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北海道美術ネット別館

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寂寞を敵とし友とし/雪のなかに/長き一生を送る人もあり(石川啄木) 釧路への旅(10)

2008年07月16日 21時52分50秒 | つれづれ日録
承前

 釧路の人は石川啄木が好きだとつくづく思う。

 いまからちょうど1世紀前、滞在していたのはわずか2カ月余り。
 当時の釧路新聞の記者、ということは、筆者の大先輩ということになるのだが、あまりまじめに働いていたふうではない。

 あはれかの国のはてにて
 酒のみき
 かなしみの滓(おり)を啜るごとくに

 さいはての駅に下り立ち
 雪あかり
 さびしき町にあゆみ入りにき


 短歌では、「地のはて」とか「さびしき町」という形容で、釧路についてうたっており、さして礼賛しているようすはない。
 啄木自身の思い入れも、函館にくらべればはるかに小さいであろうにもかかわらず、である。
 (まあ、あれだけケチョンケチョンにけなされていながら『坊っちゃん』に入れあげる松山市民ほど、釧路市民はマゾ的ではないみたいだけど)

 とくに南大通附近には、26もの歌碑が点在し、「小奴(こやっこ)の碑」前なるバス停まで存在する(小奴は、啄木が釧路時代に親しかった芸者の名)。
 街灯には、啄木の短歌を刷ったバナーがつりさがっている。むろん、短歌はそれぞれに異なる作品をとりあげている。
 よく見ると、どう考えても釧路で詠んだ歌ではなさそうなものまで印刷されている。

 題に掲げた歌は「一握の砂」に収載されているが、順番から推して、釧路に来る以前の作と思われる。
 この歌が書かれたバナーを見て、はっとさせられた。
 啄木の視線は、けっして地方人を見下すようなものではない(その点、「坊っちゃん」における漱石よりも、マシだと思う)。
 むしろ、地方でじっと耐えて日常をおくる人の生のありかたに、深い共感を寄せているのだ。

 わたしたちは、深い雪の中に一生を終える人である。
 だからといって、卑屈になることはないのだ。

 啄木の歌に励まされたような気がした。


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