散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

「日本経済を取り巻く国際環境」~齊藤誠教授のエッセイより

2014年08月31日 | 経済
厳しい経済状況は第一四半期の統計データ公表後も続き、内閣改造で石破幹事長外しをしても、主要閣僚は更迭せずで、人心一新にはならず、まして、政策一新には及ばない状況のようだ。今後も続く厳しさを想定しておくために、アベノミクスの基本的発想である「デフレからの脱却」を一から省みておこう。教材の題名、著者共に表題の通りだ。以下にまとめてみる。

1)問題の所在
アベノミクスの目的は「15年以上にわたるデフレーション」からの脱却だ。それは、1997年の金融危機から始まる物価水準の持続的な低下を指しており、それは消極的な金融政策で総需要が落ち込んだ結果と解釈されている。

先ず。マクロ経済現象として観察されているか、ある物価指標に観察されるとしても、総需要の低下の結果か、他の要因の反映か、検証が必要だ。デフレーションとして受止められた現象をマクロ経済学的に明らかにする必要がある。

2)分析データ
消費者物価指数、国内企業物価指数、GDPデフレーター、GPIデフレーター、交易利得・損失(交易条件)等の年次推移(1997-2011年)を比較する。
特に1997-2003年と2003年以降との違いに注目する。

3)結論
1997-2003年の消費者物価指数、GDPデフレーター等の指標において、総需要の低下に起因して、「物価下落」によるデフレが生じた。
一方、2003年以降、消費者物価指数は上昇傾向に転じた。
また、2003年以降、GDPデフレーターは「物価下落」ではなく、「交易条件の悪化」に起因して低下した。悪化の原因は一次産品価格の高騰、一部の輸出企業の国際競争力喪失だ。即ち、この間は「交易条件の悪化」によるデフレであった。
(筆者注:後者については、黒田日銀総裁の誤認を意味する)

2002-2007年は「戦後最長の景気回復期」、実質GDPは約1割拡大し、消費者物価指数や上昇に転じている。しかし、2003年以降も、元来は物価下落を意味する“デフレ”が却って日本社会に「不況」のニュアンスとして定着したのは何故か。実質GDPが拡大しても、交易条件の悪化のために、海外への所得漏出で国内の人々の所得があまり改善しなかったからと推察できる。

一方、デフレの感覚は、金融緩和で誘導された円安の進行では解消しない。円安の進行で一次産品価格高騰の悪影響は強まり、一部の輸出企業の国際競争力低下は止めることはできない。その結果、海外への所得漏出は、加速するからだ。現在の日本経済は、二度の石油ショックに見舞われた1970年代よりも過酷な国際環境に直面していることを肝に銘じるべきだ。

4)物価指数とデフレーターの動向の違い
消費者物価指数:
「1997~下降~2003:底打」
「2003:横這~上昇~2008/9:ピーク~下降~2009/1横這~2013:上昇」
GDPデフレーター(17年間に上昇は半年、2割のオーダーで低下)
「1997~下降~2013」(上昇期間:2008第4四半期~~2009第1四半期)

5)交易条件の悪化の背景
1980-2013年の交易条件指標(円ベース物価指数比:輸出/輸入)の推移
「1980年代前半:1970年代の動向を引継ぎ、指標は低い水準で推移
       (石油ショックの影響で交易条件が著しく悪化)
1986前半:指標は急激に改善、2000年代初頭まで高い水準で推移
2002前半~:急激に悪化
2008/9:リーマンショック直後、瞬間的に改善
20010-2013:1980年代前半に比べても悪化
最も重要な要因は、輸入一次産品の価格が2000年代初頭から高騰したこと。特にエネルギー価格はテンポが速かった。原油価格は、2002年までは20ドル/バレル、しかし、2002年からは急騰、2011年初には、100ドルを超えた。

交易条件の悪化の背景には、輸出物価の低下の影響もあった。
平均は2000年代になって安定して推移、2008年末から円高が進行したが、輸出価格が引き上げられなかった。その背景には、日本の輸出企業の一部が国際競争力を失ってきたことが影響している。競争力が著しく低下した電子・電気機器は、輸出価格の値下げを強いられた。

以上の認識をもとに、日本の置かれた位置を確認しながら経済・社会政策を吟味していく必要がある。加えて、少子超高齢化への社会的対応も必要だ。小手先の政策を言葉のオブラートに包むように差し出す安倍政権には期待できないのだが。

      



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。