散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

日本サッカーの分岐点を創ったクラマーコ-チの死~東京五輪での勝利!

2015年09月21日 | スポーツ
 日本サッカー協会HP

おそらく、デッドマール・クラマー氏がコーチとして指導しなければ、現在の日本サッカーの隆盛と世界での地位はなかったであろう。これは長年、日本サッカーの発展に尽くしてきた関係者のみならず、筆者の様に一般人としてサッカーに係わってきた人たちも同じ思いに駆られるはずだ。

当時の日本サッカーと云えば、直ぐに1968年・メキシコ五輪での銅メダルを挙げる人が多い。因みに、当時の日本サッカーの技術レベルを現在のレベルで判断すると、例えば、Jリーグあるいは大学リーグのどのクラスに相当するだろうか?そんな関心を持って、3位決定戦の対メキシコ戦の再放映(NHK)をみたことがある。技術だけを見れば、レベルはかなり低いと感じた。
『メキシコ五輪のサッカー銅メダル~45年後の今と比べると130825』

世界的に見ても、戦術、技術の発展が著しいのであるから、日本においても違いがあって当然だ。しかし、1966年Wカップ・ロンドン大会の映画「ゴール」を見たときの印象を無理矢理に想い起こし、当時の技術レベルを現在のトッププロと比較してみると、基本技術においては、その差は小さいと想像する。

特にトップレベルでの技術は、戦術との相関関係の中で磨かれていく要素が大きいから、その意味で年月と共に違いが出てこないと、逆におかしいことになる。しかし、日本の違いは基本技術においても大きな差を埋めてきたことが判る。

しかし、クラマーコーチが、東京五輪を目指した日本サッカーを指導しなければ、基本技術が当時のままで残されていたら、現在のように、小学校1年生から、あるいは未就学児からサッカーに親しむ環境が作れ、Wカップ本戦に日本が出場する機会はあっただろうか?そんな気もするのだ。

当時の日本チームのコーチを務めていた岡野俊一郎氏がクラマーコーチに付きっきりで選手だけでなく、多くの関係者とのコミュニケーションを媒介していたこともスムースな対話をもたらしたものと思う。氏は「1960年初めて来日したときに羽田空港で出迎えたのが最初の出会い…兄弟として長い付き合い…死の直前まで毎月のように電話をもらい…」と悔やみの言葉を記している。

略歴(日本サッカー協会HP)には、「1925/4/4、西ドイツ・ドルトムント生まれ、
1971年、勲三等瑞宝章、1996年、日本サッカー協会75周年記念功労賞、2005年第1回日本サッカー殿堂入り」とある。業績は「1960年、第18回オリンピック競技大会(1964/東京)に向けた強化・指導にあたるため日本代表コーチとして来日。以後、強化、指導者養成、ユース育成等の礎を築き、日本サッカーの父と称される。第19回オリンピック競技大会(1968/メキシコシティ)ではアドバイザー的役割を果たし、日本の3位入賞・銅メダルに多大な貢献」とある。

他は「西独協会コーチ、バイエルン・ミュンヘン、バイヤー・レバークーゼン等の監督を歴任。バイエルンでは欧州チャンピオンズカップ2連覇。米監督、サウジ監督、韓国五輪コーチ、サウジ、ギリシャのクラブの監督を歴任」とある。

これをみると、1960-1964年までの間が、凝縮したコーチ人生であった様に見える。おそらく、その成果の具現化としての臨場感は、メキシコ五輪よりも、64年の東京五輪の第1試合、アルゼンチンに二度までリードを許しながら、逆転3-2で日本が勝利した時が、最高潮の様に感じる。

筆者も帰宅してテレビで試合の途中(1-1)から見た。2点目を獲られた後、釜本が左に大きく回り込んで杉山からパスを受け、画面がクローズアップ、釜本がゴールラインすれすれに持ち込んだシーン、ボールがラインを割るかと一瞬「あれ!」と思ったとき、GKの頭を越えるクロスを蹴ったーここは覚えている。川淵が右からダイビングヘッドで決めて同点だが、画面は忘れた。その直後、杉山が左に持込、ゴール前に折り返す。画面もゴール前に切替り、混戦から小城(後から判る)が押し込んで逆転!快哉!

結局、この試合での勝利及び杉山が20万ドル(7200万円)で、アルゼンチンのプロチームに勧誘されたというスポーツ紙の報道がサッカーブームに火を付けたと云われている。翌年にクラマー氏が提唱した日本リーグが発足、それ以降、中・高校でのサッカー人口が増えたのだ。

      

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