報告性。ホウコクといっても、国に報いるんじゃなくて、ルポルタージュ。古いタームかもしれないが、何かあったら、新聞とは異なる別の報告のスタイルがあるのではないか。
(以上のまとめの文責はすべて筆者にあります。ここでいったんアップします) 続きはこちら。
何度かチャンスはあったはずなのに、弘前での展覧会に際して図録を出版したときも、札幌芸術の森美術館での「アクア・ライン」展でぬきんでた作品を出したときも、筆者はなぜかテキストを書かなかった。
深く反省している。
じつは、チ・カ・ホでの作品も、タイミングがあわず、まだ見ることができていない。
本来であれば、それらをまとめて、露口さんの全体像を論じるべきなのであるが、ハードルを上げれば上げるほどテキストはいつまでたっても完結しないという傾向にあるため、取り急ぎ、7月30日夜に個展会場のCAIで開かれた「クロストーク」がいかにおもしろかったかという話から書いてみたい。
まず起点となるパスを出したのは、四方幸子さん(札幌国際芸術祭アソシエイトキュレーター)。「表象し得ないものの問題もあります」
それを受けて、倉石信乃さん(横浜美術館学芸員)が、東京の国立近代美術館が開いた「地震のあとで―東北を思うⅢ」展を引き合いに出し、藤井光の作品をめぐって(カオスラウンジの理論的支柱ともいえる若手評論家)黒瀬良平がSNSで論争したいきさつを持ち出した。見事なセンタリングである。
黒瀬氏は、イメージの持つ力をアーティストはきちっと逃げずに俎上に上げるべきだと批判したのに対し、藤井氏は、基本的にイメージを信じていないと、決定的なイメージへの不信感を吐露していたという。
(キッカケについては、togetterにあり。また黒瀬氏の発言については、こちらを参照のこと。長文です)
倉石さんにいわせると、これは「表象不可能かどうかという立場の差」であり、「ショアー」のランズマンとディディユベルマンの論争の反復であるという。
恥を忍んで白状すれば、筆者はこれについて知らなかった。
帰宅後、積読のままだったディディ=ユベルマン「時間の前で」を引っ張り出し、訳者のあとがきを読む。ふむふむ。平凡社の「イメージ、それでもなお」という本は、ランズマン監督を後ろ盾としたジェラール・ヴァイクマンとの論争であったのか。
会場に話を戻す。
露口さんの会場で映像作品「福島の光景」を発表していた若手、岩崎孝正さんもトークに参加しており
「美しい、と通り過ぎるんじゃなくて、そこに汚染水が流れていると、想像力をめぐらせてほしい、そう思って撮っている。奥に分け入って本質を見る目を養ってほしい。押し付けがましいと思われるかもしれませんが」
と話していた。
それに対して倉石さんは、藤井光作品について説明したあとで、
たとえば東松照明がある時期まで撮っていたのには自分にとって否定すべき対象なんですね。米軍基地とか、唾棄すべき存在なわけです。しかし偉大な写真家が映像化すれば、それはスタイリッシュになってしまう。フクシマもヒロシマもそう。美的に昇華してしまうギャップがつきまとう。その落差によって「この美しい場所が実は汚染されている」という言説が成立している。自分はそれに対して抵抗感がある。美のデモーニッシュなあり方を全面的に評価することはできない
―という意味の言葉を継いだ。
露口さん
表象不可能なものに対するランズマンの方法はすぐれているが、ドグマにしてしまったきらいがある。ディディユベルマンは、アウシュヴィッツのイメージに対して不純で不完全なものだけれどそこに希望を見出したいんだと、主張するわけですよね。写真家にあのイメージを作り出すことは不可能であり、写真家の限界を、あの論争は教えてくれていると思います。方法一つを特権化しちゃいけないし、特権化することはありえない。写真は誰でも撮れるのがいいところであって、特権者はいないし、皆がやればいい。とはいえ、美術館にある種の特権化された作者の特権化された作品が並ぶことも事実ではあるが、そのことに対して疑問を持たないこと自体が、イメージにたいして不遜なんだと思います。まあ、そんなことをいっても、自分でも写真を撮ってセレクトして、さあ見てくださいってやってるわけですが。
倉石さん
すぐれた映像作家であればあるほどデモーニッシュに見せる力があるし、またそのことを自覚する力もある。東松照明もそれで写真を撮ることをやめようとして、沖縄の島々を撮る選択をする。その選択によって得たものと失ったものとがあると思うんですね。ぼくは単にデモーニッシュを否定しているのではない。ある対象に真摯に向き合えば、美的なものにならざるを得ない。ふざけてるんじゃないんだから、それはひとりでにそうなっていくと思う。そこを汲み取りたいなと思う。絵なら陳腐になってしまうような美しい風景が通用してしまう、それが写真だと思う。だから画家(をやっていくこと)は難しい。陳腐になりがちだから。ゴダールは「映画は絵画に出自をもつ」と言ったが、陳腐にならずに表現できる可能性が写真や映像にはかろうじてある。もうひとつは、報告性。ホウコクといっても、国に報いるんじゃなくて、ルポルタージュ。古いタームかもしれないが、何かあったら、新聞とは異なる別の報告のスタイルがあるのではないか。
(以上のまとめの文責はすべて筆者にあります。ここでいったんアップします) 続きはこちら。