(2013年に書いた記事がアップされずにパソコンに眠っていました。おそらくまだ続きを書くつもりだったのでしょうが、もう当時の気持ちはわからないので、とりあえずアップすることにします)
中川裕「アイヌの物語世界」(平凡社ライブラリー)に、「カムイ」とは何かについてわかりやすい説明があったので、かなり長いが、引用しておきます。
もっと引用したくなるのだが、ここらへんで。
どうですか。
筆者はこの本を読むまで知らなかった。
そして、とってもおもしろい考え方だし、自然観だと思う。
「カムイ」を「神」と訳すると、ちょっと違うということがわかった。
また、アイヌ民族の考え方が、いわゆる欧米流のエコロジーとも異なることもこれで了解した。
この世界観からは「自然はいっさい傷つけてはいけない」的な、過激エコロジーは出てきようがない。
引用部分のあとに出てくるが、「ウニウェンテ」という儀式があり、たとえば川で事故が起こって死人が出たようなときに、川のカムイに対して抗議デモ行進を行うような儀礼だという。
川の不注意をなじり、今後同じようなことがあったら、おまえをもうあがめたりしないぞと訴えるというのだ。
生態系と人間の共存にとって、こんなに好都合な思想はないように思う。
好都合といっても、ご都合主義とは違う。
といって、一神教のような格調の高さ(いいかえれば、とっつきにくさ)でもない。
ある意味で、非常に人間くさいというか、ユニークな発想ではないだろうか。
中川さんは、カムイについて
「われわれの言う「自然」という言葉に非常に近いものだということができるだろう」
と総括している。
筆者が思い出したのは、「山川草木悉皆成仏」という仏教の教えである。
これは、インド由来の思想というよりは、日本仏教の教えなのではないだろうか。(すみません、これからもっと勉強します)
もちろん、アイヌ民族が仏教に帰依していたとか、仏教の影響下にあったということをいいたいわけではない。
ただ、結果的に似ているように思われるというだけのことだ。
そして「山川草木悉皆成仏」を忘れかけているわたしたち日本人が、自然から手痛いしっぺ返しを食っているように思う―と書けば、コラム的にまとめすぎる結論だろうか。
中川裕「アイヌの物語世界」(平凡社ライブラリー)に、「カムイ」とは何かについてわかりやすい説明があったので、かなり長いが、引用しておきます。
かつてのアイヌ人にとって、この世界は二種類の精神的存在によって構成されていると考えられていた。ひとつはアイヌ=「人間」であり、もうひとつがカムイと呼ばれるものである。このカムイという言葉はひとことで言ってしまえば、「人間にない力を持ったものすべて」を指す言葉である。たとえばスズメやカラスなどの鳥たちは、空を飛ぶという人間にはできないことができる。クマやキツネなどのけものたちは、毛皮や肉という人間には作れないものを、自分の手で作り出して身にまとっている。樹木は木材を作り出し、あるいはその内皮を服を織るための繊維の原料として人間のために提供してくれ、山菜たちはまたその根や茎や葉を食料として与えてくれる。
こうしたものがカムイと呼ばれるものである。つまり、一羽一羽のスズメ、一匹一匹のキツネ、一本一本の木や草がそれぞれカムイなのである。日本語で「キツネの神様」や「桂の木の神様」などというと、キツネ全体をつかさどる一段と偉いキツネの王様のようなものや、特別な桂の木を思い浮かべてしまうかもしれないが、そういうことではない。何百匹ものハチが群れていたとしたら、そこには何百匹ものハチのカムイがいるのである。
生物ばかりでなく、火や雷などの自然現象もまたカムイであり、精神を持つものとして考えられている。山や川、風、太陽などもカムイだし、天然痘のような病気や基金のような災いさえカムイと考えられている。
そのカムイたちはそれぞれカムイモシリ「カムイの国」と呼ばれる、自分たちの住む本来の場所を持っている。そしてそこから時に応じてアイヌモシリ「人間の国」へと出かけてくるのである。火のカムイなどはいつでも人間の家にいて料理を作る手助けをし、またカムイたちへ人間の言葉を伝える役を果たす、人間にとって一番親しい大事なカムイだが、雷のカムイなどは、ときどきアイヌモシリが見たくなるとぷらっと人間の村の上空を訪れては、また去っていく。また、暖かくなってくると鳴き声を聞かせるカッコウなどの鳥は、季節の訪れや川への魚の遡上を告げるという役目を負って、天空にあるカムイモシリから人間の国へ派遣されてきたカムイたちだと考えられている。
(中略)
カムイたちが人間の前に姿を現すときは、それぞれよそいきの衣裳をつけてくる。たとえばクマの神であれば、肉を人間へのお土産として背負って、その上に立派な毛皮のコートを着てやってくる。
(中略)
基本的にカムイとアイヌとは対等であり、お互いにもちつもたれつの関係で、どちらがいなくてもお互いに困るという存在だと考えられている。
(中略)
だから狩というのは、アイヌ人にとって人間と動物の戦いではない。動物たちはその酒やイナウが欲しくて、自分をそうしたもので丁寧に祀ってくれそうな人間のところに、自ら客となるためにやってくると考えるのである。だから獲物がとれる、とれないというのは、単なる技術の問題ではなく、カムイに気に入られているかどうか、カムイに信用されているかどうかという人徳の問題として考えられるのである。
もっと引用したくなるのだが、ここらへんで。
どうですか。
筆者はこの本を読むまで知らなかった。
そして、とってもおもしろい考え方だし、自然観だと思う。
「カムイ」を「神」と訳すると、ちょっと違うということがわかった。
また、アイヌ民族の考え方が、いわゆる欧米流のエコロジーとも異なることもこれで了解した。
この世界観からは「自然はいっさい傷つけてはいけない」的な、過激エコロジーは出てきようがない。
引用部分のあとに出てくるが、「ウニウェンテ」という儀式があり、たとえば川で事故が起こって死人が出たようなときに、川のカムイに対して抗議デモ行進を行うような儀礼だという。
川の不注意をなじり、今後同じようなことがあったら、おまえをもうあがめたりしないぞと訴えるというのだ。
生態系と人間の共存にとって、こんなに好都合な思想はないように思う。
好都合といっても、ご都合主義とは違う。
といって、一神教のような格調の高さ(いいかえれば、とっつきにくさ)でもない。
ある意味で、非常に人間くさいというか、ユニークな発想ではないだろうか。
中川さんは、カムイについて
「われわれの言う「自然」という言葉に非常に近いものだということができるだろう」
と総括している。
筆者が思い出したのは、「山川草木悉皆成仏」という仏教の教えである。
これは、インド由来の思想というよりは、日本仏教の教えなのではないだろうか。(すみません、これからもっと勉強します)
もちろん、アイヌ民族が仏教に帰依していたとか、仏教の影響下にあったということをいいたいわけではない。
ただ、結果的に似ているように思われるというだけのことだ。
そして「山川草木悉皆成仏」を忘れかけているわたしたち日本人が、自然から手痛いしっぺ返しを食っているように思う―と書けば、コラム的にまとめすぎる結論だろうか。