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北海道美術ネット別館

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劉連仁生還記念碑 07年黄金週間の旅(2)

2007年05月11日 20時53分50秒 | 街角と道端のアート
(承前)

 2002年9月の除幕から4年半。
 ようやく、丸山隆さんの遺作の前に立つことができた。

 スウェーデンヒルズから車で10分あまり。
 ちょっと道に迷ったけど、ぶじたどり着けたのは、以前Iさんが懇切丁寧に道順を教えてくれたおかげだ。

 がんのため2002年8月、40代で亡くなる直前の丸山さんは、驚異的なペースで、インスタレーションや立体の大作を発表していた。
 その最後の作品が、この記念碑だ。

 道教大札幌校時代の教え子で彫刻家の加藤宏子さんが仕上げを担当。
 自らは完成を見ることなく、除幕式の2日前に、天へ旅立った。 



 作品それ自体は、意外と大きくない。
 もちろん、石の重厚さを生かした、堂々たるモニュメントになっている。

 周囲はビニールハウスだらけなので、写真にうまくおさめるのがけっこうむずかしい。

 碑の左側には、来歴を記した黒い石の板がすえつけられている。
劉連仁氏は、一九四四年中国山東省から連行され、沼他の明治鉱業で過酷な労働を強いられていましたが、一九四五年七月にこの炭鉱を脱出しました。一九五八年三月八日、当別の山中で穴居していたところを発見され、翌九日、保護されました。強靭な意志と生命力に寄り、実に十二年と七か月の逃亡生活に耐え、生還を果たすことができました。
 時を経て、発見者の袴田清治氏、保護にあたった木屋路一郎氏の招きにより、一九九二年、一九九五年、一九九八年の三回にわたる氏の訪町が実現しました。この交流の中から日中両国の友好と平和への願いをこめた記念碑が生まれました。
二〇〇〇年九月二日、劉連仁氏は八七歳の生涯を閉じました。
二〇〇二年九月一日、ご子息の手によって碑は除幕しました。
 碑は彫刻家丸山隆氏の遺作でもあります。御影石の原石をもちいて、劉連仁氏の苦難の穴居生活をみごとに象徴しています。

                 二〇〇二年九月一日
                 劉連仁生還記念碑建立実行委員会

           

 その黒い板の側から見ると、劉さんが潜んでいたかもしれない当別の山林が見える。

 それにしても、日本の敗戦を知らずに12年間も北海道の山野を逃げまわって暮らしていたとは、すごい生命力である。
 いったい、冬などはどうやって過ごしていたのか。
 時として現実は、安易な創作を超えるドラマを描く。

 しかし、見方を変えれば、空知管内沼田町の炭鉱というところがよっぽどひどく、そこに連れ戻されるぐらいなら冬山にいたほうがマシだと思ったのだろう。

 そして、あれほど日本のせいでひどい目にあった人が、3回も日本を訪れるというのも、大いなるドラマだと思う。

 こういうふうに話がすすめばいいのに、お互いの国の、とくに若い世代がナショナリズムを振りかざしてお互いの過去をあれこれ言い合っているのは、どうにも有害だと思う。
「日本は再び軍事大国化している」
とか
「中国人を強制連行したことはない」
とか、非現実的なことを言い合っていても、いいことはないんじゃないか。


 石の記念碑は、めまぐるしく変わる国際輿論(よろん)をよそに、はてしない悠久の時のなかに、たたずんでいる。


現地の地図

artscapeの丸山隆彫刻展についてのテキスト(執筆は吉崎元章・札幌芸術の森美術館学芸員)

丸山さんの訃報(02年8月の「つれづれ日録」)


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