
フランス映画界の巨匠で、1960年代のヌーヴェルヴァーグ(新しい波)以降の世界の映画に大きな影響を与えたジャン=リュック・ゴダール監督が死去した。91歳だった。
いま巨匠と書いたが、例えばベルイマンや黒澤明が巨匠であったような在り方では決してなく、ゴダールは晩年まで「わけのわからない映画」といって悪ければ、既存の映画の文法を壊し続ける「問題作品」を撮り続けた。それは、20世紀芸術の在り方でもあったであろう。
…と、いつになく気取った書き出しになってしまったが、ゴダールの映画は、難解がゆえに誰もが語ってしまうのである。映画評論家はもちろん、坂本龍一も向井豊昭も島田雅彦も多和田葉子もついついインタビューに答えたりエッセーの筆を執ったりしてしまう。それだけ多くの人にとって「気になる存在」だったといえると思う。
ゴダールは1930年生まれ。
生地はパリだが、隣国のスイス・ジュネーブで育ち、その経歴は兵役を忌避する際に生かされた。ゴダールの若いころ、フランス軍はアルジェリア独立運動の弾圧にいそしんでおり、彼が軍務を避けたのは理解できる。
ソルボンヌ大学の学生だったゴダールはシネマテークで今昔の映画を浴びるように見て、映画批評のアンドレ・バザンの影響を受け、映画批評に健筆をふるった。1おそらく、全盛期はすぎていたがまだまだ耀いていた米国映画を見ていただろう。ヌーヴェルヴァーグの盟友だったフランソワ・トリュフォーやエリック・ロメールと出合ったのもこの頃。「シャルロットとジュール」「水の話」など短編を何本か手がけたあと、1959年の長編劇場用映画「勝手にしやがれ」で鮮烈なデビューを果たす。街頭でのロケーション、手持ちカメラによるブレた映像など、革新的な手法が話題となり、日本の大島渚らが「松竹ヌーヴェルヴァーグ」と呼ばれるなど世界の映画に与えた影響は大きかった。
英訳すると「Breathless」になる題を「勝手にしやがれ」と訳した当時の映画輸入・配給会社もすごい。原題の通りだったら、後年、沢田研二が同題の大ヒット曲を歌ったり、明治大学の映画研究会が、劇中でジーン・セバーグが「インターナショナル・ヘラルド・トリビューン」紙を街頭で売る場面のパロディで「プラウダ! プラウダ!」と叫びながら新聞を売るシーンのある自主制作映画を作ったりはしなかっただろう(「プラウダ」はソビエト連邦共産党機関誌)。
ここで注意すべきは、ゴダールは映画学校で学んだのでもなければ、制作所の徒弟制度で映画作りをたたきこまれたわけでもなく、インテリ学生の映画好きが高じて監督になってしまったことで、こうした「脱・職人」的な事例も20世紀後半には多くなったのだった。
ゴダールは「女と男のいる舗道」「気狂いピエロ」「彼女について私が知っている二、三の事柄」など精力的に撮り続けていく。個人的には、「アルファヴィル」が未見なのが残念で、この映画は「ウルトラセブン」でも屈指の異色作といわれる「第四惑星の悪夢」の元ネタになったことで知られる。近未来的なセットを組まず、現実のパリでSF映画を撮ってしまったという。
「気狂いピエロ」では、ジャンポール・ベルモンドとアンナ・カリーナが別々のオープンカーに乗ったまま、身を乗り出してキスをするシーンや、ジャン=ポール・ベルモンドがいきなり正面を向いて観客に話しかける場面、最後に命を絶つシーンなどが印象に残っているが、物語の方はさっぱり覚えていない。
1960年代末から70年代初頭にかけては、世界的に学生運動の波が盛り上がり、芸術の革新的な動きも極めて盛んだった。ゴダールはその流れに最も忠実だったといえる。毛沢東主義の学生を題材にした「中国女」、五月革命のバリケードの中で映画のアジビラとして何本も撮っては上映した「シネトラクト」、ローリングストーンズのリハーサル風景と黒人のアジテーションや蜂起を交互に撮った「ワン・プラス・ワン」、走る列車の中で映画や革命について男女がえんえんと議論しながらも西部劇のパロディにもなっている「東風」、工場労働者のストライキを題材にした「万事快調」など、この時期の左傾化が著しいのは、ゴダールに限ったことでなく、ジョン・レノンらとも共通する風潮だったし、「ワン・プラス・ワン」で、赤旗がはためくクレーンの上でアンヌ・ヴィアゼムスキーが機関銃を手にして立つ場面がラストに来ているのは、当時の時代とぴったり合っているとしか言いようがない。
ゴダールは作品のみならず、トリュフォーらとともにカンヌ映画祭に乗り込んで、これを「粉砕」していた。
その後も「ヒア・アンド・ゼア/こことよそ」で、フランスとパレスティナを対比して撮るなど政治的な映像を撮り続けていたゴダールは1970年代末、商業映画の世界に帰ってくる。
その後に撮られた「パッション」は、泰西名画の活人画が随所に登場し、個人的にはゴダールの映画で最も美しい一本だと思う。
1983年にヴェネツィア映画祭で金獅子賞を得た「カルメンという名の女」は、翌84年、シネ・ヴィヴァン六本木でのロードショーで友人とみたため、ヤナイと行く映画は難解だということになってしまい、これ以降は筆者は大半の作品をひとりで見に行く羽目になってしまった(苦笑)。
以後、筆者が見たゴダール映画は「フレディ・ビアシュへの手紙」「ゴダールのマリア」「ゴダールの映画史」「さらば、愛の言葉よ」など数本にとどまる。
長文になったので、このあたりで終わりにしたいが、膨大な映像と文章の引用からなる「ゴダールの映画史」をシアターキノで見たとき、お元気だった門馬よ宇子さんがいらしたことが、いまも記憶に残っている。
難解な作品でもトライしてみる、という「見る側」の姿勢が、インターネットの普及により急速に失われつつあるように感じている。
ゴダールのような冒険者はもうしばらく現れないのかもしれない。
R.I.P
(追記)あんまりアートのほうに話が行かなかったなあ。日本との結びつきも、たとえばアンジェイ・ワイダやヴィム・ヴェンダースなんかと比べるとあまりエピソードがありません。「ゴダールの映画史」でも、イタリアや米国映画についてはずいぶん言及されてたけど、日本は溝口健二にちらっと触れていたぐらいだったようだし。
いま巨匠と書いたが、例えばベルイマンや黒澤明が巨匠であったような在り方では決してなく、ゴダールは晩年まで「わけのわからない映画」といって悪ければ、既存の映画の文法を壊し続ける「問題作品」を撮り続けた。それは、20世紀芸術の在り方でもあったであろう。
…と、いつになく気取った書き出しになってしまったが、ゴダールの映画は、難解がゆえに誰もが語ってしまうのである。映画評論家はもちろん、坂本龍一も向井豊昭も島田雅彦も多和田葉子もついついインタビューに答えたりエッセーの筆を執ったりしてしまう。それだけ多くの人にとって「気になる存在」だったといえると思う。
ゴダールは1930年生まれ。
生地はパリだが、隣国のスイス・ジュネーブで育ち、その経歴は兵役を忌避する際に生かされた。ゴダールの若いころ、フランス軍はアルジェリア独立運動の弾圧にいそしんでおり、彼が軍務を避けたのは理解できる。
ソルボンヌ大学の学生だったゴダールはシネマテークで今昔の映画を浴びるように見て、映画批評のアンドレ・バザンの影響を受け、映画批評に健筆をふるった。1おそらく、全盛期はすぎていたがまだまだ耀いていた米国映画を見ていただろう。ヌーヴェルヴァーグの盟友だったフランソワ・トリュフォーやエリック・ロメールと出合ったのもこの頃。「シャルロットとジュール」「水の話」など短編を何本か手がけたあと、1959年の長編劇場用映画「勝手にしやがれ」で鮮烈なデビューを果たす。街頭でのロケーション、手持ちカメラによるブレた映像など、革新的な手法が話題となり、日本の大島渚らが「松竹ヌーヴェルヴァーグ」と呼ばれるなど世界の映画に与えた影響は大きかった。
英訳すると「Breathless」になる題を「勝手にしやがれ」と訳した当時の映画輸入・配給会社もすごい。原題の通りだったら、後年、沢田研二が同題の大ヒット曲を歌ったり、明治大学の映画研究会が、劇中でジーン・セバーグが「インターナショナル・ヘラルド・トリビューン」紙を街頭で売る場面のパロディで「プラウダ! プラウダ!」と叫びながら新聞を売るシーンのある自主制作映画を作ったりはしなかっただろう(「プラウダ」はソビエト連邦共産党機関誌)。
ここで注意すべきは、ゴダールは映画学校で学んだのでもなければ、制作所の徒弟制度で映画作りをたたきこまれたわけでもなく、インテリ学生の映画好きが高じて監督になってしまったことで、こうした「脱・職人」的な事例も20世紀後半には多くなったのだった。
ゴダールは「女と男のいる舗道」「気狂いピエロ」「彼女について私が知っている二、三の事柄」など精力的に撮り続けていく。個人的には、「アルファヴィル」が未見なのが残念で、この映画は「ウルトラセブン」でも屈指の異色作といわれる「第四惑星の悪夢」の元ネタになったことで知られる。近未来的なセットを組まず、現実のパリでSF映画を撮ってしまったという。
「気狂いピエロ」では、ジャンポール・ベルモンドとアンナ・カリーナが別々のオープンカーに乗ったまま、身を乗り出してキスをするシーンや、ジャン=ポール・ベルモンドがいきなり正面を向いて観客に話しかける場面、最後に命を絶つシーンなどが印象に残っているが、物語の方はさっぱり覚えていない。
1960年代末から70年代初頭にかけては、世界的に学生運動の波が盛り上がり、芸術の革新的な動きも極めて盛んだった。ゴダールはその流れに最も忠実だったといえる。毛沢東主義の学生を題材にした「中国女」、五月革命のバリケードの中で映画のアジビラとして何本も撮っては上映した「シネトラクト」、ローリングストーンズのリハーサル風景と黒人のアジテーションや蜂起を交互に撮った「ワン・プラス・ワン」、走る列車の中で映画や革命について男女がえんえんと議論しながらも西部劇のパロディにもなっている「東風」、工場労働者のストライキを題材にした「万事快調」など、この時期の左傾化が著しいのは、ゴダールに限ったことでなく、ジョン・レノンらとも共通する風潮だったし、「ワン・プラス・ワン」で、赤旗がはためくクレーンの上でアンヌ・ヴィアゼムスキーが機関銃を手にして立つ場面がラストに来ているのは、当時の時代とぴったり合っているとしか言いようがない。
ゴダールは作品のみならず、トリュフォーらとともにカンヌ映画祭に乗り込んで、これを「粉砕」していた。
その後も「ヒア・アンド・ゼア/こことよそ」で、フランスとパレスティナを対比して撮るなど政治的な映像を撮り続けていたゴダールは1970年代末、商業映画の世界に帰ってくる。
その後に撮られた「パッション」は、泰西名画の活人画が随所に登場し、個人的にはゴダールの映画で最も美しい一本だと思う。
1983年にヴェネツィア映画祭で金獅子賞を得た「カルメンという名の女」は、翌84年、シネ・ヴィヴァン六本木でのロードショーで友人とみたため、ヤナイと行く映画は難解だということになってしまい、これ以降は筆者は大半の作品をひとりで見に行く羽目になってしまった(苦笑)。
以後、筆者が見たゴダール映画は「フレディ・ビアシュへの手紙」「ゴダールのマリア」「ゴダールの映画史」「さらば、愛の言葉よ」など数本にとどまる。
長文になったので、このあたりで終わりにしたいが、膨大な映像と文章の引用からなる「ゴダールの映画史」をシアターキノで見たとき、お元気だった門馬よ宇子さんがいらしたことが、いまも記憶に残っている。
難解な作品でもトライしてみる、という「見る側」の姿勢が、インターネットの普及により急速に失われつつあるように感じている。
ゴダールのような冒険者はもうしばらく現れないのかもしれない。
R.I.P
(追記)あんまりアートのほうに話が行かなかったなあ。日本との結びつきも、たとえばアンジェイ・ワイダやヴィム・ヴェンダースなんかと比べるとあまりエピソードがありません。「ゴダールの映画史」でも、イタリアや米国映画についてはずいぶん言及されてたけど、日本は溝口健二にちらっと触れていたぐらいだったようだし。