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北海道美術ネット別館

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鴎外の家 (東京08 ヘ)

2008年02月12日 23時28分55秒 | つれづれ写真録
 前回エントリからずいぶん間が開いてしまったけど、東京シリーズのつづき。

学問の自由研究と芸術の自由発展とを妨げる国は栄える筈がない。
(「文芸の主義」。講談社学芸文庫「鴎外論集」118ページ)


          

 一家が泊まったのは、上野駅からあるいて15分ほどのところにある「鴎外ホテル水明荘」というところ。
 子どもが小学生なので、ホテルの洋室より和室のほうが落ち着くだろう-と考えて決めた宿です。

(なお、あらかじめ書いておきますが、なにもすきこのんでわたしは「鴎外」などと表記しているわけではありません。「鴎」の正字「鷗」がパソコンによっては出ないので、なみだをのんで略字を用いています)

 なぜホテルが文豪の名を冠しているかというと、中庭に彼の旧居がのこされているのです。
 外観からはちょっと想像がつきません。

          

 この地で彼は「舞姫」を執筆したのです(高校時代、現代国語で読んだ人もいるでしょう)。

          

 まだ軍医総監といった偉い地位につく前の若い時代の住まいですので、それほどの豪邸ではありません。

 また、ドイツ留学から帰った彼は、1889年(明治21年)から翌90年にかけてここで新婚生活をおくりますが、1年あまりで離婚にいたり、千駄木に転居します。

 鴎外は「舞姫」につづき、「うたかたの記」「文づかひ」を立て続けに発表します。その後はもっぱら翻訳の発表が中心となり、軍の生活が多忙であったことも関係していると思いますが、小説家として復帰するのは、1909年になります。
 つまり、20年近いブランクがあるのです。

 ちなみに「うたかたの記」は、西洋画学生が登場する小説としては本邦初ではないでしょうか。
 たしかに「舞姫」のほうがショッキングな話なのですが、描写の美しさでいえば「うたかたの記」に軍配が上がると思います。


          

 予約すればこの部屋で夕食をとることもできるそうです。
 また、奥には蔵を改装した部屋もありました。
 上の画像の左側に大きな額がありますが、「舞姫」の一節が書いてあります。

          

 せっかくそういう宿にとまるのだから-と思い、書架にねむっていた「鴎外論集」を、「北斗星」車内などで読んでいました。
 冒頭の一節は、その本から引いたものです。

 中学時代に読んだ「高瀬舟」では、末尾の「オオトリテエに従うほかない」(「オオトリテエ」は権威の意)というくだりが印象的で、鴎外といえば
「保守的」
というイメージがあったので、ちょっと意外でした。

          

 旧宅の近くにたっていた「舞姫の碑」です。

 これを機会に、鴎外の小説を読み直しています。


□水月ホテル鴎外荘 http://www.ohgai.co.jp/



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