札幌国際芸術祭のうち、芸術の森エリアで展開している「NEW LIFE:リプレイのない展覧会」の概要を先日書きましたが、そのなかで、札幌芸術の森美術館にあったクリスチャン・マークレーさんの「Record Without a Cover」についてはなんらかの説明があったほうが親切かもしれないと考え、ここに紹介します。
それほどの長大テキストではありませんが、いちおう4章にわけました。
1) どんな作品?
2) 意義を説明する前に
3) 存在自体がコンセプチュアルなレコード
4) どこまで解説すべきか
1) どんな作品?
といっても、おぼえていない人が多いんじゃないかな。
展示室に入ってすぐのところにある、男性がむしゃむしゃとレコードを食べる短い映像作品については、記憶している人も多いでしょう。
その横に、レコードが1枚、ぽんと置かれているのです。
普通の黒いLPで、見たところ何の変哲もありません。
またキャプションの掲示もありません。
しかし、ちょっと大げさな言い方をすれば、これこそ大友芸術祭の原点とでもいうべき、重要な作品だと筆者は考えます。
2) 意義を説明する前に
本心をいえば、筆者なんかが説明するよりも、大友良英さんがこの春に出した本「音楽と美術のあいだ」(フィルムアート社)を読んでいただければいいんですよ。
クリスチャン・マークレーのことだけじゃなく、大友さんが今回こういう、ちょっと変わった芸術祭を開くにあたってどういう考えがあったのか、読めばだいたいわかります。後半は対談で、相手は
刀根康尚、鈴木昭男、毛利悠子、梅田哲也、堀尾寛太、Sachiko M
…と、みなさん、今回の芸術祭の出品者です。
この本は、大友さんが芸術祭のゲストディレクターを引き受ける以前から企画されていました。だからこそ、大友さんが以前からどんな問題意識をもっていたか、よく伝わってきます。
話し言葉なので読みやすいし、にもかかわらず内容は深い。
芸術祭に関心を抱いた人は必読だし、そうでない人が読んでもアートについて考えさせられる、とてもおもしろい一冊です。
だから、ほんとうは大友さんのことばを読んでナットクするのがいちばんなのですが、いちおう、ヤナイから、つたない要約を提示してみます。
3) 存在自体がコンセプチュアルなレコード
会場に展示されているのがそれかどうかはっきりしないのですが、このレコードは、東京・池袋にあったアール・ヴィヴァンという店に1985年に3枚だけ輸入されました。大友さんは「出会いは衝撃でした」と、先に記した『音楽と美術のあいだ』という本の中で言っています(店名を見ると、1980~90年代の西武セゾン文化について語りたい欲求にかられるけど、それは別の機会に)。
レコードは、袋もジャケットもなく裸の状態で売られていました。
店内で視聴してみたら、最初の数分は針音がするだけ。その後、コラージュ音が入っていました。しかし、それらが、作者(マークレイ)の意図になるものなのか、流通過程でついた傷によるものなのかは、わからない。
大友さんは、その「わからない」ことがカッコいいと思い、またレコードを聴くという仕組みじたいを問うような作品にすっかり「ヤラれてしまい」、3枚とも買って(お店の人は「傷がついているから1枚千円でいいよ」と言ってくれた由)、1枚は、ノイズミュージックの師匠である高柳昌行さんにプレゼントしたとのことです。
したがって、このレコードは、大友さんが「音楽」の枠にとどまらず、アートへと越境していく出発点になったものであることは間違いありません。
このレコードに出会わなければ、今回の札幌国際芸術祭のゲストディレクターを担当することもなく、芸術祭がまったくちがったものになっていたのではないでしょうか。
アートや文学の世界で、アートや文学そのものを問う作品はそれほどめずらしくありませんが、レコード音楽では少ないかもしれません。
4) どこまで解説すべきか
芸術祭にとってこれだけ重要なレコードであるにもかかわらず、会場にも、公式サイトにも、何の説明も見当たりません。
筆者が見つけられないだけかもしれませんが。
これは、大友さんが「本籍・音楽家」だけに、現代アートの世界の「能書き(=コンセプト)偏重」の傾向に、根本的な疑義を抱いていることと関係があるような気がしてなりません。
グラビア雑誌などでよく見かける
「アートは理屈じゃなく、心で感じるものだぜ、イエイ!」
みたいな能天気な決まり文句には、筆者(ヤナイ)はあまり賛成できませんし、大友さんがその水準でコンセプト嫌いになっているわけではないでしょう。
ただ、現代アートがコンセプト重視で、添えられたテキストを読んでしまえばあとにはほとんど何も残らない、いわば「解釈オチ」の作品が散見されることは事実ですし、また、鑑賞する側も、そのテキストを読んで納得して終わり、ということになりがちです。美術館の展覧会で、筆者はよく会場内の人間を観察しますが、絵などの作品に向き合うよりも、その横にあるパネルを読んでいる時間のほうが長い人が、残念ながら驚くほどたくさん見受けられるのです。
美術館に来る人は、学校で国語のテストの点数がよかった人が多いのかもしれませんね。しかし、言わせてもらえば、そんなのはどうでもいい。
とはいえ、今回の芸術祭で、たとえば解説パネルがあまりにも足りないと感じられるところ(端的にいえば、札幌市資料館)があることもまた否定できません。
会場内に文字だらけのパネルを貼ったりプリントを配布したりする以外にも、鑑賞者を「より深い鑑賞」「くわしい説明」へと導く手段はあるようにも思います。
筆者は「啓蒙」ということを軽んじてはいけないと考えます。
と同時に、あたえられた解説文で満足するのではなく、それぞれの問題意識をもとに自らの力で調べ、考える鑑賞者がもっと増えてほしいとも思っています。
もしかしたら
「なんだこれ、解説がなさすぎだろ!」
といってこういうブログを書いてしまう人が出現することまで、あるいは織り込み済みなのかもしれませんね。さすがにそれはないか。
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4) どこまで解説すべきか
1) どんな作品?
といっても、おぼえていない人が多いんじゃないかな。
展示室に入ってすぐのところにある、男性がむしゃむしゃとレコードを食べる短い映像作品については、記憶している人も多いでしょう。
その横に、レコードが1枚、ぽんと置かれているのです。
普通の黒いLPで、見たところ何の変哲もありません。
またキャプションの掲示もありません。
しかし、ちょっと大げさな言い方をすれば、これこそ大友芸術祭の原点とでもいうべき、重要な作品だと筆者は考えます。
2) 意義を説明する前に
本心をいえば、筆者なんかが説明するよりも、大友良英さんがこの春に出した本「音楽と美術のあいだ」(フィルムアート社)を読んでいただければいいんですよ。
クリスチャン・マークレーのことだけじゃなく、大友さんが今回こういう、ちょっと変わった芸術祭を開くにあたってどういう考えがあったのか、読めばだいたいわかります。後半は対談で、相手は
刀根康尚、鈴木昭男、毛利悠子、梅田哲也、堀尾寛太、Sachiko M
…と、みなさん、今回の芸術祭の出品者です。
この本は、大友さんが芸術祭のゲストディレクターを引き受ける以前から企画されていました。だからこそ、大友さんが以前からどんな問題意識をもっていたか、よく伝わってきます。
話し言葉なので読みやすいし、にもかかわらず内容は深い。
芸術祭に関心を抱いた人は必読だし、そうでない人が読んでもアートについて考えさせられる、とてもおもしろい一冊です。
だから、ほんとうは大友さんのことばを読んでナットクするのがいちばんなのですが、いちおう、ヤナイから、つたない要約を提示してみます。
3) 存在自体がコンセプチュアルなレコード
会場に展示されているのがそれかどうかはっきりしないのですが、このレコードは、東京・池袋にあったアール・ヴィヴァンという店に1985年に3枚だけ輸入されました。大友さんは「出会いは衝撃でした」と、先に記した『音楽と美術のあいだ』という本の中で言っています(店名を見ると、1980~90年代の西武セゾン文化について語りたい欲求にかられるけど、それは別の機会に)。
レコードは、袋もジャケットもなく裸の状態で売られていました。
店内で視聴してみたら、最初の数分は針音がするだけ。その後、コラージュ音が入っていました。しかし、それらが、作者(マークレイ)の意図になるものなのか、流通過程でついた傷によるものなのかは、わからない。
大友さんは、その「わからない」ことがカッコいいと思い、またレコードを聴くという仕組みじたいを問うような作品にすっかり「ヤラれてしまい」、3枚とも買って(お店の人は「傷がついているから1枚千円でいいよ」と言ってくれた由)、1枚は、ノイズミュージックの師匠である高柳昌行さんにプレゼントしたとのことです。
したがって、このレコードは、大友さんが「音楽」の枠にとどまらず、アートへと越境していく出発点になったものであることは間違いありません。
このレコードに出会わなければ、今回の札幌国際芸術祭のゲストディレクターを担当することもなく、芸術祭がまったくちがったものになっていたのではないでしょうか。
アートや文学の世界で、アートや文学そのものを問う作品はそれほどめずらしくありませんが、レコード音楽では少ないかもしれません。
4) どこまで解説すべきか
芸術祭にとってこれだけ重要なレコードであるにもかかわらず、会場にも、公式サイトにも、何の説明も見当たりません。
筆者が見つけられないだけかもしれませんが。
これは、大友さんが「本籍・音楽家」だけに、現代アートの世界の「能書き(=コンセプト)偏重」の傾向に、根本的な疑義を抱いていることと関係があるような気がしてなりません。
グラビア雑誌などでよく見かける
「アートは理屈じゃなく、心で感じるものだぜ、イエイ!」
みたいな能天気な決まり文句には、筆者(ヤナイ)はあまり賛成できませんし、大友さんがその水準でコンセプト嫌いになっているわけではないでしょう。
ただ、現代アートがコンセプト重視で、添えられたテキストを読んでしまえばあとにはほとんど何も残らない、いわば「解釈オチ」の作品が散見されることは事実ですし、また、鑑賞する側も、そのテキストを読んで納得して終わり、ということになりがちです。美術館の展覧会で、筆者はよく会場内の人間を観察しますが、絵などの作品に向き合うよりも、その横にあるパネルを読んでいる時間のほうが長い人が、残念ながら驚くほどたくさん見受けられるのです。
美術館に来る人は、学校で国語のテストの点数がよかった人が多いのかもしれませんね。しかし、言わせてもらえば、そんなのはどうでもいい。
とはいえ、今回の芸術祭で、たとえば解説パネルがあまりにも足りないと感じられるところ(端的にいえば、札幌市資料館)があることもまた否定できません。
会場内に文字だらけのパネルを貼ったりプリントを配布したりする以外にも、鑑賞者を「より深い鑑賞」「くわしい説明」へと導く手段はあるようにも思います。
筆者は「啓蒙」ということを軽んじてはいけないと考えます。
と同時に、あたえられた解説文で満足するのではなく、それぞれの問題意識をもとに自らの力で調べ、考える鑑賞者がもっと増えてほしいとも思っています。
もしかしたら
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